碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (54)

2019年08月06日 15時43分15秒 | 西田 税のこと

 ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (54)

     (西田の療養、妻ハツのこと) 

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたるが、概略を紹介するために、みすず書房『現代史資料』、学芸書林『ドキュメント日本人ー西田税』など基本的なもの、および米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』をもととした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』も参考にさせていただいた。

 はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。碧川企救男より二回りすなわち24歳下である。

      (以下今回)

 この西田税が襲撃されたとき、急を聞いて駆けつけた北一輝、栗原中尉らによって彼は 順天堂大学病院に担ぎ込まれた。手術は八代博士と後藤博士の執刀により成功を収めた。このとき、つめかけた同志らによって輸血をするなど、西田税の周辺の青年将校たちは目が血走っていた。

 彼の血液型はO型であった。このとき青年将校の主だった者はみな顔を見せており、中にはこのとき初めて北一輝を知った者もいた。その著書によって私淑した青年将校は北の声に接し、あらためて北の偉大さに心服した。

 さらに西田税を看護する北一輝の献身ぶりは、肉親以上のものであり、わが命に替えてもも税の一命を救いたいとの思いが、詰めかけている青年将校に伝わり、それが一層西田派の連繋を強固なものにしていった。

 五月二十四日に抜糸が行われた。六月に入って起床が許可され、室内歩行が許可され、六月十三日には、右脇下の銃丸を抜く外科手術がおこなわれ、十九日にその抜糸された。

 その後、六月二十二日には自動車によって大久保に行った。大久保は北一輝の屋敷があったのである。北一輝邸には二十二日以後、二十三日、二十四日と三日つづけて訪問している。

 退院は六月二十六日であったが、腸がどうしても三センチばかり塞がらなかった。湯河原での療養中も天日に干したりしたが、塞がらず順天堂大学へ通った。そのうち、傷口から糸くずが出てきて自然と治癒した。

 しかし西田税のうけた腹部銃創は完全には直りきらず、二・二六事件の獄中において再手術することになった。西田税は襲撃されたが、彼にしばしの憩いを与え、感傷にふける時をもたらした。

 ところで、西田税が襲撃されたあと、妻ハツと湯河原で療養していたことは触れたとおりであるが、この療養中、妻ハツ(このときは未だ入籍していなかったー西田税は入籍することによって彼女に迷惑がかかることを懼れた)が別れ話を持ち出している。

 彼女には、なぜ西田税がこのような目に遭うのか、また彼が何を考えているのか分からなかったからである。

 このとき、ハツによると西田税は「国民みんなのために自分がしていることがわからないのか」と、生涯に一度の涙を見せたという。以後ハツは西田税に不満を向けることもなく、浪人暮らしの経済的にも安定しない生活をきりもりした。

 のち、二・二六事件で西田税に死刑判決が下ったあと、正式に入籍したのであった。彼女の本名は「佐藤はつ」で、高等小学校から女学校に入ったが半年で退学し、十七歳で日本銀行文書課、十八歳で逓信省(のちの郵政省)貯金局に雇われた。

 頭のよい気位の高い美人で、男勝りの気丈な、そしてよく気の付く人であったという。写真をみても日本美人と言える風貌である。西田税とは大正十五年(1926)五月に内妻となっている。


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