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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 31

2023-08-11 06:28:54 | 老子道徳経
 

  第三十一章 偃武(えんぶ)(武勇を偃(や)める)

夫れ兵を飾る者は不祥の器なり。
物之を悪(にく)むこと有り。故に有道の者は処らず。
君子居るときは 則 ち 左 を 貴 ぶ。兵を用いるときは 則 ち右
を 貴 ぶ。
故に、兵は不祥の器にして君子の器に非ず。
已むことを得ずして之を用いるときは恬淡(てんたん)を 上 と為す。
勝ちて而も美しとせず。而るに之を美しとする者は、是れ人
を殺すことを楽しむなり。
夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則 ち以て 志 を天下に得べからず。
吉事には 左 を 上 とし、凶事には右を 上 とす。
偏将軍は 左 に居り、 上将軍 は右に居る。
上勢 に居れば 則 ち葬礼を以て之に処すを言う。
人を殺すことの衆ければ以て悲哀して之に泣く。
戦 い勝ちては葬礼を以て之に処す。

 この章も前章と同様に、兵は狂器であることを説き、狂器を用いなければならない戦争は、あくまでも避くべきものであることを説く。
 立派な兵器は、人を殺傷し、物資を破壊し、土地を荒廃させるところの、不幸を招くものである。従って、万物を愛し育てようとする造物主は、この狂気となるものを悪むのである。
 もし、戦に勝つことを結構なことだとして祝賀するようなことがあれば、それは、人を殺すことを楽しむことになるわけである。そのように、人を殺すことを楽しむ者は、志を天下に得ることは、到底できないことであるのは明らかである。古事は左を貴び、凶事は右を貴ぶことは、古来からの習わしである。
 ところで、兵事に於いては、偏将軍は左により、上将軍は右によることになっている。総大将が右によることになっているのは、兵に関することは、葬礼によって、右を貴ぶことになっているからである。

 偏将軍は、上将軍の下にあって、これを補佐し、或は、代理を務めることのある副将軍。上将軍は、全軍を指揮する総大将を指す。喪礼は、葬式を行う場合の礼式である。

 戦に勝っても、軽々しく喜んだり、騒いだりすることなく、喪礼をもって静かにつつしんでいるのである。


老子道徳経 30

2023-08-03 06:28:37 | 老子道徳経


    第三十章 倹武(武勇を 倹(つつし) む)

道を以て佐くる人主(じんしゅ)は、兵を以て天下に強からず。
其の事は還すことを好む。
師 の処る 所 、 荊棘(けいきょく) 生 ず。大軍の後には 必 ず 凶年 有り。
善者は果たすのみ。敢えて以て 強 を取らず。
果たして、矜ること勿れ。果たして、伐ること勿れ。
果たして、驕(あざむ)くこと勿れ。果たして、已(や)むことを得ざれ。
果たして、強きこと勿れ。
物壮んなるときは老ゆ。是を道にあらずと謂う。
道にあらざれば早く已む。

 この章は、兵を強くするということは、国に凶事を招くことになり、物を壮んにするということは、老衰を招くことになり、何れも天地自然の道に反するものであることを説く。
 道を以て君主を補佐しようとする者は、兵備を厚くして天下を威圧するようなことはしない。隣国を刺激しないように、国内が静かに治まるように計るのである。

 もし兵を用いなければならぬ事が生じた場合、例えば、外的が攻めて来たような場合は、これを国外に追い払えばよいのであるから、勝つことばかりを考えて、それ以上に兵を強くしようとするのはいけないのである。
 勝ちに乗じて敵を長追いすることや、敵に大打撃を与えて怨みを後に残すようなことはいけないのである。また、知謀や勇気があり、実力が優れていることをほこりとしては、敵を侮る心を生じ、自ら怠ることになってはいけないのである。
 兵はその威力をたのみとして放縦に流れることのないように厳重に戒め、真にやむ得ないときにのみ速やかに役に立てることをし、強大となるように計ってはならぬのである。
 植物にしても、動物にしても、すべてのものが精力や繁殖力が最も盛んとなったときは、やがて老いが迫っているものである。
 兵力も強大となれば、その中に、いくつかの勢力が生じ、互いに勢力争いをするようになることは、古今東西の強大なる軍隊にその例がはなはだ多いのである。
 兵力を始め、ものが旺盛となることは不道であって、長くつづかないことであるから、早くやめなければならないのである。
 不道は、自然の道にそむくこと。已は、止む、または、終ること。


老子道徳経 29

2023-08-01 04:13:15 | 老子道徳経

  
     第二十九章 無為(無為によって天下を治める)

将に天下を取らんと欲して之を為せば、吾、其の得ざるを見
るのみ。
天下の神器は為すべからざるなり。
為す者は 則 ち之を敗り、執る者は之を 失 う。
故に物、或いは行き、或いは 随 う。
或いは 呴(あたた) かく、或いは吹(さむ)し。
或いは強く、或いは羸(よわ)し。
或いは載く、或いは 堕(あやう) し。
是を以て、聖人は甚を去り、奢(しゃ)を去り、泰を去る。

 この章は、政治的権力を行使するということは、天地自然は万物に平等である、という法則と、常に関連をもつものであるということを説く。

 天下の政権を、自らが獲得しようと作動し、成功した者を、吾は観たことがない と老子はいう。天下というものは、何人の自由にもならないところの、神聖ともいうべきものである。従って、天下の政権に種々の種段を弄するものは失敗し、又は、政権を掌握しても失うことになるのである。

 成すものあれば、これをこぼつ者がある。かように天下には性質の相反するものがあり、性質のことなった人もいるわけである。従って、甲の人に都合のよいことが、乙の人には反対の影響を与えることが少なくないわけである。
 このような訳であるから、聖人、有道者は、何かに偏するうようなことがないか、ということを深くいましめ、はなはなだしいこと、奢ること、豊なことは避けるのである。
 はなはなだしいこと、奢ること、豊かなことをすれば必ずその反対者、対立者が多く現れて、無事におさまり難くなるからである。

 天下は神器なりは、天下は性格や境遇の多種多様に異なった人が集合しているものであるから、これを、或る考えの通りにしようとしても、急にはかわらない、誰の自由にもならない、神聖なるものであることをいう。


老子道徳経 28

2023-07-28 05:57:16 | 老子道徳経


     第二十八章 反朴(質朴に反す道)

其の雄を知りて、其の雌(し)を守れば、天下の谿為(たに た)り。
天下の谿と為るときは、常の徳離れず、嬰児に復帰す。
其の白きを知りて、其の黒きを守れば、天下の式為り。
天下の式と為るときは、常の徳忒(たが)わず、無極に復帰す。
其の栄を知りて、其の辱を守れば、天下の谷為り。
天下の谷と為るときは、常の徳 乃 ち足りて、樸に復帰す。
樸散ずれば 則 ち器と為る。
聖人之を用いれば 則 ち官の 長 と為る。
故に、大制は割(さ)かず。

 世の中の争乱や人と人との紛争は、総て、自己が相手より賢明である、優秀である、自分の言うことが妥当であると信じ、お互いに相手に譲ることができないところから起こるのである。何かの機会において、自分の行き過ぎに気がつくことがあっても、感情は、一旦高まると容易におさまらず、後にひけないところまでゆくものである。しかるに始めから自分をたてようとする欲望を少しも起こさず、いつも控えめにしていることができるのは、全然人と争う心がなく、誰をも愛することができる人にして、初めてできることである。このような人こそ天下の模範とすることができるのであって、その徳は常にたがうことがなく、心は無の極致に復帰することができるのである。

 論語によると、孔子は、
  朝に道を聞かば夕に死すとも可なり
 と言っているのであるが、その意味は、これ以上のものはないというものが心の中にあれば、孔子のような努力家も、死すとも可なり、という無欲の心境、すなわち、無の極致に達するのである。
 人間の心は、もとは、嬰児の、無の極から出発し、道を修めて無の極に達することができたので、復帰というのである。

 嬰児は、無知、無欲に徹底したもののたとえ。
 白は、聡明、或は有能を指す。
 黒は、暗愚、或は鈍才を指す。
 式は、模範となるものを指す・
 忒(たが)はずは、そむかないことをいう

 本章に於いて、雌、谿、嬰児、樸等の、守静的のものの役割が、最も重大であることを説いているのは、天地自然の成立に於いて、最も大きな働きをするのは、雌性的なものであるということが、第六章に、
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
と説かれている通りであるからである。

老子道徳経 27

2023-07-26 05:37:04 | 老子道徳経
 

   第二十七章 巧用(巧みな用法)

善く行なう者は轍跡(てっせき)無し。
善く言う者は瑕謫(かたく)無し。
善く計る者は 籌策(ちゅうさく) を用いず。
善く閉ずる者は関楗(かんけん)無くして而も開くべからず。
善く結ぶ者は 縄約 無くして而も解くべからず。
是を以て、聖人は常に善く人を救う。故に棄つる人無し。
常に善く物を救う。故に棄つる物無し。
是を 襲明(しゅうめい) と謂う。
故に、善人は不善人の師なり。不善人は善人の資なり。
其の師を 貴 ばず、その資を愛せずんば智と 雖(いえど) も大いに迷う。
是を 要妙 と謂う。

 最も上手に道を行くということは、車が通っても、轍の跡を残さないのと同じように、通った後を残さないように行くことである。
 最も上手な話し方というものは、話をしたあとに、何の欠点の残さぬように話をすることである。
 如何なる人に対しても、疎んずるとか、侮るとか、憎むとか、嫌う等という、下心が生じないように、平等に人を愛するという心をもって話し合うようになすべきである。
 
 善く結ぶ、ということは、約束のしるしとして、縄を結ぶようなことをしないが、一方が約束を破る、というようなことは生じないことをいうのである。

 聖人は、人を棄てるというようなことも、物を棄てるというようなことも行わないことが明らかである。
 総ての人を棄てない、また、総ての物を棄てないということは、天地自然は万物に平等である という、宇宙の根本原理、すなわち、真理に適うことなのである。
 故に、何くれとなく不善人を庇い、一般の人より見劣りのしないように、或は、目立たないようにしている善人は、不善人の師というべきものである。
 もし、その師を貴ばぬことがあったり、また、その資を愛しないということがあるとすれば、それは知識を以て解釈のできることではなく、迷いであるという他はないのである。


老子道徳経 26

2023-07-22 06:10:01 | 老子道徳経
 

   第二十六章 重徳(重きが徳の本)

重きは軽きが根為(こんた)り。静かなるは躁(さわ)がしきが君為り。
是を以て君子は 終日 行(ゆ)いて輜重(しちょう)を離れず。
栄観有りと 雖 も燕処(えんしょ)して 超然 たり。
奈何(いかん)ぞ 万乗 の主にして身を以て天下に軽くするや。
軽きときは則ち臣を 失 う。躁(さわ)がしきときは則ち君を 失 う。

 この章は、重と軽、静と躁の、対照的語の表現する意義に基づいて、天地自然の道の、根本原理について説くものである。

 重いものは、軽いものの根源、根幹となっているものである。
 大木の幹や、根は重いものであって、根底に当たるものであり、枝や葉は、そよ風が吹いても、さらさらと音を立てる軽いものであって、躁に当るものである。
 人間社会のことも、これとよく似通っているのである。
 どっしりとして、静かなものは君となり、或は、主人となっているのが普通であって、ざわざわと、はしゃぎ易い軽躁の質のものは、臣下となり、或は、使用人となって、かいがいしくたち働いているのが普通である。
 また、華やかな催物があって、多くの人がうきうきと、愉快そうに、はしゃぎ騒ぐようなことがあっても、聖人は、一人静かにくつろぐことを最善のこととしているのである。
 もし大国の天子にして、重々しいところがないとしたならば、如何になるであろうか。おそらくは、重厚の素質の者は、天子と意見を合わすことが難しく、そのために、疎んぜられ、それに引き換えて、軽薄才子風の人物が近づけられることになり、国の基を固める重厚なる政治が失われることになるのである。

 重、根、静等は、道を守り、道を行わんとするものの、信念の根幹をなすこ
 とを表わす。
 軽、躁等は、多弁となり、或は、軽率な行為を行うことの原因となり易いこ  
 とを指す。
 栄観は、華やかな見もの。
 燕処は、閑暇無事にして休息する事を指す。
 超然は、自分一人だけが衆と離れ、何事にも捉われない状態。
 万乗の主は、兵車一万台を出すことのできる国の天子を指す。


老子道徳経 25

2023-07-18 05:49:27 | 老子道徳経


    第二十五章 象元(玄元(みち)の 象 (すがた))

物有り混が成り、天地に先んじて 生 ず。寂たり、 寥 たり。
独立して 改 まらず、 周(あまね) く行なわれて殆(あや)うからず。以て天下
の母為るべし。
吾其の名を知らず。故に之を 字 して道と曰う。
強いて之が為に名づけて大と曰う。
大を逝(せい)と曰い、逝を遠と曰い、遠を反と曰う。
故に道は大にして、天も大、地も大、王亦大なり。
域中(いきちゅう) に四大有りて、王は其の一つに居れり。
人は地に 法(のっと) り、地は天に 法 り、天は道に 法 る。
道の法は自然なり。

 この章は、道は、天地が生じるより先に存在していたものであり、宇宙間のあらゆる所で、万物の運行することや、生成の法則をも支配しているものであることを説く。
 何かが存在している。そうして、そのものが混成した。そのことは、天地が生じるよりも先のことである。混成したものは物体ではないので、音を発することがなく、極めて静かである。そのものは、他に合同するものがなく、自ら変化するということなく、いつまでも変らないものであるが、いたる処に遍満しているが如く、いたる処でその存在を認識することができる。
 
 それは、万物の、親の役割とでもいうべきか。
 天下の母とでもいうべきである。
 吾は、そのものの名をしらないので、道、と呼ぶことにする。

 道は偉大なるものである。しかし、いかに、偉大であるといっても、道は、少しも見ることはできないものである。
 見渡す限りはてのない天と、地に対し、大きさについては比較にならないように見える人間であるが、いかなることにも通じ、何であれ、よく知っている人間、そのうちの有道者は偉大であるといわねばならない。
 有道者が出現して、人生の真の意義、人生は偉大であることを教えられた。

 天と地が偉大であるということは、人間が、天と地は偉大であることを認めることができたから明らかとなったのである。
 

老子道徳経 24

2023-07-16 06:29:13 | 老子道徳経


    第二十四章 苦思(国界に苦しむ思い)

跂(つまだ)てる者は立たず、跨(また)ぐる者は行かず。
自 ら見る者は明らかならず、自 ら是とする者は彰われず。
自 ら伐(と)る者は功無く、自 ら矜る者は長からず。
其の道に於けるや日に 食 を余し行を 贅(むさぼ) る。
物或いは之を悪(にく)む。故に有道の者は処らず。

 世の中には、自分の力を過信し、功名心に駆られる人が少なくないものであるが、その様な人の中には、不知不識のうちに無理なこと、全く無駄なことをしている人があるものである。
 自己の善いところを人に示そうとするものは、却って、人の関心を集めることはできない。
 造物主は、万物を平等に愛し、平等に育て平等に保護しているものであって、総てのことを平等にするということが基本となっているのである。
 ところが、跂者(つまだつもの)とか、跨者(こしゃ)とか、自ら功を誇りとする者等の行動は、自分と他人とを差別し、他人の気持ちや、他人の立場を無視していることに気がつかないでいることになるのである。
 人は皆、自分もよくなりたい。自分も人によく思われたいという希望をもっているのが普通であるが、そういう大切なことを忘れて、勝手なことをしては、造物主に憎まれることになるのは当然のことといわねばならない。
 造物主は、いうまでもなく道のことであり、右にあげたことは、道に反することであって、有道者が認めないことであるのは、自ら明らかなことである。
 
 跂者(つまだつもの)は、背を高くするために踵をあげて立っている者を指す。
 跨者(としゃ)は、速く行こうとして、大股で歩く者を指す。
 余食は、食べ残した物。 贅は、むだ、こぶ。
 余食贅行は、むだな行動を指す。
 物は、造物主を指す。


老子道徳経 23

2023-07-06 06:13:01 | 老子道徳経


   第二十三章 虚無(天地虚無の間はただ自然)

希言は自然なり。
飄風 は 朝 を終えず、驟雨は日を終えず。
孰(たれ)か此を為す者ぞ、天地なり。
天地尚久しきこと能わず、而るを況んや人に於いてをや。
故に道に於いて事を従すべし。
道者は道に同じくし、徳者は徳に同じくし、失者は失に同じくす。
道に同じくする者は、道も亦之を得ることを楽しむ。
徳に同じくする者は、徳も亦之を得ることを楽しむ。
失に同じくする者は、失も亦之を得ることを楽しむ。
信足らざれば不信有り。

 大切なことを言う場合、相手を信用させるためには、言葉数を多くしてはいけない。なるべく一言で通じるように、もし、言わなくとも、態度だけで分かるならば、無言のままでよいのである。くどくどと、多くのことを言うと、相手が聞き損じたり、こちらを軽視したりする原因になるからである。
 疾風や、旋風は、物凄い音を立てるのであるが、朝吹きだしたものは、朝のうちに終わってしまって、一日中吹くということはない。

 天地さえ大音を発するようなことは、極短い時間しかできない。言わんや、天地と比較にならぬ微力の人間においては、人を驚かすようなことは、再三繰返すことはできない。それは、言葉だけに限ることではない。
 徳を修めることを勤めとしている人に接する際に、こちらも徳を修めているものとして、徳をもって接することにすれば、徳あるものは同志を得られたことをよろこび、楽しみとすることであろう。
 世の中には、どこかに不足している所のある人がいるものであるが、これらの人と同等の心になって接することにすれば、同志を得られたという安心感を生じ、平生の僻み根性のようなものは影をひそめ、楽しい気持ちになることができるのである。
 
 天地自然は万物を平等に愛するものである
という道の心をもって接するならば、いかなる失者もなごやかになり、道を修行する者を、必ず信ずるようになるのである。

 人を信じさせるためには、希言を守る、ということが大切であることがよく分かるのである。
 希言は、稀なる言葉、の意。一言、或は、相手の方が分れば、無言でもよい、という意。
 失者は、劣敗者という程の者でなくとも、普通の人から歓迎されない人、嫌われる人、見下される等の、遜色のある人を指す。


老子道徳経 22

2023-07-04 06:08:15 | 老子道徳経


    第二十二章 益謙(謙虚卑下の益)

曲ぐるときは 則 ち 全 し。枉(ま)ぐるときは 則 ち直し。
窪きときは 則 ち盈つ。弊(ふる)きときは 則 ち新たなり。
少なきときは 則 ち得。多きときは 則 ち惑う。
是を以て聖人は一を抱いて天下の式(のり)と為る。
自 ら見ざるが故に明らかなり。自 ら是とせざるが故に彰わ
る。
自 ら伐(と)らざるが故に功有り。自 ら矜らざるが故に長し。
夫れ唯 争 わず。故に天下之と 争 うこと莫し。
古 の所謂「曲ぐるときは 則 ち 全 し」とは豈(あ)に虚言ならん
や。
誠 に全 くして之を帰す。


 この章は、平素、人が気付かずに過ごしている所に、多くの真理が存在するということを、聖人の行動に基づいて説くものである。

 曲っているもの、善く見えないものは、却って安全であって、有用なときに、役に立つ事があるものである。狂っているように見えるものは、直せば真っ直ぐに見えるようになるものである。
 窪みになっている所は、その上を歩かなければならない場合、或は、その上へ物を置かなければならないときは不都合であるが、そこへ雨水などが溜まったときは、水の必要な時に、大いに役立つわけである。
 日常つかっているものが、少なすぎるようになった場合は、これを増加させることができるが、もし、多すぎる程にあるものは、却って不便を感じ、始末に惑うことがあるものである。
 以上のようなわけであるから聖人は、天地自然の道を守って、天下の模範となるのである。
 それは、自ら目立つようなことを表わさないので、心が疲れたり、くもったりすることがなく、いつも明らかなのである。聖人には、誇るということが微塵もないので、平常の心は何の災いを受けることなく、いつまでも変らずに続くのである。
 曲は、まがる、かたむく、よこしま等の意であるが、ここでは、悪い、よくは見えない、という意、全は、安全であること、曲則全は、立派に見えないもの、善く見えないものは、却って安全であり、勝れたものに成ることができる可能性が多いという意味を含んでいる。

 一は、自然の道を指す。抱きは、道を守ることを指す。式は、法、模範を指す。