※ 昨日から誤字が‥ 気づいたときにはパソ子を離れていたりで、修正遅れました😰申し訳ありません🙇♀️
周囲の山々も、私の頭部も、ずいぶんとやられて小さくなってしまいました。
春や初夏ともなれば、ホントはうれしい季節なのに、ときどきベソをかくような天候や景色で、なんとも。
山々が小さくなっても、なぜ人々がすぐにギャッとならないかといえば、残った木々があり得ない方向に伸びていて隠しているからなんだろうな。
私の頭の形や大きさが急変しても、髪や髪型でか誰も気にとめないように。
でも頭だけじゃないもんな。
あんなこんなで打撃を受けても なぜ思い出すことができるかといえば、一つには幼少の頃から 場に応じた自分なりではあってもコツコツ真剣に生きてきたというのがありますが、やはり人間社会が成熟期を迎え、悪影響対策に絞られてからの優れた、そして親身な教育機会を設けられたからでしょう。そんな生き残り。
極悪犯は、一人間の傍若無人や姑息とは、まったく桁違いの悪さ。
たとえばの特徴は、何でもあり犯罪者のほか あたかも大衆や 支持受け済みの虎の衣(表現)を借りている、支持者役を伴っているなど、自分は立場を確かめられることもなく攻撃相手には圧力包囲し あたかも偶然を装って瞬時につきつけている、またそうやって本来正しいほうの姿ややり方をまねて混在させてきて反感や疑心暗鬼を生ませてくる など、とんでもなく厄介なのです。
これらを鋭く見抜くにはまず学習にあたって、人間や自然は従来どうであったか、経時的なもののとらえ方、観察・照合の必要性、自分にだけでなくの被害の出かたなど問題を客観的に重視すること
などが意識されないといけませんでしたし、そう求められていたと思います。
かたやの現在、
学習どころか物がダメになったのに物に頼りだし、
人口把握もできていないでしょう。
自分たちでの安否確認だけがたよりですのに、断ちたがる。
有史以来、いや人類発生前から ここまで ひどい状況は初めてで、残念ながら、私と同じような過程をもっての学習をすすめたくても現在は困難でしょう。
地球が所定の位置で同じような大きさで回っていたころには、人間は先祖代々 安定して生活を営み、大事なことを継承してきたわけですが、
驚くべきことに それがほとんどねじ切れてしまった今さら。
先人が悪の意図からくる予測がすでについてきたのも、当然といえば当然でした。
以前の記事で、メディア不倫は ほとんど不倫じゃないなんて話しましたが、
今日は
理想 について改めて述べてみます。
よく、理想の人 理想の家 なんて好みのタイプの代わりに 理想 を使いますが、ずいぶん意味違うぞの不倫と違って そのような意味はあるでしょう。
でも 古来の理想とは、そんな一個人の好みの概念とはまたずいぶん違っています。おそらく。
安全で安定した自然環境、循環 というのは、まちがいなく人間の理想です。
地球上の生物として、なんだかんだ言っても自然法則のみで生きられることほど納得のいくことはありません。
美しさの尺度でもあると私は思います。
人工的に、いくら自然の機能をそのまま模倣しようとしても、自然の掟にあれば、造形物でもロボットでも、実のところまったくもって歯が立ちません。
自然の掟を破れば、概念上は可能ということでしょう。
しかしこういったものは人の製作過程に はまらない部分が出てくるので、人間を介した十分な使いこなしや体得無ければその分だけ真心が存在しなくなってきて、その分だけ人間を表す芸術的な美しさは伴わなくなります…と思ってゆらいでいません。
精密さにおいては、人間も けしてひけをとりませんでした。特に昭和までの日本人って器用だったんです。そんな人間の特典を 人間以外にあけわたして単に受けるだけなんて、私は面白くないし、それを扱いうるのが自然の創造主ではないことは明らかなので、自然から受けるような美しさは見いだせなくなります。
人工物と手作業は区別されますが、それは人間も自然の一環だから、手作業のほうはある種、自然の営みなのでしょう。
江戸時代からの本物のお雛様の雛壇は、それは見事でした。お人形とはいえ、一糸乱れぬ高い品格の顔立ちや姿、(金に松の屏風だったかな、それはギリギリ本来のものイコールではなくなった時が最後確認でしたが安定感と高貴を示していたのはわかりましたし、両雛が映えました)車や着物、楽器(演奏)、装飾、産物、植木、活動の細部に至るまでそのための粋を極めた材料で非の打ちどころなく仕上がったものには各々に魂が宿り、静かに訴え来るものがありました。(一体を除いて。代々守り継がれたであろうお雛様は一晩で被害を受け、とんでもない疑いとともにとんでもない悲しみと宣戦布告を一気に一身に受けることになろうとは。その前からの民芸運動はもてはやされてきていますが、その影で 絶滅を受けていた伝統品が多くあったとみられます。未来永劫、あのような高い品格をそなえたお人形を見ることはないのは確実です。こういったことはどうも世界共通です。)
自らを含め自然と真摯に向き合い、学び、呼応する活動を、美術、芸術 と私は呼びたい。
話を 理想 にもどしまして⋯
大いなる自然循環がうまくいっていることが、現実とは違う 理想(イデア)でしかないのは、悪影響から逃れられなかったからで、
哲学上 、イデアと現実が完全に分けられているのは、悪影響が必ずあることの暗示だったわけですね。(いま、自分で納得。)
数学で、証明には不十分すぎて役に立たない演繹法を 証明法の1つにすえていたのが、まだまだどんなことでもあり得ることを示す戒めのためだという…それと似ていると思えば、さすが(かつての)学問でした。
現在に至っては、そんなせっかくの学問も 悪もんに逆手にとられ、
証明の使い方も中身までも誤って悪の手法にしていたし、
きちんと理想へ方向を定めて完全なる状態を目指していても 悪影響に立ち向かわねばならないのを、理想を避けて逆方向に向かうことで理想とは違うものだと屁理屈ダダをこねていた
という、
しかも主要のいい大人が。
悪影響というのは、ちょっとでも浸食許したら、あとは全部やられる性質でもあるのに。
浅く狭い既成概念には、悪影響が存分にとりつきやすい、最悪ごとを発揮されてしまう、もうおおかたやられてしまっていた⋯これがどれだけ 怖しいことかを、今からでも社会全体で気づいていってほしいものです。
少なくとも憲法が守られている中でしか人間はまともに生きれないところ、催眠術が入れば、憲法に背を向けることになっているわけです。
目前で起これば当初ショックに耐え対処に困惑しているだけに見えても、その人間の痛めつけられようだけでなく、内容的に催眠術の有無の判断要因、憲法違反が次第にも はっきりしてくるのです。
加害者になりやすいほうは 本当の学問を軽んじ、言葉や概念を単発に覚えているなどで、悪の催眠術が入っていても自覚しづらいとみられます…
事実経緯に沿った真実が日本国憲法なので、体系的な知識となり、キッカケを受ければ記憶を引き出せたのでしょう。
■ 日本国憲法は、永遠の最高法規
「日本国憲法の発布」(施行開始)より 永遠に定まっています
日本国憲法の発布以降の 日本の法は、初めから物の記録に任せない公布であり、こちらのような 本元による正しくあった伝承に託されています
治世も学問の伝えかたも、日本国憲法に準じます