碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

生田長江 『震災記事』 ⑲ 長江震災論文②

2015年06月19日 10時57分03秒 |  生田長江

       ebatopeko

 

    生田長江 『震災記事』 ⑲     長江震災論文②
 

     ー関東大震災後一か月の日記ー   

 昨年(平成25年=2013)3月20日、鳥取県日野郡日野町根雨の「日野町図書館」内にある「白つつじの会 生田長江顕彰会」より、『生田長江「震災記事」ー関東大震災後一か月の日記ー』が発行された。

 生田長江(本名弘治)は、カール・ブッセの「山のあなた」を翻訳した上田敏に明治39年に「長江」のペンネームをもらった。

 彼は、明治40年に隣家の「与謝野晶子」に英語を教え、「成美女学校」の英語教師となり、「閨秀文学会」を発足させた。参加した人には、馬場孤蝶、与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊枝らがいた。
 
 彼は鋭い文学評論、さらに社会評論を執筆した。またマルクスの『資本論』を翻訳し、『ニイチェ全集』を翻訳出版した。晩年には『釈尊』を刊行した。

 生田長江は、編者の河中信孝氏の解題にも明らかなように、関東大震災の起こった大正12年(1923)9月1日からちょうど1か月、詳細な日記をつけている。

 現在日本では、阪神大震災、東日本大震災と大地震がつづいている中で、彼の鋭い一か月におよぶ描写は、これからの日本にとって大きな意味合いを持つと考えられる。編者の解題に沿いながら紹介してみたい。

 関東大震災という呼び名が定着したのは、太平洋戦争後であるとの指摘もあるようで(北原糸子)、それまでは、「大正大震災」「大正大震火災」「関東大震火災」「東京大震災」「帝都大震災」などと呼ばれている。

 河中氏は、「関東」大震災ではなく、「大正」大震災だといういいかたは、当時の政府が遷都論を早々にうち消し、「帝都復興」を掲げた手前、単に関東の局部的震災ではなく、日本国家全体の災害として、日本国民全体で復興するのだとの位置づけを「大正大震災」の呼び名に託したといわれているとしている。

 あの非常時、大難のさなか、取り乱さず
冷静に社会をみつめている生田長江の精神性と、家族の中で目配りし、来客も少なくない暮らしぶりが如実に記されている。

 また、河中氏は社会の動きの中で、庶民の暮らしに共感をよせ、財閥、大資本の横暴には批判的なヒューマニスト長江をみることが出来るとしている。

 (注:ここで記した文章には、今日の人権意識からみれば、不適切と思われる差別的な語句、表現を含むものがありますが、時代背景を考慮し、原文のまま掲載しております)


  

   (以下今回)

 『婦人公論』より生田長江に九月十三日に大震災についての原稿要請があり、長江は九月十六日から書き出し翌十七日に脱稿した。その論文が『社會的震火災はこれからである』(200字詰め原稿用紙33頁、正味5800字の論文)である。これを何回かに分けて記してみたい。旧字体を当用漢字に改めている。


 

 「社会的震火災はこれからである」 ②

 懲戒的な天変地異によるのほか、渋沢子爵のいわゆる天譴(てんけん=天罰の意)によるのほか、日本人のまちがった「自足」と「のほほん」加減と、虫のよさと、浅薄さと不真面目さとは到底一掃され得ないこと、

 従って根本的に考へ直し、やり直すということは、いかなる方面にも期待されがたいことを、しみじみ痛切に感じていた。

 そしてそうした思いつめた社会観は、今春以来、懲戒的な天災地変がもう遠からず来るということ、恐らくは今年中にも来そうだということの予感に伴われていた。

 (注:生田長江は地震の予感を持っていたが、河中信孝氏は以下の資料をあげている。まず、おろらく関東大震災の前年の長江の詩であろうと、次の詩を記している。


  地震 9月20日

 ただ非常に(病的にとらはれてゐる)敏感な人だ
 けが知っている
 むしむしと、嫌な気持ちだ!
 やがて、大地震だ。
 何もかも ひっくりかへる。
 病的な私の神経はこの重苦しい豫感にたへ切れな
 い・・・
     「長江自筆ノート」から

 

 また、その他の資料として、当時東京帝国大学で地震学者であった今村明恒助教授は、巨大地震がいずれ襲って来る(今後50年以内に大地震が起こる)として、防災の準備を説き、また地震予知の基礎になる観測網を展開することにも熱心だった。
 
 しかし、この発表が地震の予告ととられ、「世間を騒がせるだけだ」という批判がまきおこった。中でも直属の上司、大森房吉教授は世間に対する責任感から、批判の急先鋒となり、確たる証拠がない以上は無用な混乱を避けるべきだと、沈静につとめた。      

 二人はことごとに衝突し、確執は深まった。「今村が予言していた関東大震災は起きない」とまで公言していた大森は、震災が起きたときは、たまたま学会でオーストラリアに行っていた。

 地震の報を受けて、急遽帰国の途についたが、船中で病に倒れた。十月四日に帰国したが、一か月後に脳腫瘍で亡くなった。尚、この大森と今村を取り上げた、上山昭博『関東大震災を予知した二人の男』産経新聞出版が出ている。    

 尚、河中信孝氏は、関東大震災の前兆の現象として、豊田市の安藤満氏の説を紹介している。

 それは、地震の半年前の3月~4月ごろから東京都大島町の三原山の噴煙は火柱となった。

 5月~6月に水戸・銚子で有感地震が増加。山中湖が白く濁り精進湖の水位が、6メートル下がった。

 南葛飾や練馬の石神井でネズミの集団移動が見られた。地熱が高くなったためか、大根、稲、梨が豊作となったり、ナマズの異常繁殖も各地で見られたという)

 

 だから、九月一日の大地震の、あの最初の一揺れがやって来た時、長江は直ぐに思った『到頭来あがったな?』、また思ったー『神はついにその懲らしめの手を挙げたもうた』と。

 家を焼け出されて、宮城に近いお壕の上にその晩とあくる日の晩とを明かしながら、この大帝都を焦土に化し行く物凄い火焔を望見しながら、私は私自身をも込めた日本人及び日本の社会へ呼びかけた『どうだ、少しは思い知ったか?これでもまだ覚めないというのか』と。

 同じく焼け出された私の甥(注:長江の長兄虎次郎の三男幸喜。震災当時慶応大学医学部予科在学中。のち長江の一人娘まり子と結婚)も、焼け跡に立っている私たちのところにやって来て、

 何よりも先ず、『とうと、叔父さんの予言があたりましたな』と言った。
 そして一同、近隣の人達に怪しまれるほどの笑い声を立てた。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。