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宗教とアセンション2

2019年11月30日 | 宗教
いやぁ、またまた、ご無沙汰してしまいました。

えッ?もう、12月ですかぁ?昨日のことの様な1年を、振り返るのも何だか妙な気もしますが、思い返せば、今年もいろいろありました。

さて、このところ、このブログも記事の更新の間が空いて、おいおい、ヤル気あんのか?とかお思いの方もおられるかも知れませんが、実は、それほど多忙で、書いているヒマもない、という事ではありません。

むしろ、世間的な意味からすれば、私はけっこうヒマな部類の人間に属してはいると思いますが、う~ん、いろいろと妄想していることが多くて、なかなかまとまらない、というのも事実です。

ブログのテーマの内容も、現在の宗教という微妙な問題にさしかかって来ており、例えば先だっての記事の様に、現代の仏教はナンセンスだ、などと書いてしまって、現在進行中と言いますか、信仰中でしょうか、そういう関係の方々の多くの反発を招きかねないわけでして、まあ、慎重を期す思いが、ブレーキをかけているのでは、と、自分では分析しております。

先日の記事では、一旦は、仏壇やお墓にお参りするのはナンセンスだと書きましたが、まあ、真実というものと比較すれば、そういう事も言えるかも知れませんが、その、真実にアクセス出来ない多くの人々にとっては、そうした行為によって、自分の信心というものを、ある程度満たすことが出来れば、一定の代替的な癒し効果も得られるのではないか、まして、過去には、それが無数の人々に癒しを与えて来たのも事実であろうと思い直し、少し編集して記述を変えておきました。

その、ナンセンスというのは咄嗟に出て来た言葉ですが、ちょっと強過ぎる言葉で、抵抗や反発を感じられる方もあるかも知れない、とも思ったからです。このブログは、煽りや批判をする所ではありませんし、協調調和こそがアセンションへの道でもありますから、強過ぎる表現は、あまり適切ではなかったかも知れません。

ただ、身近で高齢者である実家の母などの様子を見ておりますと、やはり、仏壇やお墓へのお参りや檀那寺との関わりというのは、信仰云々と言うより、死後の世界を知らないことによる不安によるものが大きく、それが、生きているうちに出来る事は、何でもやっておきたいという行動へと向かわせているように思われるのです。

ですが、父の十何回忌とか言って、それなりの無理な出費をして僧侶を呼び、法事をやらねば、と思って心を砕いている姿は、ある意味痛ましさも感じられ、もう、そうした負担からは解放させてあげてもいいのではないか、という思いが、私の舌鋒を、ついつい鋭くさせているのも事実です。

本来ならば、仏弟子であるべき檀那寺の僧侶が「死」と言われている肉体からの離脱後も人間の生命というものが存在し続けるという、ブッダの教えにもある真実を、檀家の人々に教授すべきなのでしょうけれども、そうしたことは、現在、仏教の教団では、組織的にはあまり行われていないようです。

現在お経と呼ばれているものは、ブッダ、ゴータマ・シッダールタの、生前の言行録ですが、その一部を、いわゆる仏前で読誦することに、どういう意味が、あるのでしょうか?キリスト教で例えて言えば、聖書をキリストの磔刑像の前で読誦するのと同じ様なことではないでしょうか。それが、有効な意味のあることでしょうか?ところが、それが仏教の世界(社会)では営々と長年月に亘って行われて来たという事なんです。

この地上は、本来は、霊的な存在(エネルギー体)である私達が、地上の物理的な世界を体験する為に、一時的に肉体をまとう場所で、それが済めば、その体験を胸に、また嬉々として、霊的な存在へと戻っていくだけの事、それを望んで繰り返しているだけの事で、それが真実だということでしたね。

そうした真実が、アセンションに向けて次第に明らかになり、多くの人々へと広まり理解されて行くこと、これも大事だと思います。

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