Yassie Araiのメッセージ

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朝日記160712 スーバーのレジ待ち、アダム・スミス問題やメルケルのエネルギー倫理のことと、今日の絵

2016-07-11 21:36:03 | 社会システム科学

朝日記160712  スーバーのレジ待ち、アダム・スミス問題やメルケルのエネルギー倫理のことと、今日の絵

みなさん おはようございます。 11日は朝から暑く ラジオ体操がおわると早々に家に戻りました。

(黄色の花が競う)

徒然こと スーパーのレジ待ちについて

郵便局の帰りに スーバーでオレンジジュースとアイスクリーム2lbs買ってきました。 オレンジジュースの目玉商品が108円でおどろきました。ベンディングマシンで買うよりもなんと得なことかと感動していますし、製造者には気の毒な感じもあります。 レジは空いていましたが、順番のルールがいい加減で先に待っているひとを気遣いせずにさっさと先に入るひとが目立ちました。 こういうのがどうも気になるのは年齢の所為か。ともいえないと思いましたのは、さっと入ってきた高齢でどうどうたる体躯の男性に これはまずいのではないかと直接注意もうしあげました。 要はレジ待ちのシステム設計がうまくいっていないのではないかと考えました。

  もっとも、うまくいっているという考え方もあるかなあとも思いました。ひとつの考え方は徹底してfirst come,first servedのシステムとする。もうひとつはレジのアクセスを複数にして空いているところに機敏にとびこみfirst come,first servedとする。つまりentirely unitary accessかdistributed accessかの問題です。

 あまり偉そうなことはいえませんが、瞬間に脳裡をかすめたのはKantの道徳律とアダムスミスの効用論でした。先々月くらいに図書館から スミスの「道徳感情論」を借りてきたのは、'Adam Smith Problem'ということばに興味を持ったからでした。 自我(個人の自由意志)から出発する効用主義から分業や交換効用論が生まれて、一生懸命に働くと、結果的に「ミツバチの寓話」に象徴されるような全体の予定調和到達を想定する思想が根底であります。しかしそれを前提とするのは スコットランドの新教世界でのコミュニティでの相互交流による善意(共通価値観)への「同感」(Sympathy)が前提としているとすると考える。これがその後のアングロ・アメリカン道徳性(morality)となり、今日は「帰着主義」(Consequentilism)として脈々とつながっていると理解します。このような解釈で大陸系特にカントの流れをくむひとたちの揶揄に反論しているとみることができます。アングロ系では現実の人間間の会話からのrationalityが優先であるということにします。(裁判員裁判の根底です)

(思案するひと) 

 一方、カントのながれは神から個人へ付与されるという直観(理性)に普遍性からの出発と以降の整合性を求めます。 この世に置かれた有限体としての人間のもつ制約の上で精一杯正しくありたいとおもう思い;自分に科する規範つまり「格率」と普遍性から要求される道徳律とのギャップに着目します。これを人間に基本的に付与されていると仮定する判断力によってギャップの中身を論理化し、それを現象としてとらえ、さらにカテゴリー表との概念のもとに体系理論としていくことを進めていくことを考えます。さて、 レジの客待ちシステムからアダムスミスとカントへと飛んでしまいましたが このふたつは深いところで設計思想の違いになっているようにおもいます。さらに為にする論といわれましょうが、メルケル首相の「安全なエネルギー供給~倫理委員会」なる枠組みは 超越的直観による命題として原子力廃炉を 定言命題(カテゴリー命題)として進めていくところに、いかにもカント的(つまりドイツ的思考)を思わせます。(悪く言えば 一般受けをする解を埋め込んで、世論操作をするともいえますが、これはすこし言い過ぎでしょうか。 序でに英国のEU離脱国民投票は政治家としての政策理念からの逃避ともみえます。 英語でsham と表現していました。 責任を巧妙に(したたかに)他に振ってしまう 詐欺的意図といったいみです。sham dead 死んだふりという表現もあります)

 つまりEntirely unitary accessは、スーパーのレジについては全体としての順序秩序を尊重していう、いっとき 効率はわるいかもしれないが、ルールの欠落でトラブルがおきないように設計するという思想になります。それに対して、アングロ・アメリカン、そしてそのながれの日本は、やはりdistributed accessといえるかもしれません。 究極の一貫性は異論(controversial)の場合、それからの規制やルールを急がず、現実的に問題になることの解決に取り組む。 そういう点でプラグマティズムです。 したがって、メルケルの倫理委員会の結論に対しては 反対こそしませんが、積極的には同調しない、つまり同じレジに並ばないとみます。 エネルギー問題としての原子力発電に対して あくまでも効用(Utilitilism)から現実の社会の必要性(経済性、安全性をふくむ)を取り扱っていく。つまり文明の問題としての科学技術進歩の実証主義(Positivism)的肯定の位置づけを変えていないと見ます。 

 また カントのような高い道徳律を満たさないからといってこれを非道徳とはせず、生きるうえでの制約をともなう命題として合理的な解決法を現実にもとめていく。そのためのルール化をしていく方向をこれからも堅持していくことにあるとみました。

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追記 (2016/9/19) 築地移転問題についての意見

 生鮮市場の豊洲移転問題での諮問会議(専門会議)が汚染物質除去のため盛り土を提案したが、提言と異なって一部盛り土をせず空洞空間を設置したこと、これを公にしなかったことが政治問題になっています。 承認手順のルールアウトがメディアで騒いでいますが、理論的には 諮問会議は助言の機関で、計画および執行責任は東京都であるので、その責任内での処理としたといえます。つまり、distributed access問題として、承認手順の痂疲があったとして考えるべきです。ここで一番、大切なのは、この空洞が本質的な意味に注目すべきであるとおもいます。東京都の統合企画および執行能力のなかで、その意味の鋭敏性と包括性が見られるものであり、むしろ、賞賛されるべきものであることが判明したことになります。 その意味では 専門家会議の見識が、ただ盛り土するでけで、その先如何にするかという発想が完全に欠如していたのではないかと判断します。再開した件の専門家会議は 空洞については考えもしなかったから、これに限定して検討すると表明して、問題の終結を狙ったようにおもいます。結論として、新知事は、あたまから、自らの統括管轄下にある東京都に批判挑発的な立場から、この移転問題の停止を試みたことになります。結果は、自ら愛すべき東京都の実力を証明する機会を与えたことになります。 この知事のスタンドプレーで、気負いこんで勇み足とみることが正しいと判定します。

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 荒井君はどちらを支持するかというと 高校のころであったら カント>アダムスミス。社会に出てからはアダムスミス>カントであったようです。いまは、どうか 体のうごきが敏捷ではないし、声もでないので、Hello,folks!といった笑顔の如才なさも飛んでしまっています。したがって カント>アダムスミスになっていることに気が付きます。しかしながら、やはり まわりへのこころの気配りfriendliness、これが 現実的な世の中のながれとなるべしです。しかし会話は下手で、議論もassertive でなく persuasiveにも至らないもどかしさがのこります。さて、さて レジから延々と話を曳き 付き合ってくださって恐縮です。 ご意見をいただければ幸いです。 Thanks

(凌霄花の咲く朝)

 

 


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round robinということば (あらいやすまさ)
2016-07-12 05:38:22
round robinということばがありましたね。輪になっている止まり木をrobinがはいったり、とびたったり 全体が巧みにうごいている様子をおもいうかべました。昔病院の中庭に おおきなケヤキの木があってそのまわりにも茂みのとなる木が並んでそびえていました。 夕暮れがせまるとどこからかムクドリが順次やってきて 群れが小枝を目指して入っていきます。いよいよ闇がせまるころには なんとかうまく納まってしまうのをよく眺めていました。リーダーがいるようでいないような光景でした。
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