goo blog サービス終了のお知らせ 

不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 51

2023-12-20 06:26:15 | 老子道徳経


 第五十一章 養徳(徳を養う)

道は之を 生 じ、徳は之を蓄う。
物は之を 形 し、勢は之を成す。
是を以て、万物は道を 尊 びて徳を 貴 ばずということ莫し。
道の 尊 きは徳の 貴 きなり。
夫れ、之に命ずること莫(な)くして、常に自ずから然り。
故に、道は之を 生 じ、徳は之を 畜(やしな) う。
之を長じ、之を育す。之を成し、之を熟す。之を養い、之
を覆う。
生じて有(たも)たず、為して恃(たの)まず、 長 じて宰せず。
是を玄徳と謂う。

 万物は、道によって生じたものであり、徳によって生育せしめられたものである。万物が成長を遂げるには、種々の物質が加わらなければならないし、また、四囲の情勢によって、種々の影響を受けるものである。
 
 風の吹くことも、雲の動くことも、河水の流れることも、日が照り、雨や、雪の降ることがあるのも、鳥や、虫の飛ぶことも、獣類の走ることも、草木の繁茂することも、いつまで変らずに行われるのは、道が、常に変らない徳をもって万物を護っているからである。

 以上のように、万物にその所を得させている徳は幽玄であり、玄徳というべきである。



老子道徳経 50

2023-12-18 06:24:45 | 老子道徳経


  第五十章 貴生(生を貴ぶ)

出ずれば生き、入れば死す。
生の 徒(ともがら) は 十 有三、死の 徒 は 十 有三。
人の生きんとして動かば、皆死地の 十 有三に之(ゆ)く。
夫れ何の故ぞや。其の生を生くるの厚きを以てなり。
蓋し聞く、善く生を 摂(やしな) う者は、陸を行くも兕虎(じこ)に遇わず
軍に入るも甲兵を被(き)ず。
兕も其の角を投(い)るる 所 無く、虎も其の爪を措(お)く 所 無く、
兵も其の 刃 を容るる 所 無し。
夫れ何の故ぞや。其の死地無きを以てなり。

 人間は、種々の私欲から死因を作ってるものであるが、死因の外へ出れば、生きていることができるが、死因の中へ入れば、死ぬものである。

 ややもすれば死因に近づいて行くものが十人の中に三人位の割合でいるのである。栄養があるからといって美味のものを食べ過ぎたり、元気をつけようと思って酒のようなものを飲み過ぎたり、夜おそくまで遊びにふけったり、過激な運動をしたり、生活を豊にしようとして身体の休養を充分にとらないで働き過ぎたりする人である。

 善く生を摂する人は、常に物事を控えめにする人であるから、わざわざ危険な所へ出かけて行って、兕虎に遭うようなことも、軍に入って甲冑を着たり、刀剣を持ったりするようなことはないのである。

 有道者は、いつも総てのものを愛し、養い育てようとする心をもっているものであって、何ものとも争う心は微塵もなく、常に造化に協力するところの、玄牝の心をもって、総てのものを見ているのであるから、この様な有道者に対しては、猛獣や、兵といえども争うという心を誘発せられることはないのである。


老子道徳経 49

2023-12-13 05:58:31 | 老子道徳経


   第四十九章 任徳(聖徳に任ねる)

聖人は常の 心 無し。百姓の心 を以て 心 と為す。
善なる者は吾亦之を善とす。
善ならざる者は吾亦之を善とす。徳あって善とす。
信ある者は吾亦之を信とす
信ならざる者は吾亦之を信とす。徳あって信とす。
故に聖人の天下に在るや 怵怵(じゅつじゅつ) たり。天下を為むるに其の 心
を渾(こん)ず。
百姓は皆其の耳目を注いる。聖人は皆之を 孩 (やしな)う。

 この章は、百姓が、どの苗にも差別をつけないで育てておる心と同じ心をもって、聖人は、民にのぞむものであることを説く。

 信なるものはもとより信頼するが、不信なる者は、生来記憶力が弱いために、或は、身体の発育がおくれて能力が足りないために、忘れたり、思うようにものごとができなくて、やむを得ず不信の者となる場合が多いのであるから、信ある者と同じように認めるのである。信なる者も、不信なる者も、道からは同じ徳を受けて生れて来たものであるからである。

 聖人は、善なる者も、不善なる者も差別をしないので、善なる者は誇ることができず、従って、偉くなろう、手柄を立てようとする心を刺激されることなく、また、不善なる者は、ひがみの心で、ねじけた心を生ずることなく、百姓の心は皆なごやかとなり、嬰児の心のようにならしめられるのである。

 其の 心を渾(こん)ず。の渾は、混と同じで、物の差別をせず、よく融和することをいう。
 

老子道徳経 48

2023-12-11 05:00:01 | 老子道徳経
 

  第四十八章 亡知(知を亡くす)

学を為せば日に益す。
道を為せば日に損ず。
之を損じて又之を損じ、以て無為に至る。
無為にして為さざること無し。
天下を取むるには常に無事を以てす。
其の事有るに及んでは以て天下を取むるに足らず。

 この章は、道を修めている者は、目立ったことをなして、人に示したいという心がなくなるものであるが、そのようになれば、できないということは、ないようになるということを説く。

 第四十三章に、
 不言の教、無為の益は、天下之に及ぶこと希なり
 とあるように、道を行う者は、自らの手柄となるようなこと、自らの利益となるようなことは、なさないのであるから、自らを利することを先に考える世俗の人から見れば、道を行う者は、損をした上にも損をしているようである。
 このように、自らを利することをなさないようになれば、自我を離れた域に達するわけであって、何をなしても抵抗を受けることなく、成就できるのである。

 天下に、事有る時の民衆の心は、生命や、財産の危険におびやかされ、自由を失っているので、平常とははなはだ異なっているのである。その様な状態はいつまでも続くものではなく、特殊の事情が変れば、民衆の心も変って行くわけである。従って、事有る時の民心は、一時的のものであるから、事無き時に、自然に得た時の民心に比べると、取るに足らないのである。



老子道徳経 47

2023-12-02 06:15:29 | 老子道徳経


   第四十七章 鑑遠(行くことなく遠くを鑑知する)

戸を出でずして以て天下を知り、牖(まど)を 闚(うかが) わずして以て天道を見る。
其の出ずること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少な
是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成す。

 天下の形勢も、世の中の事情も、平等において聞くことを怠らぬようにしておれば、わざわざ家から外へ出ていかなくとも、大抵のことは分るのである。
 天下の形勢のように、広い範囲に亘ることは、調査のために遠くまで出て行けば、その地方の、局部的のことは知ることができても、元の位置から遠くへ離れては、精力を浪費し、頭脳の働きを低下させ、大局の事は却って分り難くなるのである。

 この章の文章は、普通の人には、できそうに思われないようなことばかりが書いてあるので、聖人は、不思議な力をもっているものと解釈しなければならないように思われるが、道においては、不思議な力を必要としないのである。それは、不断の研究と努力を怠らないということが、主義、方針の如くなっているからである。

 道においては、不断の仕事を続けるものであるから、できそうに思われないことも、なし遂げることになるのであって、特別な力を出して、むずかしい仕事を成就させようとするようなことはないのである。


老子道徳経 46

2023-11-26 05:16:11 | 老子道徳経


  第四十六章 倹慾(慾を倹(つま)しくする)

天下道あれば、走馬を 却 けて以て糞(おさ)めしむ。
天下道無ければ、戎馬郊(じゅうば こう)に生まる。
罪は可欲より大なるは莫(な)し。
禍は足ることを知らざるより大なるは莫し。
咎は得んことを欲するより大なるは莫し。
故に、足ることを知るの足るは常に足る。

 天下に道が行なわれていて、各の国が、平和に治まっているときは、早く走ることのできる良馬も、走らねばならぬことがないから、平和時代には必要のない、駆けまわるということはさせないで、農耕に従わせるのである。

 戦乱に勝つ方も、敗ける方も大なる損害を蒙ることは前に述べた通りであるが、仮に隣国の領土を占領したとしても、その民心を得ることも、旧領土と新領土を公平に修めるということも、難しいことである上に、戦争のために人心はすさんで平穏に治め難くなり、領土を失った国からは、絶えず復讐をしようとねらわれ、周囲の国からは、その強大となったことを恐れられ、協力してその勢力を弱めようとしておびやかされ、真に得をするということはないのである。

 この章においては馬のことを言って、人の事を言わないのであるが、馬は、戦争で手柄をたてても、馬には、名誉のことなどは解らないのであるから、命がけで駆けまわるより、農耕に従う方が、馬にとって幸福であることは見やすいことである。
 これは、人間にとっても同様に、名より身の方を、大切にすべきであることは言うまでもないことである。

老子道徳経 45

2023-11-22 05:53:31 | 老子道徳経

  第四十五章 洪徳(洪(おお)いなる徳)

大成は缺けたるが若し。其の用いること弊(つい)えず。
大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若し。其の用いること窮まらず。
大直は屈(ま)げたるが若し。
大巧(たいこう)は拙きが若し。
たいこう つたな ごと
大弁は訥なるが若し。
躁勝(そうきわ)まって寒く、静勝まって熱す。
清静(せいせい)は天下の正為(せいた)り。

 この章は、大成、大盈、大巧、大弁等について論じ、天下のことは、帰するところは、清静を以て規準とすべきであることを説く。

 自然の道を体得し、人格の大成した人は、却って、未だ不十分な、欠けているところがあるように見えるのである。それは、自分では大成ということを考えず、常に自分の足らざるところを改めようと、謙虚な心で努力をしているからである。

  大盈は徳が盈ちていることをいうのである。徳が盈ちているものは、自らの心が虚しいのである。心の虚しいのは、谷が衆流を受け入れることができるように、いかなる人の心をも受け入れることができるものであって、対立したり、衝突したりすることなく、失あるものに対しても、こちらも、欠けているところがあるもののようにして、相接してゆくことができるのであるから、大いに徳の盈ちているものは、心は虚しいように見えて、その心の用い方は窮まりがないのである。

 心が、静かになっているときは、心が、平常よりも、無に、近いときである。従って、私欲がなく、清い心であるわけである。


老子道徳経  44

2023-11-14 06:04:37 | 老子道徳経

  第四十四章 立戒(長久となるための立戒)

名と身と孰(いず)れか親しき。
身と貨と孰れか多なる。
得ると 亡 うと孰れか病(やま)しき。
甚だ愛すれば 必 ず大いに費やす。
多く蔵(おさ)むれば 必 ず厚く 亡(うしな) う。
足ることを知れば 辱 しめられず。
止まることを知れば殆(あや)うからず。
以て 長久 なるべし。

 人は、皆強い競争心をもっておるために、人に負けたり、或は、人より劣っていたりすることには、心の平静を保っていることが難しいのである。
 そのために無理な努力をして、健康を害うようなことがあっても、直ぐに止めるということができず、大病になって、身動きも自由にならないようになると、はじめて、自分の身命が、何よりも大切なことが解るのである。
 いかなる名誉も、それは、他人が思ってくれることであって、他人の心に起こる現象に過ぎないのである。したがって、名誉は、自分の身にはなにもついていない。はなはだ不確かなものであって、真に我身に益があるとは言えないものである。

 名誉や、財貨や、その他のことにしても、必要以外のものは望まずに満足をするということを知っていれば、失敗することなく、従って、辱めを受けるようなことはないのである。
 要は、自分の偉いことを示そうという心を離れなければ、自分の本質はあり得ず、真の価値ある仕事も成し難いことをいうのである。


老子道徳経 43

2023-11-08 05:44:15 | 老子道徳経

  四十三章 遍用(遍く用いることができるもの)

天下の至柔(しじゅう)は天下の至堅(しけん)に馳騁(ちてい)す。
有ること無きは 間 無きに入る。
吾、是を以て無為の益有ることを知る。
不言の教え、無為の益は天下此に及ぶこと希なり。

 この章は、無為の益と、不言の教えの妙用を、水をたとえに引き、柔軟、謙虚の態度が、偉大なる働きをなし遂げることに、如何に役立つものであるかを説く。

「至柔」とは、水である。
「至堅」とは、金石である。水はよく堅を貫き、剛に入り、あら
ゆるところに通じる。
「有ること無き」とは、道をいう。道には形質がない。ゆえに、
よく無間に出入して、神を群生に通す。

 以上のことから、人の考えを、相手の人に教えようとするときは、相手の人の考えと、衝突することのないように工夫すべきである。
 そのためには、教えるべきことは細かく分解し、誰のものでもないようにして、その中から相手が自由に選び出し、相手が自ら工夫し、自得なし得たと思うようになすべきである。

 不言の教えは、自分の考えを、言葉でもって、人におしつけるようにしないで、相手が、こちらの伝えたいことを、自然に自得するように仕向けるのをいう。
 無為は、作為的でなく、自然で、目立たないように行われることをいう。


老子道徳経 42

2023-10-28 06:14:21 | 老子道徳経
 


 第四十二章 道化(道徳による徳化)

道は一を 生 じ、一は二を 生 じ、二は三を 生 じ、三は万物を 生 ず。
万物は陰を負いて陽を抱き、沖気は以て和を為す。
人の悪(にく)む 所 は唯孤寡、不轂(ふこく)なり。而るを王公は以て 称 と為す。
故に物は、或いは之を損じて而して益す。或いは之を益して而して損ず。
人の教うる 所 、我も亦人に教う。強 梁 (きょうりょう)の者は其の死を得
ずと。
吾将た以て教えを為す 父 (はじめ)とす。

 道から陰と陽を生じ、陰と陽との他に、中性のもの、すなわち、冲気を生じたことを指す。とあるは、万物には、陰性と陽性の部分が備わっているが、その他に、中性の部分が備わっているので、全体の調和がとられていることをいうのである。
 孤寡は、孤児と、老いて夫のないやもめのことであり、不轂(ふこく)は、不善のこと、徳のないことであって、どちらも人の嫌がるものである。しかるに、王公が自分の称呼としているのは、これは、高い地位にある王公と、民衆の地位が余り違いすぎるので、その調和をはかる考えから生じたことである。

 益をしようとして、欲張ったことをしたり、その地位を利用して民衆を威圧するようなことをすると、一応は益をすることがあっても、信用を失ったり、民心が離反するようなことになって、結果においては損をすることになるのである。
 孔子は、門人の子路が、剛強な態度を見せることがたびたびあるので、子路は、終りを全うすることはできないのではないか、と言っていたのであるが、子路は、後に、衛国の乱に死んだのである。
 譲、ということをしないで、あくまでも力ずくで押し通そうとすると、必ずこれをさえぎり、或は倒そうとする強敵が現れて闘争しなければならぬこととなるものであるから、生命を全うすることは難しいこととなるのである。