ebatopeko
2006年秋、私は「碧川企救男とかたのこと」と題するブログを掲載した。
2012年6月山陰歴史館において『碧川企救男と「かた」の生涯』と題する特別展示がもたれた。また米子文化センターで「碧川企救男とかたの生涯」と題する講演会が開かれた。
米子ゆかりのジャーナリストの先駆 碧川企救男
ほとんど知られていないが、鳥取県米子市の生んだ平和を愛した先駆的ジャーナリスト、碧川企救男(みどりかわきくお)の生涯を、
安部宙之助『三木露風研究』、
山下清三『文学の虹立つ道』、
碧川企救男『拾有七年』、
堅田精司編『碧川企救男論説集』、
潮地ルミ「時の流れと碧川」、
門奈直樹『民衆ジャーナリズムの歴史』などを参考に、年譜風に記してみた。
彼の平和を求めつづけた、ジャーナリストとしての良心を、米子在住の一人としてぜひ地元の人々の心に感じ取っていただきたいと思います。
1877年(明治10) 0歳
4月27日、父真澄、母みねの次男として、福岡県企救郡小倉町で出生(彼の名前はこの出生地によっている)。 父は長崎裁判所小倉区裁判所長。
彼はもと伊予新谷藩下級武士であった。小玉官次の三男。 伊予新谷藩士で平田篤胤門下碧川弘良は請われて師の平田姓を継ぎ、平田鉄胤となる。弘良の弟、好尚は娘みねの養子に小玉真澄を迎えた。ここに碧川真澄、みねの夫婦が誕生した。1881年(明治14)碧川真澄が検事に任官(37歳)。木更津、千葉、浦和を歴任。
1886年(明治19) 9歳
碧川真澄、7月鳥取始審裁判所米子支庁詰検事に任官(43歳)。堀端町(現西町)26番地の官舎に住居。
企救男は米子城の外堀と内堀の間にあった角盤校に転入学。この後、真澄は1893年(明治26)まで米子区裁と鳥取地裁の検事を兼ねる。退官後も米子に籍を移し、弁護士をしていた。1902年(明治35年)58歳で鳥取地裁所属の弁護士会長に選任さる。
1890年(明治23) 13歳
米子在任中のこの年、真澄はキリスト教の洗礼を受けた。家族6人とも英国人宣教師エビントン氏、冨田孫太郎氏のもとキリスト教徒になったのである。 翌年現在の天神町に講義所をつくり、米子聖公会の前身をつくった。
この年は、バックストン師が来朝している。このころ、碧川一家に対する周囲の風当たりは厳しかったという。
企救男は、角盤高等小学校から鳥取中学に入学。
この鳥取中学は現在の鳥取西高等学校である。鳥取中学において、寄宿舎生活を送る。
その生活はきわめて束縛されたもので、寄宿舎生は金銭を所持することを禁じられ、筆墨紙代なども通帳で取って、月末に舎監自らこれを払い、その収支を父兄に送ることになっていた。食欲旺盛な生徒には辛いことであった。
外出は一週間の内、水・土曜日の放課後と日曜日だけ。外出は朝は8時から夕方は午後6時に帰舎しなければならなかった。
通学生からは、寄宿舎生を「籠の鳥」といわれていた。朝は5時起床で、30分後に人員検査がおこなわれ、夜は9時半に人員点呼があり、30分後に嫌でも寝床に入らなければならなかった。
1891年(明治24) 14歳
企救男が中学2年生になったとき、上級生が毎朝の掃除を1.2年生にすべてさせるという4年生の動きを知った。そこで寄宿舎役員選挙において2年生の数が他の学年より多いことを利用して、討論会を活用し彼らのいわゆる「階級闘争」をおこなった。
会長の5年生を除き他のすべての役員を2年生で占めることに成功した。企救男のはじめての政治運動であった。
この年、企救男ははじめて近眼であることがわかり、海軍兵学校への進学をあきらめ、メガネをかけることになった。
1892年(明治25)15歳
12月28日、授業の最終日に帰省する予定の処、14,5名が、授業が早く終わり、昼飯の15分前に食堂に入って、昼飯を食べたため舎則違反になった。そのため校長訓戒になり一日禁足となり、その学期の学業成績表に「刑罰一」と活版印刷される。
1894年(明治27) 17歳
4年修了後、東京専門学校英語政治科(現早稲田大学)に進学。大隈重信の人物識見に傾倒させられたからという。
この上京のとき奇跡的な出会いがあった。すなわち、三木節次郎との結婚を解消し、鳥取に帰っていた鳥取藩の元家老和田家の娘「かた」が経済的自立を目指し、東京小石川の久松学舎舎監、堀正(和田家の重臣で「かた」の養父)を頼って上京しようとしていたのである。
生後間もない乳飲み子の「勉」を抱えての上京に不安を抱いていた「かた」のまわりの人々は、企救男に同道を頼んだのである。この「かた」こそ「赤とんぼ」の歌で世に知られた「三木露風」(本名三木操)の生母である。
上京後まもなく「かた」は、弓町本郷教会で海老名弾正師のもとで受洗。彼女は竜野で三木家に出入りしていた若夫婦が、キリスト教徒で睦まじく、つつましく暮らしているのを見て、キリスト教に関心が強かった。
1895年(明治28) 18歳
企救男、東京専門学校に入学。「かた」東大病院看病法講習科入学。7年間の看護婦生活が始まる。
1896年(明治29) 19歳
企救男、東京専門学校において札幌農学校から転校してきた、西川光二郎と知り合う。
1899年(明治32年)一緒に英語政治科を卒業し、生涯光二郎の妻ともども生涯の盟友となった。
企救男が西川から得た最大のプレゼントは、新渡戸稲造という人物を知ったことである。新渡戸稲造は内村鑑三らとともに、札幌農学校第2期生(1881年ー明治14卒業)で、彼の入学時には、あのクラーク博士はすでに札幌を去って帰国していた。「Boys be ambitious !」の言葉を残して・・・。
また彼は「イエスを信ずるものの誓約」を教え子たちに残した。その結果、内村鑑三も新渡戸稲造もともに忠実なキリスト者として生きることになる。 1937年(昭和12)軍部の圧力によって東大を追われた矢内原忠雄が、最も尊敬する人物として挙げたのが他ならぬ新渡戸稲造であったのである。
1896年(明治29)札幌農学校予科を卒業した西川光二郎は、在学中新渡戸からはじめて「社会主義」なるものを聞いた。
1901年(明治34)社会民主党が結成されると、西川光二郎はこれに参加した。この年、企救男は肋膜炎に罹る。
1899年(明治32) 22歳
企救男は東京専門学校を卒業するとすぐ、直ちに北海道集治監釧路分監出張所(現在の網走刑務所)に行き、そこで一年間生活をした。受刑者保護に取り組んだ原胤昭が在職していたことによるのか、あるいは反骨弁護士として有名な正木ひろし氏のいう特種志願囚として入監していたとの説もある。
しかし、ご遺族が直接網走刑務所に赴かれ、確かめられたところによると、そのような事実はないとのことであった。
そのほかに考えられることは、入所者に対する「教誨師」的な役割をしたのではないかとも考えられる。しかし、網走監獄では永専寺の住職が教誨師であった。
さらに、そのころの網走監獄は維新以来の政治犯、思想犯が多数投獄されていた。企救男はそういう権力者に立ち向かったために窮地に立たされた者たちの声を聞くことによって、虐げられた者への共感を得たのではなかったか。
1900年(明治33) 23歳
碧川企救男は、網走刑務所での一年間を終え、秋に吉植庄一郎の「北海時事」の記者となり札幌に移る。「みよしの生」の名で三面記事を書く。
1901年(明治34) 24歳
この年初め、東京にもどる。5月西川光二郎が社会民主党の結成に参加したことを知り、社会問題への関心を強める。再び北海道に渡り「北海タイムス」に入社。
1902年(明治35) 25歳
春、北海道の小樽において碧川企救男と「かた」が結婚。かた33歳、企救男25歳。共に鳥取を出た二人であった。
8月「小樽新聞」に入社。社長は企救男と同じ東京専門学校出身の上田重良であった。
小樽における彼の活動は、「小樽新聞」を舞台とした。 「入社の辞」には、世の中の動きを正義の目で見つめ、どん欲に吸収しつつ、しかも読者からの厳しい批判を乞うという若々しいみずみずしさが溢れている。
こうして碧川企救男は小樽新聞において論説、小説において社会の木鐸として縦横に活躍することになる。
1903年(明治36) 26歳
2月、企救男・かたのあいだに長男道夫が生まれる。この道夫は、のち映画界に入り多くの名作映画の撮影を担当した。その中で最も著名なのが、カンヌ映画祭でグランプリを獲得し、アカデミー特別賞を獲得した『地獄門』である。そのほか、1,800万人もの国民が見た『東京オリンピック』など、78本もの映画制作にかかわった。
8月5日、企救男小樽新聞において「カタリナの溝渠」を掲載。北海道の新聞ではじめてロシア虚無党について述べた。
この8月遊説に来た幸徳秋水を小樽に迎えた。西川光二郎は、日露戦争反対をとなえて「万朝報」を退社した堺利彦・幸徳秋水らと1903年(明治36)『平民新聞』を創刊した。
1904年(明治37) 27歳
2月9日ロシアに宣戦布告、日露戦争勃発。このとき、『平民新聞』は戦争反対をとなえて論陣を張る。その秋霜烈日、凛々たる言葉に深く打たれる。
3月7日には、企救男は小樽新聞社会部長として「軍人家族の慰藉」を載せ、出征兵士は身を国家の犠牲に供し、その残されたる家族は人生の最も悲惨を現ず、と出征兵士の悲劇を明らかにしその現実を直視せよ、と世論を喚起した。
また引き続き3月に「憐れなる軍人家族」を連載している。その中で「開戦論続稿ー日露戦争ー戦争が始まったんじゃ」「悲惨なる書簡ー壮絶ー小説を読むが如き書信」などには、戦争誘発の原因を資本主義国家の矛盾に求めている。ここには社会主義思想の萌芽が見られると門奈氏は述べ、企救男のこのような論にキリスト者としての眼を、また虐げられた者への熱い眼差しは石川啄木にも影響を与えたと述べられている。
3月21日、企救男はさらに「軍人の子」を載せ、戦争非協力の家庭が非国民呼ばわりされていく様を短編小説の形で明らかにした。10月2日にはして「戦場における死生観」を発表し、戦争熱を暗に批判。その中で、戦場に赴く友に対する言葉として「僕、わずかに一言の送るものあり、曰く巧みに生きよと」 した。そこには、同じ頃与謝野晶子が「君死に給うことなかれ」と、弟を送った言葉に通ずるものがある。
1905年(明治38) 28歳
この年5月、長女澄が誕生した。企救男、小樽の「平民新聞読者会」を大滝由太郎らとはじむ。6月社会主義者野遊会を開催。彼は北海道で初めて赤旗を立てて歩いた。
また、小樽新聞9月14日紙面において「責任の帰すべき処」を書いた。日露戦争後の屈辱的講話に対する民心の激昂を述べたが、彼はこの戦争が貧しき民たちの財産と生命のすべてを国家に捧げたことに対する憤りを示した。
同時に為政者の物心両面における腐敗を大声で叱った。このように「小樽新聞」における社会主義的傾向は、1907年ころには、「小樽新聞は社会党の新聞」とまで東京で言われた。
1906年(明治39) 29歳
この年8月、二女国枝が生まれた。企救男、小樽新聞9月8日紙上において「騒擾の真原因」を書き、世論を無視し、一部資本家の走狗と堕した政府の姿勢を痛烈に批判。 財界の提灯持ちと言われていた小樽新聞は、企救男の入社以来その面目を一新した。
1907年(明治40) 30歳
5月12日、企救男「小樽新聞」において足尾銅山暴動事件について書き「労働者を無視する反動、資本家も反省すべき」と矛先を向けた。9月、石川啄木の訪問を受ける。この年企救男は腸チフスで入院。付き添いのかた、感染した道夫とも一家を挙げて入院となる。その経過を記した「厭妻治療法」という喜劇的な小説が、読売新聞懸賞小説の一等入選となってかなりの賞金をもらった。
1908年(明治41) 31歳
1月4日、小樽市内で「社会主義演説会」が催された。このとき、企救男は開会の辞を述べ、「吾人の敵」と題する講演をしている。石川啄木はこの会に参加して社会主義に関心を寄せていることがわかる。その啄木は「小樽日報」に辞表をたたきつけて退社したが、そのときのセリフは「樽新(小樽新聞)の碧川の世話になる!」との啖呵であった。
懸賞入選を機に、小樽での生活に終止符を打ち、一家を挙げて東京に出た。上京後企救男は報知新聞の社会部記者となった。居宅は有楽町の「平民社」の隣であった。企救男は幸徳秋水や西川光二郎と交わっていたので尾行の刑事がついていた。
電車の飛び乗りの名人で、尾行を巧みに巻くので巻かれた刑事が「先生それだけは堪忍して欲しい」と頼んだという。また、長男の道夫に日比谷公園で刑事が昨夜の父の行動を聞くことがあった。
1909年(明治42) 32歳
2月、三女芳子が生まれる。彼女はのち映画監督の内田吐夢と結婚した。彼には長兄の道夫と組んだ『飢餓海峡』がある。
1910年(明治43) 33歳
この年、企救男は「中央新聞」に入った。この「中央新聞」は、一時幸徳秋水もいたことがあるが、役員には原敬や鳩山和夫らがおり、政友会系のメディアであった。
この年「中央新聞」は他の新聞社に先駆けて夕刊を創刊したが、その夕刊の社会部長として彼を呼んだ。東京の下町の労働者層の読者獲得のためという。ここで彼は民衆の立場から11月「何故芸妓になったか」という花柳界を取材した連載や下層社会を題材にした「職業捜索」などを書いた。
19011年(明治44) 34歳
5月「壁に書かれた不平」を書き、下級官吏や警察官の不平を官庁や警察署のトイレの中の落書きに探索し発表。
1912年(明治45) 35歳
久しぶりに米子に帰り、小樽新聞において紀行文、故郷と中学校時代の交友関係を記す「拾有七年」の連載はじめる。
この連載は28回にもおよんだ。企救男の鳥取中学在学は明治23年から27年にかけての頃で、まだ山陰本線が開通していなかった(開通したのは明治44年1911年である)。
この連載では、鳥取中学から故郷の米子に徒歩で帰省する過程がよく記されており、鉄道開通以前の鳥取・米子間の状況がきわめて克明に書かれている。
9月、四女清が生まれる。
1919年(大正8) 42歳
5月、中央新聞社長吉植庄一郎とともに訪欧の旅に出た。そのレポートは9月にかけて中央新聞に連載された。第一次世界大戦が終わり、ベルサイユ講和会議が開かれ、その取材が中心であった。
半年間の旅行でフランスのあとドイツでは、社会主義者のリーブクネヒトを訪ねている。フランスのあと企救男はロンドンに渡った。イギリスではその自由な言論活動に目を見はり、特に女性の政治参加を目の当たりにし、女権拡張運動に強い関心を示した。
企救男はロンドンから「かた」のところに婦人解放運動や禁酒運動に活躍する英国婦人の活躍の状況をを詳細な手紙で書き送った。これを読んだ「かた」は、日本の婦人参政権運動に身を投じたのである。
1923年(大正12) 46歳
企救男はヨーロッパから帰国後、京城勤務のあと東京で関東大震災に遭った。この時企救男夫婦は朝鮮留学生を匿った。 その後北海道にもどり小樽新聞の整理部長などをしながら警察と政治ゴロとの癒着ぶりを強く批判しつづけていた。
1925年(大正14) 48歳
「小樽新聞」において、軍事教育反対キャンペーンを展開する。10月小樽高商における軍事教官の不穏分子一掃想定に対して、学校教育における軍事訓練の拡大を、思想統制の強化であると憂えた。
1927年(昭和2) 50歳
企救男の長男、碧川道夫が日活京都撮影所に勤務することになったので、一家で京都に住むことになった。
京都移住後も小樽新聞において「堀草人」「紅雨楼」等のペンネームで、「白菊御殿」「流転」「幕末水滸伝」「北海道情話、尖端を行く女」等を連載した。
1934年(昭和9) 56歳
碧川企救男の生涯は、4月12日、56歳で多年におよぶ新聞人としての一生を終えた。企救男は死の直前「かた」に、背中に墨で十字架を書いてくれと言ったという。彼の生き方の一番根底はキリスト者であったことがわかる。
彼は結局幸徳秋水とは意見が合わなかったが、秋水の遺書が「キリスト教抹殺論」であったことと考えると、符帳が合う。
企救男と「かた」の間の末子「清」さんは1974年(昭和49)に、心身障害児や多くの友人知己に深い感銘を残してこの世を去ったが、友人たちによって「赤まんま」という追悼文集が出版された。その中で、長兄の道夫氏は父、企救男のエピソードを記している。
父は勤めから帰ると前掛けを締めて煮物屋に変身したという。手のかかる豆類、こぶ、シチューづくり、酒豪の彼の肴として鮭,鰊をつくった。ペンを休めて鍋の蓋を開けたりズラしたりペン軸を逆さまにして、かき回しては味見をしていた。
妻の「かた」は逆にレパートリーが狭かったようで、カレイのでんぶ、空豆の煮付けくらいであった。彼はまた、社会主義への関心が高く、小林多喜二の思想形成に著しい影響を与えた。