Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240628―徒然ごと―川崎からそだつますらお

2024-06-28 15:01:05 | 自分史

朝日記240628―徒然ごと―川崎からそだつますらお

初出し 「HEARTの会」会報 No.116 創立30周年 2024年新年号 ISSN2186-4454

 

―徒然ごと―

川崎からそだつますらお

会員 荒井 康全

   

 

~キリスト教教育のこと、明治学院に学ぶ
 昼休みに友達とじゃれついて、子犬のようにどちらかが追っかけて遊ぶ。わたしが逃げるばんで息せき切って、校舎の屋根裏へ逃げる。そこはもう袋小路、どうしよう…薄暗がりに ひとが集い、みなが祈りのさ中と気づき、そおっとそのなかにまぎれ隠れる。迫る追手もあれっときょろきょろしていたが、やがて気配に気づき、そおっと座る。木村勇君である。 キリスト教の学校のクラブで、なんとふたりとも「宗教部」に入る。
 私はキリスト教の学校である明治学院中学校を受験させられる。島崎藤村が出たというハイカラな雰囲気の漂う学校。 面接試験に失敗して傷心したことを思い出す。このあと父さんは奔走し「あれを落したのはあなた方が間違いだ。一学期だけためしてくれ。それでだめならいつでも引き取る」と頑張ったらしく、 組合での押しの強さが功をそうしたのか。ともかくそれで入れてもらう。 ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」あの主人公の少年ハンス・ギーベンラートの名前をいまでも覚えておりNHK のラジオ 加藤道子の「わたしの本棚」の朗読によるか。憂鬱だがハンス少年のように夢中で頑張る。英語のリーダの一冊丸暗記を敢行し、‘th'の発音で猛烈なヒステリーをおこすオルトマス女史の英会話の授業も快調に飛ばす。すべての学科の予習と復習を試み、そして、いよいよ夏休みのはじまるある午後、М君と一緒に京浜急行の花月園にあるプールの水泳から帰ると、学校の父兄会から戻った母が、まず「おまえ、よかったねえ」と誇らしげにほめてくれ、その夜は家族で川崎の繁華街に出て食事、そして御祝いにテニスのラケットを買ってもらう。明治学院の学校生活は軌道に乗る。

父さんは神仏に思いをよせ、戦前から「生長の家」にまなぶ。ここは皇国史観。戦後、自ら選んだ社会民主主義との思想的葛藤に悩んでいたようで、あるとき組合機関紙に父の寸描記事が載る。激動の流れのなかで、ものごとに対して批判的、懐疑的な思索の傾向を示しはじめた息子に触れ、敬虔な内面性の経験を涵養する必要をつづり、息子について そのような関心を示すことに感動する。 かつて爺ちゃんの事業の失敗で、神奈川県立第二中学校(現在の翠嵐高等学校)の試験に受かるも、一家の生計ために断念しなければならず、そのなにかが、多分わたしの上に投影していたようにおもう。

 

~ルネッサンス的人間像への憧れ、“よし、きらいなことに挑戦しよう” 

   


熱病に罹ったように都立日比谷高等学校を受験したが、見事に落ち、都立一橋高等学校に入る。浅草橋にある学校はもともと女学校が母体で男女共学になり、男子は全体の二十パーセント程度で少数派、いきおいクラスの結束はよい。あとで考えれば、ここに残っていても何の問題もないが、日比谷落選組みが転校を密かに模索し、夏が終わると熱っぽく語っていた友人は残り、私が神奈川県立湘南高等学校に転校。このときの友人とはいまも続いている。県立湘南は当時有名な受験校だが、鎌倉、鵠沼、茅ヶ崎などこの地方独特のかおりたかい空気に、自由な気風。科目のスタートの取り遅れた分は気合で乗りきる決意をする。アメリカ帰りで気負い気味のM先生に授業中に食いつき、目に留められ、彼の英語の時間に、公開質問時間「荒井タイム」をもらう。必死になって文法書を調べ、先生の解釈に異を唱え対抗するという筋書きで、まわりの秀才たちに一種のエンターテイメントを提供したのである。 コーラス部に入り、生徒会委員になる。H君とは生涯の友となる。この学校は二年間でコースが終わる方式で、数学は、解析と幾何が2科目平行、理科は物理、化学、生物の3科目並行で、特に出遅れた数学と物理の調整に手間取り、これが以降の私の生き方に陰に陽に影響し今に至る。つまり数学と物理コンプレックスである。 英語や世界史は快調。一度はこのような世界に進むことを考えたが、嫌いなものがあるのを認め難く、不得意なものをそのままにするのは許せず、たまたま出会いがわるかっただけで、自分の向き不向きにかかわりないと考える。たしか国立大学一期校は八科目であったから嫌いなままでは済まされないという切迫した事情があったかもしれぬ。 あるいは、最後に理系コースである国立商船大学に焦点を置いたときのこじつけかも知れないが、ともかくそう考える。 世界史が得意科目であったから、古今東西からいろいろな人間像を曳き出し、自由に思いを馳せ、理想的人間像をルネッサンス世界に求め、ダ・ビンチよし、聖フランシスコよしである。これらの全人格的なものに今の人は達することができるか、分科した時代では、ただ考えるだけでおわりであろうかと。しかし、とりあえず、つぎのようにその道筋を想定してみることにする。
ひとつ、好きなことは出来たとする。
二つ、いま苦手と思うものに賭けてみる。
三つ、きらいなものが好きになったときに 全人的な接近がおこなわれるとする。

 

~ニュージーランドへの遠洋航海、自分探しの青春であった商船大学
 眉目秀麗であることということが入試要綱に入っていると聞いたことがあるがほんとか、と訊いたひとがいる、わたくしの顔をチラッと見たようだった。 裸眼で視力1.0 とか、綱に片手でぶら下がって10秒以上とか、あるいは、性病検査とか海洋日本の伝統的な独特の体力試験があった。「紅顔可憐の美少年」で知られる寮歌が、事実を虚飾するのかもしれないが、わかいときはだれも、それなりに意気がいい。商船大学は 当時東京と神戸にあった学校が戦時統合され静岡県清水市にあった。伝説羽衣で知られる三保の松原の砂浜のなかにあり、満月の夜は、駿河湾の海がきらきら光り、遠く伊豆の対岸や達磨山の灯が見えて、切なくもうつくしい。「完全就職、陸の倍の給与、たばこも酒も免税で、しかも外国が見られる」たしか雑誌蛍雪時代の紹介にある。
 そして、昭和31年目出度く機関科に入学する。そして低空飛行で昭和35年秋に5年半の過程で東京越中島の地にて卒業。 卒業実習は6ヶ月、最初の3ヶ月は三菱日本重工横浜造船所 いまの‘みなとみらい’の場所である。 あとの6ヶ月は運輸省航海訓練所の生徒になり航海実習にでる。 練習船大成丸という3千トンクラスで日本列島を周航して、瀬戸内海で特訓を受けると、ニュージーランドへの遠洋航海にでる。 長駆赤道を越え、熱帯スコールに身を洗い、ブーゲンビルの夕日を望見し、いくつか南十字星を仰ぐとやがてクック海峡に投錨する。 折りしも雨雲が切れて陽が射す、波洗う崖の海岸線に鮮やかなみどりの丘陵が目の当たりに現出する。 赤い屋根のバーンやサイロがある、たくさんの羊の群れがある。首都ウエリントンに着いたのだ。 ときに、‟六十年安保” 東京はデモの渦で騒然としていたときに出航したが、国際放送は、池田勇人内閣の発足を報ずる。いま思うと、自分の生きるべき道筋と現実の学問・教科にしっくりしないものがあったのだと思う。 それを認めたくないから困ったものである。 物理にも数学も その他もあまりこころ踊るものではなく、それ以上に基本的には、外国に無料で行きたいというところにあるから、相対的に手段としての位置づけになる学業が軽くなってしまったのかもしれない。 初めて家を離れたという開放感と、みずからの責任で方向を定めるという自意識との葛藤があり、思索は旺盛であるが、意欲に敏でなく、なんとなく身を浮き漂わせていたように思う。 石原慎太郎の芥川賞作品である「太陽の季節」に障子を破る下りがあるが、持てるエネルギーが向かうべき何か、当たるべき壁の喪失感のある時代と思う。 思えば日本が経済大国として離陸しようとして必死にもがいている時代でもある。 成績のよいクラスメートに対する競争心はあまりおきず、むしろ冷ややかにみている。
 蒸気タービンの実験の時間に、側の十メートルほどの水槽を、往復して帰ってくる賭けを引き受け、実際に実行して担当教官を烈火のごとく怒らせる。この教官には、後に就職した会社からの米国派遣の件につき、大変助けてもらうことに

 


なるが、当時はそのような状況である。

 

~原子力船の乗り組みに志願しよう、東京大学に行こう
「あなた、あれほど勉強しないのにこれから東京大学に行くって?」、母さんは意外に思ったらしい。 惰眠を貪ってきたが、卒業航海が近づくにつれて、それまでの自分を振り返ってみる。すくなくも受験の頃の直向きさにもう一度帰ることの必要を感じる。 船体は揺れて傾いてもまた復元をして姿勢を保つのであるが、自分の復元性をためすのも ひとつの挑戦だろうと思う。 それ以前に文系の大学に入りなおすことも考えたが、これからひとり立ちして食っていくたねは、やはり技術におこう、逃げるべきでない、それをようやく納得する。それにしては、いまのこの状態はお粗末で、やるならその世界で一線に立つべきであると。
 飛躍するがとりあえず聴講生で、東大にいってみよう、あとはそれから考えることにする。
 これには ヒントがなかったわけではない。卒業研究は、例の水泳事件のD 教官に師事したが、テーマは航路による海水温度とエンジン効率の関係である。
 当時 丸の内のレンガ建てビルの飯野海運本社の工務部に通い 機関航海日誌から丹念に海水温度とエンジン効率算出

   


諸元のデータを集め、船会社の機関部門がどのような状態で動いているかが伺えて興味がわく。あるときここの成川泰課長から帰りにビヤホールに誘われ「君、会社に入って陸でやるんだったら、なにか特別な武器をもたなければいけないよ」といって、部下の二等機関士である小林倬哉さんの話をされ、会社から東大に留学派遣されているという。 そして その人に会いに機械工学科を訪ねたことがありこれが下地になっている。もっとも、このひとは、船の大学を首席で卒業している点が、私と大いに違っていたが。
 さて、ターゲットは原子力工学としよう、親には将来、原子力船の乗り組み第一号になるために、機関をつくることをやるのだといってしばしの猶予をもらうことになる。 ときは、昭和35年9月、甲種一等機関士の面接試験を終えて、力学の再履修のために東京大学の駒場の教室に走る。

~機械工学大学院で熱工学を専攻する「七輪の火も、原子炉の火も熱反応で同じ、反応現象なら化学産業だ、制度もそうであろうが、ものごとが始まるときは変なことがおきる。とにかく、一年、がむしゃらに勉強して、親の手前大学院を受験しなければならず、受けることに。 

夏に国立大阪大学、国立京都大学そして最後に国立東京大学と大学院受験行脚をして、勝率は2勝1敗。昭和37年)春、国立東京大学大学院数物系研究科機械工学入学となる。

さて、この続きはこうご期待。

 

絵 やすまさ


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