喜多圭介のブログ

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樋口季一郎とアッツ、キカス(2)

2006-10-19 18:12:34 | 歴史随想

忍耐、また忍耐
     ──木村昌福海軍少将の場合


 昭和一六年(一九四一年)一二月の開戦以来、破竹の快進撃をつづけマレー半島、シンガポール、香港の占領をはじめ、南太平洋、遠くインド洋にも手を広げた日本軍ではあるが、勝利の女神は少しずつ遠ざかる気配を見せていた。
 翌一七年六月、海軍はミッドウェー海戦で四隻の航空母艦を失った。
 また八月に入ると、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島に反撃の第一歩を築く。
 この後の戦況は少しずつアメリカに有利となって、日本軍の損害は急増していった。
 それまで静かだった北太平洋も昭和一八年春には次第に騒がしくなっていき、ついに五月一二日、一万名を越すアメリカ軍が強力な航空部隊、艦隊の支援を受けつつアッツ島に上陸する。
 同島の日本軍守備隊二六四〇名は孤立無援のまま四倍の敵軍と闘いつづけたが、ついに一七日後全滅する。生き残った者はわずか二七名のみという激戦であった。
 山崎保代大佐を長とする日本軍は食料、弾薬とも不足したまま勇敢に闘い、アメリカ軍に死傷一八六〇名の損害をあたえたものの、アッツ島は元の持ち主の手に返ったのである。
 当時の日本の新聞は、全滅を″玉砕″と言いかえて報じたが、のちにこの単語は太平洋の島々で繰り返されることになる。
 まだ日本軍には多少の余力もあったので、当然アッツ島へ増援部隊を送ることも考えられた。
 しかし同島はあまりに速く、また島の周蝕にはアメリカ海軍による包囲線が敷かれでいたので、結局、見殺しにせぎるを得なかったのである。
 こうなれば次はどう考えてもキスカ島の番であり、勝ち誇った米軍が同島に上陸してくるのはたんに時間の問題であった。
 キスカには陸軍部隊二四三〇名、海軍一l一二一〇名、計五六四〇名の兵士がいて、兵力的にはアッツの二倍である。
 しかし、アメリカはアラスカ州罪を中心に三、四万名の兵員、一〇〇隻の艦艇を用意して進攻を準備していた。
 このような状況下、日本陛軍の北方軍司令部と海軍の第五艦隊司令部は、キスカ島からの守備隊の撤収を決定する。
 当時の頑迷な日本軍のなかにあっては、きわめて合理的、かつ理性的な決定といえた。
 いかに増援部隊を送ろうとしたところで、キスカは日本よりもアメリカに近い。そしてもともとアメリカの領土であり、戦略的価値は高いとは言えぬ地域にある。
 このまま守備隊を張りつけていても、早晩、圧倒的なアメリカ軍によりアッツ同様に全滅はまぬがれない。したがって一刻も早い撤収を決定したのである。
 この決断は、北方軍司令官樋口季一郎中将と第五艦隊司令長官河瀬四郎中将の話し合いによって行なわれた。
 話し合いが順調にまとまった理由のひとつは、キスカの守備隊が陸海軍双方の部隊から構成されていたからである。
 さて撤収(撤退)は決まったが、それを実施するとなると問題は山積していた。
 六月初旬、すでにアメリカ軍は同島への封鎖を強め、周辺の海域の制海権を確立していた。
 日本海軍はまず大型潜水艦を使ってキスカとの連絡を確保しようと試みたが、アメリカの包囲網は厳重をきわめていた。
 その証拠として六月十三日に二隻、二一日に一隻潜水艦がアメリカ海軍によって撃沈されている。
 同島の周辺には航空機、水上艇が常時哨戒し、日本軍艦艇の接近を許さなかった。とくにアメリカの軍艦に装備されはじめていたレーダは、霧の多いこの海域で威力を発揮したのである。
 潜水艦による救出が無理となれば、高速の軽艦艇(軽巡洋艦、駆逐艦など)を投入するしかない。
 本来なら大型輸送船を使って行なうべきであるが、航海速力に大きな差がある。
 海が穏やかな場合、
 軽巡、駆逐艦 三二ノット(六〇キロ/時)
 輸送飴 一五ノット(二八キロ/時)
 とその差は二倍以上であった。
 第五艦隊の河瀬司令長官は、部下の木村昌福少将へ(第一水雷戦隊司令官)にこの撤収/救出作戦の実行を命じた。
 この作戦は『ケ二号』と名づけられ、六月末から少しずつ動きはじめる。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(1)

2006-10-19 16:26:36 | 歴史随想

樋口季一郎の自著である回想録を読んでも、アッツ島の日本兵全滅(玉砕)とキスカからの撤退の内容は、断片的なメモ書き程度の記述しかなく、全容がほとんど掴めない。理由の一つに高齢の樋口に回想録後半を記述をするだけの体力が残されていなかったこと。二つに部下を全滅させてしまったという悲痛な思いが胸にこみ上げ、記述に至らなかったのではないかと想像する。


アッツ島全滅とキスカ撤退の全容を知る資料はないかと思っていたのだが、幸いなことに光人社発刊の三野正洋著『指揮官の判断』中に、以下の項目を見付けたのでここに転載しておくことにした。


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キスカという小島と二人の日本軍人
      ──木村昌福と樋口季一郎



 太平洋戦争の歴史をひもとくとき、アッツ、キスカというふたつの小島の名が何度となく現われる。
 この島々を一般の家庭におかれている地図帳で探し出すのは難しい。かなり厚い地図帳でも載っていない辺境の小島なのである。
 いずれも太平洋の北端に連なっているアリューシャン列島のアジア寄りにあって、面積はほぼ佐渡ヶ島(南北五〇キロ、東西三〇キロ)程度である。
 アリューシャン列島はアラスカとカムチャッカを鎖状に結んでいるが、ここを支配しているのはといっても″寒さ″そのものであろう。
、八月であっても平均気温はわずかに一○度、そして六、九月に雪の降ることも珍しくない。
 当然、作物、大きな樹木は育たず、住民としてはごく少数が漁業に従事しているにすぎない。
 太平洋戦争が始まってから半年後の昭和一七年(一九四二年)六月七日、日本軍はこのふたつの島──ともにアメリカ領であった──を占領した。
 アリューシャン列島の西の端に位置し、一年中を通して雪、氷、霧、そして烈風が吹きすさぶ北海の孤島。
 兵員、物資を運ぶにしても、海路で、北海道(椎内)──千島列島(幌筵)──アッツ/キスカ
 を行かねばならない。その距離は、
 稚内あるいは根室──幌筵島約一八〇〇キロ
 幌筵──キスカ/アッツ一一〇〇キロ
 となっている。
 北海道の港から直接アッツ/キスカに向かえば二五〇〇キロであるが、幌筵(バラムシル)を経由すれば三〇〇〇キロ近い。
 そして荒れる北の海は、二万から翌年の二月にかけて船の航行を徹底的に妨害する。充分に補給もできない氷と岩の小島を、日本軍はなぜ占領したのであろうか。
 一言で言えば、アラスカ、アリューシャン、千島列島経由で、アメリカ軍が北海道に攻め寄せてくるのを監視、阻止するためである。
 しかし、早くもこの年の八月からアメリカ軍の空からの反撃が開始され、両軍の激闘が展開される。
 そして北の小島にも占領から妄とたたぬうちに、アメリカの大軍が来襲するのであった。
 この項では、アッツとキスカ南島をめぐる闘いにおいて、指揮をとった二人の日本軍人にスポットを当ててみたい。
 彼ら二人は、ときには″悪の象徴″的な存在として伝えられてきた我が国の軍人とは異質な人格の持ち主であり、その決断は共に特筆に値するものであったからである。
【『指揮官の決断』三野正洋著 光人社】引用。