goo blog サービス終了のお知らせ 

不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経  11

2023-04-11 06:08:20 | 老子道徳経
   


    第十一章 無用(無の 用(はたら) き)

三十の輻(や)は一つの 轂(こしき) を共にす。其の無に当りて 車 の用有り。
埴((つち)を埏(やわ)らげて以て器を為(つく)る。其の無に当りて器の用有り。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に当りて室の用有り。
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

 この章は、無の働きというものは、いかなるところにおいても、なくてはならぬものであることを、車轂や、戸牖の喩えを挙げて説くものである。

 車の輪には、三十本の輻(や)があって、輻は、輪の中心に在る轂(こしき)に集まっている。轂の中心には円形の孔があいていて、そこえ、両輪をつなぐ、車軸を通すことになっている。轂の空所、すなわち、無なる所があるから、車軸を通すことができ、また、車が進行するときは、車軸は、轂内を回転することができるのである。
 従って、空なる所、無の果たす役割も大切であることを認めなければならない

 陶器や磁器等の容器のことであるが、これらのものは、粘土に水を加え、練ったり、打ったりして粘質のものとなし、皿のようなものや、鉢のようなものや、壺のようなもの等、種々の器物を造るわけであるが、造られた器物が容器として役に立つのは、その中心部、或は、その上方に空所が存在するからである。

 室が、人間の役に立つのは、戸のある所、空なるところがあるから出入りすることができ、また、牖のある所が、空なる所とすることができるので、室内を明るくすることができるのであるから、空である所、無の果たす役割も大切であることを認めなければならない。

 戸牖(こゆう)の戸は、室の入口にある戸、牖(ゆう)は、光線を室に入れるために壁にあけたまどのことです。


老子道徳経  10

2023-04-03 05:41:07 | 老子道徳経
 

  第十章 能為(のうい)(能く為しうるか)

営魄(えいはく)に載り一を抱いて、能く離るること無きか。
気を 専 らにし 柔 を致して、能く嬰児の如きか。
滌除玄覧(できじょ げんらん)して、能く疵(きず)無きか。
民を愛し国を治めて、能く知ること無きか。
天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)を為せるか。
明白四に達して、能く知ること無きか。
之を 生 じて、之を畜す。
生じて有せず、為して恃(たの)まず、 長じて宰(わか)たず。
是を玄徳と謂う。

 この章は、道を行うには、生理的、心理的に相関連した肝要なる心の働きが必要であることを説き、その理想的な働きは、玄徳であるということを説く。

 道を行うものは、精神が、統一していなければならぬものであるが、精神を統一するためには、無の心になることが最もよいのである。

 道を行う者の精神活動は、偉大な働きをするものであり、常に立派なものであるが、その方法は、人を先に立てて、自分のことは後にする、という方針を取っているということである。
 従って、天地自然の雌性、すなわち、愛情をもって総てのものを育て、庇護し、自らは、先に立つということはなさぬ、という法則に同化することができるのである。

 営は、身体を指す。魄は、頭のなかにあって、精神活動をさせるところの、脳神経細胞組織を指す。一は、道、法則、或は、無の心を指す。
 滌除は、洗い清めることをいう。玄覧の、玄は、幽遠霊妙の意、玄覧は、幽遠霊妙なるものをも見ることのできる心の意。
 明白四達は、天地自然の理に対しても、四囲の情勢に対しても精通していることを指す。

老子道徳経  9

2023-03-28 06:07:05 | 老子道徳経
 

  第九章 運夷(うんい)(天運の夷道(いどう)に法る)

持して之を盈つるは、其の已(や)むに如かず。
揣(おさ)めて之を 鋭 くするは、長く保つべからず。
金玉 堂に満ちて、之を能く守ること莫(な)し。
富貴にして驕るときは、 自ら其の咎(とが)を遺(のこ)す。
功成り名遂げて、身 退くは天の道なり。

 この章は、権力者や、富裕者の身分にあるものは、長くその地位にとどまらないで、早くその地位を去ることが、天の道に適うものであることを説く。

 人間は、勤勉によって才能の勝れたものとなることができる。そういう人が時運に乗るときは、社会的に大きな功績を挙げることができ、名誉ある地位につくようになったり、巨万の富や財宝を集めることもできるようになるものである。
 ところが、社会の情勢というものは、日に日に変化して行くものであって、いつまでも同じ状態とはとは限らないものである。

 道を行う者は、一生が錬磨の日々であり、錬磨には終りということがないはずであるが、人間が備え得られる能力には、年齢的の限度というものがあるのである。
 例えば、人間は、五十歳くらいになると、最盛時の五分の四の能力になる、という説があるが、それは、視力、記憶力、筋力等の衰えが年々進む一方であるところから生ずることである。このようなことを考えると、能力を多くつかわなければならない、権力、財力等に大きな責任のかかる地位には長くとどまってはならないのである。

 天の道は、第七十三章、第七十七章、第八十一章にも用いられていて、何れも、
 天地自然の道は、万物に平等のものであって、特定の人、或は、特定の国や、特定の時代のために、変化するものではないということを明らかにするものである。


老子道徳経  8

2023-03-26 05:30:18 | 老子道徳経
 


   第八章 易性(変易の性)

上善 は水の若し。
水の善は万物を利して 争 わず、 衆人 の悪(にく)む 所 に処れり。
故に道に幾(ちか)し。
居ること地を善とす。
心は淵(えん)なるを善とす。
与(とも)にすること仁を善とす。
言は信を善とす。
政は治を善とす。
事は能を善とす。
動くこと時を善とす。
夫れ唯 争 わず、故に尤(とが)無し。

 水は、いかなるものにも利益を与えているが、いかなるものに対しても抵抗を感じさせるようなことはない。
 自分の居所を善くするということについて、第一に心掛けなければならないことは、自分のことをなすよりは、自分の周囲をよくすること、自分の周囲の人のためになることをなすべきである。
 心が、淵のような、深さと、静かさを感じさせるもとには、常に温かさと、清新さがあるのである。

 言葉は、信用することができてこそ、その役目を果たすことができるが、もし、充分に信用することができないならば、言葉の真の役目を果たすことはできない。

 さて、政治のことであるが、
 国家昏乱して忠臣有り
 という言葉がある通り、政治がよく行われないようになると、忠義をつくすものが出ない限り、国は益々乱れてしまうものである。従って、国のためには忠臣などの現われないほうが幸である。
 忠臣などの出現を必要としないようにするためには、政治を行う者は、常に事件が大きくならないうちに発見し、これを処理してしまうことが大切である。
 また、何事でも上手に処理することのできるのは、その事に対して勝れた技能を備えているということより、適当な時機を見あやまらないようにすることが大切である。それには、すべてのことが大事とならないうちに処理してしまうことが最もよいのである。
 動くべき時機を見抜くということは、勝れた洞察力を備えるということよりも、絶えず大事が起こらないうちに見つけて処理するのが最も確かな方法であり、動くべき時をよく見抜いたということになるのである。
 何事においても、常に注意を怠らぬようにすることは、水が、何物とも争いを生ぜずして、万物を利することができるように、平穏のうちに務めを果たすことができて、失敗をするとか、紛争を生ずるというようなことはないのである。

老子道徳経  7

2023-03-24 06:42:15 | 老子道徳経
 

       
   第七章 韜光(とうこう)光をかくす

天は長く地は久し。
天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の 自 ら 生 ぜざる
を以てなり。
故に能く 長生 す。
是を以て、聖人は其の身を後にして身先んじ、其の身を外
にして身存す。
其の 私 無きを以てするに非ずや。
故に能く其の 私 を成す。

 本章は、天地の長久であることを説き、道を行う者は、天地の如く、無心無欲に基づいて、行動すべきであることを説く。
 天と地は、天地創造の精神によって定められた以外のことはなさない。

 自分のことが信じられない。人も信じられない、というような不信感は、元をただすと、皆一種の、まけじ魂とか、勝気のためとか、一種の競争心から起こっているのである。
 もし、人に勝ちたい。人におくれをとらぬようにしたい、という心が起こらぬようになれば、不信感とか、迷いの心はおこらぬようになるのである。
 それでは、どのようにすれば、人に勝ちたい、人におくれをとらぬようにしたい、という心が起こらぬようにすることができるかというと、
其の身を後にす
ということを、常に実行するようにすればよいのである。
自分のためになることは後まわしにして、社会のためになること、周囲の人のためになることを先に行うようにすればよいのである。
 社会のためになることをする、周囲の人のためになることをするということは、社会の人に愛情を感ずるようになることであり、周囲の人に愛情を感ずるようになることである。

 総てのものが平等に見えるようになれば、廃物といえども嫌ってはいけないと思うようになるのである。
 生物の無いもの、科学的には無生物であるものに対しても、あたかも生命をもっているものと変らぬ心をもって対処するのが、道の言葉にあるところの、
 万物は平等である
ということになるわけである。
 其の身を後にする
ということと、
 其の身を外にする
ということがよく分かれば、自然に、実行することができるようになるものと思われる。


老子道徳経  6

2023-02-16 07:03:38 | 老子道徳経


      6

  第六章 成象(形象(からだ)を成就させるもと)

神を 谷 (やしな)えば死せず。
是を玄牝(げんびん)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
綿綿として存するが若し。
之を用いて、勤めず。

 第六章は、天地自然の、成立の根本原理と、天地自然の、万物に対するはたらきを、玄牝、という言葉を用いて表現しているものであって、一章とともに、老子の思想の根本となることを説いている章である。

 万物は、天地自然の絶大なるおくりものを十分に活用するためには、常に秩序的であり、柔軟性をもって、総てのことに対処するようにしなければならない。
 生物は、無生物と異なっていて、自由に動くことができるということもあるが、身体は、物体であることには変りがないのであるから、自然界の法則は、無生物と同様に受けなければならない面のあることはいうまでもないことである。また、生物は、生理的な規制も受けなければならないわけであるが、概して興奮性の強い男性側には闘争心が強いために、柔軟性を働かすべき場合にそのことを忘れがちとなり、疲れやすく、傷つきやすく、寿命も、女性側より短いのが、総ての生物を通じて見られることである。
 宇宙創造の精神に基づいて万事を行おうとするものは、世が乱れているようなときは、実力者というべきものと、正面から衝突するようなことがないように、目立たないように総てのことを行うのが最もよい方法なのである。

 谷神の、谷(こく)は、偉大という意と、養うという意味とがあり、神とは、精神の意。谷神は、天地自然が偉大なる愛情と、秩序をもって、万物を養っていることを表現するために用いた言葉。
玄牝は、深淵、霊妙にして、女性的柔軟性をもって、秩序的にものごとを処理し、或は、調整する能力を指す。
 天地は、天地自然の意。
存するが若くは、万物を養い育てる精神がいつも続いているようである。という意と、目立たないように、という意と、両方の意味を含んでいるように思われる。
 勤せずは、つかれないという意。

老子道徳経  5

2023-02-14 06:05:06 | 老子道徳経
 

     5

    第五章 虚用(空虚を用いること)

天地は不仁なり、万物を以て芻狗(すうく)と為す。
聖人は不仁なり、百姓を以て芻狗と為す。
天地の間は其れ猶槖籥(たくやく)のごときか。
虚にして屈せず、動きて愈いよ出ず。
言うこと多きは数(しば)しば窮す。中を守るに如かず。

 芻狗(すうく)とは、藁を結んで作った犬。祭りに用い、祭りが終わると捨てたという。
 天地は万物を生育せしめ、万物を栄えしめているが、それは、自然に行われていることであって、天地には特別の意志があるわけではない。このような状況を観察すると、万物は、天地自然から、芻狗と同じような取り扱いを受けているようにも思われる。聖人が、民百姓に対する在り方も、天地自然が万物に対する在り方と同じように、いつも仁慈が行われているとは見えない。

 槖籥(たくやく)とは、鍛冶屋が火をおこすのに用いるふいごうのこと。
 民百姓は、あたかも芻狗と同じような取り扱いを受けていると、見ることができるように思われるときがある。天地の間のことは、槖籥にたとえることができるものであろうか。槖籥からは、把手を押したり引いたりすると、風が真断なく出て来て止まることがないものである。天地の間のことも、いろいろと変った植物や動物が姿を現わして来たかと思うと、いつの間にか消えて、また新しいものが現われるということが、いつ果てるということもなくつづいているものである。
 また、人間の社会、国家においては、ある国の勢力が盛んとなって、天下に君臨するようになったかと思うと、いつのまにか国力が衰え、他の国が勢力を得て天下に君臨するようになったり、或る学説が盛んに唱えられて天下を支配するようになったかと思うと、いつの間にか、これに代る学説が台頭し、これまで天下を風靡していた情勢に取って代るというような、変幻極まりなきことが、時の流れとともに止まることなくつづいているのである。
 このような政治情勢に対し、また、社会情勢に対しては、いかなる政策を採るべきかというと、それはいかなる政策にもかたよらないように、平衡を保つようにうることが肝要なのである。
 屈は、尽く、終る等の意。中は、中程とか、一方にかたよらないように平衡を保つ、というような意。


老子道徳経  4

2023-02-10 07:07:14 | 老子道徳経
 

    4

     第四章 無源(道は無源)

道は 沖にして之を用いたり。
或(つね)に盈たず。
淵たること万物の宗に似たり。
其の鋭を挫き、其の 紛(いきどお) りを解く。
其の 光 を和らげ、其の塵(ちり)を同じくす。
湛(たん)たること或に存するに似たり。
吾其の誰が子ということを知らず、帝の先に 象(かたど) る。

 道を会得しているものは、常に道に基づいて総ての行動をするものであるが、道に基づいて行うことは、常にものごとの平均を保つとか、調節を計るということを主とするので、目覚ましいところがなく、もの足りないところがあるように感じられるものである。
 世の中には。大小様々の紛争が絶えず起きているものであるが、その原因は、双方に競争心があるからである。もし一方が、相手に勝たねばならぬという心を捨てることができれば、相手の言い分を聞き入れることができて、大抵のことは解決がつくのである。
 有導者は、人に勝とうとする心を起こすことがないから、人と紛争を起こすことはないのである。また、この不争の心をもって、紛争を解くこともできるのである。

沖は、むなしい、という意で、道を形容した語。
盈は、器に水が一杯になるように、十分にすること。
淵は、水が深く集まっている貌。
宗は、総てのものの本、根源。
湛は、水が深くて、静かな貌。
鋭は、才気の勝れていることを指す。
紛は、絲のもつれ、みだれておるような状態を指す。
光は、聡明の徳を指す。
塵は、野卑な、垢抜けのしていない世俗のことを指す。
帝は、天と同義であって、主催者を指す。
象とは、似と同義。


老子道徳経  3

2023-02-08 07:10:17 | 老子道徳経
 

     3

     第三章 安民(民を安んじる)

賢を 尚(たっと) ばざれば、民をして 争 はざらしむ。
得難きの貨を 貴 ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。
欲すべきを見ざれば、 心 をして乱れざらしむ。
是を以て聖人の治は、其の 心 を虚しくして其の腹を実たす。
其の 志 を弱くして其の骨を強くす。
常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知者をして敢えて為
さざらしむ。
無為を為せば 則 ち治まらざるはなし。

 人間には皆自尊心というものがある。人の身分、能力等は千差万別であるが、人は皆それ相当の自信があるから日々の生活を営んで行くことができるのである。ところが、その自信を損なわれるようなことがあると、反抗心が生じ、これを平静に戻すのは、容易なことではないようになるのである。
 それでは、自信を損なわれるようなことは、いかなることであるかというと、
 賢者を尊べ
と強制されることである。賢者とは、常に自分達を見下している、物識のことである。ところが、一寸の虫にも五分の魂あり という諺がある通り、人間には皆自負心というものが具わっている。従って、そのような賢者に対しては反抗心を生じ、競争心を挑発せられ、その結果は、相争うことが激しく生じる世となるのである。
 平穏な暮しをしているのは、生活が安定しているからであるが、必要品が容易に得られない世の中になると、盗みをするものが生ずるようになるのである。
 もしその欲望がかなえられないときは、平静でいられなくなり、心が乱れることになるのである。人間の心は、何かを見、或は、何かを聞く、ということがあると、直ぐ動くということになりやすいものであるから、その動きやすい心を、容易に動かないようにするためには、心が、容易に動かないということが、習性であり、持前である、という風にしておくことが必要である。
 従って、聖人の政治は、民の習性というべきものが、仕事以外のことには、関心を起さないようにするということである。人間は、新しいもの、変ったものを見なければ、日常の仕事以外のことには関心を起さないものであるからである。
                                                          

老子道徳経  2

2023-02-04 07:02:16 | 老子道徳経


     2

  第二章 養身(養身の要)

天下皆美の美たることを知れり。斯れ悪のみ。
皆善の善たることを知れり。斯れ不善のみ。
故に、有無は相生じ、難易は相成り、 長短 は相 形(あいあらわ) れ、
高下は相 傾 き、音声は相和し、前後は相随う。
是を以て、聖人は無為の事に処り、不言の教えを行なう。
万物作りて而して辞せず。
生 じて有せず、為して恃(たの)まず、功成りて居らず。
夫(そ)れ唯居らず、是を以て去らず。

 一般に、世人は美とか、善とかを偏重し、それに、こだわり易くなるものであるが、そういう人格に対して、正面からその欠点を指摘したり、こちらの意見を述べたりしても、効果のないことが多いのである。
 何故かというと、どんな無学な人であっても、また、どんな遅鈍な性質の人であっても、人にはみな、自分はよく分っているのだ、誰からも指図を受けたり、教わったりする必要はないのだ、という強い自尊心があるからである。
 人は皆、一般の人が信じていることは、何の抵抗も感ぜずに信じやすい性質をもっているものであるから、聖人は、その心理を尊重するようにしているのである。
 なるべく言葉をつかわないで、感化させるように計らい、総てのことを、周囲の情勢から、自然に自得し、自らが発明していると思うようにしむけるのである。
 天地自然は万物を生み、これを育て、これを保護しているものであり、聖人は、自然の働きに同調したり、協力したりしているものであるが、それによって、あるものを所有しようとか、何事かをさせようなどと期待するようなことはないのである。

 有無は相生じは、美と、善が天下に広く尊重されるときは、国民全般に亘って美と、善に関することが尊重され、従って、それに関して有利になるものと、不利になるもの、或は、得意になるものと、失意になる者が歴然としてくることを指す。
 難易は相成りは、才能の勝れたものにはできるが、普通のものには難しくて、困惑するという、平凡な世情にはなかった状態が生ずることを指す。 
 
 長短 相 形れ、高下相 傾 き、音声相和し、前後相随う の文章によって示される四つの事柄は、平静に治まっている世情にはなかったことが実現するようになることを指す。

是を以て、聖人は無為の事を処し、不言の教えを行なう。
万物作りて辞せず。生 じて有せず。為して恃(たの)まず。功成りて居らず。
夫れ唯居らず。是を以て去らず。

 聖人は、天地自然は万物を平等に愛護するものである、という天地の法則に基づき、総ての行為をなすものである。無為の事を処しは、何を為したか、他人には分からないように事を処理することを指す。
 天地自然の中に於いては万物が発生し、成長するものであるが、聖人は、これ等のことを知っているが干渉はしないのである。また、これ等の生育するものを援助することがあるが、恩恵を与えたと思わず、無関係のものであったような態度でいるのである。