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朝日記200605 私の読書から(4) ハイデッガー 「存在と時間」をよむこと

2020-06-05 16:19:09 | 絵画と哲学

朝日記200605 私の読書から(4) ハイデッガー 「存在と時間」をよむこと

 

初夏のきもちのよい日です。さて、

  きょうは、ハイデッガーをとりあげました。 

「存在と時間」  (ちくま学芸文庫)   (日本語) 文庫 – 1994/6/1

実は、今回はこの著の読書所感ではなく、ハイデッガーの哲学についてです。

以下の偶感をひとまず 掲載します。

 

徒然こと   偶感 「しずかな港」からの連想そしてハイデガーの哲学について

 偶感 「しずかな港」からの連想そしてハイデガーの哲学について

 絵は 「赤いフードのみえる彫像」

 

 

 

偶感

「しずかな港」からの連想そしてハイデガーの哲学について

会員 荒井康全

             2018/10/17(2015/11/15 初出)

 

「しずかな港」からの連想そしてハイデガーの哲学について[1]

 

 

1.自画自賛「しずかな港」
 毎年、10月は、介護予防月間です。 数年まえにポスターのコンペがあり、これにいくつか応募しました。全部、落選はしましたが、せっかくだからということでしょうか、市役所のロビーで飾ってくれました。 

 応募した私の3つの作品のうちで、このページに掲載しました「しずかな港」というのが、私は好きで、再掲載いします。 親愛なる畏友からは、絶対に採用されないポスター、だからよいと言ってくれたものです。なぜなら、あまりにもレアリティがあるので評価の尺度を採点側でも持たないという主旨でした。その年の市民祭の絵画展に、あえてA1サイズにて出展しました。またことしは、銀行ロビーギャラリー展で、根強い支持がありました。

 この絵「しずかな港」は、地の色をプロシャ・ブルーに置き、標語は「いつまでもわたくしらしく生きる」と「元気なうちから自分の健康づくり」で、これを朱色の文字での帯としました。

 この絵がハイデガーの哲学に連鎖思考していくというのは、意外にお感じかもしれませんね。 まずは、ご覧ください。

 なおこのエッセイは、朝日記151115がベースになっています。

 

~~~絵(しずかな港)~~~

 

会場全体が油彩や水彩など、オーソドックな空気のなかでは異色となり、すこし、話題を提供したようでもありました。


2. 「しずかな港」からの連想すること
2.1 ハイデガーのことば
唐突ですが、ドイツの哲学者ハイデガーの以下のことばに偶然出会います。これは彼の晩年の境地であるかもしれません。
~~~

「しずかな港」にあること、すべての存在するものと、ものの中で、このいまのときのもとで輝きある存在、そして、もっとも 優しく受け入れてくれる「法」のもとに、われらに、あらわれる「発現Ereignis」としての存在、その関係において、そこにあること。」

~~~~
 これは、ノートルダム大学の公開ネットであるNotre Dame Philosophical Reviewからの引用です。正確にいえば、フレッル(David F. Frell)というアメリカの哲学者の最近の著で、”Ecstacy,      Catastorphe: Heidegger from Being and time to the Blacknote”という哲学の新刊の著作(R. カーパビアンコ(Richard Capabianco)の書評からです。 ‘恍惚、破綻:ハイデガー、存在と時間~本人のノート’といった意味の題名です。

2.2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
 御承知のように、ハイデガーは、20世紀最大の哲学者と現在では評価が落ち着いてきています。筆者は、目下つきあっているカントの哲学とのつながりを知る意識のもとで、彼の代表的な著作である「存在と時間」を読み始めたところでもあります。
 ハイデガーは、デカルトの「我考える、故に我あり」の「あり」というのはいったい何が「ある」のかという問いからはじまります。 たとえば、「病気のあらわれ」というのは、病気そのものは私(存在者)ではない、しかしその私でない病気というもの(存在)が私の場を借りて、病気を告げる。彼は、これを「現象」と定義します。それでは、その’あらわれ’というのは、本当に存在するのか、これを如何に証左するのかを問うてきます。おもしろいのは、この場合、彼は「存在了解」という概念を導入します。そして、そういう「病気」が「あらわれる」ひろい世界、つまり「世界内存在」があるという「存在了解」の前提に立とうと提案します。ざっくり、そういうものがあるという共通認識をひとは持っていて共有しているとするのです。 (個人の認識から出立して、集団の認識へと延長して、これを「現存在」と定義します)。 それを経てもなお、「世界内存在」は、「超越者」もしくは「神」とおなじ超越論的存在の仮定に留まります。 カントの認識哲学は人間の「直観」という超越論認識を認めますが、ハイデガーもその意味では、基本的には観念論として位置づけられるものです。「世界内存在」は、「現存在」のおかれる環境としての位置関係になるとおもいます。ハイデガーの説明のなかで、彼自身がさらりと「意味がある」とか、「分かる」とかの表現を使っていますが、その表現の自体が「世界内存在」を認識論的に前提していることを認めていることになるからです。そういう点ではカントの哲学とハイデガーの哲学の双対的に相互に必要な関係といえます。したがって、それを見たうえでの、新たな思考の発展が期待されるところでもあります。「世界内存在」などのように、人間のちからで証明のしようのないものは、それは、それとして、ひとまず前提(仮定)にして進め得ざるを得ません。とことん、これは何なのだ?と問い詰めていくと 結局、超越論的なものであるという答えに返らざるを得ない「存在」です。

2.3 カントの認識論とハイデガーの存在論
 ところで、カントの認識論は 大体以下です;主観(主体)による経験→現象→概念⇔理念⇔普遍性 (存在への認識)

 一方、ハイデガーは 「存在」=「現象」ととらえます。
 主体は、現にそこにあって、経験としてある現実的事態に身をおいている、そこでは主体が「現象」を経験していく。その場は実態空間の中ですが、そのなかにいるという知覚(認知)をすることになります。この関係において、「存在」と付き合うということになります。この主体を「現存在」(Da Sein)とよび、そこでの存在了解を「実存」(Exsistenz)とよんでいます。この段に至って、重要なファクターとして「時間」が登場することになります。この「時間」によって、「現象」が進行して我々(つまり「現存在」)の前にあらわ、来ることになります。 主体(主観)はいつも「現象」に関与していることが前提です。「実存」とは、「現存在」との関係であらわれる「現象」上の存在となります。


2.4 「世界内存在」 
 余談ですが、工学系の人にはなじみのある概念として、確率的不規則振動論などの信号の時系列解析で エルゴート性というのがありますが、思いだされるでしょうか。自動車に測定器を積み、道路の或る区間での自動車の振動計測を一度通して測定すると、その結果の時系列波の周波数信号のスペクトルは、同じ道路区間でランダムに選んだ固定観測地点での集積した周波数測定値のアンサンブルのスペクトルと、同一のものとなるというあの確率仮説です。

 つまり、主体の経験する「現存在」は、彼が関与している時間の経過のなかでの「現象」、つまり「実存」自体が「世界」を、結果的に表現しているという意味で、「世界」を語るとします。それが「世界内存在」です。 ひとは、これを通じて、(徐々に)普遍性を窺がうというものですが、次の道路の区間に延長して同じになるかは保証のかぎりではありません。したがって、「現象」としての「実存」は簡単には「普遍化」はできません。一方で、この「普遍化」の部分空間として「世界内空間」を捉えるなら、その範囲での「普遍概念」形成というカントの認識哲学との接点も見えてくると考えます。筆者は、ここの点につよい興味をもちますが、これはまた別に論じたいと思っています。しかし、ハイデガーは、この普遍性への接近には、あまり急がなかったようです。「現象」界への人間へのつよい眼差し、つまり「現存在」と「実存」とで、「存在」の意味を捉えることに意識の重点を置き、ここに思考を専念したようです。この思想の流れは、フッサール、ハイデガーや、フランスのメルロ・ポンティ、サルトルへと展開して、現在「現象論哲学」として地位を獲得しています。

 

2.5「解釈学」について
 上の説明で、「エルゴート性」を念頭にしたとしても、ある一つの「現象」だけでア・プリオリに「世界内空間」として、捨象するほど世界は簡単でないという「存在了解」を、彼はもつので、さまざまな「現象」について、ひと(「現存在」)が対象として注目し、これを「実存」との関係で「存在」の意味を解釈していくことに帰着する発想は当然でてきます。これはある意味で、膨大な作業が想定されることになります。 これを位置づける学問を「解釈学」とよんでいます。 人文社会科学の主要な活動はここにおかれることになります。 筆者は、この「解釈学」は、大切な学術活動と理解していますが、かつて実務世界で、システム工学系の生業としてきた人間にとっては、なにか、このままでは落ち着かない気持ちになります。それは、「行動」につなげる意識の「地平」が見えにくいからです。

2.6 比較制度論について
 ここで、また、まったく別の観点ですが、先日亡くなったスタンフォード大学の経済学者である青木昌彦さんの 「比較制度論」に学ぶ機会を得ました。グローバル経済市場のもとでは たとえば日本とアメリカは文化や歴史背景が異なってはいても、経済の行き着くところが、単一均質化(homogeneous)の機能構造に還元して落ち着くという従来仮説がありますが、彼はこれを覆し、多元的文化背景を認めたうえで、合理的な経済市場の機能構造の存在意味があることを明らかにしました。 つまり経済の合理的な安定構造はいくつもあり、ひとつではない。 これは高分子や合金の多相ミクロ構造の存在で全体が高機能性で、安定性であるという力学モデル過程が、発想のヒントになっていたようです。巷間でいう‘超合金’ということになります。 わかってしまえば、ああそうかということですが、「現象論的数学モデル」をつかっての「ゲーム理論」研究の勝利といわれます。 こういう発想の哲学がきっとあるのだとして、おそらく、研究の早い時期から動物的「勘」をはたらかせ、その結果、スタンフォードの同僚である哲学者J.サール(John Searle)教授との出会いがその後の理論展開におおきな意味をもったようです。 これは「社会制度論(Social Institution Theory)」という「現象論(存在論)」と「認識論」との接合理論展開であったと、青木はサールの哲学を賞揚していたことを最近、知りました。アメリカはプラグマティズムの国ですから、理論と行動とを品質管理の‘計画~実施~確認~修正’のPDCAのような行動サイクルの思想体系を大切にします。そういう意味では、目下「進化論的認識論(Evolutional Epistemology)」のパラダイムも登場してきてにぎにぎしいです。

2.7 「Institution理論」と、ハイデガーの「現象論」
 さて、「制度化 Institution」の概念は、平均的な日本人では、政府など公的機関での「制度化」の意味程度の理解でおさまっているように思います。しかし、あらためて調べますと、現代では、政府、家族、言語、大学、企業、そして法体系へと広がりを持って捉えています。

そのような意味範囲での「社会制度論Social Institution Theory」にまでくると、ハイデガーの「現象論」が すでに時代に先行して、暗黙裡に、英米系のこの制度論へと整合的な意味展開をしているように見えてきますが、どうでしょうか。大切なのは 「制度化Institution」の概念が 「機能」、「構造」、「文化」、「制約容認」という四要素の定義構成であります。特に、ここに「文化」が入っているところがこれまでのシステム論との違いを鮮明にしてくれます。 そして「制度化Institution」は、その行動機能構造として 「機関agency」 と「(制度化(対象体))institution」の二元構造を登場させます。 
 筆者は、あえて軽率の誹りを恐れずに申し上げると、ハイデガーでいえば、前者「agency」を 「現存在」とし、後者「institution」を「実存」と読み替えると、ほぼぴったり、ふたつの理屈が整合し、意味が伝わってきてくることを告白します。(逆に彼の哲学書をよむにあたって、 「制度化Institution」として読み替える、霧が晴れたように彼の哲学がわかってきて、新鮮な意味を見出します)

 話はおおきくなりますが、これからの日本人を、また、日本国を考えるうえで、とうしても、上の枠組みでの制度論的な「解釈(分析)」と「設計」が、国民的規模で見直されることが不可欠の課題となるのではないかという思いを致します。とくに大切なのは、「制度化 Institution」は、政府公的機関にだけに頼って、そこに責任を押し付けている狭い発想の社会了解では、成り立たちえなくなっているということ、そこにおいての認識基盤の変革が必要となるべきことを知るに至ります。NPO法人「HEARTの会」も、ひとつの「制度化 Institution」という使命を負うことになります。

 

2.8.「発現Ereignis」について
さて、書きつらね、多々のべましたが、この辺で ひとまず筆を止めます。冒頭のEreignisの話しにまだ至りませんでしたが、ハイデガーの後期の哲学は、この「現存在」と「実存」の哲学から、人生の終焉としてなにが見えてくるかという問いかけがあったと思います。その答えとしてこのことばがでてきます。Er-Augen; 目をじっと開いて招きよせると、異なる次元での「現存在」と「実存」という「実存」の「発現」があるという意味の語源の派生として、Ereignisの境地を語ります。 異界や霊界からのEr-AugenつまりEreignisかもしれません。(邦訳では、あまり的確な訳ではないと思っています)
さて、冒頭の介護予防月間ポスター落選作の「しずかな港」について筆者のこじつけをさらに加えさせていただきます。 若い婦人が「困ってしまうわ!!」と手を拡げている、居合わせている老人は、応じる気配もない。ただ、無言でなにかを見つめ、なにかを心内で語っているのではないかと、絵解きとして申し上げます。お付き合いいただき恐縮でした。
      (上席化学工学技士 2015)



[1] 朝日記151112 徒然こと 首脳会談、自画自賛やハイデガーのことなど

https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/8be60d6408127ccacbf19fc19caf85ba

 

 


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