寒空と強風の中、洋二との観光は続きます(○゜Д゜)人(゜Д゜○)イッェーイ
ここ下関市は自分が幼少~少年時代を過ごした思い出深い街でもあり、
いつ来ても感傷に浸れる大好きな街です。
関門トンネルを抜け市街地に向いました・・・
わし・・・『洋二、あそこの上の方に山本譲二んちがあるで。』
洋二・・・『へ~っ下関ですか?だから関門海峡を歌ってたんですかぁ~へー。』
わし・・・『あっああそうやのぉ・・・』
『もうちょっとこっち側には松田勇作の実家やで。』
洋二・・・『凄いですね!やりますねシモノセキ』・・・なにが凄いんだか・・・
そんな事をいいながら軽油の補給にGSに入りました『カードで満タン』
洋二・・・『ダメですねえシモノセキ、あのGSのねーちゃん達まったくやる気無しです。』
『窓1枚しか拭きませんでしたから』 ゆーたらんかいや( ̄_ ̄ i)タラー
『福山ナンバーだからもうこんやろ~テキとーでええわ思ったんでしょうねー』
『・・・・・・。』
そんな調子で自分の過ごした町内や日本海沿岸、ロンブー敦の出身地・彦島、
海峡メッセ辺りを車で流し歴史の学習のごとく壇ノ浦と赤間神宮にて歴史勉強会です。
(○゜Д゜)人(゜Д゜○)イッェーイ
バカバカしいんで2人の会話はここら辺でカットしとく。
■寿永四年三月二十四日壇之浦合戦に平二位の尼前は
「今ぞしる みもすそ川のおんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠じ給い此の事を
深く思召されし昭憲皇太后宮は明治九年に
「いまも猶袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこのみゆき思へば」との御歌を
奉献あらせ給へり此の御ゆかりを かしこみ奉りて、昭和三十三年、
世界唯一の竜宮造りにぞ御造営成るや、同年四月七日天皇皇后両陛下には
親しく神宮に御参拝、御通り初めの栄を賜ひ、あまつさえ御製一首をも
下し給へり即ち「みなそこに しづみ給ひし 遠つ祖を 悲しとぞ思ふ 書書見るたびに」
御祭神安徳天皇は水天皇大神と称へ奉り 徳富蘇峯翁は之が奉建に際して
「玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、
此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり」とせらる。蓋しその結構壮麗雄大にして
古今無比、他に類例なく将に天下第一の観たり
■安徳天皇 80代安徳天皇・言仁(ときひと)は、高倉天皇と平徳子の皇子で、
平清盛の孫にあたる。
そのため、平清盛ら平氏が外戚として権力を振るうことができた。
源平合戦(治承・寿永の乱)の際に、平氏とともに都落ちして西国に赴き、
壇ノ浦の戦いにおいて、入水した。
一部には実は逃れることに成功し生き残っていたという伝承が伝えられている
地域もある。また後の世には、安徳天皇は福岡県久留米市の水天宮の祭神とされ、
水神・安産の神として信仰されるようにもなった。。
『洋二、タタラレとる位悪い事ばっかりやからお払いしとけや』
『色んなトコでお願いしたらイケンのんですよー護国神社に参りましたから
しゃーない(問題無い)ですわ(/・ω・)』
『いちお、帰りに事故らんよーお願いしときますわ、ボクが一緒ですし・・・』
『た、たしかにのぉ・・・(゜∇゜|||)』
ここで自転車でハードな旅をされてる風な年齢不詳な女性2人組に撮影を頼まれた。
自転車には本格的な荷物フル装備でした(汗) この2人組元気過ぎです
自分達2人組は、ダラダラの怠け者観光者のようです。
その後は関門トンネルの人道入り口を見学し(小学生以来)下関ICより帰路についた
洋二君も喜んでくれた事だと思う?:*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: ワーイ
いつもの田舎探しのドライブもええが次回は
唐戸市場や海峡舘にめんどくさがらずに嫁?彼女?
をドライブがてら連れて逝ったれ・・・洋二くん。
なんにしても洋二同乗にもかかわらず無事に帰宅出来たんで
もしかすると、お参りが効いたのかも。次回は773を連れてこよう。 ↓おまけ