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阿弥陀信仰とキリスト、唯円のメッセージ、1986年

2020年07月17日 | 宗教
唯円は、鎌倉時代の僧侶で、親鸞上人のお弟子として「歎異抄」という、親鸞上人の言行録を纏められた方だそうです。これは、今から三十数年前に、或るチャネラーに伝えられた、その唯円と呼ばれる方の、霊界からのメッセージとされるものです。このメッセージでは、唯円の意外な過去生や、阿弥陀信仰とキリストの意外な関係についても語られています。元はインタビューですが、編集してあります。カッコ内は補注です。

(ここから)

唯円でございます。
(「歎異抄」に著されている信仰云々について、お聞きになりたい、ということですが)「歎異抄」そのものについては、あれこれと言うことはございません。これは、私自身の思想など殆んどないわけであって、聴き語りであります。聴き語り、ということであって、私自身の思想でもないし、ただ、親鸞聖人様がお偉かっただけです。そういうことで、私自身は、どうこうということではないのであって、それを単に取りまとめたということだけです。

親鸞聖人様のお考え、というのは、もっと広く、もっと高い、 もっと深いものであられた。それを、私が、たまたま、そうした小さな書物にまとめた為に、聖人様のお考えが、その範囲に留まっておられるかの様に、後の世に誤解されたことを、私は大変恥じております。

これは、ほんの一端であって、親鸞聖人様が、唯円に対して、分かり易く言って下さった事だけでありまして、聖人様のお考えは、もっともっと深く、広く、高いものです。ですから、私の書き方、私の編集の仕方次第で、後の世の人々から、親鸞様のご思想が、その辺に留まっていると思われるのは、大変申し訳ないと思います。

また、あなた方もご存じでありましょうが、 教えというものは、相手に合わせて説かれるものです。

今、様々な聖霊が降臨されて、あなた方に対して教えを説いておられますが、その教えの内容というのは、聴き手である、あなた方を意識した内容にしか過ぎないのです。従って、あなた方に分かる範囲の事しか言えない。それ以下でもなければ、以上でもない。そういうことで、聖賢たちは、もっと高い、幽遠な話があったとしても、それは、やはり、あなたに理解できる範囲でしか、あり得ないということです。

まあ、唯円という人間は、あなた方ほどの知識も教養もない人間でしたから、親鸞様は、この唯円に分かる様に、噛んで含める様にお教え下さったものでございます。ですから、そのご思想が、非常に易しいもののように感じられるかも知れませんけれども、それは唯円の責任であって、親鸞様のご責任ではありません。

どうか、それを、世の人々は、間違えないで頂きたいと思います。

あくまでも、唯円という、頭の悪い愚僧を相手に、お説きになられたお話なのです。 則ち、私程度の人間に対しては、同じ様なことが言えるでありましょうが、私より優れた方に対しては、お聖人様は、もっともっと難しいお話をされていたのです。ですから、 あれでもって、聖人様の全てのお考えだと思うのは間違っております。

私は、その後、天上界においても「法」について研究をしておりますが、それは、親鸞聖人のお教えについて特に研究している、という事ではございません。 天上界では、やはり自由自在でございますから、様々な方のお話を伺っております。

ただ、天上界でも、色々グルーブがございまして、如何にして人々に法を説くか、という、これは方法論ですね、それが、日夜、研究されております。

例えば、人に法を説く時に、孔子様の様な、聖人としての道ですね、則ち、聖人になられて、その尊い徳で人々を教化、感化するという説き方もあります。また、仏教者達の多くがそうであった様に、まあ、精進、という様なことを通して(努力の教えですね)人々を導く、という様なやり方もございました。

或いは、また、もう一つのやり方がございました。

則ち、それは、大変な悪人になり、大変な愚僧として生まれたけれども、あるきっかけがあり、「回心」して、「廻心」をして、神、仏への道へ向う、ということです。 そういう事を研究している方も、また居るのです。

親鸞様とか、私とかもそうです。「悪人正機説」とか、色々、言われておりますが、それは、ただ単に、悪人が一般的に救われる、という教えを考えたのではないのです。そうではなくて、親鸞様もそうではありましたでしょうし、まあ、師匠と私とでは話が違うかも知れませんが、私も、大変な悪人であったわけです。

そういう、悪人でも救われる、という説を作った理由の一つは、私たち自身が、そういう悪人であって、それを「念仏」というものを通して「廻心 」という事を経験した。この事が大事なわけです。

ですから、これも一つでしてね、世の中に優れた人の感化を受けて、秀れた人として生きていく、そういう人も多いでしょうが、既に、気が付いた時には、自分は罪の中にどっぷりと漬かっていた、と、こうした方も多いのです。

既に、宗教的なものに触れた時には、四十、五十と大変な悪業を続けていた、という人にとっては、もう救いはないのだろうか。孔子様の様な聖人には、もう、とてもなれない。イエス様の様な聖人にもなれない。しかし、罪なくして死ぬ様な人はありません。そこで、罪を数多く作った人、こういう人にとっても、救いの道はあるのか、と。こういう事を考えたのが、私達のグループなのです。

人の救いと、ひとくちに言っても、普通の人を救うのと、或いは、悩みの底、どん底、悪のどん底にいる人まで救うのか、こういう方法論が色々あるわけです。そして、私達が重視しているのは、その「回心」「廻心」の原理なのですね。これを、非常に重要な事としています。

というのは、この地上に生まれた人達というのは、どうしても盲目になりがちです。 眼が見えません。「神理」というのが分からないのです。神仏というのが、分からないのです。

ただ、神仏の摂理というのは、非常に巧妙に出来ていまして、その何十年かの人生の中で、必ず、どこかで、何か気付く様な、そういうきっかけというものがある。必ず、どんな人間にも、宗教的な真理に触れるきっかけというものがある。そうしたものを与えられているのです。

それが、例えば、病気であろうし、例えば、人生に挫折することであろうし、例えば、一つの素晴らしい出会いであろうし、例えば、奇跡を目撃したりする様なことであろうし、と。この様に、色んなきっかけがありますが、いずれの場合であっても、神仏は、必ず、宗教的な真理に触れる局面というのを用意して下さっているのです。 全ての人にね。

そして、その時に、一つの「廻心」ですね、心の向きがくるっと変わる。そうした、大切な瞬間というものを設けておられます。この「回心」「廻心」の原理というのは、一つの悟りへの道だ、ということです。そして、生きているうちに、この回心を経験した人は、もちろん天国へ行くことが出来るわけです。

しかし、死んで地獄ヘ堕ちる人であっても、 地獄界で、回心ですね、心を入れ替える、反省するなり、或いは、神仏にお願いして、謙虚に、自分というものを見直すなりすれば、救われるでしょう。そういう回心というものを通さずしては、地獄から天国へ行くことは出来ません。

ですから、この回心の原理は、地上に生きている時か、或い は、あの世へ行ってからか、いずれにしても、どこかで、必ず体験しなければいけない、ということなのです。そういう、一つの重要な原理なのです。

宗教的真理にも色々ありましょうが、この、心が、くらっと神の方へ、神仏の方へ向く、という瞬間、これを大切にする。こういう考えもあるのです。

私達の仲間では、近年、アメリカに、スター・デリーという人を出しました。
この人は、強盗の親分をやっていて、悪の限りを尽した男なのですが、監獄の中では、歯を食いしばって拷問に耐えていた。つまり、強盗の親分としてのプライドがあって、どうしても、子分達の前で、他の罪人達の前では、自分の弱い所を見せたくない、という事で、歯を食いしばって、拷問に耐えていた。しかし、ある時、もう気絶してしまって、拷問で失神してしまって、のびてしまったのです。

その時に、彼は、イエス・キリストの幻影を見た。「スター・デリーよ、愛する、いとし子よ。お前は、どうして、そう強情なのか。お前は、私の言葉が聴こえないのか」と、こういう幻を見て、彼は廻心をします。そういうことがありました。そうして、その後、アメリカにおいて、彼が神の道を説いたことは、皆様ご存知の通りです。

こういう、スター・デリーの様な人は、いつの時代でも、いつも用意されていまして、やはり、世の大部分の人達は、神仏に眼を向けないで、悪人としての生涯を送っているわけです。こうした人達に、一つの前例を、手本を見せねばならない訳です。

そういう事であって、 例えば、人を殺すという様なことは悪いことでありますが、そういう悪行の限りを尽くしていた人が、ある時、神仏への道へ廻心する。こういう瞬間があり、こういう実績がありますと、世の悪人達も、「ああ、自分達にも、まだ救われる道があるんじゃないか」と、こういう事に気が付く訳です。

ですから、高級霊が、敢えて悪人を装って地上に出る事があるのです。スター・デリーなども、私達の仲間ですから、彼が、悪の限りを尽した頃、強盗の大親分になって、様々な人に危害を与えた時に、私達は天上界で、とても、はらはらと見ておりました。ああ、かわいそうだな、と思って見ていたのでしたが、それでも、大いなる道の為には、そういう個人の犠牲というのも、あり得る訳ですね。

スター・デリーの魂にとっては、大変、苦痛な事であったでしょうが、そういう計画のもとに生まれる場合も、あり得る、という事なのです。

あの位の大悪人、大罪人が悟れるなら、普通の小悪人は、全て悟れるのではないか、救われるのではないか、と。そういう勇気を与える為に生まれた、という事ですね。まあ、普通の高級霊であるなら、やはり聖人君子の道を歩みたいのは、やまやまなのですが、敢えてその様に、自己犠牲ですね、そういう精神をもって生きている方もいるのです。

キリスト教などでも、犠牲という事が、ずいぶん言われます。自己犠牲という事、これを間違いであるかの様に言う方も、ずいぶん多いです。生きている人間で、自己犠牲という事は間違いだ、という方も、多いかも知れませんが、しかし高級霊の菩薩行の中には、そういう自己犠牲というものも、やはり入っております。自分というものを捨てて、 人の為に尽くそうという、そういう「菩薩行」の中には、 そういう自己犠牲も入っております。

単に、自分という命を殺めて、 他を助けるだけではないのです。「一粒の麦、もし死なずばー」ということで、やはり、数多くの生命を生み成らせる為に、そういう犠牲を、敢えて行なう事がある。まあ、イエス・キリストという方も、本人は否定されたとしても、結局は、自己犠牲の一人であろうと思われるのです。

(地上で、死刑という刑を下された人々のうちで、刑が決まって、 初めて自分の罪を認め、悔悟の念を起こし、回心をされた人、こういう方は、死後、浄土ヘ向かうか、或いは、地獄へ堕ちるか、どちらの方へ別けられるのか、と言えば、それは)まあ、その回心の内容、深さが問題です。その発心、菩提心と言ってもいいですが、則ち、どれだけの道を、悟りを求めるか、その菩提心の大きさ、力強さ、こうしたものにも関係があります。単に死後、天国、地獄が、どうも、あるらしい、と。地獄には堕ちたくないから回心した、という様な気持ちでいるだけかも知れないし、その深さが問題です。

ただ、普通の高級霊であれば、ただ単に、死刑囚となって死の直前に悟る、という事は、まあ、少ないかも知れません。やはり、それであったら、引継いで、何か大きなことをやるか、何か遺産を遺すはずですからね。まあ、話としてはあっても、実際問題としては難しいかも知れません。

しかし、中には、死刑囚であっても、人々の心に煌きを遺して還られる様な方もいらっしゃいます。そうした方が、地獄に居るかといえば、居ないです。逆に、 政府の高官などをやっていた様な人が、今度は地獄に行ったりして、死刑囚が天国に入る。そういう事はあります。神の目の前には、皆、平等ですからね。

(あなたは、人は、その人の一生のトータルな心性によって、死後の行き先が決まるのだ、という事を考えておられる様ですが)私が言いたいことは、あなた方は、結果論者になってはいけない、ということです。

いいですか、 結果論者になってはいけない。「南無阿弥陀仏」を称えたけれども地獄に堕ちたじゃないか、と言うことは簡単です。ただ、 この「回心」の原理というのは、心を、ぐらっと、どちらかへ向けるわけです。そこで、心をどちらに向けたらいいのかを教えないでは、やはり、いけない、ということですね。

それが、向くかどうかは、 もちろん、本人の問題が残っております。しかし、どちらに心を向けたらいいのかを教えるのは、 少なくとも宗教家の務め、ではないですか。

そうではないしょうか。 私達は、こちらの方へ心を向けなさい、という事を教えました。それが、 阿弥陀信仰です。「南無阿弥陀仏」と、大いなる仏の慈悲にすがりなさいと、 そちらの方へ心を向けなさい、という事を教えたのですね。

それで救われた人もいるし、もちろん救われなかった人も、一時的にはね、そういう方もいたでしょう。ただ、それは、個人個人の問題であるからして、一概には、どうだとは言えません。

それでは、まるで、「詐欺罪」ではないか、と、あなた方は言うかもしれない。「阿弥陀仏」と言えば救われる、と言ったのに救われないではないか、と。しかし、これは詐欺でも何でもないのです。 回心の原理です。

地獄に堕ちた人もいるでしょう。 ただ、地獄に堕ちても、やはり阿弥陀仏の救いを願う心、というものを持ち続けていたならば、そういう呼ぶ声を続けていたならば、 必ずや、本人の守護、 指導霊達が、協力して、本人を一日でも早く悟らせようと努力しくれるはずです。あなた方でもそうです。助けを求められて、 放っておくような人はいないのです。

阿弥陀信仰というのは、 要するに別の言葉で言えば、 大きなカに助けを求める、という事です。 人間は、自分を救っていけるぶんにはいいのですが、 どうしても、もはや救えないような自分というのも、よくある。例えば、スター・デリーの回心にしても、獄舎に繋がれて、失神までして、その時にキリストの幻を見なければ、彼は回心しなかったかも知れません。しかし、その、キリストの幻影を見たという、幻を見たという、その瞬間、やはり、これは一つの他力であろうと思うのです。

ですから、 他力は、一つのきっかけです。もちろん、 念仏を唱えても地獄に行っている人は一杯おります。たくさんおります。つまり、それは、 念仏を悪用している人が居るからです。何をしたって、念仏さえ唱えていれば天国へ行けるんだ、というふうな、「免罪符」だと考えている人がいるわけです。念仏をね。

念仏は、免罪符ではありません。それは、回心の原理を言っている訳であって、免罪符ではありません。

キリスト教の方でも、マルチン・ルターという人が、同じ様なことに遭遇しました。時の領主達が、免罪符というのを売って、金儲けをしていた。これさえ買えば天国ヘ行けるし、お前の罪は赦されるのだ、と。教会がそういったものを発行していた。教会が、自分達の教会の改築の為に、免罪符を出して金集めをしていた。これでお前たちの罪が赦されるのだから、お金をいくら寄付せよ、と。こういうことをやっていた。

マルチン・ルターは、それに憤慨して、「聖書のみの信仰」ということで、 宗教改革をやったわけですね。これなども、同じでしょう。つまり、もう免罪符でしょう。生きている人間は、どうかすると免罪符を買うし、天国でも、切符、いい座席を予約したい、と、こう思いますが、これは、また、ちょっと違っているのです。

全ての人が、悟りたいという気持ちを持っていること、これは菩提心ですから、これは大事なことです。 ただ、それを、安易に予約できる様な、そういう気持ちというのは、これは、何か間違っているのです。免罪符ではないのです。だから、念仏を、免罪符だと思った人達は、地獄へ行ったでありましょう。

しかしね、やはり、これは信仰の根本にあるのです。あなた方(チャネラー)が、私を呼ぼうとした時、ここへ呼ぼうとした時に、やはり、「唯円、 出て来て下さい」と言ったではありませんか。唯円、出て下さい、という声がなければ、私は、今、ここに出て来ることはないはずです。

もちろん、私達は、あなた方のことを知らない訳ではありません。ただ、 私達には、 私達の仕事があります。ですから、あなた方のことを知っているからといって、 私の方から出て来ることはありません。しかし、唯円、出て来て下さいと言われれば、私は出て来ます。あなた方のお役に立ちたいからです。

結局、そうでしょう。あなた方にとっても、阿弥陀信仰の小型が、現在、通用しているわけです。あなた方が呼ばなければ、だれ一人として出て来ません。向こうから来られる方は、よほど、お暇な方か、おせっかいな方か、あなた方に、非常にご縁のある方だけです。しかし、呼べば、現に来るわけです。あなた方の心が、求めれば、守護、指導霊達も、何らかの助けをしようと、皆んな心掛けているのです。

ですから、一番大事なことは、「南無阿弥陀仏」と念仏を上げる事ではなくて、念仏を上げる様な心境になることです。そういう発心です。則ち、「回心」をする、ということ、これが大事なのです。そして、ひとたび、そういう大決定を為したならば、ひとたび、弥陀の弟子として生きていこうとの大決心をしたならば、もう、その時には、その人は救われているのです。

念仏という行為によって救われるのではないのです。念仏がありがたいから救われるのではないのです。そういう回心をする。回心をした瞬間に、人間は既に救われているのです。あなた方も、そうだと思いませんか。

例えば、あなた方は、もともと神仏の道を説く高級霊達として地上に出ているのにも関わらず、 地上的な仕事に邁進しています。これでは、いつまでたっても、神様との約束は果たせません。しかし、ある時、 高級霊からの啓示があって、「お前たちの仕事はそっちじゃないぞ、こっちだぞ。お前たちの仕事は、神仏の声を地上に広めることが本来の仕事だぞー」と、こういう天からの声が聞こえて来ました。そこで、あなた方は、はたと気がついて、「ああ、しまった」と。私達の道はこっちじゃなかった、と。神仏の声を人々に伝えるのが、私達の道であった、と、あなた方は悟ったはずです。

これも、また、回心です。この回心をした時に、その一大決定をした時に、もう、あなた方は救われている、という事ではないのですが、少なくとも、本来の任務に就いたとは言えます。

こういう大規模な事ではありませんが、普通の人でもそうです。その、宗教的な回心、これを行なった時に、もう既に、救われては、いるのです。念仏は、それから後の結果です。

今、私は(霊界の)親鸞様や蓮如様と同じ所におり、同じグループで仕事をしております。その昔は、キリスト教に縁があり、やはりイエス様の弟子の一人でした。ですから、イエス様のお教えを、昔は、ずいぶん聴きました。そして、イエス様のお教えを通してね、イエス様が出られない時に、親鸞様らと一緒に、この日本に出て、キりスト教信仰、日本流に言えば、阿阿弥陀信仰ですね、同じものなのですが、この「阿弥陀信仰」を説く為に出て来たのです。

(私は)やはり、十二使徒の一人でした。
まあ、あなた方が、名前を知っている人間の一人です。それほど有名かどうかは知りませんが、恐らくあなたは、私の名前は知っているはずです。どうですか。当ててご覧なさい。皆さんも、そういうふうに言っておられたようですから。
親鸞様は「パウロ」であったし、蓮如様が「アンデレ」であったように、私が一体だれであったか、 あなたには判るでしょう。ヨハネではありません。マタイです。「マタイ伝」を書いたマタイです。

現代人にとって、大切な教えというのは何か、というと、自分と同じ様な思想を、あなた方に押し付けるのもいけないとは思いますが、結局、現代の「悪」とは何か、という事を、あなた方は、まず、研究しなければならないと思います。

現代の 「悪」とは何か。

昔の悪とは、ずいぶん違うと思います。昔は、信仰心を持たないことが悪だ、と言われた時代だってあるのです。そういう時代もありましたけれども、まあ、現代の悪とは何か、その現代の悪というのを、言論界の人達が考えている様な悪ではなくて、神の目から見た悪、これを、も一つ考えてみなければいけませんね。そして、現代的な、その「悪人」を、どうしたら救えるか、という事を、真剣に考えていく必要があります。

まず、あなた方は医者なわけです。心の医者なのですから、どういう人が患者なのか、これを、しっかりつかまなければいけません。患者さんというのは、自分が、救われている、と思っている人が多いのです。ですから、患者の実態を、まず、つかむ必要があります。

今、私が見ている限り、一番、患者が多いのは、どこか、というと、インテリ層です。

例えば、田舎の百姓をやっているお爺さん、お婆さんというのは、信仰心を、今でも持って生きています。田舎の方は、結構、掌を合わして、神棚を拝んだり、仏檀を拝んだりしています。

一番、信仰心がなくなっているのは、実に、インテリ層なのです。それも、自分が受けた十数年の教育、こうしたものから、宗教は迷信だと片付けている。そして、世の中の上に立って人々を導いているのです。これが、特に困るのですね。

ですから、今「回心」の原理を説くとするならば、現代の悪人とは何か、と言えば、インテリです。インテリ達が、賢し気に、様々の言説を言って、素朴な信仰を持っている人達を、むしろ悪い方向へ導いているのです。

インテリ達は、かわいそうです。と言うのは、特に、科学関係に携わっている人達、或いは、知識人と言われている人達、こうした人達が、大変な悪人になっているからです。

現代的には、悪人というのは何かというと、結局、神の御意を捩じ曲げている人達です。或いは、本当の世界を理解していないで曲解している人達、その世界観の理解を妨げようとしている人達、こういう人達が「悪人」です。「この世だけが全てなんだ」と言い切っている様な人達は、全て悪人です。

こういう悪人を、どうやって救うか、これを考えて頂きたいのです。

則ち、こういう悪人というのは、宗教的行為は、知的レベルが落ちる事だと思っているのです。そして、頭の弱い人達が、そういう迷信を信じる。そういう、百鬼夜行の世界、幽霊の世界、こういうのが霊の世界だ、と、これは、よほど知的に暗い人達でないと信じられない。或いは、土人達などの間にある信仰だ、と。或いは、また、日本でも、民度の落ちた二千年前や、そういう時には、土俗信仰もあっただろうけれども、現代の世の中では、そういうものは通用しない、と。こういうふうに、理論武装をしているわけです。

この理論武装を解く為には、あなた方も、また、徹底的に、知的な武装をしていかねばなりません。知識人が全く知らない様な「知の体系」を築いていく。論理的に矛盾のない「知的な体系」を築いていく。そして、理論武装している人達に伝えるべきです。

則ち、こういう事をあなた達は知っているか、あなた達の知っている知識というのは、三次元的知識ではないか、と。私達の知っている知識は、三次元を遥かに超えた知識である。その知識の中には、理路整然と神の世界が体系付けられ、整理され、說明されていて、何の矛盾もないのだ、と。

こうしたものを、やはり突きつける必要があります。そうすれば、彼らも反論は出来ないでしょう。反論する材料がないからです。三次元をもって、四次元以降は、反論出来ないからです。

まあ、色々な説もあるでしょうが、私は、現代の悪人というのは、知識人だと思います。ですから、この知識人達に、頭から一擊、衝撃を与える様なものを作っていかねばならないと思います。彼らに、回心、迴心をさせてやる必要があるのです。

彼らの持っている知識というものが、如何に貧弱なものか、如何に、脆弱な地盤の上に建っているか、これを、教えてやる必要があります。つまり、何も知らないのだ、という事を、知らしてやる。今の時代において、「ソクラテスの無知の知」ですね、これを教えてあげる必要があります。

(現代の、仏教系、キリスト教系、神道系の宗教人たちは、神仏の道を說く立場にありながら、ただ、この世での葬祭、儀式だけを主たる仕事として生活しているようではいけない、というようなこと)は、まあ、彼らの職業もあるでしょうから、私は一概には言いかねるのです。ただね、現在の「歎異抄」というものの一つには、まあ要するに、宗派が分かれ過ぎていますね、キりスト教にしても、仏教にしても、宗派が分かれ過ぎています。これは一つの問題だと思います。

仏教で、あれほど細分化して、この教えでないと救われない、と言っているのは間違っています。また、キリスト教でも、特定の宗派に属さないと救われないとかね。お互いに、クリスチャン同士でも、派が異なるからダメだ、と。或いは、新教の方でも、ルター派とカルバン派とは違うとか、或いは、また、カソリックとプロテスタントでは全然違う、とかいうのは間違っています。

違うのは、この世的な様式が違うだけであって、本質は一緒なのです。そこが、本当には分かっていない。だから、人種が異なるように、対立し合って、 けんかをしたりする。こういうのは間違っているのです。

結局、今、「歎異抄」を出すとすれば、つまりは、本当の信仰とは何か、ということを説き明かす必要があります。本当の信仰、純粋な信仰というのを説けば、宗派という垣根は消えていくはずです。純粋な信仰においては、一つなのです。同じです。宗派は人間が作ったものです。人間が作った垣根です。ですから、本当の純粋な信仰というものを取り戻す必要がありますね。

実際、あなた方が、現在、信仰するような対象というのは、もう、昔の様な、単なる人間的な神仏ではないでしょう。あなた方は、高級霊たちの働き、あるいは、あの世の仕組みを、かなり明らかにしております。ですから、あなた方の信仰の向かうべき所は、何か、というと、結局、宇宙的な知性、理性、宇宙的な「英知」こうしたものへの信仰となるでしょう。

そして、その中継役としての高級霊達に依頼する、という事だと思います。信仰の純粋さ、というのは、もっと強調されてもいいと思うのです。例えば、「南無阿弥陀仏」といいますかね、「念仏宗」というのは、ずいぶん批判されております。けれども、そのいいところは、要するに、小難しい理論をひねくり回すのではなくて、純粋な信仰という事を教えた、という所、これは、けっこう功績だと私は思うのです。

今現在、私は、天上界で、特には、地上のどなたも指導してはおりません。現在は、こちらの世界で、色々と勉強しています。まあ、今は、地上に「ルカ」も出ていれば、「マルコ」も出ている。また「聖ヨハネ」も出ているということで、私達は、ずいぶん関心を持っているのです。

こうして「神理」の実証を通して、キリスト教も(仏教も)、その中に流れるものは一緒なのだ、と、ただ、その神仏への接近の仕方が多少違っている(だけな)んだ、と。そういう事を分かって頂ければいいのです。

ですから、私達の教えは、先ほども言いましたように、「回心」の原理というものを一つ梃子にして、人々を悟らしめようではないか、ということで、私達は、あの時に、鎌倉時代に、教えを説いたわけです。ただし、それしかないわけでは、もちろんありません。

そういう「回心」をしたくなってね、生まれた時から着実な人生を送っている方もおります。それはそれで結構なのです。もちろん、医療でもそうですね、病人を治すにも、いく通りもあります。漢方薬もあれば、西洋医学もあります。そういうことで、色んなやり方があるのです。 教えとて、同じです。これしかない、というものではありません。

現代の真宗各派の指導は、まあ、かつて真宗の僧侶であった様な人達が、色々やっているようではありますが、それほどの高級霊が、今、やっているわけではありません。仏教界は、各派とも、改革の関門に立ち向かっているような状態ですね。

しかし、今は、宗教改革は、例えば、仏教界からは、なかなか出て来にくいですね。やはり、外部から出て来るだろうと思います。宗門の中でね、本願寺派の建て直し、だとか、そういう形では出て来ないものだと思います。つまり、枠を越えられないから、難しいのです。

とは言うものの、現代まで法灯を継いで来た、ということは、各時代時代において、多くの人々を仏縁に与らしめたという事で、その功績は大きかった、ということですね。意義があった、ということですね。

そういうことです。もちろん、それはそうですよ。やはり、或る、仏教なら仏教が批判をされて、堕落していると言われていますけれども、在るということは、やはり、常々、死後の世界が在る、という事を人々に教える、その契機にはなっていると思うのです。

もちろん(「回心」の対象には、インテリ層)以外の人もおりますよ。 ただね、昔の「悪人」というのを現代に当て嵌めたら誰になるか、というと、その辺ですよ、と。その辺の人達にね、念仏ではない 「宇宙の英知」を知る事によって救われるのだ、という原理を、教えてあげなければいけませんよ、ということです。

ですから、今「歎異抄」を言うなら、田舎の爺さま、婆さまでも、極楽住生できるのだから、ましてや論理的な教養を身につけた知識人達は、当然である、ということになりましょうかね。

ですから、まあ、「歎異抄」の原理でいけば、こうなります。 則ち、今、善人というのは、要するに、素朴な信仰を持って生きている人達、 お百性さんとか、田舎に住んでいる人達、こういうのが善人です。そして、こういう素朴な人達でさえ救われるのですから、ましてや、インテリの皆さんが、「悪人」の典型であるインテリの皆さんが救われない訳はありません、と。

神仏を認めようとしない「悪人」ではありますけれども、インテリという事で、すいぶん頭がいいから、きっかけさえつかめば、きっと救われるでしょう。田舎の人でも極楽住生するのです。単純な信仰心を持っている善人でさえ救われるのだから、ましてね、非常に知識のある、頭のいいインテリの皆さんですから、この事に気が付けば、当然、救われるのは間違いなしです。地獄へは行きません。極楽往生、間違いなしです。

そこで、インテりの人達に、これさえ気が付けばという、きっかけですな、「契機」を、あなた方が与えて上げねばいけない。こういうことですな。インテリの人達は、頭がいいのだから、極楽往生できることは間違いありません。

ただし、これだけは知っておきなきいよ、とね。その点を伝える。「唯円」の霊言さえ読んでおけば、極楽往生、間違いなしだと、こういう事を、あなた方は言わなくてはいかんわけです。

理論としては、合っているでしょう。知識人は「悪人」田舎の爺ちゃん、婆ちゃんは「善人」です。あんな何にも知らないね、この世の中を全然知らない、英語も知らない人でも、掌を合わせている中で、極楽往生できる。ましてや、悪人の典型である知識人達は、頭がいいのだから、いったん気が付けば、すぐ救われますよ、と。極楽往生、間違いなしとね 。こういうことです。

ですから、その「阿弥陀如来信仰」ね、「南無阿弥陀仏」が、一体何にあたるのか、これをね、現代の南無阿弥陀仏を、あなた方は発見しなければいけない。あなた方の「霊メッセージ集」を読んで、気付くかも知れない。知識人達は、何百、何千冊もの本を読むわけですが、そんなに読まなくて結構、この本一冊読んで極楽往生して下さい、と、これでもいいですよ。

則ち「霊メッセージ集」一冊が、昔の南無阿弥陀仏の念仏かも知れない。そういうことですね。ただ、知識人達は、自分を悪人だとは思っていないから、彼らこそ「悪人」だという事を、もうちょっと、分からせてやる必要があります。

まあ、真理を晦(くら)ましている人達なのですから、これは悪人ですよ。神の目から見れば、神理を晦ましているのだから。一方、田舎の人達はね、お天道様のお陰ですと、掌を合わせているのだから、こういう人達が天国へ行くことは確実ですよ。ところが、 何十年も学問や ってた人達が、「 神様などあるもんか」と言っているのだから、これは、馬鹿になる為に学問したのと一緒です。ただ、 そういう頭のいい人たちはね、きっかけさえ与えられれば、それを悟るのは早いはずです。

(現在の科学者、あるいは一般知識人は「唯物論」を信じ、ものごとの「価值」 が金銭、あるいは物量の多寡が基準になり、事業家、政治家になるのにも、金、また芸術作品もその価格で価值が決められることになっている、という様なことですが)まあ、それは、宗教を説く人にも金銭は関係しますのでね。これがないと三度の飯が食べられない。現代では、なかなか布教も出来ない。お布施だけで生きていく訳にはいかないのでね。現代では、宗教法人などでも、金銭と無縁でないことは周知のことです。ですから、この辺は難しい。非常に難しい所だと思います。

ただ、物質というものだけを取って見るならば、あなた方の理論によって「物質」というものは、実は霊的な存在であるということです。霊的な想いの、念が、物質化する事は、あなた方は、理論として既に説いているはずです。こういう事は、物質万能主義者たちには一つの衝撃であり、一喝になるであろうと思います。物質、物質と言っているようなものは、実は、そうじゃないんだぞ、と。まあ、奇跡の原理ですね。

ですから、本当の法則から言えば、この地上に現れているものは、一瞬にして 、蒸発した様に消すことが出来るのです。この世に現れているもの、石ころ一つ、空中に消してしまうことは簡単に出来るのです。そして、空中からパンの一個ぐらい出すのは簡単な事なのです。自由自在に出来ます。本来はね。ただ、そうすると、世の中が混乱する為に、私達は、そういう事をしないことにしているのです。しかし、本来は、自由自在なのです。

そして、昔の世界では、天上界の霊達が物質化して、肉体を持って地上に出て来たことも結構あったのです。昔はね。ですから、自分達を物質化する事ぐらいは簡単なのです。別に、男女、父母の縁で出て来なくとも、一時期、物質化して出て来て、地上を歩き廻る事ぐらいは簡単なのです。

私達は、幽霊よりも、もっとしっかりした体を造れるのです。昔は、よくありました。ただ、それは、やっばり世の中を混乱させるので、やらなくなったのです。昔は、よくあったでしょう、天狗様が来て、人をさらって行ったという話が。或いは、神隠しに遭ったとか。ああいう事は、実際にあった話なのです。

「天狗」というのは、まあ、あの世の霊人ですが、 そういうのが、物質化して肉体を持って現われ、この世の人を攫(さら)う。つまり、 霊力でもって、この世の人を、あの世へ連れて行ってしまうのです。肉体を、物質を分解してしまうのです。

実際、そういうことが出来るのです。しかし、そういう事をしていると、世の中が混乱す る。だから、近代になってからは、そんな事はしないように、との「禁止令」が出ています。

(メッセージの出版については)まあ、唯円は、どちらかというと、マタイよりは少し知名度が落ちる様ですから、内心、若干忸怩たるものが、私にはあるのです。まあ、あなたにもあるでしょうが、私にも内心忸怩たるものがあるので、少し気は引けるのですけれども・・・。(メッセージを出版して、紹介の欄に、マタイとしての名前を入れるのは)結構です。 事実、その通りなのですから。

実は、鎌倉時代の他力信仰、他力門はね、キリスト教系の人達の「転生」によって、一つの計画のもとに行なわれたのです。これは、天上界の秘密でもあるのですが、これは一つ、知らせておく必要があるし、あなた方にとっても初めての発見であったと思うのです。自力門と他力門とあるけれども、結局、他力門は、キリスト教系から多く来ていたのです。

話を聞いていても、喩え話の中に、キリスト教の話ばかり出て来るから、どうもおかしい、と思ったかも知れません。しかし、それもそのはずです。「阿弥陀如来信仰」というのは、則ち、イエス・キリスト信仰なのです。

しかし、私達も、在世中には、もちろん、その事に気が付かなかった。ただね、信仰というのは、魂の根深い所にありますから、なかなか抜けて来ないですね。 「阿弥陀如来」というのは、イエス様の、まあ、過去世、過去生の姿ですね。それへの信仰です。ですから「釈迦」の時代にも「阿弥陀如来」という方が西方浄土にいらっしゃる、という事が言われていたのです。

「阿弥陀如来」というのは、漢訳されていますけれども、「阿弥陀」とは、「アミーダ」という、西洋に生まれた光の大指導霊の事なのです。それは、則ち、イエス様の過去生の事を言っていた、という事ですね。

そういう背景をもとに、ここに、親鸞様、唯円、それから、一遍様、蓮如様、という四人が、四人、頭を並べて、枕を並べて、日本の、この時代に出て来て、何をどうしたかは、皆様のご判断に任せますけれどもね。ま、一つの、大きな使命だった、という事です。ですから、昔は、イエス様の様な、大きな方が出られたのですが、そうじゃなくて、親鸞様あたりを頭にして、皆んなで出て来たわけです。

ですから「真宗」系統の方が多いのでしょうが、一つ、キリスト教へも目を開いて頂きたいと思います。そして「親鸞上人のメッセージ」を読んだら、「キりストのメッセージ」を、続いて読んで、思想を深めて頂きたいと、こう思います。一緒なんです。 これしかない、というものではないのです。

あなた方も、これから大変ご苦労ですけども、一つ頑張って頂きたい。

まだまだ、こういうのも、一つの神理の発見なのです。どういう人がどういう考えを持っている、というのも、一つの神理の発見でして、大変ご苦労ですけれども、天上界の皆様のお声を地上に伝えていく、という仕事を、続けて頂きたいのです。

そうしているうちに、色んな問題点に気が付いて、あなた方独自のものも出て来ると思います。ただ、あなた方独自のものを出すにあたっては、そう焦る必要はありません。天上界の皆様の意見を、ご紹介するだけでも、 一つの大きな力ですから。

今後、大いなる指導者が出ても、こういうふうな「法」の集大成という事は、ちょっと難しいだろうと思います。あまりないと思います。まあ、こういう日が来る為に、キリストの弟子であった私達が、また日本に生まれて、そういう種を蒔いているし、そういう、日本という国を、将来、仏国土にする為に、様々な霊が、日本という国を浄める為に、先触れとして出て来たのです。

どうか、こういう話を通じて、宗教は一つなんだと、全て、一つの神から出て来ているのだ、という事を(他の人々にも)教えて頂きたいと思います。一つなのです。争いは間違っているよ、と。日本人と外国人が戦争する のも間違っているけれども、 宗教同士で戦争するのも間違っています。 ましてや、同じ宗門の中でね、 派を争うのは、大変な間違いですよ、と。これを、しっかり知って頂きたいと思います。

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