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イエス・キリストの生涯と我が人生、内村鑑三のメッセージ、1986年

2020年05月04日 | 宗教
先だっての聖徳太子のメッセージの中で、明治時代以降に、キリスト教を日本にもたらす計画があったことについて触れられておりました。その計画に基いて、当時の日本に降りられたと思われる方の一人に、内村鑑三がおられます。内村鑑三は、明治時代から昭和にかけて活動されたキリスト教の思想家です。内村鑑三の霊界からのメッセージがありましたので、その一部を掲載させて頂きます。カッコ内は補注、一部編集してあります。

(ここから)

内村鑑三です。今、現代の日本で、このチャネラーを通じて、様々な聖霊たちが、地上の人々ヘメッセージを送り続けているということを知りました。私も、この日本の地でキリスト教の復興のために一生を捧げた身でありますから、こうした機会を通じて、現代の日本の皆様に、そしてまた、現代のキリスト教徒たちに、心の教えを語ることが出来る機会を与えられましたことを、心から感謝したいと思います。

私の感謝は、現在生きていらっしゃる皆様に対してだけではなく、私にこのような機会を下さった、天にまします我が主、イエス・キリストに対する感謝でもあります。そこで、キリストの御光の中において、これから、私は、地上の皆様に、私に可能な範囲で、私が体験したこと、私が考えたこと、またクリスチャンたちに特に訴えたいことなどを、お話をしたいと思います。

あの世の、私たちが考えていることを、このような形で、地上の皆様に公表できるという機会は、恐らく二千年に一回あるかないかでしょう。こうした機会に、際会(さいかい)できたことは、私にとっても嬉しいことであり、このような形で、肉体なき私が皆様に言葉を伝えられるということは、これにまさる感激はありません。また、地上の皆様も、これから現前に繰り広げられてゆく、この奇蹟に対して、大いなる敬意を払うべきであろうと思います。

私たちのように、宗教家は、この地上を去っても、まだ、いろいろと悔いることが特に多いと言えます。ああしたら人々を教え導くことが出来たのではないか。こういうふうにしたら、もっと多くの人たちを救うことが出来たのではないか。こういう思いというものが、いつになっても絶えません。それは、近代に出た私だけではなく、数百年前、あるいは数千年前に地上を去った方々にとっても、同じことが言えます。つまり、宗教家にとっては、出来るだけ多くの病める魂たちを救うということが使命ですので、ここまでやればよいという限界がないからです。

そういう意味で、私が地上においてやリ残したこと、また、私の教えにおいて修正されるべきこと、こうした点について、皆様の前に、それを開示し、今、ご説明できるという機会を持てたことを本当に嬉しく思っております。

さて、私は、明治という時代に日本に生を受けて、明治、大正、そして、昭和の始めという三つの時代に渡り、活動する機会を与えられたわけです。

明治という時代は、非常な動乱期でした。徳川幕府という、三百年近く続いてきた体制が崩れて、新たな時代が始まる移り変わりの時であったわけです。古い価値観が崩れ、新しい価値の体系が出てくる、そういう時代の中で、人々は大きな期待を抱いておりました。イエス・キリスト誕生の時のようなメシヤ降臨の期待とは、もちろん別個のものでありますが、新たな時代が、これから開けてくるという期待、自分たちの力で新たな時代を作っていくことが出来るという期待、そうした、諸々の期待が、人々の間に渦巻いていたのです。

私は、そうした時代を選んで、この日本に生まれました。そして、私の一生の殆んどは、皆様ご存知のように、クリスチャンとして、生きたわけです。

明治の頃の日本を見てみると、維新の志士が活躍して、新たなる政治体制の確立ということに重点が置かれた、また、自由主義経済の萌芽の様なものが現われてきた、我が国に憲法が発布され、内閣制度がスタート、そして、天皇陛下の名のもとに、新たな国造りというものが生まれてきた。そうした時代だったと言えます。

天皇陛下を象徴として担(かつ)ぎ、旧幕府体制に代わるものとして置いたのは、それはそれでよいでしょう。しかし、日本人というのは、何かと精神的な支柱というものを欲しがるものだという事を、私はつくづくと感じました。

日本人は、昔の忠君愛国の精神で生きて来たわけです。つまり、封建時代の滅私奉公に始まり、お家大事(だいじ)、藩に仕え、藩主は、徳川幕府、徳川将軍家に仕えるという形での忠君愛国ですが、これは、まあ、儒教でしょうね。とにかく、儒教の影響を非常に受けたと言えます。しかし、時代が変わり明治となった。ところが、また、今までのものに代わる新たなる精神的支柱を欲(ほっ)したわけです。

とはいえ、その精神的支柱というものが何だか分からない。そこで、まず、天皇主義というのを持ってきた。単なる象徴天皇制ではない、実権のある天皇制ということですね。そして、天皇というものを、生ける神様のように奉(たてまつ)った。明治とは、こういう時代だったのです。

ただ、そうした時代に、天皇の復古主義というものは、まあ、昔からある主義でもあるし、こうしたものを新たな日本に取り入れる必要があるのか。むしろ、新たな精神原理というものを近代日本に打ち立てるべきではないか。そう考えて、私は、この地上に生まれて来たわけです。

内村鑑三の過去世は、預言者でした。今から二千五、六百年前ですから、ちょうどブッダがインドにおいて活躍していた時代と同じ頃に、古代イスラエルの地に生まれました。私が預言者として生きていた時の名は、エレミヤと申します。旧約聖書の中に、「エレミヤ書」というのがありますが、これは、私が預言者として、当時、神と呼ばれていた唯一の主から受けた啓示をまとめて、世に伝えていたものです。

現代に、今、チャネラーが受けているような啓示と同じようなものだと言えます。当時、私は、明瞭な形ではなかったとはいえ、霊聴というもので、主の言葉を聞くことが出来ました。そこで、それらを書きとめては、当時の人々に「主の言葉は、これなり」と説教して回っていたわけです。

当時は、バビロニアが攻めて来るというような、国の危難の時代でありましたから、人々は、邪宗、邪教を信じていたわけです。そこで、私は、人々に伝えたのです。そういう邪宗を信じていたら、必ずや国難が生じて、人々は苦しみを受ける、と。まず、外国の軍隊が攻めてくるであろう。軍隊とは、すなわち、バビロンの勢力である。ネブカドネザル王の軍勢が攻めてくるであろう、と。それのみならず、飢饉(ききん)、あるいは、蝗(いなご)などの害虫による被害も起きるであろう。諸々の天変地異に見舞われるはずである。こうしたことの全ては、人々の心が間違っており、正しい教えに帰依(きえ)していないがための、心の不調和から起きる結果である、と。

こういうことを、私は、伝え、語ったわけです。

現在では、怒りの神とか、神罰を与え給う神、などという表現は流行(はや)りません。しかし、二千数百年前という大昔のことですから、そうした形で訴えないと、人々は分らなかったわけです。日本でも、昔は、仏罰があたるとか、神罰があたるとか、よく言いました。では、具体的に仏罰、神罰というものがあるかと言えば、そういう形があるわけではありません。ところが、そうした方便をも使わねば、人々は理解できない時代だったのです。

「エレミヤ書」のなかで、私は、その万能の主、万軍のエホバが、人々に罰を与え給うという事を、ずいぶん言いました。現代の人々から見れば、時代錯誤的(さくごてき)であって、そうした怒り狂う神というものは、とうてい承服し難いものでしょうけれども、時代が時代であれば、そうした警告も必要だったということです。

諄々(じゅんじゅん)と法を説いて分かるような段階にある人間は、よほど悟っている人であるはずです。教えが広がって、心に余裕が出来ている時代でなければ、そういう人間は現われないでしょう。激しい国難が襲って来るような末世の時代には、そうした方法で、人々に教えを説くことは、なかなか出来ません。とはいえ、間違った教え、災難イコール危難だとする原始的な方法を、そのままにしておいたのでは、何よりも、人々のためになりません。

そこで、私は、本当の神の存在を信じていなかった人々のために、主として預言という形で、教えを説いたわけです。私の教えの中に、それほどの心の教えがあったかどうかは分かりません。しかし、唯一の神、エホバの神があったということ、あるということを人々に信じさせ、正しい信仰に目覚めさせるという、この一事のために、私は、数十年の人生を送ったのです。

このエホバの神の実体は、一体何者かということを、人々は不思議に思うでしょう。しかし、まあ、主としてエホバの神と言われていた実体があったのですが、はっきりした明瞭なものではなくて、本当は、複数の指導霊たちが、天上界にいたわけです。アラーとか、エホバとか言われていた、特殊な個性を特った高級霊もおりましたが、それ以外にも、イエス・キリストの、誕生前の生命、こうした者も、(エホバとして)指導しておりました。あるいは、仏陀の生命体も、インドで活躍していたけれども、時代が同時代でしたから、その生命体の一部は、また、イスラエルの地でも指導をしていたのです。

すなわち、こうした形での(霊界から地上を指導する)高級諸霊のことを、まあ、エホバと呼んでいたのです。そして、その中でも、特定な人は勿論いたわけですね。そうした、エホバにあたる高級諸霊もいたわけですが、必ずしも、彼だけの言葉、だけではありません。諸々の指導霊たちの言葉(がエホバとして語られていたの)です。

当時の人々には、そうした高級諸霊がたくさんいて、そうした方々が(それぞれに)いろいろなことを語る教えというのが(理解)不可能であったために、エホバの名を通じて語っていたわけです。現代の様に、時代が進んで来ると、日蓮の言葉であるとか、空海の言葉であるとか、あるいは、キリストの言葉であるとか、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の言葉であるとか、こういうことを言っても、人々が分かる段階に来ているけれども、当時は分からなかったわけです。まあ、そういうことで、当時の人としては、今流に言うならば、親神様が来て語った、というようなことであったのかもしれ知れません。

私が預言者エレミヤとして存在した時代から二千数百年たって、(改めて)日本の地に生まれ、内村鑑三として(地上で)肉を持ちました。しかし、生命体としては、やはり、主としてキリスト教系の光を身に呈しているために、私は、キリスト教というものを広めたわけです。

(キリスト教は)日本の地にも、鉄砲伝来の頃から、原始キリスト教の形で入って来てはおりました。西暦千四、五百年頃のことですね。ですから、皆さんも、天草四郎などと言って、バテレン、島原の乱などがあったということを知っているでしょうし、あるいは、細川ガラシアとか、そうしたバテレン信者たちがいたということも、知っているでしょう。あるいは、また、高山右近ですか、こういうクリスチャンもおりました。勿論、当時の彼らが知っていたクリスチャニズム、キリスト教というのは、ある程度、歪(ゆが)められたものではあったわけですが、ともあれ、そういう伝統が、既に日本の国にもあったということです。

しかし、それだけでは、ちょっともの足りないということで、本格的なキリスト教を、明治の日本に持ち込むべく出たのが、内村鑑三であったわけです。もちろん、同時代に出たのは、私ひとりだけではありません。他にも有名なクリスチャンたちが、数多く出ました。そして、日本の中では、内村鑑三、その弟子の流れで、矢内原忠雄とか、塚本虎二、こうした無教会派の流れというものがあったわけです。

さて、私の著書の中にも述べておりますが、私は、二つの「J」、このために一生を送りたいと願ったわけです。二つの「J」とは何か。ひとつはジャパン、すなわち、日本です。もうひとつの「J」とは、ジーザス・クライスト、すなわち、イエス様です。つまり、日本とイエス・キリスト、この二つの「J」のために、私は一生を捧げる決意をしたわけであります。

当時の日本を考えた時に、天皇という、生ける神を作ってしまって、その前に人々がひれ伏す、という考え、これに対して、私は、何とも承服し難いものがあったわけです。生きている人間が、高級神霊のエネルギーを呈して地上に出る、神の代理人として出るということは、勿論あり得ることです。しかし、神の代理人であるならば、神の代理人としての、やはり、それだけの使命と霊格を備えておらねばならんのではないか、と、こう思ったわけです。

新生日本において、本当の神のもとに人々が集(つど)うならともかく、たまたま、血族で、天皇家という所に生まれたがために、その人が神となるのは、これは原始の時代の宗教に過ぎません。ですから、近代における宗教としては、どうしても納得し難いものがあったわけです。

私が考えるには、人々が、その前で、ひざまずき、ひれ伏するに足る人、それは、やはりイエス様をおいて他にはないと思いました。ですから、このイエスの愛の教え、こうしたものこそが本当の教えであるし、また、日本人には、ない教えであろうと思います。

今まで、伝統的な日本の国を律して来たものは、孔子の儒教、すなわち上下の秩序を保つ、という教えでありました。あるいは、また、日本神道系における秩序の概念であったと言えるでしょう。

しかし、明治は、四民平等の時代です。つまり、全ての人が、神の子として、自由自在に活躍できる時代でした。そこで、そういう時代に必要な精神原理とは一体何であるかと考えるに、それは、やはり、愛の教えであろう、と私は思ったのです。

愛とは何か。愛の本質というのは、まさに、人間平等の思想なのです。人間に上下があり、主(あるじ)と臣下とがあるという考えでいったならば、そこにあるのは、一方的な愛の押し売り、上から下に与えるだけの愛、これでしかないと思うのです。

しかし人間は、全て神の子なのです。とすれば、神の子であるということにおいて、やはり平等であるべきだ、と、私は思うのです。平等であるとは、人間としての能力が平等であるとか、生まれ持っての性格が平等であるとか、経済力が平等であるとか、こういうことでは、もちろんありません。こうしたことは、あくまでも地上に現われた様々な顕現、態様(たいよう)の差異であって、神の子、人間の本質とは、また別のものなのです。ですから、人間は神の子であるということ、まず、これを認める。神の子であるという前提のもとに、平等であるということを認める。かくして、初めて愛ということが納得できるのです。そうではないでしょうか。

では、愛とは、一体何でしょう。もともと、人間は神から分かれてきた生命です。であるならば、他人と見えるものでも、これは他人ではなくて、本当は兄弟なのです。(創造主という)同じ生命、同じ親から生まれて来た兄弟なのです。そして、兄弟であるからこそ、人々は仲良くしなければいけないのです。この原理が、明治の日本には必要だと思いました。すなわち、それは、上下観ではなくて、平等観であり、横のつながりなのです。

では、平等であればいいのか。まあ、こういう考えもあるでしょう。それだけでは、もちろん、足りないことがあります。そのために、明治以降の政府は、しきりに学問というものを奨励しました。福沢諭吉さんという人を出して、「学問のすすめ」こういうものを、神様は書かせました。そして、人間というものは、天のもとに平等で、その努力によって報われる社会、そういったことを説かしたわけです。彼は宗教家ではありませんでしたが、そうした原理を説きました。福沢さんは、今、私がいる所と同じような所にいて、よく話をしております。

個人の努力、あるいは、その努力の差によって、様々な、社会における役割を変えていく。これは、機会が平等に与えられるということにおいて、本当の公平さだと思います。ですから、近代の政治、あるいは、社会の原理というのは、平等と公平、この二つの原理から成り立っていると思います。

平等の原理とは、愛の原理です。人間は、全て神の子で、愛し合わねばならない、という愛の原理。公平の原理とは、等しい機会が与えられた以上、その努力と努力の結果によって差異が作られていく。これが公平の原理です。ですから、一生懸命勉強した人が報われず、何も勉強しなくても、大金持ちの家に生まれただけで幸せになる、というような社会だとしたならば、どこかが、おかしいと言えるのです。ともあれ、明治以降の社会は、この、平等と公平の、二つの価値概念を中心に発達して来たと思います。

とはいえ、一方では、伝統的な秩序観、上下観というものが、何度も何度も繰り返して出てきた。この平等観、すなわち、人間は全て平等ではあるのですけれども、平等観のなかにも、ある程度の差がある。その部分ですね。では、その差として、生きている人間が認めていいものは何か。それは、はっきりと、神の子として地上に出て、人々を救っていった救世主イエス・キリストだと言えます。何人も、イエス・キリストの前には平等だ、と私は思う。しかし、天皇陛下のもとに平等かと言えば、問題がある。つまり、それは、血筋で決められた地位だからです。人間が作った偶像だからです。

しかし、イエス・キリストが、神の教えを、本当に地上に持っていらした人であり、その人格において、過去、最大の人格者であったということは、誰もが否(いな)めない事実でありましょう。ですから、手近に、その人の前にかしずき、その人の前にひざを折るというのならば、イエスに対する信仰を抜きにしてそれは語れない、と私は思います。

ここで、イエス・キリストの信仰について、少し触れておきたいと思います。

イエス・キリストは、今から約二千年前、ナザレという地に、貧しい家庭、大工の子供として生まれました。

幼少時から、様々な霊的能力を発揮し、教会などで説法することもありました。天使たちの声を聞き、姿を見る、というような奇蹟的な現象は、小さい頃から現われていたとはいえ、彼自身は、非常に努力の人であり、また、ずいぶん勉強した人でもありました。正規の学問は受けておりませんでしたが、当時の旧約聖書などを大変に勉強しておりました。ですから、イエスは、旧約聖書の様々なところを暗誦(あんしょう)するまで読んでおられた。そのことは、その教えの端々(はしばし)に出て来ています。

さて、イエスについて全てを語ることは出来ませんが、大切なことは、救世主としての自覚と、その預言についてだと思います。イエスの三十三年の生涯というものを振り返ってみると、まさしく旧約聖書の中に預言された通りの生涯であったといえます。

旧約聖書の中には、イスラエルの民の中から救世主が出て来る、ということが既に謳(うた)われておりました。今から三千二百年も前に、モーゼが、奴隷であったヘブライの民、すなわち、後のイスラエルの民を解放したように、イスラエル、このユダヤの地に、やがて救世主が現われる、ということは、イエス・キリストが生まれる、千年、あるいは、それ以上も前から予言されていました。私は、イエスの出る、約五、六百年ほど前に、肉を持ちましたけれども、既にその予言を知っておりました。旧約の預言者が次々に出ましたが、メシヤ降臨ということで、いろんな方が予言していきました。

ですから、イエスの三十三年の生涯というものは、千年ぐらいも前から計画されていたことなのです。たくさんの預言者が、様々な預言を残していって、ぎりぎりいっぱいまで、いろんな予言をしていたわけです。そして、特に、イエスが誕生する百年ほど前から、そうした、メシヤ降臨の思想というものが、かなり濃厚になってきました。

これを特に信奉していたのは、エッセネ派という、ひとつの宗派であったわけです。このエッセネ派は、今で言えば、まあ、ある意味での新興宗教のようなものだったと言えます。そして、昔のモーゼの法を奉ずる律法者たちというのは、今で言えば、仏教学者か、そうした者であったと思います。

今でも、そうでしょう。たとえば、仏教を例にとっても、禅宗、念仏宗、こうしたものをいろいろと現代にも伝えている者がいる。しかし、それとは別に、昭和期にも、様々な新しい宗教が、雨後の竹の子のように出て来ており、そうした新しい宗教の信者たちは、自分たちの教祖こそがメシヤである、というようなことを言っている。当時にも、いろいろなメシヤが出るということが予言されていたために、我こそはと、名のって出た人がたくさんおりました。名前こそ残っていませんが、我こそは、我こそは、といろいろに言っていたのです。

ちょうどイエスの時代に、神は、バプテスマのヨハネと後に言われた洗礼者・預言者を送りました。このヨハネが、イエスに先立って、様々な奇蹟を起こしていたわけです。ヨハネが、ヨルダン川の辺(ほとり)で、水によって洗礼を与えていた。これは史実にもあり有名な話です。では、バプテスマのヨハネの力とは、何か。

洗礼ということがありますが、結局、浄霊ですね、現在で言えば、浄霊をやっていたわけです。その儀式として水によって洗礼をする。こういうことをしていたのです。要するに、ヨハネは、悪霊に憑(つ)かれた人たちから、悪霊を追い出したり、そういうことをしていたわけです。

また、彼自身にも、様々な啓示が下ったので、それについて発表したりもしていた。そして、彼は、いずれ偉大な救世主が生まれる、ということを人々に告げ知らせたのです。すなわち「やがて、その方が来るであろう。私は、その方の靴の紐(ひも)を解く値打ちすらない。それほど偉大な方が来るであろう」ということを言っておりました。

また、ヨハネ以外にも、イエス・キリストが生まれる前の予言が、いくつか残っています。これが、聖書に出てくる、東方(オリエント)の学者たちです。つまり、オリエント世界の学者たちが、星の動きを見て、ベツレヘムの方に、どうやら救世主が生まれたらしい、偉大な星が現われた、と、こういう予言を、ずいぶんしておりました。このように、イエス降臨の前から、預言者たちは、様々なことをやっていたのです。すなわち、本当の救世主が出る時は、それ以前から、大きな胎動が起きるのです。ですから、それが、必ず予言として伝えられたのだと言えます。

イエスの時代には、イエス出現の予言があり、様々な予兆があり、そして、バプテスマのヨハネが出て、イエス・キリストの誕生を告げたわけです。

イエス・キリストの霊的自覚自体は、幼年時、七歳頃からありました。十代になると、いろいろな地、インドの方などへも行ったことがあったようです。あるいは、ペルシヤの方で修行したこともあったようです。あるいはまた、エジプトの方で、魂の永遠について学んだこともあったようです。ともあれ、そうした霊的修行を十代、二十代の始めにかけてしていたのです。

二十代のイエス自身は、まだ、自分の心を磨くための修行を随分やっていたようです。父親の仕事を手伝いながら、休みの日には、洞窟の中に篭(こも)ったり、山の中に行って、ひとり静かに瞑想していたようです。そして、心の中で、高級霊たちと会話をしていたようです。エレミヤとして、イエスよりも先に生まれた私は、当時、イエスに啓示を与えたことがあります。ですから、彼にしても、霊的修行はずいぶん積んでいたわけです。

そして、イエスが三十歳になった時、天命が下った。

「イエスよ、今、お前は、ヨルダン川の方へ歩いて行きなさい。そこで、バプテスマのヨハネに会うであろう。そこから新しい始まりが起きる。ヨハネは、お前が何者であるかを、人々に語るであろう。そして、ヨハネの前にいる人たちが、まず、お前の最初の弟子になるであろう。そうした弟子たちを携(たずさ)えて、お前は伝道に入っていきなさい。お前は、これから十二弟子に会っていくであろう」

こういう聖霊の預言が、彼の身に臨みました。そこで、彼は、その預言の通りのことを実行していったのです。その後、三十三歳の十字架までの物語は、あまりにも有名です。

救い主が十字架にかかって死ぬということは、旧約聖書で、すでに預言されておりました。すなわち、千年以上も前から、イエス・キリストのそのような人生が予定されていたのです。個人として見れば、不幸な人生であったかも知れません。しかし、それもまた、神の御業(みわざ)、神の人生の芸術、神の伝道の芸術、これが現われんがための奇蹟であり、そうしたドラマであったのだと思います。

わずか三年間の、キリストの伝道ではありましたが、人々は、この伝道の中に人生の神理を知り、二千年語り継がれる普遍の神理というものを見たわけです。このように、本当の教えは、教えの期間が長ければそれでよいというものではないのです。本当のものであれば、短くてもよい。ですから、そういう意味で、今、あなた方の、新たな教えも、ただ長ければいいのではなくて、その中に真実のものを説いていって頂きたいと思います。それが、本当の教えなのです。

イエス・キリストにしても、三年の(短い)間に様々なことを語ったために、同時代の人に理解されなかったという恨みがあります。また、私から見ても、ずいぶん本当のことを言い過ぎている、と思うことも多いと言えます。しかし、彼は、自分の時間がないために、全てを語ったわけです。彼にして時間があれば、もっといろんなことを言ったでありましょうけれども、なかったがために、彼は、あまりにも、はっきりと言い過ぎている。

「我はそれなり」ということをずいぶん言っています。「我はそれなり」とは何か。すなわち、「あなたは来たるべきメシヤであるか」と、こう問われて、「我はそれなり」と答えているわけです。今の日本では、「我はそれなり」と答えられる人というものは、なかなか、そう簡単にいるものではありません。しかし、イエスは、それだけの自覚を、はっきりと持っていました。実際、それは真理でありました。しかし、その真理がゆえに、彼は十字架にかけられたのです。「救世主なリ」と語ったがために、結局のところ、十字架にかかったのです。

ですから、もし、イエスが、「そうではない、私は、神のお弟子のひとりであって、ひとつの教えを説こうとしているだけである」と、こういう姿勢で言ったならば、おそらく十字架にはかからなかったでしょう。

「我はそれなり。我は救世主なり」と彼は、はっきりと明言した。それゆえに生命を縮めたのです。しかし、それも、また、彼の預言されたストーリーであったからです。私は、このイエス・キリストの勇気に対して、敬意を払いたいと思うのです。

内村鑑三の人生も、やはり同じでした。すなわち、「我はそれなり」でありました。「我はクリスチャンなり」「我はキリスト者なり」ということで、天皇陛下に対する不敬事件を起こしたこともあります。しかし、「我はそれなり」これは、私の信念であったからです。「我はキリストの僕(しもべ)なり。キリストの僕として、日本に生まれるなり。そのために一生を送るなり。天皇陛下のためにあらず」と、私は、はっきりと言いました。そのために、イエスに及んだと同じ災厄(さいやく)が、私にも及びました。ただし、私は、今だに、それを後悔しておりません。後の世の人々のためには、私が妥協しない人生を歩んだことは、よかったと思います。

私が、まず、あなた方に言っておきたいことは、「我はそれなり」という自覚、これが大事だということです。段階的に法を説いていく方便も、もちろん、大事ですけれども、「我はそれなり」との自覚が大事だということを知って頂きたいのです。そして、そのために、たとえ、どのような迫害を受けようとも、「我はそれなり」という、この気持ち、この気概、これだけは忘れないで頂きたい。

これをもって、今回の話を終わりといたします。ありがとうございました。

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