碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑤

2007年08月03日 10時00分07秒 | 因幡二十士事件

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          鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑤

 

 ( 二十士事件の周辺 ) 平田銕胤(かねたね) 

 

 二十士事件をとりまくいくつかの側面を取り上げてみたい。

 尊王攘夷運動の展開の中で、等持院事件がある。
 それは、文久三年(1863)二月二十二日、足利三代木像梟首事件が京都等持院で起こった。これは、足利尊氏・義詮・義満の足利三代の木像の首と位牌が持ち去られ、賀茂川に晒されたと言う事件である。 
 

 これは、平田派国学の門人、三輪田元綱、師岡正胤らがおこなったもので、足利三代を逆賊とする罪状が掲げられた。この事件では、足利将軍の木像を晒すことで暗に「討幕」を意味する挑発と考えられた。

  この事件に鳥取藩で参加したのが、仙石隆明と石川一である。仙石隆明は、鳥取藩分知池田仲立の家士であった仙石有の子として、江戸定府中芝六軒町で生まれた。幼名司馬あるいは泰伸、のち佐多雄といった。
 はじめ中小姓を務め、祐筆役に転じ、若くして石川一(貞幹)とともに平田銕胤に従い、国学を学び、大義名分、報国の志を厚くした。
 

 この事件に対し、ときの京都守護職松平容保は百余人の兵を引き連れ隆明の居を襲撃し、師岡らを捕縛すると同時に高松信行を殺害した。
 隆明はひとり刀を抜いて戦い、逃げられぬと悟ったあと楼に登り喉を突いて自刃した。

 石川一は、鹿野藩士石川六兵兵衛の次男として江戸で生まれたが、十六才のとき小姓役についた。このころ平田銕胤に国学を学び、尊王の志を深くした。
 彼も等持院事件で幕府役人の厳しい追及をうけ、長州に逃れ、下関のフランス艦隊砲撃に加わり、のち松平慶永の宿舎焼き討ち事件に参加、さらに天誅組の挙兵など転戦したが、力尽きて紀州藩に自首し、翌年元治元年七月斬殺された。

 この尊攘運動さらに討幕運動に活躍した仙石隆明、石川一が師事したのが、いづれも平田銕胤である。 
 この平田銕胤(かねたね)は、平田篤胤をついだ後継者であるが、もと伊予新谷藩士の碧川弘良といい、平田篤胤に男子がなかったので娘「おてう」の婿として養子に迎えられた人物である。

 さらに米子との関連でいえば、別稿で述べたように、米子の角盤高等小学校を出て、鳥取中学そして東京専門学校(現早稲田大学)に進み、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストの「碧川企救男」と関係がある。

 この平田銕胤は、企救男の両親、碧川真澄・みね夫婦の伯父にあたる。真澄は、碧川家の嫡男である碧川弘良(平田銕胤)が平田家の養子になった結果、五代目の碧川家の当主になった碧川好尚が跡を継いだ。その長女「みね」の養子に迎えられた人物で、血縁的には母みねの伯父にあたることになる。

  平田篤胤は、秋田の人で本居宣長の死後の門人である。復古主義・国粋主義の立場を強め、復古神道を大成した。

 復古神道は、儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、民族信仰である「惟神の道(かんながらのみち)」の復活を説き尊王論につながった。

 平田派国学は、農村有力者に広く信奉され、「草莽の国学」として尊王攘夷運動を支えた。 平田篤胤は、本居宣長らと並んで「国学の四大人(うし)」といわれたが、その思想には排外主義が強かった。
 その結果、幕末の尊王攘夷運動さらには尊王討幕運動に大きな影響を与え、幕末の政局に大きな役割を演じることになったのである。

 篤胤は、天保十四年(1843)に亡くなったが、篤胤のあとをついだ平田銕胤は、幕末の風雲急をつげる時代のなかで、尊王攘夷運動さらには尊王討幕運動に直接的な影響を与えた。

 上に見た、仙石隆明、石川一なども平田銕胤の教えを受け、尊王攘夷運動さらには尊王討幕運動に向かったのである。

  明治維新政府は、明治元年(1868)の「神仏分離令」をはじめ神道を重視する方針を出した。
 そのような動きのなかで、平田銕胤は維新後政府に大抜擢され、国学にもとづく復古的な教育機関として大学の設立を構想し、明治二年七月、「大学大博士」に任命された。

 さらに明治三年(1870)には、「大教宣布の詔」が発布され、神道の国教化が推し進められた。
  やがて、洋学派に圧倒されるようになり、次第に教育界での国学の影響力は減っていった。

 しかし、明治から昭和にいたる時代のなかにおける国学、さらには平田銕胤の役割については、今後さらに検討の余地があると思われる。



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