喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫26

2008-09-01 19:52:22 | 図書館の白い猫
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「どんな?」
「売れるような。売れなしょうもないやろ」
「経験とか体験がないとな、書くにも書けんやろ。そないいろんなこと経験、体験してないやろ」
「バーテーンダーしてた頃面白い話聞いてる」
「聞いただけではな」
「ヤクザ小説って売れるのやろ。お父さんに頼んで組員の話書こか。経験豊富な組員に材料書かせて、それをうちが小説風にする。うちでのうてもええ。圭介さんにして貰ってやな、うちのペンネイムで本にする。うちのお父ちゃんが口利きするとどこの出版社も出すやろ。今夜お婆ちゃんに言うてみる」

 これではぼくはそのうち黒比目のヤクザ小説のゴーストライターになる羽目に陥りそうだ。おカネ婆さんは黒比目のためになら何でもやりそうだ。孫のTに頼んでヤクザ話を掻き集めて、それを元にしてぼくが執筆した原稿を、風俗小説専門の出版社に口利きすれば黒比目は一躍風俗ヤクザ小説作家。

 タマがぼくの脚に頭を擦りつけてきた。可愛がってくれという意味でなく、ぼくに警告しているサインのようだ。

 猫たちの余りのすき焼きご飯を茶碗で食べながら、ぼくもいよいよ決心する時期が近付いているのを感じた。昼はほとんど猫たちのお余りを食べていた。


「おまはん、ええ話やないけ」
 おカネ婆さんが焼酎を呑みながら機嫌良さそうに言った。
「何がですか」
「黒比目が小説書いて作家になるちゅう話や」
「黒比目さんもうそんな話をしたんですか」
「迎えの車でな。あれも何かせなあかん。暇なホテルのバーでは物足りんのや。世間に名前出るようなことでないとな。作家やったら名前が出るやろ。本が出たら副市長しとるのに言うて、この町で市長主催の出版パーテーしたらええ。黒比目が望むのやったらおまはんとの結婚発表、その場でしたらええ」
「黒比目さんがそんな話までしたのですか」

 ぼくは唖然とした。この二人は文学・文藝の何一つもわかっていない。
「そうや。ワシも黒比目を見直した。あれも堅実なことを考えとる」

 満足そうに眼を細め、ステーキ肉を口でもぐもぐしていた。
「黒比目さんがそう簡単には作家になれんのです。この道もいろいろと努力せんと」
「先だって歯医者で週刊誌見とったら漫才師でも小説書いて売れとるやないか」
「どんな小説です?」
「ホームレスなんとかやった」

 二百万部以上のヒットとなった山本裕の『ホームレス中学生』のことだと思った。
「ああいう風に巧く行くこともあるのですが、彼はコントか漫才やっていて若者に名前が売れてましたし、中身も中高生には面白かったと思いますし定価も安かったですから」
「そんなら最初は五百円で売ってもええやないか」
「五百円の小説ですか」
「そうや。最初の儲けは考えんでええ。黒比目の名前が世間に出ればええのや。黒比目の父親の名前は世間に何遍も出たけど、刑務所に入る話ばかりでワシは面白なかった」
「……」

 内庭にエンマコオロギがいるのか、弱々しく哀れな鳴き声を上げている。
「おまはんは心配せんかてええのや。ヤクザの話はワシが段取りして集めたるさかい、おまはんはそれを小説にするだけや。切ったはったの苦労はせんでええ」
「……」

 なんとぼくをバカにした話だろう。おカネ婆さんも黒比目もすっかりぼくをヤクザ小説のゴーストライターにしてしまっている。
 ぼくも口の中でステーキをもぐもぐさせていたが、今夜の肉はとろっと溶ける感触がなく、かみ切れない。食道に下りていってくれない。
「思い出したわー、昔組長しとった男が組解散してな、それから小説書いたら評判になって映画にもなった。それも主役やで。なんちゅう男やったか、近頃物忘れするようになった」
「そんな作家がいたのですか」
「そうや。小説やことだれにも書けるのやろ?」
「学歴とか職業は無関係です。本人の筆力、つまり書く力だけです」
「そうやろ。黒比目は美大出とるし申し分あれへん」
「そうはいっても作家の道はなかなか……」

 ぼくはあとの言葉〈厳しい〉が口に出なかった。昨今の小説世界は厳しいのかどうか判断の着かない有様だった。売れればなんでもいいという風潮があった。その状況にあきれ果てたのか高齢化したこともあり、ぼくが若い頃によく読んだ文藝評論家が執筆しなくなってもいる。評論家だけでなく愛読していた作家も次々と亡くなり、ぼくには文学・文藝の世界その物が物寂しい物になっていた。

 こんな文学状況に留まる必要があるのだろうか。

 考えてみるとこの屋敷で文学・文藝のことがわかる人間は一人もいないのだ、いや一人、そうでなく一匹いた。タマだった。タマは猫の楽園の食餌場で夕食を食べていた。

 タマの紫式部の光源氏批判は鋭い指摘だった。タマが書庫の書架から『源氏物語』を引っ張り出して読んでいる姿は想像できなかったが、想像できなくてもあれだけの指摘をするのだから読んでいるはずなのだ。

 ここ数日朝方にかけて集中的に雨が降った。昼から降ったりもした。コース外れの台風の余波である。夜が明けてもいっときは重たく垂れ込めた雲に空は閉ざされていた。そのためタマとの散歩はしなかった。

 猫の楽園の猫たちは雨降りのときは猫用集合マンションの棚に蹲っている。なかには気晴らしに小雨の戸外を走り回ってマンションに戻って行くのもある。また風雨に大揺れに枝葉を揺らせている二本の椎の木のあいだは、激しい雨の中でも、地面に湿り気がある程度びっしょりとは濡れていないので、数匹はいつもここに蹲って空を見上げている。

 おカネ婆さんは雨が降っても黒比目の車で町に下りて行き、帰りは五時前後と予定の行動であった。そして黒比目は午前中はベッドにいてクラビア雑誌、ファッション雑誌を眺めていて、昼前に下に降りていくと猫たちの食事の支度に取り掛かった。それからあとはホテルに出掛けるまでのあいだ、リビングルームで音楽を聴いたりTVを観たりしてくつろいでいるだけだった。

 ぼくは自室でパソコンに向かっている。

 ウェブニュースを読む程度のことはするが、ぼくの存在で世の中が変わっていくとは思えないので、熱心に読んでいるわけでもなかった。そういえば図書館に通っていた頃、毎日新聞だけを読みに来る六十代、七十代の男たちがいた。一紙でなく新聞五社とローカル紙、スポーツ紙を静かに交互に読んでいる。なかにはあと聖教新聞とアカハタを読んでいるのもいる。ぼくはこうした人たちをちらっと眺めながら、いったいこの人たちはなんのために日々新聞を読みに来ているのだろうと思ってしまう。毎日の新聞紙面がそれほど楽しいのだろうか。

 することがなければデジカメ片手に近くの野山を散策しているほうが、得るところも多いように思えるのだが。

 いや日々読んで世の中の変化を掴んでいないことには不安なのだろうか。日々世の中が不安になるほど変わることはないと思えるし、それほど不安なら家のTVを胸に抱きしめていたらと思うのだが、別な目的が六十代、七十代にあるのだろうか。よくわからない。長年連れ添った妻にも冷視され、家に居り場所がないから図書館で新聞に眼を通しているという社会現象的〈濡れ落ち葉〉高齢者もいるとは聞くが。

 国民の手で世の中が変わると思えた若い時代、ぼくも新聞を熱心に読む一人だったが、昨今は新聞に見向きしなくなった。だいたい今日が何月何日何曜日かも気にならず、気にしないでその一日を過ごすと何月何日何曜日は、逆もあるが、右から来て左に去る電車の通過のように消えていくのである。二三日記憶に残る事件があってもすぐに消えていく。こうなると新聞を読む意味がなくなるから読まないでいる。

図書館の白い猫25

2008-09-01 13:54:31 | 図書館の白い猫
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 ぼくは二階に上がるとホワイトボードにタマを下ろし、黒比目の寝室を覗いた。黒比目はベッドの上でふて腐れた顔であった。
「圭介さん、うち嫌になるわ。お婆ちゃんにガミガミ怒鳴られて」
「京都に行く話?」
「ちょっと言うてみただなんやで。ホンマにうちの人生どないなんのや。お婆ちゃんやお父ちゃんの指図どうりに動かされて、たまに男と付き合うたらいつの間にかおらんようになる。お婆ちゃんがお父ちゃんに言うてお父ちゃんが組員に手ぇ回したんや。うちはもうどないなってもええわ」
「ヤケにならんほうがええやろ」
「どないしたらええのんよ。圭介さん考えてよ」
「まあ考えてみる。お婆さん葬式があると言ってた」
「なんや昔の連れが死んだんやって。うち昼まで寝るでぇ」
「ぼくは隣におるから」
 ぼくは荒れている黒比目にうんざりした。
「わかった」

 このところパソコンの前に座ってワープロ画面を開いてはみるのだが、土壁色の画面に文字を入力する気持ちが起こらなかった。なにも思い付く物が頭脳から湧き出てこない。なんとか書き出しの数行でも文字を並べられたら、そこから小説になっていくことが過去の経験であるのだが、一つの言葉を生み出す気力が身内にまるでなかった。

 ――これではどうしようもない。

 画面を眺めて腐った気分で呟いた。

 タマが鼻先で匂いを嗅ぐ恰好でキーボードを覗き見ていた。ぼくはその白い頭を撫でてやった。
「いのちの終わりが近付いてきたような気がする」
「書けないのですか」
「そうでもないのやがもうこれでええかという気持ちになってしまうのや」
「まだまだ小説をお作りになれると思います」
「なにか虚しい」
「創作がですか」
「いや自分が。胸の中は気力のない虚しさだけや。そしてもうそろそろええのでないかと思う」
「まだ早いと思いますけど」
「タマはそう思うか」
「はい。お疲れになられているのではありませんか」
「そうかも……何もしないのは退廃だ」

 インターネットにアクセスしてみる。世界中の情報満載。世界がコピーされている。しかしぼくが生きるのに世界の全てが必要なわけではない。京都・吉田山に隠遁して洛中を見ていた吉田兼好や一丈四方の狭い庵に棲んで鴨長明のようにほんの少しの世界を眺めていても、現代にまで通じる物を書き残す人物もいる。当時のことを書き残した人物は少なかったから貴重にもなるのだが、現代はインターネット上に書き残すというよりは吐き出された物が多く、荒涼と堆積したゴミ焼却場の有様。現代人は犬のように鼻をくんくんさせてその中をうろつき、何か掘り出そうとしている。しかしあまりにも広大で自分が必要としている物は見付からず、必要でない物をぼやっとした眼で眺めていることも多い。

 ぼくは眼と頭脳が疲れるのでそれもしないのだが。

 それでもこの幽閉の境遇から覗き見られる唯一の外界だ。ここに幽閉されて二月ほどになる。金の心配は要らない。三食もあてがわれている。周囲は、といってもこの窓から眺められる猫の楽園とその向こうの森だけだが、創作にもってこいの静かな環境であるが、創作すべき物が浮かんでこない。このままではますます腐敗する。

 足利義満と世阿弥のことも図書館に出掛けられなくなってから、一向に進展がなかった。このことも最近のくさくさする一因になっていた。

 黒比目ともずるずるといまのような関係になってしまったが、なる必然性が欠片もなかったのになってしまったからなに一つとして有意義な物を見いだせない。空襲という切迫化した環境で、たまたま白痴の女と同居する羽目になった坂口安吾の『白痴』の主人公のほうがいいかもしれない。

 唯一慰められるのは、タマの存在だ。

 そう思いながらタマを見ると、キーボードの脇に猫座りしてじっとぼくを見ていた。ぼくは手を伸ばしてその頭をまた撫でてやった。

 猫という生き物は不思議だ。犬もまた人間に親しい生き物だが、犬は人間と同じ表情をするしそれに合った動きもする。ずっと飼っていればそれが可愛くなるのだろう。猫もまた同様なのだが、犬ほどの表情は見せないのでぼくのほうが感情を読み取らなければならない。別に読み取らなくてもいいのだが同居している以上読み取ってやったほうが猫にとっては幸せだろう。

 犬も猫も自分の幸不幸を考えているのだろうか。ストレスが溜まると犬も猫も体調がおかしくなったり奇っ怪な行為をすることがあるそうだから、やはり犬猫の幸不幸はあるのだろう。
「タマは幸福か」と言ってみる。
「つらいのです。幸福ではありません」

 タマが即答した。

 そうだった、タマはこの三角関係に苦しんでいるのだ。それでもぼくが日に一度は抱いたり掻いたりじゃれ遊びをしたり話し掛けてやるので、奇っ怪な行為をするところにまで至らないだけだ。
「このままではいけないな」
「はい。圭介様の創作活動にもよくありません」

 ――なんとかしなければ……。

「圭介さん、うちはお婆ちゃんのために生きとるんとちゅうで」

 長く逞しい脚がキッチンに立っていた。一眠りしたはずだが朝の出来事を引っ張っている。怒りながら猫たちの昼食のすき焼きを、ホットプレート四台で加熱しているところだ。同時使用で家のヒューズが飛ばないのかと思うが飛んだことはない。ご飯のほうは朝五時起きのおカネ婆さんが、五台の炊飯器で用意していた。

 ブツブツ言いながらも猫の餌の用意はするので、黒比目はおカネ婆さんのために生きていなくても猫たちの役には立っているのだ。藤色のショーツに白のスリップ姿の黒比目の後ろ姿を眺めて思う。
「そらそうやろ。そのために美大に行ったのろ」
 ぼくは食卓の前に座っていた。足元にタマが蹲っている。
「そうなんよ」
「絵本作るのやろ」
「そうなんやけどなぁ……絵本ってだれのために作るの?」
「だれのためって、世界中の子どものためやろ。日本中の子どものためでもええけど」
「うち子どもおれへんやろ、なんや面倒臭なった。圭介さんはだれのために小説書いてるの?」
「だれのためといってもな、小説やり出した頃は自分のためという気持ち強かった。だけどこの頃は読者のためという気持ちが半分は入っている。読者に楽しく読んで貰えるような」
「笑うて貰えるような物」
「いや笑って貰うというのとは違う面白さ」
「絵本より面白そうやな。うち小説書こか」

 ぼくは黒比目の変わり身の早さにあきれた。

図書館の白い猫24

2008-09-01 09:29:07 | 図書館の白い猫
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     6


 十月も半ばになった。

 いつものように朝食を済ますと、ぼくは毎日タマを先導に猫の楽園を散策した。楽園の端、緑のフェンスで囲ってある辺りは、夏の頃より雑草が伸びていた。

 タマ以外の猫との交流は相変わらずなかったが、猫たちもぼくを最初の頃のようには珍しがらなかった。それでも二メートル近くまで近付いてくる猫が数匹はいた。ほとんど耳をピンと立てた仔猫である。ほかは二匹でじゃれあっていたり、追っかけあったり、砂場の砂を掻き上げていた。草むらに蹲っているのや爪研ぎ用丸太で爪を研いでいるのやグループ会議を開いているのもいた。

 向かいの森の所々に櫨(はぜ)や漆(うるし)が鮮血のように紅葉していた。それを眺めているぼくの躯を吹き抜ける風に、透明な秋の淋しさが匂っていた。
「あのススキの手前のほう、あの黄色のひとかたまりは女郎花じゃないかな」

 ぼくは谷底近くの銀の穂波の群生したところを指さした。タマはフェンスの編み目から鼻を網に着け眺めていた。
「そうです。あの辺りは探検したことがございます――咲きにけりくちなしの色の女郎花言はねどしるし秋のけしきは」
「タマはそんな歌を知ってるのかい」
「『金葉和歌集』で見付けました。悪習が強いので私の好きな花ではありませんが、秋の風情です。オトコエシも咲いてます」
「知らない名前だが何処に?」
「女郎花の右手のほう、小さな白い花が霞に見えます」
「あああれか、草むらで見たことがありそうだ……秋はしょんぼりした淋しさがこうした景色一面にある気がする。タマはそう思わないかい」
「私はいつも淋しいです。圭介様がお姉様の寝室にお入りになると胸が痛くなるほど切なく、淋しいのです」
「ううーん」

 ぼくはタマにどう応えればよいかわからなく、視線を紺碧の広がる高空にやった。
「お姉様は絵本を作ると仰いましたが、一向にそのような気配がございません」
「ぼくもうかっとしてたけどそうだった。そのために夏タマを連れて図書館に来てたのだろう」
「そうでございます」
「ぼくももう長いこと図書館に出掛けてない」
「先日お婆さんのお迎えのときに正面の窓から覗きましたけど、夏の頃に比べるとずっとひとが少なく閑散としてました」
「読書の秋なのに」
「夏はおとなの避暑、子どもはお勉強でしたから」
「読書じゃないのか」
「前にも申し上げましたが私は海の生き物、ハーレムを作る海馬のような一夫多妻は嫌いでございます。生涯一夫一妻を守り通すことが私の貞節でございます。『源氏物語』の紫式部は光源氏を批判しております」
「タマは教養が深いな。いきなり紫式部の光源氏批判が出てくるとは……どう批判してるのかな」

 ぼくは猫という動物は全体に古風なのかと考えながら訊ねた。このことでは夏目漱石の『我が輩は猫である』が役に立ちそうだと思ったが、あっちは牡猫だから駄目かもしれないが……。
「そうでなければ「葵」の巻で六条御息所の生霊、物の怪話がでてくるわけはございません。紫式部はあえてこの話を作り、光源氏を批判したのです」
「そういうことなのか。ぼくも『源氏物語』は二十代と四十代で二度読んだけど、タマのように深読みできなかった。古典に霊の出てくる話は多いから、その一つとして読んでしまった」
「「賢木」、「須磨」、「澪標」でも六条御息所のことが出てまいります。しつこく出すことで紫式部は光源氏を、と申しましても光源氏は作られた人物ですから本当の人物は、紫式部の憧れの実在人物でございましょうけど、そのひとの行いが許せなかった、紫式部の嫉妬が生霊、物の怪になったのでございます」
「そういえば源氏の――浅みにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深き恋ぢを――という歌。これは六条御息所が会いに来てくれないので涙で袖を濡らしていますと歌った返歌で、そっちはその程度だがこっちは妻が妊娠腹で会いに来るのも来にくい事情をおして身をそぼつまでして会いに来てやったのだという意味の歌で、源氏の皮肉と白状とエゴが出た冷たいものだなと印象があったが、そうか、紫式部はわざと作ったのか」

 ぼくは意識的にススキの銀波に眼をやっていた。タマの顔を見るとぼくが非難されているように思えるからだった。
「圭介様がいけずなお気持ちでないことはわかっておりますが、結果的には私を苦しめ悲しませ、傷つけておられるのですから、私には――嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとめてよ下がひのつま――という物の怪の歌が身に染みます」

 タマは緑色のペンキのフェンスを掻き上って、わずか四センチ幅の天辺に前肢、後ろ肢を交互に進め、ぼくに近付いてきた。
「タマ、危ないよ」

 ぼくはタマに両手を差し出しタマを胸元に抱いてやった。タマはぼくに抱かれ、潤んだ瞳でぼくを見ていた。

 タマは自分を猫とわかっているのだろうか、それとも自分をぼくと同じ人間と思っているのだろうか……猫とは思っていないのかもしれない。ぼくは近くのほかの猫を眺めた。どの猫も自分を猫とわかっている顔をしていない。かといって自分を人間とも思っていないかもしれない。だがタマの様子を見ていると自分を人間と思っているようでもあり、ぼくを猫と見ているようでもあり、ぼくは妙な気分だった。

 とにかくタマを猫と見ているのはぼくのほうなのだ。もしこれが誤解に基づく認識であったら……深く探求すると気が狂うかもしれない予感があった。
「タマとこうしているひとときがぼくにはいちばんの安らぎだ」
「私もそうでございます」
「そろそろ部屋に戻ろうか」
「その前に朝のキスを」
「そうだった」

 ぼくはタマの鼻先にキスをしてやった。

 タマを抱いて玄関土間に入ると、おカネ婆さんが町に下りていくために上がり框のところに腰を下ろし、長い白の靴下の足に運動靴を履こうとしているところだった。着ている物は夏の半袖妊婦服のようなものが長袖に替わっただけである。不機嫌な顔であった。
「黒比目が京都のホテルでまた働こか言うて叱ってやった。あれは母親の血ひいとるで行かしたらどなるやわからん。もう歳やのにそれがわかっとらん。おまはんがよう言うてきかさな」
「こっちのホテルが暇なので退屈なんでしょう」
「おまはんがしっかりしてくれんと困るのじゃ」
「はあ……」
「ちゃんと黒比目を満足させとるか」
「それはどうなのか……」
「葬式や」
「葬式ですか」
「ホームの連れの一人が急に心臓停まって、町に娘と孫がおるから葬式する」
「喪服着て行かんのですか」
「喪服は町の友だちに預けてあるからそこで着ていく」

 おカネ婆さんは不機嫌なまま玄関を出て行った。

図書館の白い猫23

2008-08-31 21:02:02 | 図書館の白い猫
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 足元に行燈が灯っている。どうもタイムスイッチと連動した自動点火による行燈らしい。今夜も満月だが昨夜よりは白色だ。昨夜は天井板に金色の丸い紙を満月に模して貼られていたのかと思ったが、そうではなかった。かなり広いガラスを嵌め込んだ明かり採りだった。いまの時期、丁度この時刻に満月が昇ってくるのだ。

 タマも展望ルームのホワイトボードに蹲って、窓の向こうの満月を見ているかもしれない。

 黒比目がどういう育ちをしてきた女かわからないが、黒比目はスタンダールが『恋愛論』で分類した肉体恋愛を男女のラブラブと思っているのかもしれない、とぼくはベッドに横たわると天井の黒い梁を眺めて思った。それだとしたら可哀想な育ちだ。しかし昨今女子高生辺りから、こう思っているのが増えてきたように思える。一応口では情熱恋愛に憧れているようなことを言うが、実際にやっていることは肉体恋愛で、破局を迎えるとすぐに新しい恋人を見付ける。男と女のどちらもこうだから、結婚までに何人と肉体関係を結ぶのか。

 肉体関係を結びすぎて結婚に躊躇する女もいるだろうし、売春まがいの泥沼に足を取られて抜け出せない女もいる。もっと悲惨なのは殺されて野山や林道に捨てられている事件がよく報道されている。黒比目がこれらのどれに当てはまるかわからないが、現状のままでは行き着く先はこうした女たちと変わらない気がする。

 できれば黒比目の幸福な生涯のことを思案してやりたいとも思うが、ぼく自身が昨夜のていたらくではどうしようもない。だが昨夜は致し方のない面もあった。酩酊しすぎたし、寝場所が変わって興奮気味であった。なによりも昼、夜と欲情昂進ジュースを飲まされて、自制心がぶっちぎれてしまった。

 今夜黒比目があの豊満な肉体で迫ってきたら決然と拒絶し、黒比目をあとに残してこの屋敷を飛び出せばいいのだ……飛び出して何処に行くのだ、もうあのマンションに戻れないのだ。いやそれよりも夜にこの屋敷から一歩でも外に出ると、トリカブトの毒矢に射られて悶絶死する。死ぬ覚悟はできているがよりによって毒矢で死ぬことはないだろう。

 こうなると早まった結論は導かないほうがよい。黒比目だってまんざら性格の悪い女とは思えない。いずれ時の経過が決着を促すだろう、ぼくは妻との離婚のケースを振り返ってみた。あのときも時の経過によって妻と大きなトラブルもなく、落ち着くところに落ち着いた。妻はいっとき悲嘆の涙に暮れたり恨み言を繰り返したかもしれないが、なにしろ新築三ヶ月後に飛び出してマンション暮らしをしていたから、妻のそうした面を知ることなく、スムーズに離婚できた。

 黒比目とこの先生涯を共にするかどうかは神仏や時の経過に委ねよう。ここまで思案し終えたとき、黒比目がドアを開けた。片手に盆を持ち、その上に昨夜のジュースが載っていた。

 ――ううーん……。

「待ったぁ、これ作ってた。昨日効いたやろ、飲んで」
「ありがとう、ちょうど咽が渇いていた」

 黒比目の顔を見た途端、言わなくてもいいことまで口を滑らせた。

 ぼくはベッドに半身を起こして、黒比目はベッドのかたわらに突っ立った姿勢でぐぐっと飲み干した。それから黒比目は、寝よ、と威勢よく叫ぶとバスローブをパッと脱ぎ捨てた。黒比目は男の面前で自信ある裸体をさらけ出す趣向があるようだ。ぼくはその裸体を見て目蓋をパチパチさせた。赤一色のショーツ、それも深紅の薔薇が燃えているような正真正銘の赤だった。
「すごい色だな」
「シルクを紅花で染めたショーツ、高かったよ。全部で七色ある」
「七色もね」
「さあ寝るよ」
「ああ」

 ぼくは半ば悲鳴のような声で応じた。

 そして黒比目はベッドに横たわると昨夜のように頭をぼくの顔に擦りつけるようにして、さらに一方の手でぼくの顔を弄(いじ)り廻すのであったが、どうもその手つきが気になった。
「黒比目、普通女は愛しい男の顔を触るときは五本の指を伸ばして指の腹や掌で顔を撫でるもんだが、きみは招き猫のように指先を曲げて撫でるけどどうして?」
「だってお婆ちゃんうちが子どもの頃から、女はみだりに指先を伸ばして爪を見せるものでないってしつけたからよ」
「ふぅーん、そうなの。なんだか優しく撫でられているのでなく、ポコポコ叩かれている感じだな」

図書館の白い猫22

2008-08-31 17:07:03 | 図書館の白い猫
是非ともクリックを
「バーに来たのたった三人。地元の不動産屋のおっちゃんが接待の二人を連れて来ただけやで」
「三人?」
「こっちは二人なのよ雇っているママと」
「ママを雇っているの?」
「オーナーはうちやけど、表向きママは四十三の雇われママ。うちはシェーカー振るのと会計のチェックするだけ。お喋りはそのひとの仕事」
「ふぅーん、楽といえば楽そうだけどお客が少ないと手持ち無沙汰だな」
「地元のお客はカクテルなんかオーダせんの。バカの一つ覚えでハイボールかビール。京都の国際ホテルだと毎晩二、三十人が入れ替わり。二組三組は外人さんやし、英語で市内観光のガイドしてるだけでも楽しかった」
「そうだろうね」
「今夜は雇われママ一人で十分……何してたの」

 黒比目は早口に喋ったあと訊ねた。
「タマと読書」
「そう、お風呂はいってくる」

 ややタマを焼いているような鼻白んだ気配だった。そして白い太腿が浴室への廊下に消えた。
「三人じゃな」
「お姉様の道楽仕事ですから。それでも一晩十人来ることもあるようです」
「十人だとなんとか商売になるだろうけど」
「何か読まれました?」
「うん、『骨拾ひ』」

 『骨拾ひ』は原稿十枚未満の掌篇である。川端が十五歳のときに盲目の祖父が病没した。このときのことを題材にした作品である。

 父親は二歳のとき、母親は三歳のとき、ただ一人の姉は十歳のとき、祖母は七歳のときに亡くなっていた。このときから川端は天涯孤独の境遇となった。
「『骨拾ひ』ですか」

 ぼくはタマに川端の天涯孤独を説明してやった。
「お気の毒な、淋しいお育ち」
「そうだね……」

 ぼくは太い梁が二本横たわっている吹き抜けの天井を見上げて、川端の生涯に思いを馳せようとした。そこへらくだ色のバスローブを着た黒比目がタオルで髪を拭きながら現れた。そしてホームバーに近付いた。
「ブランデー飲む?」
「貰おうか」
「こっちに来て。タマにはおやつの蒲鉾」

 スツールに腰掛けた。タマもカウンターの上に移動した。猫座りして前肢を舐めている。
「何読んでたん」

 黒比目はタマと同じ事を訊ねたので、ぼくは同じ返事をした。
「面白いん?」
「どうかな」

 『骨拾ひ』は二十代の初めに新潮文庫『掌の小説』で読んでいたが、全集で読み直すと末尾に加筆があった。その箇所が新鮮であった。二十代のときは特別の印象はなかったが、再読してみて、十八歳のときの作品としては、さすがに巧いと川端の才能を思い知らされた。少なからずショックだった。

 川端が作家を志望したのは十四歳の頃である。その後天涯孤独の川端は、自分のような文学者は天才でなければならぬと天才願望に執着した。ぼくは天涯孤独ではなかったが肉親愛に縁遠い育ちだったので一面川端に類似していないこともないが、川端と大いに異なるのは作家志望の気持ちもなく、まして天才願望など微塵もなかったことである。人間の差異が出た。
「川端ってそんな育ちしたん、うち知らんかった。写真で顔見たことあるけど、好きな顔やなかったおし」
「禽獣(きんじゅう)のような鋭い眼だから近寄れん女も多かったかも」
「高校のとき夏休みの読書感想文の課題『踊り子』やったんどす、読書嫌いやったのに強制読書させられたんどす。あれのどこがええのん、踊り子の裸ちらっと見ただけどすやろ。こんなん読ますセンコー、アホか思たわ」

 いまも怒っているような口調だった。そしてマタタビ入りカマンベールチーズを口の中でくちゃくちゃした。

 読書嫌いが絵本を作りたい?

 ついでにタマを見るとこちらはこちらで、顔を傾けて蒲鉾の白身を口の端に咥え、かみ砕いていた。耳がピンと立っていたからかみ砕きながら、人間の話を聞いているようだった。

 不思議なものでぼくと黒比目のあいだに白猫熟女のタマが存在するだけで、二人のあいだの空間の様子がなんとなく和らいでいるように感じられた。ぼくと黒比目の二人きりならブランデーの味覚と酔いは、違った物になる気がした。
「どうここの居心地?」

 黒比目はブランデーを口に含んでから訊ねた。
「一日二日ではどうとも言えない。だけど自然が身近で車の音がしないのがいいかな」
「猫の鳴き声気にならない?」
「あまり鳴き声がしなかった」
「喧嘩やラブラブはたんびたんびでないから」
「喧嘩するの?」
「動物ってテリトリーあるやろ。それを侵されると猛烈に怒ることある。あと三角関係」
「そんなときどうするの」
「タマが飛び出して行きよるねん。しばらくすると静かになる」
「タマが仲裁するのやな」
「そうやねん」
「お婆さんは健康やね、晩酌の焼酎で寝てしまう」
「毎日早寝早起き外出、リズムが決まってるし」
「健康な暮らしってとこやな」
「どう小説書けてる?」
「この夏は暑いから創作は休憩。図書館で足利義満と世阿弥のことを調べていただけなんや」
「うちとのラブラブ書いて」
「きみとのラブラブ?」

 ぼくは黒比目の顔を見て笑った。
「なんで笑うの?」
「昨日顔合わせして車に乗せられてここに来たんやで」
「いっしょに寝たやないの」
「だけどほとんど会話してない」
「それもそうやけど……なんか書くことないのん、熱烈なラブストーリー」

 ぼくはスモークサーモンの赤身を一切れ、口に入れた。
「そろそろ寝るか」
「先にベッドに行ってて」
「そうする」

 ぼくが腰を上げると蒲鉾三切れを食べ終わっていたタマは、素早くカウンターを飛び下り、階段に走った。
「先に眠ってください。お姉様はタフでしつこいですから」

 タマは目配せするような口調で囁いた。
「そうするよ」


図書館の白い猫21

2008-08-31 15:39:11 | 図書館の白い猫

 そこへタマが戻ってきた。
「もう食べたか」
「ミャオ」と返事すると、タマはぼくの足元に猫座りして、ぼくを見上げた。
「黒比目と相性はええか」
「ええかと言われてもまだ一日二日ですから」
「男と女の相性は逢うた瞬間、パッとわかるもんじゃ。もっともワシはこれで失敗ばかりじゃが」
「歳が離れすぎてますとすぐには行かんことがあります」
「抱き合うて寝とったらそのうちどっちもええようになる」
「そうですかね……」
「小説書く邪魔にゃならせん。せいぜい可愛がったってくれ」

 おカネ婆さんはやや弱気な顔で両眼をしょぼつかせた。

 おカネ婆さんの生活サイクルは決まっていた。午前九時過ぎに町に下りて、午後五時前後に戻り、猫たちのメシの用意をすませるとそれから風呂にはいってから、二人分の夕食の支度(といっても時間の掛かることは何もなかった)をして、晩酌の焼酎を呑んで寝る、これの繰り返しであった。
「退屈やったら二階の書庫に少し本があるから読めぇ」

 おカネ婆さんが二階に寝に入ったので、ぼくはリビングのソファに移動した。まだ創作に打ち込む気分ではなかった。腰を下ろしてみたものの新聞も購読していないので手持ち無沙汰であった。そこへタマが近付いてきて、いきなり仰向けになった。例のサインである。
「掻いてくださいよー」

 ぼくは床に腰を下ろすと両手でもぐもぐとタマの腹を愛撫してやった。タマは黒い瞳孔を両開きの戸を閉めるように細め、そのうち気持ちよげに両眼を瞑ってしまった。腹、咽、耳ともみくちゃに愛撫してから手を止めると、タマはパチッと眼を開けて、これで終わりでございますか、という顔をするので、もう一度愛撫してやった。そして近くのゴミ箱にケーキの箱でも包装したようなピンクのリボン紐が見付かったので、タマの顔の上で揺らすと、仰向けのまま前肢、後ろ肢を動かし、眼の色を変え真剣な顔でじゃれついた。

 こうなると春日局や片倉家の後家、喜多の威厳は失墜した。

 しばらくタマと遊ぶとぼくは書庫に何か本を取りにと腰を上げた。するとタマも今までの遊戯的態度を豹変して、むくっと立ち上がった。
「何処に行かれるのですか」
「うん、書庫に何かいい本がないかと思って」
「ご案内します」

 タマは部屋を走り出ると、一度階段の下でぼくを待って、それからピョンピョンと二階に駆け上がった。

 黒檀の重々しい書架が壁に沿っていた。国民百科事典、世界大百科事典、国語大辞典に続いて、古典全集、川端康成全集、谷崎潤一郎全集、三島由紀夫全集、松本清張全集、宮尾登美子全集、向田邦子全集、司馬遼太郎全集、藤沢周平全集、芥川賞全集が収められていた。

 ――だれが読むのだ?

 とにかくこれだけの書物が揃っていると退屈はしそうもなかった。
「タマ、これだけの本、だれが読むの?」
「私が古典を読む以外はだれも読みません」
「えっタマは古典を読むの?」

 先程までのリボン紐にじゃれついていたタマの言葉とは思えなかった。
「少しでございます」
「タマはえらいな……川端康成全集が三十五巻と補巻二まで揃っているのはいいな。ぼくは若い頃は川端文学に関心なかったのだけど、この頃初期作品を読んでみようかと思っているのだよ。そしていのちを絶つまでに川端について書いてみたいのだよ」
「いのちを絶たれるのですか」
「ぼくは病院で死にたくないよ。病院で死ぬ自分を想像すると耐え難い。だけどだれにも言っちゃ駄目だ」
「そのときはふつつかながら私お供します」
「いゃあ、お供しなくていいよ」

 ぼくは川端康成全集巻一を引き抜くと、タマの後ろから階段を下りていった。リビングのソファに腰を沈めると、タマを傍らに頁を開いた。黒比目の戻ってくる前にシングルベッドで眠るわけにはいかないだろう。黒比目がご機嫌斜めになることは眼に見えている。
「ぼくはね、創作の手本として初期の頃に川端の『掌の小説』を模写していたことがある、原稿用紙にだよ」
「そうでございますか」
「だけど写していてもそのコントに近い長さの内容がわからなかった。川端が真剣に『掌の小説』を創作しだした頃は国木田独歩や田山花袋の自然主義文学とロシア革命の影響で勃興したプロレタリア文学の二大潮流があってね、川端とか横光利一はとくに自然主義文学に反撥して新感覚派を誕生させたんだよ」
「どれもわかりませんが新感覚派とは何でございますか」
「うん、要するに自然主義文学の思想にある写実主義、たとえばさ、ここにぼくがいてそこにタマが居る。そこでぼくがタマの真実を小説にしようとしたとき、田山花袋らは自分とタマを別物として扱うが、川端は自分の中にタマが居ると思うのやな。客観に対して主観主義なんや」

 ぼくはタマを相手に説明しながらアッと気付いた。メイ・サートンの――人間がネコの中に自分自身の一部を見いだすようになったときだけ、……ネコが人間のなかに自分自身の一部を想像してしまうようになったときだけである――。

 ――そうだ、これだ。

 ぼくは改めて川端の慧眼に感嘆した。
「そうなんですか。圭介様のなかに私が居る、嬉しゅうございます。そのお言葉で私はいつでも圭介様と死ねます」
「いやいやそう深刻に受け取って貰わなくとも……これは新感覚派の話だから」
「私には新感覚派は圭介様の私への愛の言葉に聞こえます」

 ぼくは猫の心理は人間の女以上に微妙だと思いながら、ページに視線を戻した。
 二十代の頃に読書したときは『掌の小説』の一篇、一篇が頭に入ってこなかったが、今回はそうでもなかった。
「面白うございますか」
「うん、面白い」
「ほっておかれて私は淋しいです」

 笑顔だがどこか恨めしげである。
「ぼくの膝のあいだに来る?」
「行ってもいいのですか、読書のお邪魔になりませんか」
「ならないよ」

 そう言うとタマはその場所から、いったん膝のあいだにねらいを見定める真剣な眼になったかと思う間にジャンプ、スポンと膝のあいだに蹲った。それからぼくの顔を見上げて満足そうな笑みを見せた。

 黒比目は十一時十五分に戻ってきた。ぼくの膝に蹲っていたタマを見ると、一瞬眉を顰めて忌々しそうな表情になったが、タマに気取られてはと思ったのが、平生の顔になった。水色のフリル付Tシャツとベージュのパンツにサンダルでホテルに出掛けたのであった。片方の手首にティファニーの黒いブレスレットを嵌めていた。
「疲れたー」

 ぼくの顔に向かってため息つくように言った。
「客が多かったの?」
「逆逆、お盆が終わってホテルガラガラ」
「あー、そうか」


図書館の白い猫20

2008-08-31 09:34:29 | 図書館の白い猫
 絶対に、を確信を持った口調で言ったので、ぼくは絶対にがぼくのことを指しているのでないかとちょっと不快になったが、黒比目の手がぼくの背に廻ってぼくをベッドに引き倒したので、その感情はすぐに消えてしまった。
「タマはなんか近付きがたい気品があるな」
「お婆ちゃんが若い頃京都でホステスしてたんよ。そのときタマの祖母にあたる白猫を御所の近くで拾うたんよ。御所育ちの由緒ある猫なんやと」
「そういう感じや」

 五時過ぎにおカネ婆さんは、黒比目の運転するキャデラックで戻ってきた。これから黒比目がホテルに勤めに行くのだが、往復タクシーを利用しているとのことだった。
「なんもかも片づけてきた。あのマンションのオーナーの奥方というのが、今でこそお茶やお花やと着物で上品ぶっとるが、若い頃のワシの弟子でな、若い頃よう遊んだもんや。何遍も男のことでワシに泣きついてきよったんで、ワシが中に入って収めてやったわ。敷金は向こうにやったで。それからパソコンと仏壇は土建の社員が運んできて、前のマンションの一階事務所の机に載せてあるから、黒比目といっしょにとってきな。黒比目の隣の部屋に運びな」

 午前中の苦行で精も根も使い果たしたうえに腰が抜けたような具合だったが、すぐに仏壇とパソコンを二階に運んだ。ちょうどタクシーがマンション前に横付けたので、黒比目はその足でぼくに爽やかな顔で手を振ると、ホテルに向かった。

 思いがけないことにわずか一日で、ぼくのここでの新生活がスタートしたのだ。しかしこういうことは案外人生に多いものだ。案ずるよりも産むが易し、人間万事塞翁が馬なのである。これがわかっていないと先々を思い煩い、夜も眠られずに鬱になる。為せば成るでなく、成るようにしかならないとぼくのように腹を括っておるとどうにかなる。このことは明日がない、未来がないの覚悟と相矛盾しているようだが、相通じるところもある。人間、他人には暗い顔を見せないということでもある。

 それにしてもあまりにも軽々しい新生活のスタートである。ぼくに当てられた部屋は六畳サイズでシングルのベッドとライティングデスクが置かれてあるだけだったが、一間幅の収納壁があり、そこに仏壇と衣類は納められた。

 黒比目が夜中に戻ったらおまはんもせわしないやろと、おカネ婆さんが言うものだから、ぼくのノートパソコンとハードディスク、プリンターなどを接続する作業を、夕食前に取り掛かった。元々ライティングデスクにノートパソコンが接続されていた。分岐装置を用いてぼくのパソコンも使えるようになった。

 ――もう夜は嫌や、早う寝るで。

 ぼくは胸の裡でぶつぶつ言いながら作業をした。

 かたわらの床にタマが猫座りしてぼくの作業を珍しそうな眼で見ていた。
「黒比目が戻ってくるのは十二時頃?」
「いつもその頃でございます。戻ってこられるとお風呂にはいられ、それからホームバーでブランデーをお飲みになります。そのとき私は鯛の蒲鉾を頂戴いたします」
「もう夕食は食べたの?」
「これからでございます。いまお婆さまが用意されてます。もうインターネットできるのでございますか」
「うん、繋がった」
「おめでとうございます」
「ありがとう」

 ぼくがパソコンの接続作業をしている間に風呂を上がったおカネ婆さんは、昨日の甚平姿で食卓の前に座っていた。食卓の真ん中にホットプレートが載せてあった。
「肉はめいめいで好きなように焼かんか」

 めいめいといっても二人きりである。
「タマは?」
「すき焼きご飯を仲間と食べよる」
「そうですか」

 ぼくは重量感のあるステーキ肉をおカネ婆さんの分まで指で摘んで熱くなったホットプレートの置いた。
「ステーキは毎晩ですか」
「これを一日一枚食べんとなんで生きとるのかわからん」
「いつもお昼はどうされてるのですか」
「町の外れに養護老人ホームがあるじゃろ。あっこで食べとる」
「養護老人ホームですか」
「あっこにワシの若い頃に遊んだ連中が三人居る。もう百近いで死にそうじゃ昔話をしにな。八十、九十の連中もおカネさん、おカネさん言うて職員よりワシを頼りにする。昼はワシの食べるもんまで賄(まかな)いが用意してくれる。タダじゃ」
「そうでしたか」
「昼ご飯食べると町に戻って二、三軒知った家に寄り道しとる」
「それで五時頃まで」
「何処に立ち寄ってもお菓子とお茶が出る。お喋りしとったらすぐ時間経つじゃろ」
「そうですね」
「いつもワンパターンじゃ」

 声はなかったがおカネ婆さんは破顔一笑して、グラスの焼酎に口を着けた。
「これはアジの刺身、これは冷や奴(やっこ)、これも食べぇ」

 ステーキとアジの刺身、妙な取り合わせであったが、味噌汁と並んでいた。
「ワシは料理は焼くか煮るかしかできんからコンビニで出来合いを一つ二つ買ってくるだけじゃ。刺身はアジがええ。高級魚は口に合わん」

 おカネ婆さんは刺身に醤油をちょっと付けると、三切れほど一口に口にして、しわくちゃの口元をもぐもぐ動かした。
「歯はみんな自分のもんじゃ」
「入れ歯なし?」
「ない」

 ぼくもアジの刺身を一切れ口にした。マンションで一人暮らしのときは万一の食あたりを気にして刺身は一切口にしなかった。マグロの刺身を飼ってきても味噌汁の中で煮た。

 一人暮らしは急に来る猛烈な腹痛が怖いのだ。これまでに創作期間中に三度急性胃炎になり、死ぬ思いでタクシーで救急病院に駆け付けたことがある。死ぬ覚悟はできていてもこういう不意の苦痛は耐えきれず、額から首筋、背中からの脂汗をところかまわずぽたぽた垂らしながら、日頃は忘れている、神様、仏様を呼ぶのだが、呼んでも効き目がないのでタクシーに乗ることにした。別れた妻は五百メートルほど離れたところの新築に住んでいるが、別れた以上、元妻の助けは借りたくなかった。
「ぼくも高級魚の刺身はそんなに旨いとは思わないな」
「明治、大正、昭和を生きてきとるから何でも食べれたらそれでええ」
「そうですね、ぼくも敗戦後の育ちだから舌が貧しく育ってます。母も料理は鯖や大根を煮るくらいしかできなかったし」
「おっかさんは何しとった」
「父が敗戦後直ぐになくなってからは大阪・難波の宗右衛門町でダンサーしてました」
「なんちゅう店ね。銀馬車かオリエンタルホールか」
「富士でした」
「一番大きなダンスホールじゃ、よう知っとる。何遍も踊りに行った」

 おカネ婆さんにもそういう時代があったのだ。
「京都でホステスして、それから大阪、神戸じゃ。小林旭の歌にあるじゃろ「昔の名前で出てました」、あれじゃ」
「そうでしたか。その後この町に?」
「次々男に騙されての」

 そう言うとステーキを口に入れ、これも旨そうにもぐもぐしていた。

図書館の白い猫19

2008-08-30 22:57:17 | 図書館の白い猫
「力みなぎるわよ」
「そうかな……その前にちょっと猫の楽園を朝の散歩してみたいな」
「タマに案内してもらいなさい。うちはベッドに居るから、きっと来てね」
「うん、そうする」
「タマ、圭介さんを案内するの」

 タマはその声で、躯をパッと起こした。ぼくも腰を上げた。

 猫の楽園に出ると、散歩していた猫、木陰で蹲っていた猫どもが、頭をぼくのほうに向けた。そして近付いてきた。だが一定のラインに来るとそこから先は近寄ってこなかった。ぼくの数歩前を行くタマが威嚇しているようだった。ときどきシューと威嚇するような息を吐いていた。ぼくは五輪オリンピックのマラソンランナーのように遠巻きにされていた。顔を寄せ合い、鼻先をくっつけ合ったりしながら、あの人間だれ? タマさんの恋人よ、ちがうわよ、黒比目さんの恋人よ、というお喋りをしていた。車座になって会議しているグループも眼に付いた。話題はぼくのことだった。仔猫を引き連れた母親もいた。

 奥まった処の納屋も覗いてみた。暗い棚にも猫が蹲り、両眼を光らせていた。

 金網フェンスから谷底を見た。十メートル以上の深さであった。白い、尖った瓦礫の谷底で、猫でも落下して打ち所が悪かったら血反吐を吐いて即死だろう。森を成している向こうの山肌との間隔は七、八メートルしかなかった。
「橋は二本の鋼鉄製ワイヤーです。そのあいだに木を渡してあります」

 タマはバスガイドのように説明した。
「タマも渡るのかい」
「私はお姉様の車であちこち外出するので、森で気晴らしはしません」
「図書館に出掛けたり」
「三宮の大丸にショッピングに行くこともありますよ。お姉様はブランド志向ですから、あそこの外商部が気に入っておられます」
「広い野原って感じだね」

 ほくはフェンスに凭(もた)れて来た方向を見渡した。
「ええ、のびのびと暮らしております」
「牡牝の比率はどんな感じなの」
「牡は十三匹、あとは牝です」
「それじゃ一夫多妻もあるね」
「猫の世界では当たり前ですが、中には気に入った者同士でないと牝が交尾を嫌がることもあります。でも発情期の牝は人間のセックスと違って、どうしても子孫繁栄の本能が強うございますから、相手を選べない面があります」
「哀しい話だが猫の世界では哀しいというほどでもないのかな」
「私は嫌でございます。一夫一妻の契りを守り、お一人のかたに操をたてるつもりです。それが叶わなければここから飛び下りてもいいのでございます」

 タマに眦(まなじり)は見当たらなかったが、タマの眦がキッとなった気配があった。
「黒比目さんもそういう考えかい」
「いえ、私とは違うようです。これまでにお二人の男性とのお付き合いがございました。お一人はお父様の組織の組員、あと一人はニューヨークで黒人のかたと。どちらもシルベスタ・スタローンタイプのキン肉マンでしたが、一年も続きませんでした」
「そうなの……」
「その二人の男性はもうこの世におられない気がします」
「殺された?」
「よくはわかりません」

 人間と猫の相違もあるだろうが、黒比目とタマは考えに相当の開きがあるようだった。
「人間の人格も千差万別だが、猫にもタマのようなのがいるのか……」
「猫も千差万別です」

 ぼくはため息混じりの気分で深緑の森の梢を眺めた。この町に住んでいてもこういう場所に出掛けたことがなかった。意外と深そうな森林だった。ときおり鳥の鳴き声が聞こえた。
「森の向こうが農村地帯ですからスズメ、カラス、ルリビタキなどが。時々コジュケイの鳴き声もします。熊はおりませんが、鹿、狸、イタチ、ムササビはおります」
「そう。まあ人界に煩わされなくていいな」
「創作はかどりますでしょう」
「そうあってくれればいいがね、どうだろうか」
「創作は有意義なお仕事です」
「そうだろうか……ずっと小説の創作をしてきたが、ぼくは文学でも詩人、歌人、俳人のほうが純粋芸術でないかと思ったりする。さらに音楽、絵画、彫刻のほうが」
「どうしてでございますか」
「うん、小説はこれを創って応募して一発当てたいみたいなという野心がちらついてね、もちろんそうでない作者もいるがね。暮らしとの兼ね合いが難しいというか、だからぼくは子育ての時期は創作しなかった。つまり創作が人生のメインではなかった。それほど崇高な仕事と思えなくてね……だが子育てを終えてしまうと、これしかないなとまた創作に戻ったけど」
「それが圭介様のお仕事なんですわ」
「そうかな……戻ろうか」

 なんとなく疲れを覚えていた。だが下半身から爪先にかけて妙に熱っぽいものが渦巻いてもいた。

 タマ一匹を眺め入るときは感じなかったが、猫の群の中を四つ足でゆっくり歩いているタマを見ると、辺りに威厳が漂うというか威風堂々とした物腰を見るのであった。徳川家光を育てた乳母の春日局、あるいは独眼竜伊達政宗を養育した片倉家の後家、喜多を髣髴とさせるものがあった。たかが猫一匹と思ってみるが、どうもそうでないものがあった。帰路でもほかの猫はぼくの三メートル以内には近付かず、それでいて興味の眼(まなこ)を大きく見開き、首を傾げたり、前肢で顔を一撫でしたりしながら、視線はぼくを追っていた。おそらくぼく一人ならもっと近付いてきただろう。

 広い屋敷だけに戻ってきても、百年前に建築された家のように重々しい空気が沈殿して、静まり返っていた。タマのあとを随いてリビングルーム、ダイニングルームと廻ったが黒比目は居なかった。二階の寝室で眠っているのかもしれない。
「失礼して私もここで少し居眠りさせていただきます」

 そう言うとタマはリビングのソファの片隅にピョンと飛び乗り、蹲った。
「昨夜は一晩中喜多様の御身を案じて眠れなかったのでございます。姉上様は貪欲な気性のかたですから」
「そうだったの。ぼくのことは気に懸けないでゆっくりお眠り」
「そうさせていただきます。その前にキスをしてください」

 ぼくはタマの鼻面にちょこっとキスをした。

 階段を上った。頭の中の思いと下腹部から下に渦巻く熱いエネルギーとのギャップが大きかった。あのジュースの薬効が下腹部に拡がってきたのだろう。黒比目の寝姿を見ないうちからぼくのアレは怒張していた。

 手元にぼくのパソコンがない以上、きょうは一日創作に打ち込めない。本が読みたくても本がない。その上、躯の一部分がとにかくおかしい。こいつだけは時々ぼくの躯であってぼくの躯でなくなるのだ。しかしそれもここ一二年はおとなしかったのだが、昨夜来おかしくなってきた。この熱狂じみた渦を消すには黒比目の寝室に入るしかないのだ。

 ぼくは衝き上げてくる欲望と怠惰な諦念の分かちがたい感情のまま、寝室のドアを開けた。黒比目がベッドからぼくを疑り深そうな大きな眼差しで見ていた。それは人間の眼でない猫の眼のようにも想えた。
「タマと何もなかったの?」
「何もって、何もなかったよ。楽園を隅々まで案内して貰って戻ってきた。谷が深いね」

 ぼくは黒比目に近寄った。
「逃げられないわ」
「あの高さでは猫でも無理だ」

 黒比目はぼくの応答に笑みを浮かべた。
「絶対に逃げられない」

図書館の白い猫18

2008-08-30 20:14:17 | 図書館の白い猫
「共有たってタマがここ掻いてとか遊んで言うてきたら、それしてやったらええだけなんよ」
「……」
「そんならこれでええな。おまはんはなんも心配せんでええ。図書館に出掛けたいときは黒比目に言えばええ。旅行したいときは黒比目とタマがお供するからどこえでも、沖縄でも北海道へでも行ける。小説家には取材旅行も必要なんやろ」
「たまにですが」
「金の心配も要らん」
「はあ……」

 ふっくら炊き上がった朝ご飯だった。パン食の上、朝食は食べたり食べなかったりであったから、なん品のおかずの揃えてある朝食は旅館の朝食のようでありがたかった。毎朝こうであれば午前中から創作に取り組む意欲が湧いてきそうだった。

 ぼくはおカネ婆さんの提案を承諾した。持ち出す必要最小限の荷物を考えるとノートパソコン二台と周辺機器とタンスの上に載る仏壇くらいだった。この仏壇には先祖、両親や先に亡くなったきょうだいの戒名が書いてある木札が、一つの位牌に納められていた。夫を敗戦直後に亡くした母は、転居のたびにこの仏壇を運んだ。ぼくが死んだあとは祀る者がいないので、いずれ檀家寺に永代供養の形にしなければと考えているが、当面はぼくが祀っていた。

 下着類は黒比目がすでに上下一ダース分、三宮の大丸から取り寄せており、外出着は必要に応じて買い揃えればいいということで、いま持っている物は全て廃棄処分することにした。当分はここに来るときに着ていた物と藍染めの作務衣があるので、それで間に合いそうだった。
「そなら出掛けてくる」
「お婆ちゃん、車運転するわ」
「かまわん、歩いて下りる。帰りだけ荷物あるさかい図書館前に来てくれ」

 かカネ婆さんは玄関を出て行った。ぼくは恐縮した、それでいてなんとなく未消化な気持ちで六階建てマンションのほうに向かう後ろ姿を、外に出て見送った。

 そのときマンションの様子を眺めた。一階から六階まで白壁で窓がなかった。窓の開いてるのは町を見下ろす側だけなのだ。

 ――そうか、マンションからはこの日本建築と猫の楽園は見えない、すると存在していないのと同じなんや。

 秘境、いや密室世界だった。外界への出入りのリモコンスイッチはおカネ婆さんと黒比目だけが所有しており、猫の楽園の周囲は垂直十メートルのブロック壁と猫橋だけである。ここで暮らすということはこの二人と猫ども以外には、ぼくが世間から非存在になることを意味しているのだ。

 怪しげな気分に陥った。だがここ数年間、他人との交渉は最小限に、創作に没頭していたのであるから、世間からはほとんど非存在であったのだから、それの延長と解釈できないこともないと考え直すと、幾分気持ちが晴れた。

 ダイニングルームに戻った。
「掻いてくださりませ」
「何か言った?」
 ぼくはキッチンで洗い物をしている黒比目の背中に声を掛けた。
「言うとれへんよ」
「掻いてくださりませ」

 えっ! タマの蹲っていた場所に視線を向けると、笑顔のままのタマは仰向けになり、しきりに頭を床に擦りつけ、S字に躯をくねらせていた。
「昨夜はお姉様を掻いてあげたのでしょ。今度は私の番です。お姉様は圭介様の愛をお姉様と私とで分かち合う約束をされました。掻いてくださいませ」

 タマが人間の言葉を喋っているではないか。
「黒比目、タマが人間の言葉を話しているよ」
「何て?」

 振り返った黒比目がタマの姿態に眼をやった。
「掻いてと」
「ホント、ボデー・ランゲッジで要求してる。掻いてやって」
「いやボデー・ランゲッジでなく人間の言葉でだよ」
「圭介さんも猫語が聞き取れるようになったの」
「猫語が? どうして?」
「うちと通じたので猫耳になったのやわ」
「ぼくの耳が猫耳に!」

 ぼくは両方の耳に両手を重ねたり、耳朶を引っ張ってみた。
「恰好は変わらないわよ。内耳、鼓膜の半分が猫の鼓膜になったの」
「鼓膜が猫の鼓膜に」
「そうよ。お婆ちゃんやうちの耳と同じようになったの。早く掻いてやらないとタマの機嫌悪くなるよ」

 ぼくは前肢後ろ肢を宙に突き出し、無防備に腹部をぼくの眼に曝しているタマに近寄った。
「ここがいいの?」

 ぼくは腹部を片手の指を立て、もぞもぞと掻いた。
「邪魔臭そうに掻かないで。両手の指先で優しく掻いてください」
「こうかい」
「そうです……咽もお願いしますね。それと耳の裏も好きです」
「気持ちいいのかい」
「とってもよござんす」
「タマ、いいわね。圭介さんに愛されて」

 黒比目はタマを見つめていた。
「うちもあんまり眠ってないから、もう一度ベッドにはいろか」

 黒比目は意味ありげな、扇情的眼差しをぼくに向けた。

 今朝のぼくの躯は採取されすぎてカラカラになった油田のようになっていたので、またベッドに戻っても機能するとは思えなかった。
「うちは夜より午前中のほうがずっと燃えやすいよ」

 昨夜だって野生どころか野獣のように燃えていた。あれ以上燃えられたらぼくは殺されてしまうだろう。

 だが女の欲情が底なしであることは、妻やその他の数名の女との交情で知らないこともなかった。それを男の辛抱の足りない短時間セックスで放置するから女のほうにストレスが蓄積するのだ。そしてそのことが愛情不信や他の男への興味に繋がっていくこともあることはわかっているが、カラカラではどうしようもない。
「朝のジュース作るわ」

 洗い物を終えた黒比目はジュースの材料を用意しだした。
「昨夜のジュース」
「あれにあとスッポンエキスと海馬(とど)エキスを加える」
「スッポンは咥えたら雷が鳴っても離さないそうだよ。海馬の牡は何頭もの牝をしたがえてハーレム作るのだよな。けっこう疲れるのじゃないかな」

 ぼくはタマの咽を掻きながら言った。

 気持ちがいいのかタマは咽をゴロゴロと鳴らし、躯をくねらせ、尻尾を左右にパタンパタンさせていた。
「一度に何頭もとすると憔悴するわね」

 ぼくは黒比目一人で憔悴するよ、と言いかけたが止めた。
「はーい、食物繊維たっぷりジュース」

 黒比目は二つのグラスを両手に持って食卓に運んできた。
 バナナ一本、生卵、朝鮮人参、ロイヤルゼリーとマタタビ、それにスッポンエキスと海馬エキスを猫乳でミックスしてどこが食物繊維たっぷりだ。これも口にしかけたが止めた。昨夜トランポリン上で何度も跳ね飛んでいたとき、極彩色のサイケデリックな模様が輝いていた。あれだけでも神経がおかしくなっていたのではないか。その上にスッポンエキスと海馬エキスをミックスしたものを飲むとどうなるのかと考えたが、黒比目が旨そうに飲んでいたので、ぼくも一気に飲み干した。

図書館の白い猫17

2008-08-30 15:32:56 | 図書館の白い猫
     5


 黒比目は羽毛の先で触れただけで飛び跳ねたり反り返ったりする愛撫過敏体質であったから、大柄な躯の割にはぼくの苦労は少なかった。官能への感覚は躯の大型小型は無関係なのかもしれない。このことをぼくは黒比目で初めて知った。

 だがこれはぼくの愛の行為の話で、ベッドの上のことは何度も黒比目の肉体の下敷きになっていのちを落としそうになった。最初のうちはぼくの上に跨っている黒比目の肉体の圧倒的ボリュームでぼくは圧死する恐怖を覚えた。そのうち黒比目はコロッと仰向けに寝転ぶとぼくの躯を白い肉体の上に引き摺り上げた。そして肉体を激しく上下に躍動するものだから、ぼくはさしずめバネの利いたトランポリンに乗った子どもの気分であったが、飛んだ後でトランポリンの領域から飛び出して床に叩き付けられないかと心配であった。何度もトランポリン遊びをしていると次第にぼくの意識は北海の時化の海原を航行する漁船になっていた。

 アッと思う間に海底に引きずり込まれてあわや海の藻屑になるかと覚悟すると、その瞬間に急速にうねりの頂点に昇ってそのまま宙に放り出される頭脳の空白、この二つの恐怖を窓のカーテンに夜の白み始めた明るさが広がってくるまで、一休憩しては再開と黒比目の願望する野生のセックスがダブルベッド狭しと痴態のかぎりを尽くして繰り返され、黒比目のあまりにも奇態なア黒比目バット的肉体の変容はとても人間業とは思えなかった。しかしぼくは始終幻惑の白昼夢の中にいたので、その一つ一つを克明に思い出すことは不可能だった。

 快楽混じりの意識と感覚は生きた心地の物でなかったことだけは確かだ。

 ――これが野生のセックスか!

 意識朦朧とした中で作家魂の意地に懸けてそれを認識しようとしたが、白濁した意識は〈それ〉とは何か、〈それ〉すら混濁したものだった。

 この間黒比目は人間の女の官能的陶酔の喜悦とは異質な声をずっと張り上げていた。それはぼくがこれまでの女(数少なかったが)から聴いた物とはほど遠く、春の夜の公園の薄暗闇で薄気味悪い交尾の猫の鳴き声にも似たものだった。しかし顔が吉永小百合顔だったからその薄気味悪さもさほど気にはならなかった。

 そしてぼくはいつの間にか眠っていた。眼が醒めるとカーテンはずっと明るくなっていた。ベッドでぼくは自分の下腹部が軽くなっているのに気付いた。それは融けて無くなった感じだった。骨盤の中に内蔵していた物質がすっかり無くなり、虚ろになっていた。

 その頃黒比目はもう起床していて寝室にいなかった。ぼく一人がベッドに取り残されていた。ぼくはほんのりと明るい室内を見回した。窓のある壁、ドアのある壁、長大の姿見付ドレッサーの置いてある壁、何もない壁、どの壁にも銀の星々が光っていた。窓の反対側の何もない二間半幅の壁はよく見ると引き戸になっていた。タンス、棚を納めた収納壁かもしれない。さらにその奥にシャワー専用のバス・トイレが隠されているような気がした。

 簡素で贅を尽くした趣向だった。

 ベッド脇のサイドテーブルのデジタル時計が8:10を表していた。

 ――もうこんな時間か。

 寝不足気味の頭で呟いた。

 ドアが開いて一段と艶めかしくなった、晴れ晴れとした表情の黒比目の顔が覗いた。
「起きた?」
「うん、いま眼が覚めた」

 黒比目は近寄ってくるといきなり被さってきてキスを求めた。
「朝ご飯できてる。お婆ちゃんが待ってるよ」
「そう」
「洗顔はこっち」

 黒比目は引き戸を開けた。やはりこの奥にバス・トイレがあるのだ。ぼくは裸のままベッドから抜け出すと黒比目のあとに随いた。二間幅で洋服ダンス、整理ダンス、その他がはめ込まれており、端に半間のドアが付いていた。
「何かのときには洋服ダンスが移動してこのドアを隠すんよ」
「何かのときって」
「万が一の何かのときよ。二三日は隠れておれるんよ」
「忍者屋敷だな」
「下着も置いてあるから替えて」
「ありがとう」

 下に降りて行くと、おカネ婆さんがいつもの妊婦服ドレスにエプロン姿で食卓の前に座っていた。床にタマも蹲っていた。
「車の音せんからよう眠れたやろ」
「静かですね」

 ぼくは寝ぼけた声を出した。首筋に寝不足が貼り付いていた。
「ワシはこれから町に出るが、おまはんはここに居り」
「いえ、ぼくもいっしょに」
「いや、マンションの引き払いの手続きはワシがしてくる」
「マンションとは?」
「おまはんが住んどったとこや」
「あそこをぼくは出るのですか」
「そらぁそうやないか。ここにずっと住み」

 おカネ婆さんは当然という顔付きだった。しかしぼくには何が何かわからなかった。そこに黒比目が湯気の上がった味噌汁を運んできた。食卓にはすでにアジのヒラキ、ヒジキ、海苔、卵焼きの皿が載っていた。
「芸術家にはパトロンが要るんよ、モーツアルトのように」

 黒比目が朗らかな声で言った。

 これもタマの報告だ、とぼくはタマを見下ろした。笑顔でぼくを見ている。
「まあそうですけど……」
「五時までは黒比目とタマが居る。それからあとはワシとタマが居る。十二時頃黒比目はホテルから戻ってくる。ほかの猫もおるから退屈はせん」
「出るとなると荷物の整理が」
「そんな物は土建会社の社員三人ほどでやれば半日仕事や。だいじな物だけこっちに持ってもさせる」
「それはそうですが……」
「ここで黒比目と暮らしながら小説書きぃ」
「タマとも話し合いがついてるのよ」

 黒比目が嬉しそうな声だった。
「話し合いがついている?」
「タマにな、圭介さんを共有するのやと説明したら納得してくれた」
「共有されるのですか」
「そうやねん。猫ちゃん心理は人間と同じで三角関係は難しいねん。そやからこんこんと説明してやらんと納得せんのよ。猫は牡牝ペアで飼わなあかん。人間との関係も一人の飼い主と一匹の猫ちゃん。二人の人間と一匹の猫ちゃんの組み合わせは難しいねん。とくにうちとタマが圭介さんを取り合いするケースはな」
「共有ね……」