私だけではないかもしれないけど、まさか ばかりでした。
事実は小説より奇なり という言葉、もうそんなのあたりまえじゃない だよね。
史実か作り事の極端を組み合わせた模倣で動かされてるから、ひっくりかえって当然。
こうも言える。
小説でも映画でも(って、文学映像青年少女でもないので偉そうには言えませんが)、楽しかったり、趣があったり、主人公に導入しやすかったり、なんだかんだいって未来は開けていたり、それなりに平穏なところには戻ってきたり。 自分にはそんなことにはならないと仮他人ごととして見る系も、選択限定的だったり考えなくて済む理由付けにかたづけてあったり。 (そうなってくると好みじゃないかな。 )
言葉にできるくらい割り切れる事ならまだ扱いやすい。
事実を伝えるために表現するには、もう限界で、その言葉自体もどんどん従来の真実表現から誤解に導く誘導付けが否応なしに受け手にあっても、気付きにくい。
書くという投影作業は自分の雑多認識を整理できるともいえるけど、
どうもその言葉の枠にひっぱられ、そういう様式を作った考え方に寄っていってしまってご自身では認識が動いていることに気づけない方もいるのかもしれない。
書くことに限らず、そうやって、やり方や様式を限定すると、それ以上動けない人になってしまう。
もっと悪いのは、限定にとどまらず、縮小制限過多に固執しだすことで、こうなるともう、特定作用がかかったと言い切れる。 言うこと全般、論理のかけらも持たなくなるし、本人が気づくことなんて望めないの目の当たりとなる。いろんな意味で本人に原因があるのに、目の前の人のせいとセットになってると厄介さ増すうえ、より自分で気づけなくなるのだろう。
残念ながら、当人にはわからない・・・。
こういうことがあると何となくでも知った人にですら。
そのことを忘れることから始まるのかな。
そしてその人は強すぎる。