志賀高原 たかまがはら温泉 白樺林の温泉露天風呂の宿

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11月29日

2011年11月29日 08時37分26秒 | Weblog
天気 快晴 気温3度
氷が張っていて夜間は氷点下まで下がったようですが、暖かいです。

過日ブリノートなのにピステン掛けと指摘を受けたましたが
スキー場を整備するピステンが志賀山リフトに導入されたのは
昭和46年1971年との記載がありました。
正式名称はピステンブ-リー ドイツのケースボーラー社製です。
2階建てバス等製造している特殊車両のメーカーです。

ピステンが導入される前のゲレンデ整備は人力で行なっていました。
スコップ片手にギャップの上を削り溝に埋めて次のギャップと動いていきました。
当時ジャイアントなどの急斜面はギャップだらけでした。
きちんとスキーのセンターに体重が乗ってスキー全体を使わない滑りをしないと
下にはたどりつけません。斜面が怖いと言って後姿姿勢になればギャップで飛ばされ
転倒しました。

ドイツより輸入され車体番号2番だったそうです。値段は当時の金で800万
新築の一軒家が買えるとの記載もあります。

人力で行なうスキー場整備は終わりの無い作業でした。拷問に近い作業です。
初心者コースなどでは雪上車でローラーを引っ張って圧雪作業を行なったようですが
急斜面のゴフ潰しは、コブが無数にあるし潰しても直ぐに出来ます。
4.5人で凍ったギャップをスコップやつるはしで壊し削り、防寒具と言っても
ペラペラのウェアー足元はゴム長で、しかも滑っている間に行なっていましたので
いつスキーヤーが飛び込んでくるか分かりません。しかも潰すそばから新しいコブが
出来ます。
スキー大会などの場合、つぼ足と言いまして4.50人が整列してスキー靴を履いて
腕と腕を組み(男同士で)上から下まで小股で踏み固めて行きました。
私もオリンピックの時やらされました。1回スキー場を降っただけで疲れ
登る気力はありません。

スキー場に急速に普及して、スキー場整備の代名詞がピステン掛けとなりました。
大原鉄工のラ・トラックやイタリア製のブリノートが出来たのは後のことでした。

ピステンと言いますと今でも1台4~6000万円しますが、修理代が高いです。
外車ですから、ある程度の部品は日本国内にストックしてありますが
無い部品は空輸になります。船便ではシーズンが終わってしまいます。

旧渋峠リフトでは、当時の社長の甥っ子が作業を請け負っていた時期がありました。
社長が「おめえた!!大事に使こうてくれれば!!ベンツの1台くらい買うてやる!!」
とぼやいていました。甥っ子という事もありますが無理して壊します。
通常のゲレンデ整備は問題無いのですが、たとえばスキー場への雪出しの場合
3回に分けて出せば良いものを1回で押し出します。機械への負担は大きくなり
時期に壊れます。
修理費はべらぼうな金額になりますので、ベンツ1台600万くらい安いものです。
しかし、甥っ子にすれば夜間1人で作業しますので、無理をしでも早く作業を
終わらせたいと「この位なら大丈夫!!」でガッシャン_| ̄|○
社長にすればベンツ1台分以上の修理費となります_| ̄|○

ラ・トラックは新潟県にある大原鉄工の製品ですが思い出があります。
西館スキー場はラ・トラックを導入し、修理や試験のため大原鉄工さん当時よく私共に
お泊りになりました。

イタリアのスキー場に初めて行ったらラ・トラックが置いてあり本場ヨーロッパでも
大原鉄工の技術が認められ極東の日本から輸出されたと目に熱いものを感じました。

大原鉄工の部長が泊まりに来た時、その話をしたらなんとスイスメーカーの
ライセンス生産で始めたとの事でした。つまり私の見たのは日本製でなく本物
ラ・トラックは  LaTrack  フランス語でした。

ブリノートは私乗った事がありません。イタリアと言うとライトナーと言う機種が
あり、それは乗った事があったのですが経緯は分かりません。

志賀高原リゾート開発いつの間にかブリノートが多くなりました。
性能が同じならピステンブーリーより安いブリノートでとの事ですが
現場にすればやはりピステンの方が居住性も良く作業もしやすいとの声も・・・






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2 コメント

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Unknown (牛池)
2011-11-29 23:10:02
伯父が大原に勤めておりました。
南極越冬隊用の雪上車を信濃川でテストする写真や、菅平での耐寒テストの写真を見せてもらい、話を聞かされました。雪上車は氷の割れ目から落ちても沈まないように設計していたのだそうです。写真で見る雪上車は信濃川に浮いていました。
南極にも誘われたそうですが、「私はシベリア抑留されていたので、勘弁してください」とお断りしたそうです。
時代的なものがあり分かりませんが、もしかしたら伯父もかかわっていたのかなあと思い、書き込みさせていただきました。
時々横手山山頂に大原と書かれた雪上車を見ては、故人となった伯父を思い出します。
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コメントありがとうございました。 (ホテル銀嶺)
2011-11-30 07:30:09
前にも書かせて頂きましたが、ラ・トラックが壊れると
作られた社員の方が修理に飛んで来られて喧嘩をしていました。
「お前の作った所が壊れているじゃないか!!」
「お前のところが良く無いから無理が掛かって壊れたと」
良い物ができる筈です!!

南極に行かれた社員の方もお見えになりました。
なんと運転は大原の社員の方がされていたそうです。
設計者自ら現場で経験しないと分からないことが多くありますので
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