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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経  41

2023-10-20 06:15:32 | 老子道徳経
 

  第四十一章 同異(道の異同)

上士は道を聞いて、勤めて之を行なう。
中士は道を聞いて、存するが若く 亡(うしな) うが若(ごと)し。
下士は道を聞いて、大いに之を笑う。笑われずんば以て道
と為るに足らず。
言を建けて之を有す。
道に明るきは昧きが若し。道に進むは 退 くが若し。
道に夷(ひと)しきは類するが若し。
上徳は谷の若し。大白は 辱 なるが若し。
広徳は足らざるが若し。建徳は揄(ひ)くが若し。
質直は渝(あ)せたるが若し。大方は隅無し。
大器は晩く成る。大音は声 希(すくな) し。
大象は 形 無し。道は隠れて名無し。
夫れ唯道は善く貸(あた)えて且つ成す。

 上士というのは、道を聞いて、忠実に道を行う人である。忠実に道を行っているうちには、無限の妙味のあることが次第に会得できるようになり、道から離れないようになるのである。
 中士というのは、道を聞いて、或時は了解しているようであるが、或時は、納得がゆかないというような様子をする人である。争う心、対立する心がなかなかぬけきらないで、道に従っていては、損をするのではないか、どうも、自分の存在が、はっきりしないことになるのではないかというように、後になってから考えてみれば、どちらでもよいようなことにこだわって、確りと信頼して、深く道に入ってゆけないため、道が進んだり、止まったりするような人のことをいうのである。
 下士というのは、道のことを聞けば大いに笑うのである。下士は争う心、対立的の心が脱けそうにないのである。人に譲ったり、敗けたりすることは、絶対に承知できないのである。しかるに、道は、争わぬように、人に譲るようにと教えるから、そんな愚かなことができるかと、大いに笑うのである。下士の笑わないことは、勝つ方法とか、利益を得る方法とか、利己的のことのみであるから、もし下士が笑わないことを言ったとすれば、功利的のことか、それに近いことであるから、道とするに足らないのである。
 下士が道を聞いて大いに笑うのは、外見に心を取られて信実が解らないからである。

 万物は、道から借りたものは一時的のもので、時期が来れば皆返してしまうのである。
 以上のことから考えると、人がどんな成功を収めても、それを自分の力だと思うことも、それを長く維持することができると思うことも誤りであることが明らかである。

老子道徳経 40

2023-10-09 06:01:03 | 老子道徳経


   第四十章 去用(去が 用(はたら) けば来がある)

反は道の動なり。
弱は道の用なり。
天下の万物は有より 生 ず。
有は無より 生 ず。

 この章は、反は動の本であり、弱は強の本であり、無は有の本であるという、道の根本原理について説く。

 人は、行くということについてはよく考えているが、かえるということについてはよく考えていないことが多いのである。例えば、山に登ったり、遠方へ行ったりするような場合は、頂上に着き、或は、先方に到着すれば、それで目的を達したように思うことが多いのであるが、そこで、登山のことが終ったわけではない。必ず下山して帰って来るまでの体力や、食料や、時間を用意してかからなければならぬのである。

 人は、動と、強と、物を重視して、これだけあればことが足りると思いがちであるが、これらはその反面であって、他の反面であるところの、反と、弱と、無こそは、その本となるものであることを忘れているのである。
 すべてのものは、その出て来た元へかえり、静かになるものである。従って、反と、弱と、無は、すべてのものの本であり、道である、ということをわすれてはならないのである。



老子道徳経 39

2023-10-01 06:14:17 | 老子道徳経


   第三十九章 法本(根本に 法(のっと) る)

昔の一を得たる者。
天は一を得て以て清し。地は一を得て以て寧し。
神は一を得て以て霊なり。谷は一を得て以て盈つ。
万物は一を得て以て 生 ず。
侯王(こうおう)は一を得、天下の正を為して、其の之を 致(いまし) む。
天以て清きこと無くんば、将た恐らくは裂けん。
地以て寧きこと無くんば、将た恐らくは発せん。
神以て霊なること無くんば、将た恐らくは歇まん。
谷以て盈つること無くんば、将た恐らくは竭(つ)きん。
万物以て 生 ずること無くんば、将た恐らくは滅せん。
侯王以て貴高なること無くんば、将た恐らくは 蹶(つまず) かん。
故に、貴は 必 ず賎を以て本と為す。高は 必 ず下を以て基と為
す。
是を以て、侯王は 自 ら孤寡(こか)、不轂(ふこく)と 称 す。此賎を以て本と為
すに非ずや、非ざるや。
故に、 車 を数うるに致れば、 車 無し。
琭琭(ろくろく)として玉の如く、落落(らくらく)として石の如くなるを欲せず。

 昔から、道を得たものを見ると、天は、道を得てあのように清明である。地は、道を得てあのようにやすらかである。神は、道を得てあのように霊である。谷は、道を得てあのように衆流を受けている。万物は、道を得て皆その成長を遂げることができ、侯王は、道を得て天下に正しいことを示すことができるのである。各のものがその所を得ることができるのは、道があるからである。

 世の中には貴き者あり、賎しきものあり、富貴の者あり、貧しき者あり、様々の人がいるのであるが、皆それぞれの役目を果たしているものであるから、それぞれにその立場を尊重されるところがなければならない。
 各がその立場を認められてこそ、世の中は平穏に治まってゆくのである。富貴の者が琭琭として美しい玉のように珍重されており、多くの者が珞々として、ごろごろ石のように、みじめな取扱いをされるようなことは、最も望ましくないことである。



老子道徳経 38

2023-09-23 06:13:52 | 老子道徳経


   第三十八章 論徳(徳を論じる)

上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を 失 わず、是
を以て徳無し。
上徳は無為にして以て為せること無し。下徳は之を為して以
て為せること有り。
上仁は之を為して以て為せること無し。上義は之を為して以
て為せること有り。
上礼は之を為して之に応ずること莫(な)ければ、則ち 臂(ただむき
) を攘(かが)げ
て之を仍(ひ)く。
故に、道を 失 いて而る後に徳あり。徳を 失 いて而る後に仁
あり。
仁を 失 いて而る後に義あり。義を 失 いて而る後に礼あり。
夫れ、礼は 忠信 の薄らぎにして乱の首(はじ)めなり。
前識は道の華にして愚の始めなり。
是を以て大丈夫は、其の厚きに処りて其の薄きに居らず。
其の実に処りて其の華に処(お)らず。
故に、彼を去り、此を取る。

 この章は、道よりも徳、徳よりも仁、仁よりも義、義よりも礼と、人の注意をひき易く、華やかになることは、その信実性は反対に薄くなり、道より遠ざかり、乱世を導くことになるため、世の信頼を背負う所の大丈夫は、外見の華やかな前識をかえりみないで、篤実なる道を守ることを本命とするものであることを説く。

 上徳は、道と同じことである。道を行うときは、これは徳のある行だと意識しないで行うのである。これは、誰もができることをするのは当然のことだとしているのであって、これを見習う者もまた当然のこととして行えるわけであり、斯様にして徳のある行が常に世の中に行われてゆくのであって、このようなのを、真に徳があるというべきである。
 下徳は、何かを意識して行う徳をいうのであって、当然のこととして、自然に行えない徳である。善いことを行うのではあるが、その徳で、行った人の心と、他の人の心との間が平らかでなく、平等でないようなところが残るのである。故に意識して行う徳は、真の徳があるとは言えないのである。

 真に立派なる男子であるところの、大丈夫は、専ら道を行うことにつとめ、才知を人に示そうとするような、人の心を目当てにすることは、決して行わないのである。
 大丈夫は、常に自身をもって自己の立場を守ることのできるものを指す。


老子道徳経 37

2023-09-17 06:08:41 | 老子道徳経


    第三十七章 為政(政を為す道)

道は常に為すこと無くして為さざること無し。
侯王(こうおう)若し能く之を守れば、万物将に自ずから化せんとす。
化して作さんと欲すれば、吾将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。
無名の樸、亦将に欲せざらんとす。欲せざれば静を以てするなり。
天下将に自ずから正まらんとす。

 この章は、無為無欲の道、すなわち、樸の道を以て治むれば、民は自然に従って快育を遂げ、天下は正しく治まるものであることを説く。

 道は、常に自らなすことはないのであるが、万物は、自然の法則という、道によって、それぞれ成長を遂げることになるのであるから、
 道は為さざることなし
 ということになるである。
 侯王が、もし、
 道は、無為にして万物を化す
 という道理に則って、自ら奢ることなく、また、民を使役したり、税を負担させたり、禁令を出したりすることを少なくすれば、民は生業が営み易くなり、万物が自ら成長を遂げるように、みずからの力を充分発揮することができるようになるのである。

 無名の樸は、名の無いあら木のことであるが、ここでは、外見は華やかなところ、人をひきつけるようなところのない、道を喩えていう。


老子道徳経 36

2023-09-05 06:22:31 | 老子道徳経

  
   第三十六章 微明(道は微妙、その効験は明らか)

将に之を歙めんと欲すれば、 必 ず固に之を張れ。
将に之を弱めんと欲すれば、 必 ず固に之を強くせよ。
将に之を廃せんと欲すれば、 必 ず固に之を興せ。
将に之を奪わんと欲すれば、 必 ず固に之を与えよ。
之を微明と謂う。
柔弱 は剛強 に勝つ。
魚(うお)は淵に脱(のが)すべからず。
国の利器は以て人に示すべからず。

 人は、ものごとには必ず表裏がある、という真理のあることを忘れがちである。ものごとには、必ず反対の方向に変化することがあるという、真理のあることをわすれてはならぬことを説く。

 張り切っているものは、一層張り切らせるようにすれば、早く疲れて、その状態をつづけられなくなるのである。
 廃さねばならぬものがあるときは、暫くこれを興すようにするのである。そのようにするときは、前に述べたのと同じ道理によって、必ずそのものは廃されるようになるのである。
 また、奪いとらねばならぬものがあるときは、必ず、しばらく、これを与えるようにするのである。そのようにするときは、前に述べたのと同じ道理によって、奪いとることができるようになるのである。
 以上に述べたことは、自らがもっているところの、知恵も、力も、外へは現わさないようにして、相手が、自分の力で、自分を始末するような形にさせるので、微明というのである。

 この道理は、人の心についても同様のことが言えるわけであって、剛強の気性の人は、外見が強そうに見える割合には脆いところがあり、これに反して、柔和な性質のものは、強い衝撃にあっても容易に崩れることがないのである。
 道によって方策をとるとすれば、たとえ大なる力をもって、小なる力のものにのぞむ場合であっても、正面衝突するような方策はとらないのである。

歙は、張ることの反対の、ちぢめる意。固は、しばらくの意。
 国の利器は、知識や、才能を指す。

老子道徳経 35

2023-08-30 06:13:35 | 老子道徳経


  第三十五章 仁徳(仁の徳)

大象 を執りて天下に往く。往いて害せず、安平大なり。
餌と与に楽しめば、過客止まる。
道の口に出ずるは淡として、其れ味わい無し。
之を視れども見ることを足ず。之を聴けども聞くことを足ず。
之を用いて既(つ)くすべからず。

 この章は、言葉で言い表すと、淡泊なものとなって、世人の魅力を引かないものであるが、その用い方によって、道の果す役割は無限であることを説く。

 大象は道のことを指しているのである。
 天下に往くは、道をもって天下にのぞむ意。
 
 音楽と御馳走とは、人を楽しませ、喜ばせることの多いものであるから、通りすがりの人も心をひきつけられて、足を止めることになるのである。これに比べると、道によって行われることは、見ても、華やかなところがなく、聞いても、快ものとは、一般の人には感じられない。
 
 しかし、道を用いることは、たとえば、第二十七章に、
 聖人は常に善く人を救う、故に棄人無し。常に善く物を救う。常に棄物無し
 とあるように、道が用いられる、ということがあるために、多くの人が救われ、また、多くの物が棄てられずに用いられて、多くの人の役に立つようになるのである
 これは、道が、すべての人を平等に愛し、また、総ての物を平等に尊重するという、則に基づいて、聖人は行動するからである。


老子道徳経 34

2023-08-25 06:20:32 | 老子道徳経
 

   第三十四章 任成(成るに任せる)

大道は氾として、其れ左右すべし。
万物之を恃(たの)みて、 生 じて辞せず。
功成りて、名あらずして有す。
万物を愛養して、主と為らず。常に欲無く、 小 と名づくべし。
万物焉(これ)に帰して、主と為らず。名づけて大と為すべし。
是を以て聖人は終に大を為さず。故に能く其の大を成す。

 この章は、聖人は、道の偉大なる働きに基づいて、常に世のため、人のために尽くし、それを、みずからの功としないので、遂には偉大なる働きをすることになるということを説く。

 道は、無欲であって、その形象をも示さないものであるから、その存在の分り難いもの、すなわち、小と、名づけるべきものである。
 しかし、道は、万物に対して大きな働きをなし、それらを自らの功ともせず、主宰もせず、万物は、誰によって生育せしめられ、保護されているかも知らに野であるから、その徳は偉大であって、大と、名づくべきである。

 万物は、道から、すばらしい自活力を与えられているが、人は、更に大きな力を与えられているのである。聖人は、すべての人がこの与えられた力を、充分発揮することができるようになることを期待するのである。それは、道が万物を平等に成長せしめようとするのと同じ志なのである。


老子道徳教経 33

2023-08-23 06:24:03 | 老子道徳経


  第三十三章 弁徳(徳を 弁(わきま) える)

人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は 力 有り。自ら勝つ者は強し。
足ることを知る者は富めり。
強いて行なう者は 志(こころざし) 有り。
其の 所 を 失 わざる者は久し。
死(や)めて妄(みだ)りならざる者は 寿(いのちなが) し。

この章は、如何なる知識や、力や、富を得るよりも、道に志して、それを貫き通すことは永遠の生命を得ることであって、最も優れたことであることを説く。

 自己の他にどういう人がいるか、その人の学識、才能、性格等を知ることのできるのは、知識があるからできることであって、知者というべきである。知者は人から尊重せられ、また、人があこがれるところのものであるが、それだけでは賢明ということはできないのである。
 自分が外界のことに対してどれくらいのことを知っているか、自分はどういうことができるか、自分は、自分の感情をどういう風に制御してゆくことができるかをよく知っているものは、自分をよく知っているものであるということができ、これこそ賢明であるというべきである。

 いかなる困難なことが起こっても、自分の心を強くもって、それをやり通すことのできる人は、志があるというべきである。しかし、その志は、いかなる場合にも、すべての人を愛し、弱き者を、助けてゆこうという心をもって、決して人とは、争いをしないというものでなくてはならない。

 人は、一度は死ぬものであって、死ねばその仕事を継続することはできなくなるものであるが、それは、物質を動かす仕事についてのことであって、心を動かす方の仕事は、周囲の人に働きを及ぼし、更に、後の人にもうけつがれて、いつまでも亡びることのないのは、老子や、孔子の思想が、二千数百年後の今日まで伝わっているのをもても明らかである。
 殊に、道についての思想は、天地と共に亡びることなく、いつまでも人を導き、世を導くようになるのである。

老子道徳経 32

2023-08-19 05:41:23 | 老子道徳経


  第三十二章 聖徳(聖徳の至り)

道は常に名無し。
樸は 小 なりと 雖 も天下敢えて臣とせず。
侯王若し能く之を守れば、万物将に自ずから賓せんとす。
天地相合して以て甘露を降(くだ)す。
民、之に令すること莫くして自ずから均し。
始めて制して名有り。
名亦 既 くに有り。天亦将に之を知る。
之を知るは殆(あや)うからざる所以なり。
譬えば道の天下に在るは猶川谷(せんこく)と江海とのごとし。

 この章は、常の道が行なわれている理想的の国柄と、富貴と、貧賤の身分に差別の生じている国柄とについて述べ、最後に、有道者は、この社会情勢に、いかに対処して行くものであるかを説く。

 常の道は、人に対して、このようにしなければいけない、そういうことをしてはいけない、というように、人を束縛するようなことはない。人は自由で、平等であるのを最善としているのである。
 樸のように無欲で、自ら才能を示そうとしない人は、いかなる人も、これを臣として使うことはできない。従って、 樸は、王者の徳であるというべきである。
 ところが、樸の徳が影をひそめた世に於いては、制度が定められることになり、種々の役柄がつくられ、上下の階級等が生じることになるのである。
 樸の世から、遠く離れた世代においては、国の内外に於いて、容易に解決し難い事件が発生し、或は、山積みしてくるのは免れ難いことである。
 そのような状態を無事に解決するためには、無理な方法によって解決することは止めて、時期を待つ、という方法をとることである。そうして、やむを得ないときは、相手に譲るという方法をとることである。

 道の、天下に於ける役割は、たとえば、川谷の水は、総て揚子江と、海という最も低い所へ注ぐことになっておるのと同じことである。
 すなわち、天下の事は、必ず最後は、道によって解決をつけられることになる、という意。