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我が伝道を回顧する、イエス・キリストのメッセージ、1985年

2020年06月07日 | 宗教
前回に引き続き、キリストのメッセージをご紹介します。前回のものから、数年後に、やはり同じチャネラーに語られたものです。

キリストが、地上での伝道を振り返って、至らなかった点を回顧されています。救世主が、どの様な目標を抱いて、地上での活動をされるものなのか、細かく語られていて、興味深いものとなっています。元はインタビューですが編集してあります。カッコ内は補注です。

(ここから)

イエス・キリストです。

もう四年近く、私は、あなた方(チャネラー)と話をしておりませんが、いま、こうして機会も熟し、また話し合える機会が出来たことを嬉しく思います。

私は、あなた方の指導霊なのです。だから(仮にも)あなた方の出来が悪いということは、私の指導が悪いということ(になる)のです。あなた方の学習、あなた方の行動、あなた方の「法」も、その出来具合は、私自身の出来具合と、絡んでいると思って頂きたいのです。あなた方を離れて、私があるわけではないのです。

私は、あなた方と一体です。そう思って頂きたいのです。全く別な人間で、高所から、あなた方を見下ろしている人間だと、思って頂きたくないのです。

私も、あなた方の仲間です。あなた方を指導する霊たちの最高指導霊は、私だということです。あなた方の、今回の計画の、指導の(霊界での)最高責任者の立場にあるのは、この私です。

どうか、そのことを忘れないで、あなたの兄や、あなたの先生や、あなたの父親に聴くようなつもりで、私に聴きなさい。私の言葉は、多少厳しいかも知れないが、あなたの父や、兄に聴くようなつもりで、私に聴きなさい。それでよろしいのです。

余り、将来のこと、悪いことや、不自由なことばかり想像しないで下さい。私たちは、大きな眼で見ていますが、もちろん、あなた方にとって必要なものは、既に用意されているのです。あなた方が、心の中に思い浮かべ、希求し、要求する前に、私たちは、あなた方の必要なものは知っており、既に用意しているのです。

祈りも、願いもいらないのです。あなた方が希(こいねが)う前に、私たちは、あなた方に必要なものは知っているのです。その必要なものは、(既に)用意されているのです。その必要なものが、あなた方にとって、適切な時期に、その時機、その時機に与えられるようになっているのです。

曲り角、曲り角には、ちゃんと道案内を置いてあります。どうか、そんなことは悩まずに、色んな方々も、お教えしたと思いますが、今、あなたに出来ることは何か、という思いで、一日一生の思いで生きて行って頂きたい。

大きなことに関しては、私に任せなさい。あなたに解決のつかない問題については、例えば、私の名を呼びなさい。私の名を呼ぶ前に、もう私は、あなたの必要なものは知っているのですが、あなた(自身)の心を休めるために、私の名を呼び、私に祈りなさい。全て、問題は、私に頂けなさい。

よくよく考えてみてください。あなたの悩みや、不安は、あなたの心の中の想像だけで出来ているものが大半です。そうでしょう。過去の自分を振り返ってごらんなさい。色んな時点で悩み、苦しみました。でも、今の時点で振り返ってみれば、全て、素晴らしい経験となって来ておりますし、ここ四、五年の「正法」の伝道の経過は、全て、私たちの言って来た通りになっているのではないですか。

私たちは、最初、何年間かは準備期間だといいました。そして、あなた方は、その通り、学習に励みました。

そして、やがて、本の出版がされる、と、私たちは言いました。その通り、いま、眼の前に、本が出版されています。やがて、何冊も出る、と私たちは言いましたが、その通りになるでしょう。

決して、あなた方を酷使しないように、適当な時期を見計らいながら、次々と使命を与えているのです。

つまらない悩み事は、私に預けなさい。「この悩み、イエス・キリストに委ねん」と申しなさい。そうすれば、あなたの悩みでは、なくなります。

さて、今日、私をお呼びになったのは、色んなことをお聴きになりたいということでしょう。あなたご自身は、自分の過去、あるいは、現在の心境を振り返って、自分には、私と話をするだけの力も資格もないと、いま思っていますが、私は、そんな、こわい存在ではありません。

あなた(質問者)とは、昔から、何万年も何十万年も前から、様々な機会に、正法伝道に協力してもらった仲間であるし、また、ここに居る者(チャネラー)とは友達で、いつも、交互に、世に出て来ては法を説いて来た仲です。

ですから、そういう親しい間柄だと思って、何を聴いて頂いてもよいのです。あなたを苦しめたり、いじめたりするつもりは全くありません。あなたが話しにくければ、私が一方的に語ってもよいのですよ・・。

偉大なる方々が、次々と出て来られて、お話をされておりますので、特に私が、どうこう言うことはありません。今回、あなた方が書物を出されるについて、キリスト教系の霊言集も、また、作らなければいけなくなって来ますので、詳しくは、そちらに、お載せになったらいいかと思います。まだ読者の意識が高まっていない時に、余り難しいことを言っても、とても従(つ)いて来ることは出来ません。

(ここから、質問に答えている)

個性とか、特色というものは、一概に悪いものではないのです。キリストの教えには、キリストの個性なり、特色があり、仏教には仏教の個性があり、特色がある。個性や特色は、現界でも、全ての面で、あることで、特色や、個性のないものが、必ずしもいいわけではありません。

キリストの教えは、全てを覆ってはおりません。全てを説いてはおりません。キリストの教えは、キリストの教え的なキリストの教えです。けれども、そういった特色も、また大切なものであって、例えば、七色の光によって虹が出来ているように、色々な光があって(こそ)本当の神の姿が浮かび出て来ます。

私たちは、赤い光か、青い光か、白い光か、それは存じませんが、一つの光、一つの色であるということです。一つの光線なのです。

イエス・キリストという人間を通して、この地上に注ぎかけた、例えて言うなら、白い色の光線が、キリストの教えだということで、例えば、ゴータマ仏陀釈迦牟尼仏を通して、黄色い光線が、この地上に放射されたように、イエス・キリストという人間を通して、白い光線が、この地上に放射されたのです。

他にも、赤い光線や、青い光線があるのです。ですから、私は、特色あり、個性あることを、必ずしもいけないものとは申しません。

ただし、これは、まだ、全地球的な宗教としての特色までは持っていないものであって、さらに、今後、発展の余地のあるものだと思っております。

キリストの教えで、一番欠けているものは何かというと、一つは「転生輪廻の法則」です。必ずしも(それがある事を)否定はしていません。私の(生前述べた)言葉の中で、(また)聖書の中に(ある記述に)も、人間が生れ変わるらしきことは述べられておりますが、明確に転生輪廻ということは打ち出しておりませんために、この転生輪廻というのが、あるクリスチャン達にとっては異教の説、異端の説というように思われております。

私は、(生前)こういったことを答えたことがあります・・。「我は、アブラハムの生れぬ前より在るなり。」ということを、私は聖書の中(にある言葉)で語っているはずです。

当時、私は、インマヌエルという名前で称ばれておりましたが、インマヌエルという、肉体を持った人間の、生れる前の私が、あったということです。そういう意味で、転生といいますか、輪廻といいますか、そういうことがあるということは、言外に示しているわけですが、明確に(は)私は転生輪廻ということは説きませんでした。

一つには、考えて頂きたいのですが、当時の、死海の辺(ほと)り、シナイ半島の砂漠と砂漠の中の、ささやかな村で、漁民とか村落の人々を相手に、私は法を説いていたのであって、彼らにとって必要なことと、そうでないこととがあるのです。

法は、広大無辺なものですが、ある程度、その語られる相手によって限定されなければいけない。彼らにとって、その転生輪廻が、そんなに必要なことであったかといえば、必ずしもそうではなかったということです。

そういうことで、私は(転生輪廻を)明確に(は)説きませんでした。

転生輪廻というものも、正しい知識(を与え、理解させた、そ)の上に説かれたならば、これは大変有益なことですが、例えば、人間に転生輪廻があるなら、人を殺したってかまわない、いくら殺したってかまわない、こういった論理もあるわけですね。人間は、永遠の生命を持っていて、生れ変わることが出来るなら、人の一人二人、殺したところで、大したことではない。こういった考えも出来るわけです。

ところが、当時、私は、こう言いました。

「殺すなかれ、姦淫するなかれ」

そんなことを申しました。

それは、転生輪廻を説く前に、当時は、殺人とか強盗とかが多かったものですから、人を殺すということ、それ自体が悪である、ということを教える必要があったのです。

このように、「法」は、例えば、私たち(自身)の悟りの段階は、非常に高い悟りを経ていたとしても、当時の、それを聴く人々に合わせた所までしか、語ることは出来なかったのです。

例えば、いま、私は、あなたに語っております。あなたには失礼かも知れないけれども、あなたに理解できる範囲のことしか、私には語ることは出来ないのです。

あなたの理解を超えたことが、私たちの世界にはあるのです。大変なことがあるんですが、それを語ったところで、あなたの肥料にも栄養にもならない。こういったことについては、残念ながら、言うことは出来ません。

かつて正法を説いた人達も、そうです。

例えば、ソクラテスという人がいます。この人自身は、書物は少しも残してはいません。

弟子に、プラトンというような人、クセノフォンというような人がいて、彼の言行録を書き留めました。

そうした弟子がいて、初めて、師の偉さが分かるということがあり、弟子が、それなりの魂であったから、師は語ることが出来たのですが、弟子がいなければ語ることも出来ず、心の中にしまっていたことも多いし、あるいは、弟子の理解できる範囲以上のことは語れなかった、ということもあるのです。

あるいは、中国には、孔子という人が生れました。孔子という方も、自分では書物は残しておられません。

孔子の考えたこと、喋ったことが、彼の弟子達によって書物になって残っております。それが、孔子の思想と申しますか、儒教になっているわけですが、これも、弟子達が理解できる範囲までの、孔子の姿なのです。

孔子自身は、もっと高い悟りを持っていたでしょうが、弟子たちが判ることまで、しか言えなかったのです。

同じことは、釈迦についても言えます。釈迦の理解した深遠な思想は、弟子の誰ひとりとして、理解することは出来なかったのです。ある人は、八合目まで、ある人は、五合目まで、理解することが出来た。(けれども)全ては説けなかったのです。

いつの時代でも、そういった不利はあるのです。失礼ながら、あなたに対しても、私は全てを語ることは出来ないし、あなたが訊くことが出来ることは、あなたが理解できる範囲でのイエス・キリストでしかないのです。

ですから、この私の言葉を、人々に伝えるにしても、これは、あなたというフィルターを通して、あなたの理解できる範囲でのイエス像である、ということを断わっておく必要があります。

話は、それましたが、先ほどの質問に答えて言うならば、キリスト教に、いま、欠けている点は「転生輪廻」の法です。

(私がキリストとして地上に下りた時の教えで欠けていた)第二の点を申し上げます。それは、天国と地獄の思想の、もう少し正確な、理解、描写が必要であったということです。

これも、第一点と絡みますが、当時の人々の理解程度を超えていたために、単に、天の父と、あるいは、天国というものがある、ということを私は申しましたが、当時の意識レペルが現在のように進んでいないために、例えば、四次元があり、五次元があり、六次元がある、というようなこと、こういったことは、とても説くわけにはいきません(でした)。

天に父がある、と言っても、人々は、空を見上げても誰も見えない。そんな人は、いるだろうか、と思うのが精一杯でした。だが、私たちとしては、天とか、天の父としか、主を言うことが出來なかった、ということです。

こういった、言葉、あるいは理解に限界があったために、私は、天国について詳しくは語りませんでした。

また、地獄についても然りです。地獄について、仏教の方では、かなり詳しく説かれておりますが、キリスト教においては、仏教ほどではなく、簡単な地獄論しかありません。

また、私の教えが、間違ってとられている点は、例えば、生きている人間は、もし、キリストによって救われれば、永遠の生命を得て、天国に入って永遠に生きることが出來るけれども、キリストを信じないで、間違った教え、あるいは間違った考えのもとに死んで行ったら、永遠に、地獄の業火に焼かれて、生命を失ってしまう、というような考えをしている人も居るのです。

これは明らかに誤っていますし、他の諸霊の方々が語られたことで、もう(この)書物を読まれる方々はご存知と思いますが、そういったものが地獄ではない、ということ、地獄というのは、人々の、その人その人の心の段階に応じた、心の状態に応じたものである、ということ、こういったことは、もう、あなた方にとっては自明のことになっておりますが、当時の私は、明確には、そのようなことは説きませんでした。

ただ、殺すなかれ、盗むことなかれ、姦淫することなかれ、という、モーゼ的な教えの中に、では、それを犯せばどうなるか、という意味での、罰というもの、これを、ある程度言っておかなければ、当時の人々には分りませんから、地獄の業火で焼かれる、という、こういった比喩的な表現を、私はしたことがありますが、詳しく、学問的に、科学的に、地獄を説明するということは出來ませんでした。

これが、私の、時代的な限界でもありました。転生輪廻が欠けていたということ、それから、天国、地獄の構造論的な説明が出來ていないということ、これが(現在に至るまでの)キリスト教の、二つの欠点です。

(また)第三の欠点があります。それは、悟りの方法についての理論、が欠けているということです。

例えば、仏教では、悟りに至るための方法論が、随分と研究されています。その段階は、非常に難しいですが、釈迦は「八正道」を通じての悟り、ということも説かれました。

また、釈迦の弟子たちには、色々な方法がありますけれども、例えば、密教系の方々は、密教の修法の中での悟り、低い段階ですが、こうした悟りという方法を研究されましたし、あるいは、禅宗では、禅という修法を通じて悟りに至る方法を、いろいろ考えられました。

そうした、悟りということが、また悟りに至る方法が、明らかにあるのですが、これを、キリストの教え的に充分に説くことが出來ていないのです。

もちろん、愛を行うことは、悟りへの一つの段階です。ですが、人を愛するということ、神を愛するということ、これは本義ですけれども、悟りということとの関わりで愛を説き得た、とは必ずしも私は思わないのです。

人間は、(その人の)心の段階に応じて(それぞれが)「神」に近付いていくのですが、そうした段階論的な説明を、私は、しておりません。

まず、心より、心を尽くして、主なる神を愛せよ。第二に、汝の隣人を愛せよ、こういったことを、私は申しました。

けれども、これは、悟りに至る段階としての「法」ではないはずです。が、あなた方が、現に、ご存知のように、人間には「悟り」の段階があり、それに至るための階梯(かいてい)というものがあるわけです。これを、もっと緻密に説くべきだった、と思われるのです。

例えば、あなた方もご存知ですが、仏教の言葉では「アラハン」と申しますか、阿羅漢ですね。五百羅漢といわれますが「阿羅漢」の境地というものがあります。これは、仏教を学んで、正しく精進をして、誡(いましめ)を守り、人々に布施をし、そうした姿ですね。

自分の欲を断って、戒(いましめ)を守って、人々に対して「施(ほどこし)」をする。こういったことをしていると、例えば、アラハンの境地に達する、こんなことが言われています。

このアラハンの境地というのは、もうこれは、仏教の方面の方に、ご説明を受けたほうがいいかと思いますが、門外漢の私が語ると、間違っているといけませんけれども、悟りの第一段階ですね。″アラハン″の境地に達するということは、あなた方が、守護、指導霊と交流を始める、という第一段階です。

このアラハンの境地に達しますと、ある程度の霊的な力を得て、守護霊の導きなどを、かなり直接的に受け入れることが出來るようになります。この、アラハンの境地というのを、私たちの世界に引き合わせてみると、いわゆる六次元の世界です。あなた方が「神界」と言われているところです。広義には「天界」ですね。

「霊界」には、地獄界と、普通の人が行く霊界、それから広義には、天界、というのがあって、ここは、いわば優れた人々の行く所、神様、神に近い人々の(地上を離れた後に)行く所ですけれど、天界の下段階といいますか、あなたが「神界」と称んでいる世界があります。日本神道的に言えば、「八百万之神々(やおよろずのかみがみ)」の世界ですが、ここには、人間生活において、有徳な方で、神と祀られている方も入っております。

この六次元世界、この世界と心が通じるようになる。これがアラハン、阿羅漢、の境地です。これが、まず神界との交流、神界上段階の「諸天善神」と言われる方々とも、交流が可能になる段階です。こういう悟りの段階があります。

次に、その上の段階。アラハンの上の段階があります。これは「菩薩」と言われています。アラハンに至るためには、小乗でいいのです。小乗、要するに、己れを修めて悟るのが、アラハンです。小乗的な悟りです。

この上に、大乗的な悟りがあります。これが「菩薩」です。菩薩の道です。これは、衆生済度、多くの人々に愛を施し、多くの人々を救っていく、という、普遍的な愛の心。こういう、他人に対する愛に目覚めて行動する境地が、菩薩の境地であり、私たちの世界では「七次元」に住むための、必要条件になっているわけです。

ですから、天界と申しますか、神界に入って行くためには、(まず)小乗的に、自らを磨いて、悟らなければいけない。その次の段階は、大乗的に、他の人々を救っていく、という行動を起こしていかねばならない。こういう段階があります。

小乗を経ない大乗はありません。自らが悟っていないのに、他人を救うことは出來ないのです。自らが悟っていないのに、他人を救おうとすると、これは、大変な落とし穴に入ってしまいます。

それはそうでしょう。自分が悟っていない宗教指導者たちが、人々を導こうとすると、これは、人々を間違った方向に導いていって、地獄に堕ちてしまいますね。これは、いわゆる、小乗、大乗の順序を、間違えているからです。自ら悟って、初めて人を救うことが出來る。これが菩薩の道です。こういった段階があります。

この時には、人々は、かなり(な程度で)愛と慈悲の境地に達して来ますが、まだ、少しは、自分を飾る気持があります。菩薩の気持の中には、まだ自分を「是(よし)」とする気持があります。今様に言えば、エリートとしての気持があります。神の使徒としての、エリート意識があるのです。自分を飾る、という気持があるのです。自分の、名声とか、評判、あるいは、徳というものに惹かれる心があります。

例えば、仏像を見ますと、観音様とか、その他の、菩薩の方々が、ダイヤモンドとか、ネックレスとかいう、色んな物で飾っておられますね。ああいうふうに、未だ、自己愛が、残っておられるのです。

菩薩の段階には、優れた意味ですけれど、自己愛と、他人愛との、両方が共存しております。

ところが、さらに、上の段階の、如来界に入りますと、これは「八次元」といいますか、そういった段階ですね。ここへ行くと、例えて言えば、大きな宗教、世界的な宗教の教祖などが、如来界の人間ですけれども、如来界の人間というのは、もはや、自分を飾る気持はなくなっていって、神との一体感が、非常に強くなって来ているのですね。

菩薩の境地は、まだ、神の使徒として働いている、という気持が強いのですが、如来の境地になると、神と自分が一体である、という気持が非常に強いのです。

自分は神の一部であり、自分の中に神が在る、という気持、こういった気持が非常に強いのが、如来界の人間です。如来界とは、どういう世界かというと、悟りの段階において、神と自分とが一体となっている、ということなのです。

これは、充分に、宇宙の理法に通じている、ということです。

菩薩は、人を救い、人々を導き、正しい道を歩ませる、という実践活動に打ち込んでおります。如来は「法」そのもの、法とは何か、神法とは何か、宇宙を司る理法とは何か、こういった天界の秘義を与えられている。授けられているのが、如来であって、菩薩は、これを説くことは、まだ許されておりません。

これは、自らが悟っていないことを、人々に説くことは、人々を問違って導くことになるからです。

このように、如来の悟りは、神と一体である、という意識と、同時に、宇宙の理法を知っている、ということ、これを説くことが許されている、ということ、これが必要(かつ)十分な条件なのです。

さらに、この上の段階があります。あなた方が「宇宙界」と称んでいる、あるいは「太陽界」とも称んでいる「九次元」の方々がおられます。こういう方々になってくると、地球意識から、宇宙の一員としての自覚を持っておられる方々です。

例えば、地球という星に人類が転居して来た時に、その人々を導いた方々、あるいは、地球から、やがて他の星に移って行く時にも、人類を導いていかれる方々、あるいは、神の宇宙計画の中で、地球が、いま、どの程度の進度にあって、どういう立場、役割を果たしており、他の惑星の進歩具合との兼ね合いにおいて、どういうことを成さねばならぬか、ということを考えておられる方々がいます。これを宇宙界といいます。

これを、余人に説くのは無理ですが、彼らは、直接、地球上で、そういった法を説くことはありませんけれど、そういった方々もおられます。その中には、あなた方の知っておられる方もいらっしゃいますが、大部分は、あなた方のご存知ない方々です。あまり地上に出られない方、そういうことになります。

こういった、悟りの段階に応じた天上界の仕組み、というのがあるのですが、私は、それについては、殆んど説いておりません。まあ、そういった第三点として、悟りに応じた天上界の仕組み、悟りということの構造、を語らなかったということ、これが、キリストの教え、における欠点の三点目です。

第四点目としては、神とは何か、という本義が、充分に説明されておりません。私は、神について、ある時は「父」と言いました。そして、自分のことを「子」と言いました。こういった、比喩的な言葉でしか語ることが出來ませんでした。

「神」とは(本来は)そういった人格神ではありません。神は、もちろん、宇宙の造物主であり、我々の上に、例えば、太陽界、銀河界を司る神霊がおりますが(それは)銀河界を司る神霊よりも、更に大きな神、大きな力を持った神ですから、私にしても、(そうした)神を、直接には把えることは出来ないのです。だから、私は、そういった意味での神を、当時の人々に説くことは出来ませんでした。

そして、人間といいますか、人格的な「神」を説きました。キリスト教にいう神が、人格神のように言われている所以(ゆえん)です。けれども、神(というものの真相)は、人格的な一人の神がおられるわけではありません。私の、上の段階にも、私よりも優れた方もおられますが、これは、まだ、人間霊としての性格を持っておられる神です。他にも、太陽系を司っておられる神もおられるし、銀河系を司っておらわる神もおられ、まだまだ上に、いろんな神様がいらっしゃいます。

私の理解出来る範囲は、まだ、そこまでですが、その上にも、もっと高い次元における神が、いらっしゃるはずです。そういったことを、本来ならば、はっきり言うべきですが、「神」という言葉が、非常に人間的に使われているために、後世、誤解を生んでいると思います。

ですから、キリスト教の、一神教と言いますか、人格神に対して、例えば、日本の神道が多神教であるとか、ヒンズー教が多神教であるとか、後世の人々に、こういった愚かな議論を、させるようなことになってしまったのです。

ヒンズー教とか、あるいは、日本神道糸の神々というのは、「優れた人々」、高級霊という意味であって(霊界において)「諸天善神」とか、「菩薩」とか、「如来」とか言っている人霊であって、本来の神を言っているのではありません。それは、私についても同じことです。

(私は、聖書に書かれた時代に、地上で)父とは言っていますが、その父と言っているのは、本当は、造物主ではなくて、私の上に当たる方、のことを言っているのであって、その辺の理解が足りないために、一神教を採るか、多神教を採るか、というような、つまらない(水掛け)議論が、後世、人々を巻き込むようになったのです。

これが、大きな説明不足の点であろうかと思います。ですから、キリスト教では、三位一体とか、私が神の一人子であるとか、そういう無益な議論が横行することになったと思います。これは、こういった世界を知らない方が議論しているのですから、やむを得ないのですが、父と子というのは、私より優れた方が天上界にはおられる、ということを意味していますし、父がいらっしゃる、ということは、私は、単に、その子、という意味ではなくて、私も、一つの神霊、神の分け御魂である、という意味では、確かですが、ひとり子(という意味)ではありません。

私と同じような力を持っておられる方、それは、モーゼもそうですし、釈迦もそうです。他の方、日本では、天之御中主なども、私と同じような力、似たような力を持っておられる方です。そういう方々が、いらっしゃるわけです。

そういう意味において、一人子、ということは、間違っております。また、父と子と聖霊、三位一体、などと言っていますが、こうしたことは、もう当然のことであって、神の魂、神の力の一部が、例えば、キリストと称ばれた、私イエスの中に流れており、一般の、普通の人の、心の中にも、もちろん、神は住み給うのであって、三位一体などは、あえて言う必要もなく、全てが神の顕現なのです。

神の顕現の態様が、若干、変わっているだけです。

神の顕現が、例えば、大学生レベルで現われている、これが高級霊ですね。それが、高校生レベルで現われたら、やや高級霊です。中学生レベルや小学生レベルで現われることもあるのです。

色んな現われ方があって、全て、神から岐れて来ていて、その現われ方が違うというだけなのです。

ですから、三位一体ということ、こんなことは当たり前のことであって、あえて三位一体がどうのこうの、と議論するような問題ではありません。

以上、私は、第一点「輪廻転生の法則」を説かなかったということ、第二点「天国と地獄の構造論」について説かなかったということ、第三点「悟りの段階構造」について、第四点「神と子の関係、神と他の高級霊の関係」について、それぞれ詳しいことを説かなかった。こういう欠点が(現在に繋がる)キリスト教には(根本的に)あるということです。

第五点としては、他の宗教とキリスト教との関わり方について、不充分な点がある、と思います。例えば、ユダヤの神、と、私の言っている天の父、とが、同じものなのか、違うものなのか、これが、私の弟子達には、定かではありませんでした。あるいは、ユダヤの神だけではなくて、他の、インドでも結構ですし、他のヨーロッパでも結構ですが、異教徒の神と、私の信ずる神とが、違うのか、同じなのか、そういったことが問題となって、後世、異端とか、異端裁判とか、様々な過ちが出ております。これも、やはり、私の説くことが出来なかったことです。

もはや、あなた方は、知っておられますが、神のお考えというのは、この地球計画において、ある時は、ギリシャに光の指導霊達を出し、ある時には、インドに光の指導霊達を出し、ある時には、古代中国に、孔子や、孟子を始めとする光の指導霊たちを出し、ある時は、イスラエルの地に、私たちを中心とした光の指導雲を出す。こういった神の計画のもとに動いているのですが、まだ、私の、当時の教え方によれば、私が信じている、天の父、神と、他の神々との違いがある、というような、そういった説き方(になってしまっていた面)があったと思うのですね。そういう意味で、異教徒というか、「正法」の、本来の計画、伝播の仕方について、正法が、時代、地域の変遷を経て(それぞれに)説かれるものだ、ということ、こういったことに対する説明が、足りなかったと思います。

だから、後世の人達は、私が、神そのものであるか、神の顕現であるか、のように言って、例えば、キリスト教が生れぬ前は、神などなかったような言い方、ですね、そういった言い方をしている方が、非常に多いわけです。これが、非常に害悪を及ぼしたことを、私は反省しております。

私が生れる前にも、神はおられ、神の説かれた法は、この地上に生れていたのです。顕現態様は違いますが、生れていたのです。そういう意味で、異教とキリスト教、という対比を、明確にし過ぎた、ということ、これは、私の過りであったと思います。

やはり、全てが同じものではあるけれども、いま、神(霊たちの中)の、一人の指導霊として、私が地上に肉を持ち、説明をしているのだ、という明確なことを言うべきだったと思います。一人子という思想とか、一神教、私の神だけが神である、というような思想を持ったために、他の宗教を信じる方々を傷つけることが、ずいぶん多かったはずです。そういうことを反省しております。

第六点として、やはり、(自由な時代に生きている)あなた方とは違って、当時の時世による制約もありますが、「正法」の形成そのものに、充分な段階を追って(時間をかけて)やれなかったということです。本来ならば、私は、もっと長い期間、色んなことを教えて、人々を段階的に導いていくべきであったかも知れません。あるいは、釈迦のように、最初は、小乗から説き始めて、段々に大乗へと移っていく、そういった段階的な指導(の仕方)があり得たかも知れませんが、私の(地上を去るべき)時は迫っていたために、三年間という短い期間の間に、燃焼してしまいました。そのために「法」そのものを、非常に残念ですが、構造的に、体系的に述べることが出来なかったと思います。

だから、第六点として、私が反省すべきこととしては、やはり、正法、そのものは、段階を追って、順番に、体系化していく、というような準備が必要だということですね。一人出て、ラッパのように吹いたところで、広まるものではありませんし、非常に(受け取る側の)誤解が深いのです。

ですから、私は、十二使徒といって、弟子を何人か養成はしましたけれども、もっと計画的に、色んな教えを説いて、弟子たちをして、更に、教えを説かせる、というようなことも可能であった、と思うのですが、弟子達を早死にもさせましたし、ずいぶん気の毒なことをさせてしまった、と思っております。

そして、私の語った言葉自体も、いま、聖書という形で残っておりますが、非常に不充分な形で残しました。その辺も、もっと、生きていた時に、充分に注意を払って、確かなものを残すべきであったのだと思いますが、弟子達は、私が、僅か三年で死ぬ、とは思っていなかったものですから、後で、慌てて、うろ憶えで書いているわけです。もっと、私が、長生きするか、あるいは、三年で死ぬ、ということを明確に言っておいて、しっかりした記録をとっておかせたら、私の思想も、もっと正確に残ったかも知れません。

以上のように、第六点としては、体系的な「正法」を組むことが出来なかった、ということ、あるいは、弟子達の養成、私の言行の記録という面で、不備な面が多かった、ということ、これが、キリスト教(の草創期)において、反省さるべき点かと思います。

大体、以上のようなことが、私が、いま考えてみて、キリスト教に欠ける面だと思います。

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