Yassie Araiのメッセージ

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朝日記180711  (パート2)随想‘こころとOS’とアルゴリズム・パラダイムについてと今日の絵

2018-07-11 09:50:12 | 社会システム科学

 

朝日記180711  (パート2)随想‘こころとOS’とアルゴリズム・パラダイムについてと今日の絵

 字数の制約から二つに分けて掲載します。

 (Part 1は次をクリック: 朝日記180711  随想‘こころとOS’とアルゴリズム・パラダイムについて(パート1)と今日の絵  018-07-11 09:35:21 | 社会システム科学 )

 以下はPart 2です。きょうの絵は (咲きこぼれる凌霄花)と(紫陽花が咲く)です。

(咲きこぼれる凌霄花)

~~~~~~(part 2) ~~~~

4.フォン・ノイマンの言及、数学と哲学の境界について[i] 

フォン・ノイマンが『数学者』という題名で精神的なはたらきとしての数学とはなにかという講演の中からの特に哲学と数学の境界ともいうべき部分に触れた部分を抽出してみた。ご承知のように彼は二十世紀を代表する大数学者のひとりであるが、いまのコンピュータの発明者としても知られている。 この講演は第二次大戦が終了した直後の1945年~1946年にシカゴ大学で行われた連続講演の第1回からの引用である。 因みにこの講演会は、画家のマーク・シャガール、彫刻家のフランク・ロイド・ライト、作曲家のアーノルド・シェーンベルクなど現代芸術や現代科学を代表するさまざまな人物が、おなじ「精神のはたらき」という題名で自分の仕事について講演している。目くるめくような輝かしいアメリカ文化の始まりの時代を思い起こす。 

*この講演のことを知ることができたのは、 筆者は、岩波文庫 ゲーデル「不完全性定理」に読み取り組んでいたときに、偶然に、書籍のネット通販Amazonに投稿されたブックレビューを開いたことによる。 このレビューア[ii]は、講演集[iii]を 東京大学の物理学教室図書室所蔵から探し出されたそうである。 ノイマンの講演を多分自ら翻訳なされ、これを彼のレビューとして紹介したものである。[iv] ノイマンと比肩する後進の巨星クルト・ゲーデルの数学的な定理がもたらす、人間理性への歴史的な意味づけとして掲載された。

 筆者は、この現代の数学に疎いことは認めるとして、この数学が人類の知的営為として完全ではないことが 人類社会にどのような影響を及ぼすか、特に人間の認識という営為において、たとえば哲学と数学の境界状況に焦点を当あてることに個人的興味があったのでノイマンの言を取り上げてみる。

4-1. 「再帰哲学」~フォン・ノイマンが語る数学と哲学の界面におもう[v]

 以下は、彼が、数学の現代的状況をいくつかの例を述べた後、数学と哲学に言及しする:

 ~~~~

「[前略]「絶対的な」数学的厳格性の概念は、不変ではないということを示しているのだ。[中略] 2つのことが、しかしながら、明らかである。第一に、何か非数学的なものが、なんらかのやり方で経験科学または哲学、あるいはその両方と結びついていて、どうしても入ってくるのだ。そしてその非経験主義的な性格は、哲学(あるいはより具体的にいうと認識論)は、経験から独立して存在できるということを前提にしないことには、成り立たない。[1](そして、この前提は、必要条件でしかなく、それ自体は十分条件ではないのだ。)」

数学の集合論では、 集合とそこにふくまれる要素つまり部分集合の関係を扱う。ところが、「カントールの矛盾」というのが早い段階でわかっていたという。これは、考えている自分を含む全体集合を考えると数学論理上の矛盾が起こるというものである。有限を無限に拡張するときに陥る矛盾であるといわれる。 これが、ノイマンのいう数学理論が「不変ではない」というところの主旨である。ゲーデルはこれを最終的に数学の「不完全性定理」として、数学の不完全性として証明する。このような背景のもとで、ノイマンは続ける:

「集合論だけに限らず、ほとんどの現代数学において、「一般的な有効性」や「存在」という概念の使われ方が、哲学的にみていかがわしいということが示された。これらの望ましくない特徴から免れる数学システムとして「直観主義」*がブラウワーによって生み出された。(*訳注:直観主義 intuitionism とは、五官に入ってくる刺激それ自体は正しく、それに正しいか正しくないかの判断基準をおく経験主義的な考え方であると考えられる。言葉以前の数学を目指しているところは禅に近いともいえるだろうか。)」

~~~~

このレビューアは親切にも訳注で 「直観主義」の説明をしてくれる。この哲学は紛うことなくカントの認識哲学そのものである。かれの哲学の経験知による認識の典型方式を説明していると筆者は理解する。 ブラウアーも論争相手のヒルベルトも ともに哲学をカントによっていたことから窺がい知り得て印象的でさえある。



4.2  レヴューア[vi]への筆者からの感謝のコメント[vii]
 上の書評を再度ながめ、そのレビューア(tokuちゃん)への感謝のコメントを書いたので以下に掲載したい。 ジョン・フォン・ノイマンの講演『数学者』(1946年、シカゴ大学)がゲーデルをどう評価し、その後の数学をどう評価しているのかの件である:
~~~~

 4.2.1フォン・ノイマンのシカゴでの講演録は ゲーデルの不完全性定理が 人間知(認識哲学)への関わりについて 彼がどのように考えていたかがわかり 大変 貴重なものであると思っています。 御紹介をまず感謝します。 特に ブラウワーの直観主義(Intuitivism)は そのままカントのアンチノミーに帰ることを意味していているとおもいました。 純粋知(数学知)のなかに自分の意識(思弁)をもちこむことができるかの命題になります。
 4.2.2 カントは その詳細は省きますが、「時間」と「空間」の概念を主観へのとりこみによって 思考対象に対して自分との境界線を引きます。これは ものごとを知るのは 人間の自由意志であるということを選択することになります。 自由意志がなにによって作動するかは 証明できない、なぜならそれが自由というものであるかとします。しかし説明としては 「超越的感性」というa prioriに人間にはたらく直観を前提とします。仮説ですから否定も肯定もできない。カント哲学では肯定の選択をし アンチノミーを解消します。

    

 4.2.3 応用数学で、たとえば インクの一滴が盆の水に落としたときの物理は拡散という現象で拡散の微分方程式で記述します。式の対象領域は水ですが、インク一滴を落とすというのは 人間の意志の問題で 数学的には初期条件といわれ これがともなって微分方程式の問題が閉じた形式となり完結します。 境界条件(および初期条件)こそは人間の内的な問題意識(対象をモデルとして考える)であり、これを「直観」として 人間が、問題の境界をあたえるという意味になります。 
 4.2.4 そうすると、ノイマンの意味するところは、このままカントの認識哲学に帰る、つまり不完全性定理によって 基本的に人間知(認識構造)に変わるところはない(軽微としますか)ということであろうとおもいました。 (ここでカントが前面にでましたが、考えるフレームとして いったんカントを「土俵」におくという意味としてご理解ください)
おもしろいことに この本の歴史舞台に登場するクロネッカーやカントール、ブラウワー、そしてヒルベルトにしても ドイツの傑出した数学者の心底に ふかくカントへの尊敬と造詣の念があったようです。 したがって 不完全性定理という数学論理からの認識論上の危機感は 弱かったのではないかと想像します。
(イギリス人のラッセルは その雰囲気に違和感をもったことをゲーデルやアインシュタインらとプリンストンで共にした滞在のなかでもったようですが)。
 4.2.5 ところで、上で、(軽微としますか)の部分は 慎重に考えなければならないかもしれません。 なぜなら カントの「純粋理性批判」のなかでの経験からの知(認識)とはべつに、純粋知として認識判断する理性を置きます。その存在仮説としてもっとも信頼性をおいていたのが幾何学と代数学など数学的論理であったからです。それが 「不完全」であることに発して、どうであるのかという問題が残る。そういうことに思いを致します。 
 彼は 数学的認識と力学的認識とをあげて 前者を純粋思弁的であるとしましたが、ゲーデルの定理が、後者の力学的認識(経験認識)とのつながりを結果として明示したということであろうかと思います。
 4.2.6 ゲーデルの定理からの哲学(認識)問題回帰として 現代が最大の焦点をおかなければならないのはなにか。私は、「アルゴリズム論理」の登場であるとおもいます。 これは 上にあげた 数学的認識と力学的認識のまさに結合体であります。 コンピュータと情報通信によって 数学公理に証明されていなくても モデリング仮説によって それが(思考)あるいは(現象的な経験認識)が計算可能とするアルゴリズムによるシミュレーションです。 これが自然科学はもとより社会科学を テクノロジー(工学技術)として 存在化を迫る。(テクノロジーの存在が怪物的な巨大になります)そして概念から理念へと人間を強要してくることであろうと考えます。
 4.2.7 そういう情報革命的なことが すでに進行して 急激な拡大をしているとみることができます。(電車や通行でスマホを手にする姿を想像してみましょう)そのような視点からの人間知の境界線とはなにかの問題に強い興味を持ちます。いずれにしても すぐれたブックレビューをいただいたと感謝するものです。

4.3 この節での所見

 話は、飛躍しかつ独断的であるが、筆者は、ゲーデルの不完全性定理の結果が起こしたことのひとつは、哲学へ、とくにカント哲学への「再帰的」であったとおもうものである。  カントは基本的な4つの二律背反(アンチノミー)を純粋理性批判で延べる。その結果、人間の自由意志と経験知(現象知)からなる知的営為を提案する。これが科学主義を生みことに繋がる。 その前段で時・空間を主観側に取り込み、結果的には記述(記号)構成となるから、その思考記述はシステム・モデリングそのものであることになろう。 現代的なシステム論理に置けば「目的関数」と「制約条件」という定型形式に落ち着くことになる。 

 さて、「再帰的」に哲学に帰ってきた問題は よくよく吟味することが要求されよう。

目下の筆者の関心は、「目的関数」の部分である。 これを決定するのは「価値」である。

それは、単なる論理的あるいは機械的な次元ではないことを意味するが、カントの認識(批判)哲学はその目的関数を価値命題として構成する問いをわれわれに投げかける。 それを駆動するのは何か? 理性である。 では、その理性の根拠は何か?と問うと 証明のしようがない。それで超越的存在からの賦与される「直観」ということで主観として置き換わる。 もちろん理性は完全ではなく、間違いはおこすが、間違いをおこすということの上に立って知る活動をすることになる。 理性への信頼性の根拠として人間自由をおく。これも超越的な前提である。 

 さて、気になるのは理性の信頼性を説くに、彼は典型として幾何や代数という数学をおいていることである。ところが、これを使っていくと「不完全」な結果に至るということになる。 カント先生はいかに見ていたかであるが、もしかしたら彼は、見通し済みであったかもしれない。これをいま「哲学再帰」とよぶと、これからのは現代文明へインパクトは、大きいはずであろう。 なぜなら、すべて人間自由意志の旗印のもとに人類はみずからへの責任が課せられているからです。 

 

5.あとがき こころのOSとアルゴリズム・パラダイムにおもう

5.1 「こころのOS」[viii]

パソコンもスマホもそうであるが、われわれがクリックして好きなページに行き、絵がみえたり、描いたり、メールを送ったり、ゲームをやったりするには、仕掛けのソフトウエアが必要である。 ゲームなどさまざまなことをさらに、根底で支えてくれるものがありこれをOS(オペレーション・システム)とよんでいる。 パソコンのWindowsなどが代表である。OSによって、人間がよきにつけ、悪しきにつけ、つながって、知的活動も日常活動も支えられているとみることもできる。 

敬愛する畏友AB氏から 人間自身が根底にOSがあるというアナロジーで考えるとどうなるかという、つぎのような話がおくられてきた。(氏は 夜中に腹痛になやまされながら、考えられたそうである);

~~~~

「こころ」を人のOSのようなものとすると、足先から頭頂まで、隅々までいきわたっているような気がします。もとになる、「こころ」のソフトウエア自体は、きっと脳内にあると思うのですが、脳と体を同時につかって覚えたことは、脳単独のコントロールを離れ、体全体で考えることにつながります。
~~~~

 さて、筆者の側であるが、彼の言から、「超越論哲学」と「システム情報論」とのつながりが示唆され、たいへん 刺激をうけるものであった。

5.1.1「体系」と「システム」
 おもえば 「System」という用語は 日本の哲学者は「体系」と訳して その根源的な意味すっかりわすれてしまっていたようであるが如何であろうか。それはそれでよいとして、ウィーナーやテューリングなどの情報システム論を展開したひとたちは、「システム」という語のもつ根源的意味論を思考のなかで継いでいたであろうと想像する。 アリストテレスからカントに至って 一貫して 思考の構造形式でおもしろいのは、ひとつは、Noumenon(可想体)とPhenomenon(可視体(現象体))の双対構造で思考構成していること。 もうひとつは、そこでの思考対象に対して整理箪笥としての「カテゴリー」表で知識秩序(概念、判断、理念)の引き出しを設けて、具象と抽象の行き交う家(構造形式)を描いているところである。これをともかく「システム」という語で意識しているのであるということになろう。哲学者は その構造と機能形式を示して その骨組みと 部屋の間取りの設計ガイダンス(あるいはマニュアル)を用意した。そういう意味でこれは、静的世界構造である。

 

5.1.2 大発明はフィードバック理論(「負帰還」)

「システム」概念は情報科学で、いっきょに動的な世界構造に転換したのではないかと 思う。 それは、物理的概念として 「情報・信号」を位置づけたことであろうと思う。 システム概念の基本構造を入力→対象モデル→出力という高度に抽象化した形式的場を信号で結ぶという点で、特に「可視体(現象体)」のなかの思考機能を共通化したとおもう。 そのなかの大発明は、N.ウィーナの情報のフィードバック理論(「負帰還」)と ノイマンの外部記憶型コンピュータ構想のふたつであったとおもう。
後者についてはデータと演算という形式モデルがはいるが、今回はふれない。 前者については、古典的なシステム概念が いっきょに 動的になる。認識過程が負帰還信号による仮説モデルの係数修正という試行錯誤によって対象にたいする関数的な認識をあたえるというものである。 工学では一世を風靡し、なお 強力である。



       (負帰還信号)
       ←←←←←←←
      ↓            ↑
   入力→○→ 対象モデル→ 出力

 別な見方をすれば、対象を仮説的なモデルとしてとらえ、人間の過ちを動的に修正していく認識方式であり、対象操作方式でもあり、最適入力探査法でもあるとみることが可能で、そういう意味では 「モデルシステム論」ともいえる。

 

5.1.3 形而上学へのモデルについて

モデルそのものの本来の概念は物理系に限らなかった歴史がある。(たとえば神話などがそうであろう) 近代科学文明では 上述のように、モデルシステム論は基本的には 「可視体(現象体)」に限定して、命題指令は 仮想的に「可想体」から共通理念として命ぜられる方式できている。目的関数 と 制約条件式は  「可想体」と「可視体(現象体)」との関係つまり二元論の名残である。 しかし ここでも秩序への帰属を考えることの他に、現象の概念を描き出すのは、単なる経験だけではなく、人間側の内的な発想力(直観)がないと知識の表現体としてのモデルは出来上がらないと考える。そういう意味では、ひそかに「意識」つまり’こころ’の働きが支配しているが、「可想体」と脈絡が切れた形になっているので 通常は その都度 特化して 深く論じ、吟味することは 顕には見えない。 かの友人の「こころのOS]というのは、人間の意識をモデルとして形而上学までもっていき、「可想体」と「現象体」をつなげることを意味し、「こころのOS」が積極的な存在を提案してくるとおもう。

 さて、この辺までは、だれでも一家言をもつから、巷間、胡散臭い擬似哲学や擬似科学が登場するところでもある。 しっかりした知性が必要で、徹底的に考えるひとの登場が期待されるところである。 人間自由や価値概念がここまでつながって 真面目に論じられるといいと思うが、具体的なモデルまで立ち入ることが必要となろう。 その覚悟が必要となる。

5.2 「こころのOS その2」情報システム論は、形而上学 [ix] 

敬愛する畏友ABから、好意的なコメントがある。 そして、勇気づけられて、以下つづける: もしかしたら「情報システム論」は、「形而上学」そのものなのかもしれないということである。 物語をつくることは そのまま可想体内でのモデリングでもあろう。そういうなかで「可想実体」ということばをつかうなら、それがアリストテレス以来の存在論(Ontology)である「物自体 thing as itself」ということになる。(「可視体」系で 客観テータで裏付けられる「現象」とは一線を画すが、思考が閉じるためには必要である) 近代でも、(これまでだれもなんともいわず)、ひとの在り方(倫理)やひととの間の在り方(道徳)などが典型例であるが、超越論的な対象(思考のみとして存在する対象)を思考モデルとして記述をして、堂々と存在を前提としているところが おもしろい。これは仮説(仮象、hypothesis model)として、これを 検証可能な(可視体系)現象体系モデルとつないでいくことを意味しているのではないであろうか。(この文を書いているときは、衆議院選挙であったが、政治論争は仮説間の戦いですあるとします。)カント先生も 人間にはときに 他から当方にたいしていわれなき攻撃をしかけられることに言及する。その時には 相手は仮説を立ててくる。この場合、「必要」によって こちらが抹消されないよう防衛として論を構成(仮説)することを認めていておもしろい。 「必要」というのは すごいことで「認識」とはまた異なる次元で ひやっとします。(彼の思想のなかに生存第一の自然権が生きている)しかし、彼らしいところは、「必要」の段で、双方が規範ならぬ反省的判断力をもって 双方のギャップを埋める(間違いを、修正して)普遍性にむかっていくべく示唆する。(「理性は自分用につかってはならない」というくだりである。ここに批判認識哲学の意味を主張される)。話は 一気に 核心にはいっているが、頭のなかが 用意されていないのでいまは これまでとします。 もとにもどって、ABさんの「こころのOS」論は「形而上学」と「システムモデル論」への焦点として、タイムリーなアドバイスとして受け取っている。[x] 

 

謝辞

 本論は 2015の初頭から筆者ブログ『朝日記』に掲載したものを思考の過程に沿って収集し、まとめたものである。 また、本論は筆者が進めている「システム思考による目的論構造と社会倫理について」の研究の一貫である。 既報で提案したカントの認識論図を思考のモデル枠組みとして置いている。[xi]

 人類史上、もっとも高い尊敬と篤い信頼を獲得している数学が、ゲーデルの「不完全性定理」によって真理を保証しないという証明がなされて久しいが、これが如何なる影響を人間認識へ及ぼしているか、そしてそれを人類がどのように受け止め、いま何がさらに問題かを考える意味はおおきいとおもう。「アルゴリズム」はその筋道からの歴史的な現れ(emergence)と言ってよい。 これが思弁系および現象系に対して、存在仮説を論理モデル化して、実践系に適用作動していることは周知のとおりであるが、そのことが逆に、人類は、あらたな認識論哲学の構築を模索しているように予感する。 

 本論の進行過程で「畏友AB氏」には、‘こころのOS’という大胆な思弁系仮説が投げられ、思考を活性化していただいたことに感謝する。 ご本人の了解を得たので、AB氏とは、安部忠彦氏であることをここで明記したい。 Amazonのブック・レビューではペンネーム「tokuちゃん」からのノイマンの数学と哲学の境界についての見解の紹介に触れたが、興味深いものであった。 また理化学研究所所長顧問八尾 徹氏には問題の位置づけへの指導をいただいている。 筆者が属する総合知学会の諸氏には、例会での筆者の発表に丁寧に対応され、これが本研究への励ましとなっている。合わせて謝意を添えたい。

 

参考文献



[1] 下線は 筆者が挿入



[iii] 出典:Collected works / John von Neumann ; general editor, A.H. Taub, vol.1 "Logic, theory of sets, and quantum mechanics" (New York ; Oxford : Pergamon Press, 1961  2011年7月に東京大学・理学部物理学科図書館にてレビューアが複写した)

[iv] 2013年9月 投稿者名 tokuちゃん

[vi] ジョン・フォン・ノイマンの講演『数学者』(1946年、シカゴ大学)がゲーデルをどう評価し、その後の数学をどう評価しているのか, July 9, 2012
By toku
ちゃん
レビュー対象商品: ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫) (文庫)
http://www.amazon.co.jp/review/R1OX7GGIM5PGRK?_encoding=UTF8&ASIN=4003394410&cdMSG=addedToThread&cdPage=&newContentID=Mx1ZGIZIIU5FHDN&newContentNum=1&ref_=cm_cr_pr_cmt#CustomerDiscussionsNRPB

[x] NPO法人「人間環境活性化研究会」会報 2015年春季号

[xi] 荒井康全  図4 カントの認識のモデル図式、システム思考での目的論理の構造と社会倫理についてII, ― 目的性論理の価値の上限境界線を考える、 p.194、2014年度 総合知学会誌 Vol.2014/1、2014/9, 総合知学会

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 (紫陽花が咲く)


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