Yassie Araiのメッセージ

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朝日記141210 「こころのOS その2」と 今日の絵

2014-12-10 15:50:30 | 朝日記

朝日記141210 「こころのOS その2」と 今日の絵

みなさま こんにちは。

わが畏友AB氏こと安部忠彦氏から実名の使用のお許しを得ましたが、本文ではそのままAB氏を使わせいただきます。

(ミレーへのオマージュ)

徒然こと 「こころのOS その2」情報システム論は、形而上学  (朝日記141404の続きとして)

敬愛する畏友ABから 先回の 朝日記に対して、好意的なコメントをいただいています。 そして、勇気づけられて、以下つづけます:

 もしかしたら「情報システム論」は、「形而上学」そのものなのかもしれませんね。 物語をつくることは そのまま可想体内でのモデリングでもあります。そういうなかで「可想実体」ということばをつかうなら、それがアリストテレス以来の存在論(Ontology)である「物自体 thing as itself」ということになります。(「可視体」系で 客観テータで裏付けられる「現象」とは一線を画しますが、思考が閉じるためには必要です) 近代でも、(これまでだれもなんともいわず)、ひとの在り方(倫理)やひととの間の在り方(道徳)などが典型例ですが、超越論的な対象(思考のみとして存在する対象)を思考モデルとして記述をしてどうどうと存在をしているところが おもしろいです。これは仮説(仮象、hypothesis model)として、これを 検証可能な(可視体系)現象体系モデルとつないでいくことをしているのではないでしょうか。(いま選挙ですが、政治論争は仮説間の戦いですか?)カント先生も 人間にはときに 他から当方にたいしていわれなき攻撃をし...かけられることに言及します。その時には 相手は仮説を立ててくる。この場合、「必要」によって こちらがが抹消されないよう防衛として論を構成(仮説)することを認めます。「必要」というのは すごいことで「認識」とはまた異なる次元で ひやっとします。(彼の思想のなかに生存第一の自然権が生きています)しかし、彼らしいところは、「必要」の段で、双方が規範ならぬ反省的判断力をもって 双方のギャップを埋める(間違いを、修正して)普遍性にむかっていくべく示唆します。(「理性は自分用につかってはならない」というくだりです。ここに批判認識哲学の意味を主張されます)。話は 一気に 核心にはいってしまいますが、頭のなかが 用意されていないのでいまは これまでとします。 もとにもどって、安部さんの「こころのOS」論は「形而上学」と「システムモデル論」への焦点として、タイムリーなアドバイスとして受け取りました。 「こころのOS」論は HEARTの会春季号(来年3月)に掲載を応募しています。(


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