♪ 交番を曲がれば 角の駄菓子屋の 向いは 豆腐屋で
♪ こんな秋の夕暮 あちこちから秋刀魚を 焦がす匂いが立ち込めた
♪ ひと昔 ふた昔 思い出せない月日が流れ
♪ 車を寄せて 眺めている まぼろしの路地
♪ 不審な顔で 往き交うのは 誰も皆知らない人だよ
♪ ほらワイパーの 向う側 砂場で一人俺が遊ぶ
♪ 買い物かごを手に 微笑って見守る あれは若いお袋か
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 引越しのトラック 泣いて追って来た 隣の 女の子
♪ きっと今は恋した 覚えもなく娘を 嫁にやる日を待つだろう
♪ ひと昔 ふた昔 そしていい年数えてみても
♪ 何かを時に 探しに来る まぼろしの路地
♪ 親父と行った弁天湯の 煙突が居残るだけだが
♪ ほら片隅の 公園で ブランコ高く俺が漕ぐよ
♪ 天まで漕ごうとも 東京タワーの先も見えはしないのに
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 遅すぎる
♪ 時間の扉の 鍵はもう
♪ どこかに落としてしまった
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 暮らした界隈 街はもう
♪ すっかり変わってしまった
詞:ちあき哲也、曲:杉本 眞人、唄:すぎもとまさと「曙橋~路地裏の少年~」
YuoTubeへのリンク
https://www.youtube.com/watch?v=oyMpTDSMeBM
昨日の「ヨシムラ」同様、この詩も・・・
幼稚園と小中学校時代を過ごした横浜の長屋時代を想い出させる。
アルミのボールを持たされ、豆腐屋へよく買い物を頼まれた。
同級生の赤羽んちの卵屋へも良く買いに行った。
国道と商店街の角に菓子屋があり、たまに量り売りの崩れ煎餅を買った。
子供会の会長宅の裏山で将棋盤を拾ったのは、この時代だ。
昨日、「カメラに興味が有った訳ではないので・・・」と書いて思い出した事がある。
ただし、大部分は日記の記録で・・・
記憶はそれを読んで蘇った。
高3の春、就職先の候補に挙げていたのは・・・
日本航空・日立造船・呉造船・日本石油・三菱石油だった。
先生との面談でも、日航(整備士)は無理だとは言われなかった。
が・・・数日後、一転して日本光学を受ける事にした。
金子正明と言う同級生の誘いがあって急に精密工業に興味が湧いたからだった。
彼も同期入社したが、確かサービス部配属で、カメラ修理の仕事が性に合わず数年で辞めてしまった。
デジカメが普及しだしたのは1995年頃だったろうか。
早期退職してWEBデザインの仕事を始めてからは、当然デジカメは商売道具だった。
CPU・メモリの目覚ましい高性能化で、デジカメもこれ以上ないほど高画質になった。
フイルムカメラ時代には考えられない程、手軽にバシャバシャ撮れる。
ワンショットのシャッターチャンスに神経を使った時代には考えられない程便利になった。
そのデジカメすら存在が危うくなるほど、スナップショットはスマホで済むようにすらなった。
日本光学(現ニコン)に入社しカメラの仕事をし始めた頃は、
将来写真家に、なんて事も視野に有ったが、
100億総写真家の今、とっくにそんな夢は諦めた。
そのニコンの、カメラ事業が危うい。
♪ こんな秋の夕暮 あちこちから秋刀魚を 焦がす匂いが立ち込めた
♪ ひと昔 ふた昔 思い出せない月日が流れ
♪ 車を寄せて 眺めている まぼろしの路地
♪ 不審な顔で 往き交うのは 誰も皆知らない人だよ
♪ ほらワイパーの 向う側 砂場で一人俺が遊ぶ
♪ 買い物かごを手に 微笑って見守る あれは若いお袋か
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 引越しのトラック 泣いて追って来た 隣の 女の子
♪ きっと今は恋した 覚えもなく娘を 嫁にやる日を待つだろう
♪ ひと昔 ふた昔 そしていい年数えてみても
♪ 何かを時に 探しに来る まぼろしの路地
♪ 親父と行った弁天湯の 煙突が居残るだけだが
♪ ほら片隅の 公園で ブランコ高く俺が漕ぐよ
♪ 天まで漕ごうとも 東京タワーの先も見えはしないのに
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 遅すぎる
♪ 時間の扉の 鍵はもう
♪ どこかに落としてしまった
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 帰りたい あの頃へ 帰れない
♪ 暮らした界隈 街はもう
♪ すっかり変わってしまった
詞:ちあき哲也、曲:杉本 眞人、唄:すぎもとまさと「曙橋~路地裏の少年~」
YuoTubeへのリンク
https://www.youtube.com/watch?v=oyMpTDSMeBM
昨日の「ヨシムラ」同様、この詩も・・・
幼稚園と小中学校時代を過ごした横浜の長屋時代を想い出させる。
アルミのボールを持たされ、豆腐屋へよく買い物を頼まれた。
同級生の赤羽んちの卵屋へも良く買いに行った。
国道と商店街の角に菓子屋があり、たまに量り売りの崩れ煎餅を買った。
子供会の会長宅の裏山で将棋盤を拾ったのは、この時代だ。
昨日、「カメラに興味が有った訳ではないので・・・」と書いて思い出した事がある。
ただし、大部分は日記の記録で・・・
記憶はそれを読んで蘇った。
高3の春、就職先の候補に挙げていたのは・・・
日本航空・日立造船・呉造船・日本石油・三菱石油だった。
先生との面談でも、日航(整備士)は無理だとは言われなかった。
が・・・数日後、一転して日本光学を受ける事にした。
金子正明と言う同級生の誘いがあって急に精密工業に興味が湧いたからだった。
彼も同期入社したが、確かサービス部配属で、カメラ修理の仕事が性に合わず数年で辞めてしまった。
デジカメが普及しだしたのは1995年頃だったろうか。
早期退職してWEBデザインの仕事を始めてからは、当然デジカメは商売道具だった。
CPU・メモリの目覚ましい高性能化で、デジカメもこれ以上ないほど高画質になった。
フイルムカメラ時代には考えられない程、手軽にバシャバシャ撮れる。
ワンショットのシャッターチャンスに神経を使った時代には考えられない程便利になった。
そのデジカメすら存在が危うくなるほど、スナップショットはスマホで済むようにすらなった。
日本光学(現ニコン)に入社しカメラの仕事をし始めた頃は、
将来写真家に、なんて事も視野に有ったが、
100億総写真家の今、とっくにそんな夢は諦めた。
そのニコンの、カメラ事業が危うい。