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朝日記240628―徒然こと―川崎のおさなき日々

2024-06-28 14:35:51 | 自分史

朝日記240628―徒然こと―川崎のおさなき日々

初出し 「HEARTの会」会報 No.116 創立30周年 2024年 新年号 ISSN2186-4454

 

―徒然こと―

川崎のおさなき日々

会員 荒井 康全

 

 

東海道川崎宿は多摩川河口の洲で六郷という。小学校6年のころ仲間と水浴をして、学校で立たされる。

明治学院中学の隣の席にならんでいた木村勇君が、丸子橋にある関西ペイントの社宅に住んでいて、夏休みに自転車でひょいと会いにいく。鎌倉の大仏のようなおだやかな顔で、あだ名が大仏。尾山台高校から慶応に進み、三井物産へと風の便り。

矢口の渡しには昭和電工の中央研究所があり、研究支援でよく通い、帰りに蒲田あたりで呑む。飲み屋の柱一本くらいはおれが払った分だと、すごめかしていた奴がいたなあと思い出す。

   


二子新地のあたりに会社の社宅があり、我家の建て替えの仮住まいで数か月住む。当時すでにふるく西洋式トイレの使い方が貼ってある。小津安二郎の「おはよう」で笠知衆や三宅邦子、佐田啓二、久我良子などの顔が浮かぶ昭和三十年代。

 

~父さんのこと、知的な刺激をうける
「お前はできる、かならず川中に入れ」、まだ学校に入る前のこと、川中とは神奈川県立川崎中学校(今の県立川崎高校)、当時、国民学校からは級長でなければ入れぬ。 そこの中学生たちの 何か後光の射した通学姿にあこがれ眺める。 銭湯帰りに中天の夜の星にねがいを賭け、一瞬の光芒の消滅は、なにか願いの無謀さを告げているよう。
 戦後まもなく、父さんは会社の労働組合の創設に係わり、代表に推される。初期の労働運動は夜も遅く、若い組合の人たちが、よく深夜に焼けて漆黒の大黒柱の我が家に立ち寄り、私が寝ている傍で大議論をやる。 新しい時代がきた、すぐにでも社会主義革命が起こるのではないか、訳わからず何かすごいことになりそうな気配。 丁々発止の一段落した合間などに、ときおり ちょっと挟むかれらの学生時代などの話が交わされ、カントやデカルトなど、製図や力学など森羅万象に話が及ぶ。そういう話のなかで、自分のまだ知らない、はるか向こうの世界を感じとり、その多くが機械や電気や法律など学び舎で修め、学校に行かなくても学問を積んだ立派な人もいるのだな、どこか知的な興奮が漂う。勉強してあんなふうになって、それに気位の高そうなマドンナをいつか振り向かせたい。 

親しい友のМが転校してきたのは、小学校4年の2学期。勉強ができて気風のいい相棒が現われる。父は組合に推され川崎の市議会議員になるが、わがのぞみの「川中」はまだ遠きにあり。

   


私は生後三ヶ月でリンパ腺炎での手術を行っており、「腺病質」ということばがいまも耳になじんでいる。また、小児麻痺の初期であったのであろうか、ある日突然に片足が棒のようになり歩けなくなる。親は医者を探すこと、神仏に頼めることなどすべてをやってくれたようだ。 占いの神託では、端午の節句の折の鯉幟を立てるための穴の位置が、地神の癇に障ったという。寡黙で強面の爺ちゃんが、大きく育ったら親孝行をせよと幼い私に言い聞かせたという。幸いなるかな、なにかのきっかけで回復すると、こんどは近所の餓鬼なかまに入って真っ黒になってトンボとりやフナとりに走る、やんちゃな益荒男になっていく。川崎にも、まだ至る所に田や畑が残っていた。

 

~戦時体験

1944年川崎市立前沼国民学校に。出征軍人を送る歌を爺ちゃんの背中で聞き、そして自分もその行列で旗を振る。戦時色が日に日に強くなり、大人の会話から、ただならぬことが起こることを感じ取る。 夕食後の家族の団欒、ラジオから流れる広沢虎蔵の「旅行けば」ではじまる浪曲、ひょっとした弾みで、満州の話、そして「おい、満州に行こう、連れてってあげよう、明日の朝」で、戦況や銃後の話に華が咲く。いつ満州に行くのか心待ちにして、それなりにわたしは傷ついていたが、いっときのなごやかな時期でもある。やがて、防空演習、国防服、もんぺ、頭巾、地下足袋、ズックの肩掛けなど、そして初めての空襲警報。夜間空襲で聞く空気の鋭いうなり、そして体を吹き飛ばすような炸裂音。囲炉裏の灰が天井に舞い上がる。爆明で見えたのだとおもう。百メートルもない距離の中学校の校庭とそれに続く住宅、田んぼにいくつもの爆弾が落ち、だれだれさんの一家が全滅したという。いくつもの爆弾池がその威力を残している。

 

 
 


~「大師様があるから家は焼けやしねえ」
爺ちゃんはよくそう言っていた。川崎

には、厄除けで有名な川崎大師がある。

一方、父さんは近くの電機会社の工場で

潜水艦の主機モータ組み立ての現場主任

をしており、あるとき父さんがその機械

とそこに立つ人間を私に、そおっと鉛筆

で描いて見せた。山のように巨大なもの

らしい。そしてこれは秘密だといって塗

りつぶした。ともかくも父さんが立派に思える。

家族は、川崎からは離れる様子がなく、火災の延焼を防ぐための家屋の取り壊しがはじまると、さすがに母さんは姉(8歳)とわたし(6歳)をつれて疎開することになるが、行き先がない。母さんの遠縁を頼り茨城県の鹿島の近く、利根川沿いの徳島という地へと疎開するが、それもつかの間、三浦三崎の漁港の町へと転々とする。徳島では、父さんが訪ねてきてお腹をこわしてしばらく寝込んで帰る。あるとき家のいちじくの木にのぼって実を食べているうちにすべり、あっと思う間もなく下の堀切の水に落ちてしまう。

 三崎には爺ちゃんと父の妹が、ときどき来てくれ、爺ちゃんのためにバス停で吸殻のたばこを拾って喜ばせる。
 ある夜に川崎が爆撃され、家をことごとく焼かれ、父さんは家財を守るか、自分の書籍にするか迷うも、決断は両方とも火の中におき去り、ただひとつ 伝来の木像阿弥陀如来を、井戸のなかに沈め、数キロメートル先の家族たちのもとに走る。 そして途中、燃え盛るなか阿鼻叫喚のひとを救けたりして、ようやく婆ちゃんや父の妹たちのもとに辿りつくという。
 この事態で母さんは父さんと生死をともにすべき時と決し、三浦三崎を引き払い、いそぎ川崎に向かう。途中、京浜急行の追浜駅に爆弾の直撃があり、われわれ母子はひとつ手前の駅にあって救われる。ほうほうの体で川崎の父さんのもとに帰り、焼け野原の父さんの作った苫屋に親子がおさまる。

~終戦をむかえる、闇市と「はぶゆー・あ・ちょこれっと?」
 陛下の声を初めてラジオで聞き、尊いひとは、高い声なのかなあと思う。炒り大豆を食べながら近所のひとたちと一緒に聞く。近所の人や動員で働いていた朝鮮の若者もおり、そのなかに荒井という眉目秀麗なひとがいて、そのひとが神風特攻隊に志願されたことを記す。これからどうなるのかと元無産党だという隣りのおとこと、動員の若者との口論がはじまるも、それ以上の争う勢いとならず、不安ななかにも、どこかほっとしたあかるさが漂い、もう爆弾の落ちてこないうれしさを思う。 まもなくして、駐留軍のジープやトラックが長蛇をなし、近くの第一京浜国道を東京へと向かっていく光景を見る。母さんはサツマイモにサッカリンの甘味をいれ代用今川焼きを焼いては、闇市で商い、地回りがきても気丈夫に渡り合う。焼け跡の工場から歯車を4つ失敬した私は台車をつくり、うなる音をジープに見立てたり、ときに国道に出ては「はぶゆーあ・ちょこれっと」とジープに声をかけ、チューインガムを投げてもらう。いちどおおきな缶詰を投げてもらうが、何の缶詰であったろうか。わすれたころに、それがどんぐりか なにかの粉に変わっていたことを知る。

さてこの間、ずい分学校に行かず、もとの前沼小学校の校舎は焼け、新町小学校に間借りし、やがてその小学校となる。蓋のない机、二つの椅子に板を置いて三人がけにして座る。授業時間中、鉛筆を無心で削っている子がおり、油紙で塞いだガラス窓等々、冬の時雨のときは足のつま先が痛いほど寒く、とにかく家に帰りたい。家も雨露をしのぐ苫屋であるが、それでも家がいい。勉強ははるか遠くに。

 

 

絵 やすまさ


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