碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取の生んだ女性解放の先駆者 碧川かた

2015年06月20日 11時23分08秒 | 碧川

   ebatopeko   

  「米子市立山陰歴史館」において、2012年6月9日~7月 22日迄、「碧川企救男とかたの生涯をたどる」と題して企画展が開かれた。また文化センターにおいて「碧川企救男とかた」と題する記念講演がおこなわれた。

   (以下は2006年秋に私がはじめて載せたブログです。明治・大正・昭和にわたるこんなにも素晴らしいご夫婦、偉大なまた鳥取の誇るべきご夫婦を、一人でも多くの方々に知って頂きたいと思います。私のブログの出発点でもありますので再掲します)

 

       鳥取の生んだ女性解放の先駆者 碧川かた    

  

 最近ようやく知られてきたが、鳥取の生んだ女性解放の先駆者としての「碧川かた」については、まだまだ研究が緒についたばかり、という感じである。そこで、ここに「碧川かた」の生涯を年譜風に記してみたい。

 安部宙之助『三木露風研究』、山下清三『文学の虹立つ道』、碧川企救男『拾有七年』と河越太郎の解説、堅田精司編『碧川企救男論説集』、潮地ルミ「時の流れと碧川」、門奈直樹『民衆ジャーナリズムの歴史』、山口猛編『カメラマンの映画史ー碧川道夫の歩んだ道』、大日向妙子『こぶしの花』 その他、などを参考に年譜風に記してみた。
 とくに碧川かたの、「赤とんぼ」の母だけでなく、女性解放の先駆者としての側面に光をあててみたい。


1869年(明治2) 0歳

 10月10日、今の鳥取県湯梨浜町松崎に鳥取池田藩家老和田邦之助信且の二女として生まれる(長男道夫による。但し明治3年出生との説、河越氏の明治5年出生説と三説ある)。生母はみね、養母は千代。父、邦之助は幕末の混乱期に藩主の怒りをかって蟄居を命じられ、領地の松崎に移り住んだ。彼は心痛から不治の病をわずらい、廃人同様になったという。そのため、「かた」は幼くして和田家の重臣である堀正に預けられ、その養女となった。

1879年(明治12) 10歳

 監獄勤めの養父堀正は典獄における囚人に対し、信仰を取り入れ悔悟させる教誨師制度を実現した。高知典獄(刑務所長)のとき、かたはその地の学校に行くことになる。そのときのち西南戦争で鎮台司令官として、熊本城を死守した谷干城の娘と友だちとなる。かたは成績抜群で、何回か学年を飛び越して進級した。
 
1887年(明治20) 18歳

 養父の転任地播磨の竜野の円覚寺に預けられた(養父がさらに他の地に転ずることになったため)。花嫁修業として円覚寺の住職夫妻から漢学、行儀作法を教えられる。

1888年(明治21) 19歳

 竜野町長で九十四銀行の頭取であった、三木制(すさむ)に懇望され、その息子三木節次郎と結婚。

1889年(明治22)  20歳

6月、長男操(のちに「赤とんぼ」の詩で有名な三木露風)出生。

1894年(明治27) 25歳

 二男、勉が生まれる。夫、三木節次郎の身持ちが悪く苦労が絶えない。

1895年(明治28) 26歳

 ついに、舅三木制からの話もあり、夫節次郎と離婚し、乳飲み子の勉を連れて鳥取に帰ることになった。かたは、制にとって気に入った嫁であり、離婚はかたの幸せを思って三木制から切り出したものだと思われる。このとき、長男操(のちの三木露風)は6歳であったが三木家におかれ、身持ちの悪い節次郎にかわって祖父三木制が養育した。

 かたは、三木家を去りたくなかったようで、まして6歳の長男操を残しての離別は心さかれる気持ちがあった。そのあたりのかたの気持ちを、山下清三氏は眼前にみるように再現している。

 明治28年当時はまだ山陰線は開通しておらず、播磨から因幡に帰るには中国山地の志戸坂峠が使われていた。この峠は駒返り峠とも呼ばれ、険峻で馬も引き返してしまうところから、そう呼ばれた。乳飲み子の勉を連れたかたは、人力車でこの峠を越えて鳥取に帰ったのである。峠の上に泣き地蔵があるが、かたはここで播磨の空を振り返り、あとに残した操のことをしのんで涙したという。

 のち、三木露風はこのときのことを、「われ七つ因幡に去ぬのおん母を又帰り来る母と思いし」とうたい、また「吾や七つ母と添寝の夢や夢 十とせは情知らずに過ぎぬ」とうたって、母恋しさを募らせた。

 明治38年1月の詩歌雑誌『文庫』には三木露風は「母恋うて夕べ戸による若き子が 愁いの眉よ秋をえ堪えぬ」と、数え七つの子どもであった操の母を恋する情の高まりをうたっている。

 鳥取に帰ったかたであったが、養父の堀正が東京で鳥取県出身学生の寮「久松学舎」の舎監になっていたので、養父を頼って再び志戸坂峠を越えて中国山地を抜け、山陽線に乗り上京することになった。

 このとき、乳飲み子の「勉」をかかえた女ひとりの旅を心配した側近の人が、鳥取中学を卒業し、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学する、米子裁判所検事碧川真澄の二男「碧川企救男」に「和田のお嬢さんを送ってくれ」と同道を依頼したのである。このとき、「かた」25歳、「企救男」17歳であった。
上京した「かた」は、乳飲み子をかかえながら、苦しい自分の体験を生かして悲しく弱い人々のために、何か力になれる仕事をしたいと、看護婦の道を選んだ。

 そして、帝国大学(今の東大)の看病法講習科に入学した、第六期生であった。当時の大学病院の勤務状況はかたによると、次のようだった。同級生は40名で小学校の女教員だった人や、麻布の英和出の人や、函館のミッション出の人や、済生会の前期の出身者なども入っていた。

 養成期間は2カ年で、生徒のあいだは昼に患者の付き添いをし、夜間の教育であったが、医学生たちが昼間学ぶ教室に、同じ教授方による勉強であった。かたは、のち明治天皇の侍医になった三浦謹之助教授直属の看護婦として働いた。

 勤務体制はもちろん、今のような3交替制ではなく、隔晩には寮に帰って休むが、その他の日は病室にずっと患者とともに過ごした。夜は病室内の空きベッドに眠るか、空きベッドのない時は、看護婦控え室のベッドに眠った。

 受け持ちの人数は8人なら卒業生一人に助手がついた。5,6人までは一人で一切をみた。部屋の拭き掃除と患者の洗面も、食事も、便器の世話、処置いっさい、病室受け持ちの責任だった。

 このような勤務の状態であったので、患者との間は親密で、休みの前日になると患者たちは私たちの出かけるのを大変悲しみ、かた自身も心すすまぬ思いで休みを迎えた。かたは、講習科にはいった当座は、休み時間になると、乳児の勉に乳をふくませるため養父母のもとに帰った。いつも門限に遅れがちで、誤解もされた。

 三木家からも勉を欲しいと言ってきたので、ついに勉を竜野の三木家に引き取ってもらうことにした。しかしこのことは、かたにとって死ぬまで悔いとなった。勉に十分乳を与えることが出来なかったことである。勉が若くして結核で亡くなったことが拍車をかけた。

 このような苦しみから、彼女は弓町の本郷教会に足を向けるようになり、やがて、海老名弾正のもとで受洗することになる。しかし、この受洗には故郷鳥取から東京まで同道した碧川企救男の影響、さらには竜野時代に身近にふれた監獄づとめの小使いさんが、キリスト教徒で貧しいながら心清らかな夫婦のすがたが大きく影響を与えたものであろう。

1902年(明治35) 33歳

 かたは、二年間の養成所を終え正規の看護婦生活を五年つとめた。そのとき、三浦教授からドイツへの官費留学の話があった。しかし、このとき北海道にいた碧川企救男から北海道に来て欲しいとの強い誘いがあり、ついにかたは明治35年春、北海道に向かうことにした。そこで碧川企救男と再婚したのである。8月企救男は小樽新聞において社会部長としてペンを振るうことになる。

 鳥取から同道して、ともに東京に上った二人は、企救男は東京専門学校、一方「かた」は、帝大付属看護学校で学び、7年間のあいだ別々の世界を歩みながらも愛を秘めながら交際がつづいていたのであろう。かた33歳、企救男25歳であった。
 
1903年(明治36) 34歳

 長男の道夫が生まれる。そのあと、澄子、国枝が生まれている。この碧川道夫は、のち映画カメラマンとして活躍し、あの日本中の国民がみた「東京オリンピック」やカンヌ映画祭でグランプリを獲得した「地獄門」さらには「飢餓海峡」などのカメラマンとして活躍した。。

1905年(明治38) 36歳

 5月、長女澄誕生。しかし、企救男の兄熊雄には子がなかったので澄は誕生80日ほどで碧川本家に養子に出された。かたにとっては、最初の子三木操(露風)を6歳で手放さねばならなかったこともあり心残りであったという。家族制度の弊害を感じたのであった。

 その竜野で別れた三木操から手紙が来た。操が数えで17歳のときである。彼が三木露風のペンネームで詩歌集『夏姫』を7月に出し、8月に上京したときである。文学青年の定収入のない窮状を母に訴えたものであった。

 かたには、その実情がよくわかったが、かたにも全く余裕がなくそのことを書いて返した。露風が手紙を開いてみるとその最後に「汝の頬を当てよ妾はここにキスをせり」と書いてあった。かたのキリスト者としての面がよく出ている。露風は友人の前で人目もはばからず泣き続けた。

1907年(明治40) 38歳

 この年、11月に企救男と道夫が腸チフスで入院した。看護の経験のあるかたのおかげもあって無事12月には退院することが出来た。この入院中、企救男は「厭妻治療法」という短編小説を書いた。この年、十月石川啄木が新しく出来た『小樽日報』に入社した。しかし、十二月には早くも同僚との対立から退社している。このとき、啄木が「樽新(小樽新聞のこと)の碧川の世話になる」といったと言われている。

1908年(明治41) 39歳

 夫、企救男の書いた「厭妻治療法」という喜劇的な小説が、読売新聞懸賞小説の一等入選となり、1月1日の紙面に載った。これで賞金二十円というかなりの賞金をもらった。 この作品を読んだ徳富蘇峰から上京の誘いを受け、これを機に小樽での生活に終止符を打ち、一家を挙げて二月東京に出た。上京後、企救男は報知新聞の社会部主任となった。

 小石川区小日向台町に住み、ここで三女芳子が生まれた。のち芳子の夫となった内田吐夢は、映画監督になったが、義兄の道夫と組んで『飢餓海峡』制作している。企救男はついで中央新聞に移って活躍した。
 
1912年(大正元) 43歳

 企救男、かたの末娘、清子が東京で生まれる。彼女はのち、同志社女専英文科にすすむが、その後母とおなじ看護の道に転じ、1961年、日本最初の重症心身障害児施設・島田療育園の総婦長として活躍した。

 東京での企救男は経済的にはあまり恵まれず、かたが自らの力で、一男四女の養育の全責任を負ってよく働いた。東京帝大病院時代の恩師、三浦謹之助教授のはからいで、マッサージの技術を生かしこれを家計の足しにした。

 マッサージの客の中は古河市兵衛もあって、その夫人とは特に親しかったという。また、社会活動にも参加しはじめた。婦人運動とくにキリスト教婦人矯風会の一員として、廃娼、禁酒、婦人参政などに活躍した。

1920年(大正9) 51歳

 11月1日、参政権運動の同志とともに、明治神宮の大祭の群衆の中で、「禁酒運動」のチラシを配る。ちょうど通りかかった、カメラマンのたまごであった長男の碧川道夫がこの様子を撮影し、これが「松竹キネマニュース」で上映される。

1923年(大正12) 54歳

 彼女の禁酒運動への強い気持ちの基にはかっての夫、三木節次郎の苦い記憶がある。さらに、かたがキリスト教徒であり、所属する竹早教会を基盤に東京婦人禁酒会を設立しその会長になった。しかし夫企救男の酒飲みを知る友人からは「まず旦那を教育しなさい」といわれたという。

 まず、未成年者の説得を目当てに夜の大学の寄宿舎に行った。拓殖大学寄宿舎に通う「切支丹坂」には彼女の尽力で電灯が点けられたが、そのホヤには「禁酒は幸福の母、飲酒は罪悪の源なり」と書かれ、8年間点りつづけた。

1924年(大正14) 55歳

 かたは、第五十二議会に坂東幸太郎、加藤鯛一、千葉三郎らを動かして、婦人に男子と同じく衆議院議員選挙、被選挙権を与えるべしとの法案を上提してもらった。賛成署名議員は67名もあった。

1927年(昭和2) 58歳

 鷲見よし子らと「参政権・公民権の獲得・男女平等の制度改革及び家庭の平和向上」を目的に、女権擁護会を結成。3月10日機関誌『女権』を創刊。資金集めも広告も自ら取ってき、婦人解放運動の先駆者となる。この創刊号には三木露風も「発刊を祝す」を寄せている。露風は別に「女権創刊号に」として、

「あたたかき心をもてるたらちねの母にはまことちからありけり」「かぐはしき花にも似たるをみなにもただしきちからあらまほしけれ」

と詠んだ。創刊号には、他に『信条、女権の確立へ(鷲見よし子)鐘は既に鳴れり猶目覚めざるか(碧川かた)同性諸姉の奮起を望む(高木富代子)何故に参政権を得たいか(碧川かた・橋本晴・神田女・山田フヂ)東京の瓦斯問題(高橋千代)女権の発刊を祝して(西川文子)戦へ!戦へ!戦へ!(服部とく)小説昭和五十年(堀草人)』などがある。

 『女権』第二号には、唯一路(鷲見よし子)今期議会の成績(碧川かた)神宮皇后の御事跡(大野恭子)第五十二議会に於ける女権論(山桝、坂東、谷原三代議士)女権創刊号を見て(徳田秋声、山田順子)ブルジョア女権からプロレタリア女権へ(永楽友次郎)白獣と人身御供(京野世枝)の面々が執筆していた。

 『女権』第三号には、女性の地位を高めよ(三木露風)我観女権(宮原晃一郎)アフディテロ(佐々木慰訳)最近の問題一考(嘉悦孝子)婦人と職業問題(大妻コタカ)婦人参政権は先ず家庭的に獲得せよ(黒崎悔子)海、海、海(岡達児)神と日本の更正への道(賀川豊彦)父母の飲酒と児童(村瀬政)各同禁酒事情(インターナショナルレコード)などがあった。

1945年(昭和20) 76歳

 戦後、はじめて「かた」が長らく訴えつづけてきた婦人参政権が認められた。このとき、かたは、「雪氷ふみて通いし議事堂へ婦人代議士おくる日はきぬ」とうたった。

1954年(昭和29) 85歳

 かたの眼に「そこひ」の症状が現れ出した。長男道夫は秋のある日母を連れて新しい眼鏡の検査に行った。その帰り、母にどこか行ってみたいところはないかと聞くと、議事堂へ行きたいというので、行ったが議会は閉会中で扉は固く閉ざされていた。婦人参政権のために戦ってきた母の最後の外出になるかも知れない。

 道夫は守衛に「母はこの議事堂を最後に見たい」と願って来たことを話すと、急いで正門を大きく開いた。さえぎるものもなく、真正面に巨大な議事堂が夕日を向こうに黒いシルエットとなって浮かんだ。かたは、数歩進んだかと思うと、突然両手を大きく挙げるように開いて、わぁっと泣いた。思えば霙の日もこの門前でビラまきをしたり、幼い子等を留守にさせて婦人解放のために戦って来た感激の命の叫びだった。

1959年(昭和34) 90歳

 視力がほとんどなく、唯一の情報源であったラジオからの知識をもとに、90歳を越えた「かた」であったが、世相を論じ施設の子どもたちにカンパを募るため、来る人ごとに訴えた。彼女のこのような社会的視野の広がりと情熱は、人々に感銘を与えずにはおかなかった。

1961年(昭和36) 91歳

 かたは、三木家の舅である三木制をなつかしみ、「よき子供生まるるといいし祖父君に聞かせたく思う赤とんぼのうた」という歌をのこした。長男三木露風の赤とんぼのうたを舅の三木制に聞かせたいと、心からの懐かしみを抱いていたことがわかる。

 長男道夫が出張で北海道に行ったとき、思い出の小樽を訪れ雪の下の石を持ち帰った。かたは大層喜んで懐かしがり石に座布団を作ってもらい

「緋縮緬のふとんに小樽の石坐り都に出でし歴史はじまる」

と詠んだ。小樽から東京へと歩んだ彼女の苦難の歴史を振り返ったのであろう。さらに遺詠となったのが次の歌である。

「暮れの日や名残惜しさに涙でるまたと逢はれぬ月日なりせば」

1962年(昭和37) 92歳

 1月14日、長男碧川道夫ら、子ども達に囲まれて、その女性解放の先駆者としての92年の生涯を閉じる。三木露風は、母の死に際して「あたたかき心を持てるたらちねの母にはまこと力ありけり」、さらに「かぐわしき花にも似たるおみなにも正しき力あらまほしけれ」とおくった。

 また「母をおくる詩」として「我が母よ おんみは逝きませり その逝きますや いと安らか 天国に至ります げにその感あり 性篤実にして堅 健全なる思想を有し 女権擁護に尽す 花に似たる詩歌を作り 其の資性を 我に思はしめたり こと終りたる如くにして 終らず 此の世にありても 生ける如し」と、その死をいたんだ。 

 通夜は極寒の中、婦人参政権運動の同志市川房枝や高橋千代らも駆けつけた。客が帰った後、露風は碧川家の人に「今夜お母さんのそばに寝させて欲しい」と懇願した。 そのとき74歳であった露風にとって、7歳で別れなければな らなかった母との最後の添い寝をしたかった。そして、亡くなった母のそばに露風の白髪と亡き母の白髪が仲良く並んでいたという。 

 葬儀は、自宅で地味にキリスト教式で行われた。「赤とんぼ」の前奏のあと賛美歌が合唱され、露風の「母上をおくる詩朗読」につづいて道夫の「母上をおくることば」そして賛美歌といった順であった。露風が不慮の事故で亡くなったのはこの2年後であった。

 


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7 コメント

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Unknown (雫)
2009-10-08 22:02:08
ハープを弾いています。

「赤とんぼ」は秋には必ず演奏する大好きなレパートリーの1つです。

数年前にかたのことを知り、曲の始めのコメントとして紹介させて頂いたりしていますが、こんなに詳しい年譜を拝見したのは始めてです。

今、友人が研究している19世紀・ドイツの市民女性運動家・ルイーゼ・オットー=ペータースの勉強会をしています。
日本にもこんな素晴らしい女性がいらしたことに感動しています。
良いブログに出会いました (kei)
2009-11-30 08:58:26
子どもの人権に関する本の中に、スウェーデンのフェミニスト教育思想家エレン・ケイの1900年の発言が出ていて、さてこのころ日本はどんな時代だったのだろうか、日本にはどんな女性解放の人がいただろうか、とgoogle検索していて、ふと開いたブログでした。
これまで碧川かたさんの名前も知りませんでした。なんという強い人生を生きたのだ、と涙が止まりませんでした。ブログは全部読みました。この時代の人びとの勇気は、すごいものだと改めて思いました。こういうものを、残して、広めていこうとしているブログ制作者に感謝。
生田長江からのつながりで (河中信孝)
2013-02-06 18:09:43
以前から労作URLを拝見しておりましたが、上記のような「白つつじの会=生田長江顕彰会」を作って7年になります。
生田長江の略歴の中で、三木露風が世に出たきっかけとして、生田長江が「芸苑」に露風の詩を紹介したことが、挙げられています。
しかし、三木露風関係者はあまりそのことには触れておられないと思います。生田長江の方から、押しつけがましく指摘する気はありませんが、貴URLで明白に書いていただいているところですので、うれしく存じています。
今後とも、生田長江もよろしくお目配りいただきますよう、お願い申し上げます。m(_ _)m
勉強になります。 (永野健一)
2013-02-15 08:08:05
はじめまして。
出雲ナザレン教会の牧師をしている永野健一と申します。

個人的な学びの一環として、バックストンに関するテキストなどを調べております関係でこのサイトに来ました。バックストンの活動については横田・出雲・松江での記録は知っておりましたが、米子でのことについては知りませんでした。もちろん、碧川氏についても初耳であり、大いに感銘を受けました。ありがとうございました。
資料を送らせていただきたいので (河中信孝)
2013-04-29 03:18:09
ebatopekoさま
先に(2013.2月)に書かせていただいた河中です。
今回「震災記事」(生田長江が関東大震災に遭い、地震の日から一か月間付けた詳細な自筆日記)を復刻しました。それ以前の資料もお送りしたいと思いますので、恐縮ながら、以下の個メール・アドレスに、空メール頂けますでしょうか。当方からFAX番号をご連絡いたします。
よろしくお願いいたします。
Unknown (河中信孝)
2015-09-09 02:02:58
とぎれとぎれの音信、申し訳ありません。
私のメールアドレスは
officesk@chukai.ne.jp です。もしメール頂戴いただけるのならば、大変喜びますm(_ _)m
今日、日野町出身の谷口房男先生(東洋大学名誉教授)に再会しまして、長江についてお話を伺い、大変触発されたうれしい日です。よろしくお願いいたします。
赤とんぼの祖父が眠る地 (川田信行)
2015-12-20 14:50:57
湯梨浜町の川田と申します。先ほど祖父の和田家が眠る西向寺に参ってきました。碧川かたの生涯を調べるとき、まるで朝ドラの主人公になってもいいくらいの激動の人生だったことを初めて知りました。湯梨浜には和田家の他に堀家の墓もあります。このブログではかたの生まれは松崎とあったので、嬉しくてコメントしました。赤とんぼに隠された意味とかたについてもう少し勉強しよう思っています。突然失礼、ご容赦下さい「。

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