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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 21

2023-07-02 05:46:17 | 老子道徳経
 

  第二十一章 虚心(虚心によって知る)

孔徳の容るること、唯り道に是 従 う。
道の物為る、唯り恍(こう)たり、唯り惚(こつ)たり。
惚たり恍たり、其の中に 象 有り。
恍たり惚たり、其の中に物有り。
窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精有り。
其の精 甚 だ真なり、其の中に信有り。
古 より今に及ぶまで、其の名去らず。
以て衆甫を閲(う)けたり。
吾何を以て衆甫の然ることを知らんや。
此を以てなり。

 聖人、有道者は、総てのことを道によって行い、道から離れたこと、道にかなわないことは行わない。
 道は、宇宙の始めから万物を支配していたものであり、道の名は太古から存在していたものである。

 孔徳の容の、孔は、甚、或は、大の意。孔徳は、大徳の人、聖人、有道者を指す。
唯道に是 従 うは、総てのことを、道に基づいて行い、道に合わないことは、行わないことをいう。
恍(こう)たり 惚(こつ)たりの恍は、うっとりとする。ぼんやりとして、定かでない。微妙にして測り難い。惚は、うっとりとする。かすか。奥深くして測り難い。
其の中に象ありの、其は、恍惚を指す。象は、容姿である。判然としない、ぼんやりとしたものの中に、道の姿がある、の意。 
窈(よう)たり冥(めい)たりの、窈は、深し、遠し、静か。冥は、昏し、遠し。窈たり冥たりは、道に対しての、これを形容した言葉であって、道は、深く、遠く、静かにして、昏い所に相対しているようである、の意。
其の精 甚 だ真なりの、真は、真実、真理とすべきものを指す。
其の中に信有りの、其は、真実なるものを指す。信は、何人も信じることができることを指す。
其の名去らずの、名は、道のことを指すと同時に、道の働きも指す。
以て衆甫(しゅうほ)を閲(う)けたりの、以ては、窈(よう)たり冥(めい)たりから、其の中に信有り、までの文章に説かれている、道の働きともいうべきことを指す。

甫は、始め。衆甫は、宇宙万物の始めを指す。 以て衆甫(しゅうほ)を閲けたりは、道は、宇宙の始めから、宇宙を支配し、万物のあらゆる現象を総べおさめている、の意。
此を以てなりは、以上に説明したことによる、の意。

 この章は、聖人、有道者は、総ての行動を道に基づいて行っているものであって、道は、宇宙の始から万物を支配しているものであることは、古から知られていたものであることを説いているのです。


老子道徳教経20

2023-06-16 06:25:17 | 老子道徳経

  
    第二十章 異俗(世俗と異なる)

学を絶てば憂い無し。
唯と阿と相去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と相去ること何若(いかん)。
人の畏るる 所 、畏れざるべからず。
荒たること、其れ未だ央(つ)きざるかな。
衆人 は熙熙(きき)たること、大牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春、 台 に登るが如し。
我独り怕として、其れ未だ兆さず、嬰児の未だ孩(がい)せざるが如し。
儡儡(らいらい)として、其れ帰する 所 無きが若し。
衆人 は皆余り有りて、我は独り遺(わす)れたるが若し。
我は愚人の 心 ならんや、沌沌(とんとん)たり。
俗人は 昭昭 として、我は独り昏きが若し。
俗人は察察として、我は独り悶悶たり。
忽たること海の若く、 漂 として止まる 所 無きが若し。
衆人 は皆以てすること有り。我は独り頑にして鄙(いや)しきに似
たり。
我は独り人に異なり、母(みち)を食(もち)いることを 貴 ぶ。

 この章は、世人が最も関心を高めていること、常に執心を集めていることに無関心の如き有道者は、常人の察知なし得ない自然の雄大、自然の悠久なることのできる境地にあり、しかも、道を修めることは、常に怠らぬためであることを説く。

 有道者は、天地自然は万物に平等である、という、道の基本的の法則を守っているのであるから、裕福者でなければ預かることのできない、大饗宴に招かれることや、物見遊山のようなことに心を動かされるようなことはないのである。それならば、有道者には、素晴らしい楽しみというようなものはないのか、というと、世人には、想像も及ばないことがあるのである。

 時に、静かに、淡く澄み渡った大海原を見渡しているようであり、時には、空高く、強い響きをたてて通りぬける風にきき入っているようである。
 世の人々は、いつでも、また、何ごとに対しても、何かのために、何かをするためにというふうに、為にする心が働いて止まない。

我は独り頑にして鄙(いや)しきに似たり。
鄙(ひ)は、田舎者の如く質朴にして飾り気のないことをいう。
食は、道を行うことについて、心得ていなければならぬことをいう。
母は、天地自然の道を指す。


老子道徳経 19

2023-06-14 06:36:07 | 老子道徳経


 第十九章 還淳(淳朴に還る)

聖を絶ち智を棄つれば、民の利 百倍 なり。
仁を絶ち義を棄つれば、民、孝慈に復す。
巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ること無し。
此の三者は以為(おも)えらく文足らずと。
故に属する 所 有らしむ。
素を見わし朴を抱き、
私 を少なくして欲を寡(すく)なからしむ。

 世の中の人間は、皆苦労の種をもっている。苦を知らない人間というものはないといっても過言ではない。
 それならば、どういう風にすれば、人間は苦から脱することができるかというと、それは、世の中から、聖とか、知とかいうもの、或は、仁であるとか、義であるとかいうこと、或は、功とか、利とかいうものを無くすることである。
 もし、聖知とか、功利に勝れた人が世に尊重せられ、幅をきかすというようなことがないとすれば、民衆は、できないことをしなければならぬとか、できないものを作らなければならないという競争心に駆られることがなくなり、自分の力に合った生活に、満足して暮らすことができるようになるのである。
 仁とか、義とかいうことを、人が気にかけないような世の中になれば、功名心に駆られることがなくなり、競争心のために、心身を疲労させられることがなくなり、父母にはよく仕え、子孫は愛情をもって育てるという、昔の、孝慈の風習に復ることができるのである。
 巧みであるとか、有利であるとかいうことに、人が関心を持たない世の中になれば、人が羨むような品物とか、道具とかいうものはつくる者がなくなり、欲望をかきたてられて盗みを働くというようなものは生じないようになるのである。
 聖知、仁義、功利は、競争心の対象とならないように、すなわち、目立たないようにするのである。

老子道徳経  18

2023-06-06 06:39:08 | 老子道徳経


    第十八章 俗薄(俗世に大道が薄らいだとき)

大道廃れて仁義有り。
智慧出でて大偽有り。
六親(りくしん)和せずして孝慈有り。
国家昏乱(こんらん)して 忠臣 有り。

 この章は、仁義、忠孝等と道徳が尊重されるのは、大道が行われなくなったためであり、世の衰えたためであることを説く。

 淳朴の民ばかりが暮らしているときは、誰かが、何かを考え、誰かに教えても、次から次へと伝わり、皆が知ってしまって、誰が考えたか、誰もしらないようになってしまう。善いことは、皆の血となり、肉となってしまったのである。
 ところが、そういう風には行かない時代が来たのである。
 それは、虚栄心や功名心が強く、その目的を遂げるためには、虚偽を行っても構わないというものが現われるようになったのである。
 また、 淳朴の民は、誰とも親密に暮らすことを普通のこととしていたが、虚栄心や競争心の強い者が社会に多くなると、若い者はその影響を強く受け、勝手気儘なことをすることが多くなり、親子の間が円満に行かない家庭が増え、親が子をいつくしみ、子が親を大切にするということが珍しいくらいになり、その結果、孝であるとか、慈である、とかいうことが言われるようになったのである。
 世の中で恐ろしいことは、虚栄心とか、巧名心に駆られたものが出て来ることである。
 虚栄心や、巧名心は、止めどのない競争心を誘発するものであって、昔から世を混乱に陥れた原因は、大抵はここにあるのである。
 また、世に忠臣が現われるのは、このような混乱が生じた結果であることはいうまでもないことである。


老子道徳経  17

2023-05-26 06:25:05 | 老子道徳経


    第十七章 淳風(淳厚の徳風)

太上 は下之(しもこれ)有ることを知る。
其の次は之を親しみ之を誉む。
其の次は之を畏る。
其の次は之を 侮 る。
信足らざれば不信有り。
猶(ゆう)として其れ言を 貴 ぶ。
功を成し事を遂げて、
百姓 は皆謂う、我自ずから然りと。

 この章は、天地自然の道と、最上の政治とは、いかなる関係にあるものであるかということを明らかにするものである。

 太古において、最高の徳を備えている人は、いかなることをしていたかというと、それは、百姓達の上にあって、国を治めていたものであるが、その有様というのは、何々をするというような、目立つ事は行わない。
 あたかも、天は頭上にいつもあるが、平常においては、天が自分達のために、何をしていてくれるかということを、意識しないで暮らしているようなものである。以上のように、政治が行われていないのか、分からないような政治のあり方が最上の治世というべきである。
 その次の政治のあり方というのは、民が、善き政治の下に暮らしていることを意識し、感謝の気持ちでいることである。
 その次の政治というのは、刑罰を受けるものが多く出るようになって、民が、治者に対して畏れを感ずるようになることである。

 太古の、最上の政治が行われていた時代の君主であった人、有道者は、民、百姓が、我々の生活が旨く行くのは、我が自然の力によることだ。我々は、天地自然の力を利用することができるからだ、というふうに信じている自尊心を尊重し、教えなければならぬことは、直接言葉をもって教えることをなさず、間接的に教えるという方法、すなわち、不言の教を行うという方法をとっていたのである。

 太上は、最上の政治を指す。下は、民を指す。之は、為政者、君主を指す。
 言を貴ぶは、言葉を尊重し、容易にださないようにしていることをいう。



老子道徳経  16

2023-05-24 06:07:06 | 老子道徳経
 

   第十六章 帰根(根に帰る)

虚極 に至り、静を守って篤くす。
万物並び作るも吾は以て其の復るを観る。
夫れ物は芸芸(うんうん)として 各 其の根に復帰す。
根(もと)に復るを静と曰う。静を復命と曰う。
復命を常と曰う。常を知るを明と曰う。
常を知らざれば妄りに 凶 を作す。
常を知るを容と曰う。
容なれば 乃 ち公なり。公なれば 乃 ち王なり。
王なれば 乃 ち天なり。天は 乃 ち道なり。

 この章は、虚を致すことを極めるということは、静を守るということが、不動のものとなることであって、それは、悟道の域に達したのと同じことであり、宇宙観に生ずるあらゆる現象が、明らかに感得せられるようになるものであることを説く。

 心を虚しくすることを極めるということは、その人の気持ちとか、考えとかいうものを、一切出さないようにすることであり、その人の性を無にすることと同じことである。
 このような心境に達することができるならば、天地万物の動きというものが、皆、よくわかるようになるのである。

 根源に帰ることを、道の言葉では、静という。また、静を復命という。天命のことであって、それは、天地の法則である。
 常を知るということ、すなわち、天地の法則が分かれば、心眼がくもるというようなことはなくなるのである。
 常を知ることができないうちは、自信というものがないので、妄りなる行を犯すことも生じ、凶悪なる不幸を招くことになるのである。

 多くの人の言い分を、よく聞き容れるということは、公の、広い心があるからできることであって、その心は、大衆が望む心、大衆の心を代表するものであり、それは、最上のもの、すなわち、王の心ともいうべきものである。
 天地自然の道は、永久に変らないものであって、道と共にあるものは、あやうくならないところの道と、常に共にあるということになるのである。


老子道徳経  15

2023-05-14 07:07:54 | 老子道徳経
 

   第十五章 顕徳(徳を顕らかにする)

古 の善き士為る者は微妙、玄に通ず。
深くして識るべからず。夫れ唯識るべからず。
故に強いて之が 容 を為す。
予たること、冬、川を渉るが若し。
猶(ゆう)たること、四隣を畏るるが若し。
儼(げん)たること、其れ客の如し。
渙(かん)たること、 氷 の将に釈(と)けんとするが若し。
敦(とん)たること、其れ樸の若し。
曠(こう)たること、其れ谷の若し。
渾(こん)たること、其れ濁れるが若し。
孰(たれ)か能く濁れるを以て之を静かにし、徐じょに清からん。
孰か能く安んじて以て之を久しくし、徐じょに生きん。
此の道を保つ者は盈つることを欲せず。夫れ唯盈たず。
故に能く弊(ふる)きをなして、新たに成さず。

 古来から、道に通達しているという立派な人は、いかなる不思議なことにも、また、いかなる見事なこと、勝れたことにも通じていないものはない。その奥深い才能、知識、風格等は想像のしようもないものである。
 いかにしても、おしはかることができないので、強いてそれを形容してみると、次のようになる。
 それは、寒い冬の川の水際まで来たが、この冷たい川の水を、かち渡るべきか、それとも、見合わした方がよいかと、ためらっているような様子に見え、また、四方の国から偵察されていて、隙間があれば、どの方向から侵入して来られるか知れないという不安があるので、そういうことをためらって、慎重に警戒しているようすに見え、また、ある時は、厳然として、客に招待された時のようなようすを示しているときがあり、そうかと見ると、氷が、温かい水の中に溶け込んでゆくように、自分の立場を少しも顧みないで、周囲に同調して行くようにみえる。
 ある時は、朴訥な山出しの人物の如く見え、ある時は、広々として、何物も許容する谷のごとき襟度を示し、ある時は、混濁の世情の中に混じり合っているか分らない風をしていることもあるのである。

 混濁の世が鎮まるまでの久しい間において、人に安心感を与え、徐々に人が生気を取り戻すことができるようにするには、いかなる人に期待することができるであろうか。
 天地自然の道を、常に守っているものは、何事に対しても、充分だというところまでは行わない。
 何となく、もの足りない所までにして、充分という所まで行わないようであるが、それは、大抵は見通しをつけているからである。
 この、何事も充分という所まで行わないという方法は、新しいところがなく、華々しいところがなく、目立たないが、堅実であって、常にものごとを成就させているのである。



老子道徳経  14

2023-05-12 05:54:31 | 老子道徳経



   第十四章 賛玄(玄道を賛える)

之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。
之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。
之を搏(と)れども得ず、名づけて微と曰う。
此の三つの者は致詰(ちきつ)すべからず。故に混じて一と為す。
其の上なりても曒(あき)らかならず、其の下なりても昧(くら)からず。
縄縄 (じょうじょう)として名づくべからず、復た物無きに帰す。
是を 状 無きの 状 、物無きの 象 と謂う。
是を惚恍(こっこう)と謂う。
之に 随 えども其の後を見ず、
之を迎うれども其の 首(こうべ) を見ず。
古 の道を執りて以て今の有を御す。
能く 古 の始めを知る、是を道紀と謂う。

 道は如何なるものであるか、これを見ようとしても見ることはできない。見えないから夷と名をつけてみるべきか。
 道は捉えてみようとしても、微細にして捉えることができないから,微と名をつけるべきか。
 夷、希、微の三つの事柄は、何れもつきつめることができないから、一つの事柄としても変わりがないわけである。
 
 さて、そのうちに観ゆるものがあり、その上方があきらかであるかというと、そのようなことはなく、その下方がくらいかというと、そのようなこともなく、あたかも切れ目のないものがいつまでもつづいているようである。

 古の道は、原則としては平等無差別であって、もし弱い人、後れる人があれば、手を揃えて皆が援助し、誰も己の功とせず、あくまでも平等に暮らして行けるように努力をする世界なのである。

 縄縄は、連綿として絶え間のない貌をいう。
 無状の状は、形あるもの、目に見えるもの、手に取ることのできるものは何もない状態をいう。
 無象の象が、光、熱、電気等のごとく、気として感得できるものは何もない状態をいう。
 惚恍は、何かがあるようで有り、また無いようでもあって、はっきりと決め難いことをいう。
 古之道は、万物は平等である、ということを原則として、互いに助けあったことをいう。
 今の有は、現世に於いては種々の差別が生じていることをいう。
 道紀は、各自が、その実力に応じて、皆のために、互いに働きつくすことをいう。


老子道徳経  13

2023-04-29 06:15:51 | 老子道徳経



    第十三章 厭恥(ようち)(恥を厭(おさ)える)

寵 (ちょう)にも 辱(じく) にも 驚 くが若し。大患の身に若(いた)らんことを貴(おそ)る。
何をか 寵辱 ( ちょうじょく)と謂う。 寵 を 上 と為し、 辱 を下と為す。
之を得ても 驚 くが如く、之を 失 うも 驚 くが如し。
是を 寵辱 驚 くが如しと謂う。
何をか大患の身に若(いた)らんことを貴ると謂う。
吾が大患を有する所以は、吾が身を有するが為なり。
吾が身を無くするに及びては、吾何の患か有らんや。
故に、 貴 ぶに身を以て天下を為むるときは、 則 ち以て天下
に寄すべし。
愛するに身を以て天下を為(おさ)むる者は、 乃 (すなわ)ち以て天下に託すべし。

 この章は、富貴、名誉、権勢等の地位につくことも、不名誉、窮乏の身分になることも、人は昏迷に陥るものであるが、これらの栄辱から脱却した境地に達した人にして、初めて天下の政治は、委託することができるものであることを説く。

 栄誉を得た場合も、不名誉を得た場合も驚倒し、或は、昏迷に陥るものであるということに対し、何故、世人は栄誉を最上のこととし、不名誉なことを最悪のこととし、これを得ても、また、これを失っても驚倒するのであろうか。不可解なことであるが、以上のことは事実であるから、人は、栄誉を得ても、不名誉を得ても、驚倒するものであると言わざるを得ない。

 人は栄誉を受けても不名誉を受けても、あたかも、自分の身と同じように丁重にしていると述べたが、この、人を驚倒せしめる栄誉も、不名誉も、吾が身があるから、すなわち、吾が身というものに捉われ過ぎているから感じることであり、昏迷の状態にも陥るのである。

 天下のことであるが、天下は、万人のものであって、特定の人のためにあるものではない。従って、天下を治める人は、公平無私の人でなくてはならない。

 大患は、うれい、わずらい、の意であるが、ここでは、その原因になる、寵 (ちょう)と、 辱(じく)を指す。



老子道徳経  12

2023-04-17 06:43:56 | 老子道徳経
 

  第十二章 検欲(欲を検(しら)べただす)

五色は人をして目、盲せしむ。
五音は人をして耳、聾(ろう)せしむ。
五味は人をして口、爽(みだ)りならしむ。
馳騁 田猟 (ちてい でんりょう)は人をして 心 、 狂 を発せしむ。
得難きの貨は人をして行、妨(やぶ)らしむ。
是を以て、聖人は腹を為して目を為さず。
故に、彼を去りて此を取る。

五色は人をして目、盲せしむ
 とあるは、青、黄、赤、白、黒等の五色のあざやかなものは人の心を強くひく結果、他の物はつまらないように見えるようになって、正しい見方ができなくなる。あたかも盲人と同じように、目をそなえていながら役にたたなくなることをいうのである。

五味は人をして口、爽(みだ)りならしむ
 とあるのは、五味をそなえた食物は、皆特別の食物である。そういう強い特徴のある味になれたり、好むようになっては、普通の食物の味はまずく感じるようになり、正しい味覚が失われてしまうのである。
 
馳騁 田猟は、人の 心をして 狂 を発せしむ
 とあるは、野や山を馬に乗って駆けまわったり、田や畠を荒らしに来る獣を狩しようとして、馬に乗って追いかけまわすのは、鹿を追うものは山を見ず、という諺のあるように、心が狂ってしまい、目もまた狂ってしまうおそれがあるのである。
 
得難きの貨は人をして行、妨(やぶ)らしむ
 とあるは、金、銀、珠玉、すぐれた調度品等は、大抵の人が羨望するものであって、これを獲得しようとして無理な働きをするものが少なくないのである。

是を以て、聖人は腹を為して目を為さず 故に、彼を去りて此を取る
 とあるは、以上のようなわけであるから聖人は、平常の事に充分気をつけ、腹力がいつも充実しているように身体の調整を保ち、多彩な美しいものや、妙なる音曲等に心をとらわれることのないように、常に庶民と平等につき合うことのできる心を失わないようにするのである。