Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記180724 恐山や竜飛岬など 夏の旅 と今日の絵

2018-07-24 15:20:04 | 自分史

朝日記180724 恐山や竜飛岬など 夏の旅 と今日の絵

 おはようございます。ラジオ体操のあとのシャワーが感謝、感謝でした。

今日の絵は以下 7点です。

(深浦・不老ふ死村)

 (恐山)

 (むつ湾から茶臥山を望む) 

(鯛の島)

(白神山系十二湖のブナ林)

(ねぶた1)

(ねぶた2)

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なお、

音楽絵画 「恐山」を制作しました。以下ご覧ください。(2018・7・25)

https://www.youtube.com/watch?v=v2LdBV0fW7M

 または、 以下の朝日記からご覧ください;

https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/269da2ac1eb916d06e408facac351db8

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(深浦・不老ふ死村)

徒然こと 1 旅のこと:

 青森の旅は、新幹線で七戸十和田駅からの2泊3日のツアーでした。

下北は、恐山を訪ねました。途中、核燃料処理で有名な六ヶ所村を通過します。風力発電の三の菱型ブレードが

丘陵に立ち並ぶ景色に目をみはりました。 日本中、どこも道路がよく整備され、家々も今風にデザインも色彩もよく、その昔の貧しい日本の風景はなくなったなあと感じながら風景を眺めていました。

 「恐山」とは、かねて、おどろおどろした語感で、捉えていました。いまもそうです。慈覚大師円仁が唐?に渡り、修行したときの霊感で、この地を意識としたようです。いまなお原始林とおぼしき奥まったたたずまいがあって、そこから忽然と 靄に霞む宇曾利湖が現れる。その湖を蓮の華の花弁が囲むにおぼしき釜臥山、大尽山など、八峰が形作る。 「恐山菩提寺」が湖畔のケイ素質の白い砂地から、木々の少ない肌地気味の地蔵山、剣山、鶏頭山へと連なる。円仁師は、ここで地蔵尊を彫刻する。、これで死者と生者との世界を結んだようです。火山地で、硫黄の匂いであろうか、ぶくぶく窪地の水に泡を吐いていました。 賽の河原、沢山の小石の山が人手で作られる。プラスチックの風車がカタカタ回る。そして、賽の山は崩れる。千手観音堂があって、縁者が故人に届けるべき遺品が置かれていました。そして六地蔵の像で、次世の自分におもいを馳せるか。

「いたこ」といっていました。死者の霊を呼び寄せ「口寄せ」するという女性の霊現者に、何人ものひとがそのテントのまえに待っていました。 堂宇はいまは立派になりましたが、来訪者は、一時ほどの勢いは無くなっていると聞きました。因みに、訪ねたこの日は大祭の初日でした。

(恐山)

むつ市の観光ホテルに一泊。翌日(第2日)は、北の海の護り(軍港)の大湊。そのさきの脇野沢という漁村からフェリーで対岸の津軽半島の蟹田というところわたりました。海はとろりとして静かでした。

水上勉の飢餓海峡の景色はここかな?と三国連太郎の理屈を超えた、実存的存在感のあるあの演技に思いを走らせました。

私議、むかし会津の工場に転勤していたときに、身欠きにしんのてんぷらなどに接して、その奇妙な料理風習に、会津戊申戦争のことにおもいを馳せたことがあります。敗れてこのむつ市の地に、集団移住して斗南藩として、これまでの十分の一にも満たない三万石の知行を得た。明治2年のこと。、痩せ土地、冬の厳寒の気候の地で藩の再興を期し、極貧の生活に耐えた健気さに、こころをうたれる思いありといっておきます。「ここを戦場とこころえよ」とその父から諭され、この地に少年期を送り、その後、北清戦争にて、新進日本陸軍にこのひとありと列強各国から賞揚された在北京陸軍少尉、そして後に会津出身ではじめて陸軍大将になった柴五郎のことが思い出されます。そう、中公新書であったろうか「柴五郎の日記」を読んだことをなつかしくおもいだされました。この地ではいまでも、「会津さま」として尊敬されているとききました。

早朝、スケッチですこし足をのばそうとしましたが、結果は、その地には未達でした。

 (むつ湾から茶臥山を望む)

 (鯛の島)

蟹田からは、国道280号線で、その手前の新幹線の駅「いまべつ」を横にみて、津軽半島の先端「竜飛岬」への旅でした。 義経寺、三厩の知名など源義経への深い哀惜の地であるなあと感じます。「階段国道339号線」というのが、あって、竜飛の灯台から下の漁港までが、「階段国道」です。これが観光振興の一助を形づっています。地図でたしかめると、下北の先端である大間を通る国道が338号線です。トンネル誘致競争とをおもいあわせるとその何かを感じ見る思いでした。「上野発の夜行列車・・・」の歌が、竜飛崎の崖上にあり、ここでボタンを押すと風にのって歌が唸りだすという仕掛けがありました。うるせえ!・・・まあいいか?としておきます。

 

バスは半島の西側を下って、五所川原に向かって走る。途中に、つがる市「高山稲荷神社」というところによりました。千本赤鳥居。広大な湿地自然のなかでのこの朱色は、景色にメリハリができていて、悪くないとおもいました。モネのスイレンを思わせる景色です。葦の奥行の深い水影の風景がよい。

紫陽花の濃いむらさきに目を留めます。 大葉百合という左右に均整のとれた白百合も目に入りました。

津軽半島の文学ロマンの顔は、太宰治で売り出そうとしていました。読んでいませんが「津軽」という小説が焦点と聞きました。この地の名門津島家の六男で、彼の幼年時代の子守であった越野タケを後年訪ねる旅が主題です。いたるところ、彼が逗留したあたりの宿が登場します。特に、半島の根本にある五所川原は、太宰で町おこしといったところか。

文学作品というのは、通常の土着モラル観を越えていくところに興味を感じましたが、やはり歳月の重みでしょうか。

今年自死された西部邁先生あたりも、多摩川園あたりが、そうなるや、否やです。

第二日の宿は、岩木山のふもとの観光ホテルでした。 日がまだ高く、深緑のなす津軽富士の稜線はキラキラ輝いていました。

 

 

最終日は、白神山系の十二湖 青い池、ブナ林の散策でした。あと、五能線で、ウェスパ椿山から、一時間に一本あるかどうか知れない観光列車で、日本海沿い、海と奇岩、海沿いの町屋の情景の旅でした。千畳敷という駅に15分ほど停車してくれて散策。汽笛がなると列車に帰る。海は静かでした。海岸線の浸食を抑えるためにテトラポットがその存在感を与えていました。ポットそのものがもう景色に溶け込んでいました。鰺ヶ沢駅というところで、汽車の旅は終わり。あとは空港・新幹線の駅まで。

 (白神山系十二湖のブナ林)

徒然こと2 たべもののこと、クマがでるかもしれないとき

たべもののこと

 ホタテとまぐろではなかったでしょうか。 生から焼きまでさまさまなかたちの料理でした。五能線の深浦では、当地がマグロの水揚げ地でもあり、観光用にマグロの赤身の焼肉と刺身の定食といった具合でした。いろいろ工夫しているのが分かりますが、すげえっと唸るような印象にのこるものはなかったようです。

 

熊がでるかもしれないとき

熊が出没する懸念で、早朝のひとり出は控えるようツアーコンダクターから勧告されました。

結局、その指示に従いましたが、楽しみにしていたのでスケッチのことでツアーコンダクター側と少々、緊張がありました。熊などの外敵からの客へのガイド指針、事故の責任の範囲などツアー側やホテル側が保障する契約範囲や現在の安全管理状況についての把握と情報供与などについてどうなっていて、このいま、どうななのかについて質問しましたが、、まったく問題意識がかみ合わないのないのにおどろきました。 外敵は危険なので気をつけましょうというで、この域に社会が相互了解している。それ以上なにが必要か。安全の本質に至る問題意識の無さを感じました。むしろ、これを指摘するのが、変人とみなされる傾向さえ、あるのではないかとおもいました。 そうで、今回、すくなからず、「変人」となりました。大体、旅行はたのしく、恙なくが一番ということで、それを白けさせたので、同行者からも訝られまたことを記します。

 

徒然こと3  「ねぶた」へのあこがれと しばらくの楽しみ

 青森の瞬間の話題の中心は、8月2日からはじまるやはり「ねぶた」です。

この冬は、紙芝居スケッチそして音楽紙芝居を個展で披露して、絵画でのドラマ性にこころが嵌ってなお燻っています。

東北のたびは、乗っけから、「ねぶた」のあの圧倒的なけばけばしさが弾けます。このひとたちは、なぜ、そして、いかようにしてこの爆発的なエネルギーを発散することになったか、まことに目が惹かれました。夢中で、パンフやモデルなどをスケッチをしていました。今回はちょうど、インクの出のよい筆ペンとカラーの筆ペンを携えたのこれがうまく働いてくれました。水滸伝や三国志の奮戦対決の場面、とくに隆々たる筋肉、赤い口を曲げる鬼神と美麗の鼻梁、涼しげ切れ長の眼の若将軍、さらに妖艶なる美女将軍と、圧倒されるドラマ感です。短い夏「ねぶた」に酔いしれること、なるほどとおもいました。

しばらく、この図柄の構図の描画で楽しみたいともいます。どうすれば、より恐く、より妖艶に、より毒々しくなれるかです。 新幹線のロビーに 「ねぶた」図案コンテスト作品が飾られていましたが、どれもいまどき風に、さらっとして美しい。しかし、こんなのじゃダメだ、もともとのどぎついあれに限ると直観的に判断しました。

私の今回のスケッチはのべ40点ほどでしたが、中心は結果的に「恐山」であったことをご報告します。「音楽絵画」と「朝日記」でこれを発表していきます。

 新幹線は18時20分に七戸十和田駅、仙台から東京まで1時間半程度、21時過ぎには東京着でした。速いですね。

東京は、猛烈な暑さで茹だっていましたが、無事、帰宅しました。

 (ねぶた1)

(ねぶた2)

友人からのコメント

 (塚谷あき子)2018-07-25 21:10:45

昔、まだ総領事館に勤めてた頃に、年2回.私の家族、妹の家族、弟の家族、総勢17名、車4台で、大移動しました、ねぶたまつりや、恐山は、覚えて居ます。荒井さんも才能があるので、好きなことを楽しみながら、皆んなに楽しみを作ってくださり、とても羨ましい生き方だといつも羨ましく思います。バリーさんに送っておきます。病院から帰ってきて、退屈でしょうから、楽しみになるでしょうね。熱中症に気を付けてね。塚谷


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Unknown (塚谷あき子)
2018-07-25 21:10:45
昔、まだ総領事館に勤めてた頃に、年2回.私の家族、妹の家族、弟の家族、総勢17名、車4台で、大移動しました、ねぶたまつりや、恐山は、覚えて居ます。荒井さんも才能があるので、好きなことを楽しみながら、皆んなに楽しみを作ってくださり、とても羨ましい生き方だといつも羨ましく思います。バリーさんに送っておきます。病院から帰ってきて、退屈でしょうから、楽しみになるでしょうね。熱中症に気を付けてね。塚谷
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