goo blog サービス終了のお知らせ 

不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 61

2024-02-18 06:38:17 | 老子道徳経

  第六十一章 謙徳(謙下の徳)

大国は下流のごとし。天下の交なり、天下の牝(ひん)なり。
牝は常に静を以て牡(ぼ)に勝ち、静を以て下ることを為す。
故に、大国は小国に下るを以て則ち小国を取る。
小国は大国に下るを以て則ち大国を取る。
故に、或いは下りて以て取り、或いは下りて而(しか)して取る。
大国の 過 (あやま)たざるは、人を兼ね 蓄 (やしな)わんことを欲すべし。
小国 の 過 たざるは、入りて人に事えんことを欲すべし。
各おの其の欲する 所 を得んとならば、大なる者は宜しく下
ることを為すべし。

 大国は、水に於いてたとえるならば、江海のようなものである。江海は最も低い所にあるから、上流にある幾百の川谷の水は、皆此所へ流れて来るのである。
 これと同様に、もし大国が腰を低く、謙譲の態度でいるならば、周囲の小国
は安心して集まって来ることができるのである。
 また小国は、こちらから頭を低くしてゆくならば、大国に受けいれないということはないのである。それは、大国の本望とするところであるからである。故に、大国として頭を低くするならば、労せずして小国の民心を得ることができ、小国として頭を低くしてゆくならば、大国に受けいれられ、国の安全を保障されることになるのである。

 自然界において、育て養うということは、誰から頼まれたということなく、報酬を期待することもなく、しかも高ぶらず、また、倦むということを知らないで、一生懸命になってやっていることが多いのである。
 これは、遺伝的のことであって、遺伝的のことは、最も確かに効果が現れることであり、最も強いことであり、最も自然のことであり、正しいことである。


老子道徳経 60

2024-02-13 05:37:25 | 老子道徳経


 第六十章 居位(道徳によって位に居す)

大国を治むるは、 小鮮 を烹るが若し。
道を以て天下に莅めば、其の鬼、神ならず。
其の鬼、神ならざるに非ず。其の神、人を傷らざればなり。
其の神、人を傷らざるに非ず。聖人亦、人を傷(やぶ)らざればなり。
夫れ、両つながら相傷らず。故に徳、交(こも)ごも焉(き)に帰す。

 大国を治めるのは、生の小魚を烹るのと同じような心得をもって行うべきである。小魚は、大魚と同じように料理をすることができないから、そのまま丸煮としなければならない。
 強い火を急にあてると、片側だけがこげつくが、そうかといって、裏返しをしようとして、箸などでかきまわすと、形がくずれてうまくゆかないから、弱い火でもって、一様に熱がまわるように、あせらないようにやらなければならない。
 国を治めるのも、これと同じ道理であって、法令等によって、政治力を及ぼすことが強いと、民は、おちついて生業に励むことが難しくなり、また、一地方へ目立つような政治力を及ぼすと、その地方のものは、煩わしさに困り、他の地方のものは、疎んぜられるのではないかと、不平に思うものである。

 無為の政治をなせば、民は安心して生業に励むことができ、働くことを楽しみとするから、その労働の成果があがり、身体も健全となり鬼神の話がひろまったり迷信にかかわるものが生じたりすることなく、孔子が、鬼神は敬して遠ざかる と教えたのと同じことが、自然に行われることになって、鬼神が霊異であったり、妖怪であったり、人に殃を及ぼすことがないのである。


老子道徳経 59

2024-02-11 05:41:06 | 老子道徳経


 第五十九章 守道(道を守るには深根固蔕(しんこん こてい))

人を治め天を事(もち)いることは、嗇(おし)むに若くは莫し。
唯り嗇(おし)む、是を早ず服(う)ると謂う。
早ず服る、之を重ねて徳を積むと謂う。
重ねて徳を積めば、 則 ち尅(か)たざること無し。
剋たざること無ければ、 則 ち其の 極 を知ること莫し。
其の 極 を知ること莫ければ、以て国を有(たも)つべし。
国を有つの母にして、以て 長久(ちょうきゅう) なるべし。
是を根を深くし、蔕(へた)を固くすと謂う。
長生久視(ちょうせいきゅうし) の道なり。

 この章は、人を治めるのも、徳を修めるのも、常にものごとを控えめにすることが大切で、常に余力を残すようにするということは、徳を積むことであり、この徳は、国をたもつの道であり、長生久視の道であることを説く。

 政治を行う場合でも、道を行う場合でも、力や物資が余っていても、それを使うことを惜しむようにして、あるだけのものを使ってしまうことをしないでかたく適度を守るのである。
 そのようにすれば、物事は早くまとまり、早く完結し、精力も、物資も余裕のあるうちに、元の状態に復るのである。
 
 これは、真の健康体で、精力が充実し、充分に余力を具えているときにできることであって、真の健康体でないもの、健康であっても、余力を貯えていない者にはできぬことである。

 従って、嗇は、久視の道であり、同時に、長生の道であるわけである。


老子道徳経 58

2024-02-09 06:27:35 | 老子道徳経


 第五十八章 順化(民は上に順い上に化す)

其の政悶悶たれば、其の民 醇醇(じゅんじゅん) たり。
其の政察察たれば、其の民欠欠たり。
禍は福の倚る 所 、福は禍の伏す 所 なり。敦か其の 極 を知
らんや。
其れ、正しからざれば、正も復た奇りを為す。善も復た妖い
(わざわ)を為す。
人の迷えること、其の日は 固 に久し。
是を以て、聖人は方にして割(けず)らず、廉にして劌(やぶ)らず。
直にして肆(の)びず、光(て)って 曜 (かがや)かず。

 この章は、民の心を刺激して神経質にならしめることがなければ、民はいつも醇朴であることを説く。

 禍と福とは、物の裏表のように、絶えず入れ替わって回ってくるようなもので、果てがないようであり、これは、定まるということがないものであろうか。
 正しいことが邪悪になったり、善が悪となったり、怪しいものとなったりすることも多いので、このようなことについての民の迷は、もう随分前から久しく続いているものである。

 聖人は、あらゆる知識を備えているものであるが、それは、心の中を明らかにするするために用いられるものであって、その知識や徳が外へ表われないようにしているのである。それは、何かというと、民を刺激しないためであり、民がいつも醇朴な状態であることを望むからである。


老子道徳経 57

2024-01-24 06:18:58 | 老子道徳経


  第五十七章 淳風(淳徳の爽風)

正を以て国を之らしむ。 奇 を以て兵を用いしむ。
無事を以て天下を取めしむ。
吾、何を以て其の然ることを知るや。此を以てなり。
天下に忌諱(きい)多ければ民弥(たみいよ)いよ貧し。
民に利器多ければ国家滋(ます)ます昏し。
人に技巧多ければ奇物滋ます起こる。法物滋ます彰れて
盗賊多く有り。
故に聖人の云く、我無為にして民自ずから化す。我静を好
みて民自ずから正し。
我無事にして民自ずから富む。我無欲にして民自ずから 朴
(すなお)なりと。

 国を治めるには法律や禁令等を守らしめ、兵を用いるときは、敵の意表に出るような術策や経略を用い、天下の人心を得るには、何も目立ったことをしないで、無事のうちに得るようにするのである。
 どういう理で、そういうことになるかというと、法令に従わせたり、兵の威力を示したりすることは、すべての為政者が同じようにすることであって、少しも民に感謝の念を起させる徳がないのである。従って、民心はいつでも離れるようになるのである。
 ところが、道をもって治めるものは、兵事のようなことを起こさぬように、法令等の存在を強く感じさせないようにして、常に民のためになることを、また、世の中のためになることを、目立たぬようにしているものであるから、その徳は、深く民心に浸みこむことになって、自然に、天下の民心を得るようになるのである。

 利器や、奇物の多い世の中は、富裕者ができるが、その反対の貧困者が必ず多くできることになるのである。そのために人心が悪化し、困った者が盗みをするのは当然だと思う人間が多くなるのである。

 我が、静を好んでいるときは、民も、冷静であり、すがすがしい気持ちで居ることができ、自ら正しくなるのである。


老子道徳経 56

2024-01-22 06:15:33 | 老子道徳経


 第五十六章 玄徳(玄同の徳)

知る者は言わず、言う者は知らず。
其の兌(め)を塞ぎ、其の門(くち)を閉ざす。
其の鋭むを挫(おさ)え、其の 忿(いきどお) りを解く。
其の光を和らげ、其の塵を同じくす。
是を玄同と謂う。
故に、得て親(むつ)まじゅうすべからず。亦得て疏(うと)んずべからず。
得て利すべからず。亦得て害すべからず。
得て貴ぶべからず。得て賤しむべからず。
故に、天下の貴と為る。

 この章は、いかなる叡智才能も包み、世俗の間に入り、同調して行くことのできる玄同の徳は、天下において、最もと貴いものであることを説く。

 道を会得している者は、そのことを、人に知らせなければならないとは思っていないものであって、ひたすら、道を実行しようという、心があるばかりである。
 道は言わずして行うところにあるものであって、人に示そうとするところには、真の道はないわけである。

 何事も、自分本位に物事を考えるものから見れば、あたかも、五官や、精神の活動を充分にさせないで、周囲の情勢に、順応することばかりをしているようであるが、このように、すべてのことに、差別感が起こらないようにすることを、玄同というのである。

 玄同は第二十三章に、
 道ある者には道に同じくし、徳ある者には徳に同じくし、失ある者には失に同じくす
 とある句について述べたように、徳のある人に対しても、徳のない人に対しても、相手の人が、同等の人に対するように、気楽に、気おくれすることなく、つきあってゆけるようにすることをいう。


老子道徳経 55

2024-01-20 06:22:23 | 老子道徳経

  
  第五十五章 玄符(玄妙に符合する者)

徳を含むの厚きをば、之を赤子に比す。
毒虫も螫(さ)さず、 猛獣 も拠(つか)まず、 攫鳥(かくちょう) も搏(う)たず。
骨弱く筋柔らかにして、握ること固し。
未だ牝牡(ひんぼ)の合を知らざれども朘作(さいさく)するは、精の至ればなり。
終日 号(な)けども唖(むせ)ばざるは、和の至ればなり。
和を知るを常と曰う。常を知れば日に明らかなり。
生を益せば日に祥(まさ)る。心、気を使えば日に強(こわ)し。
物、壮んにして則ち老ゆ。之を道にあらずと謂う。
道にあらざれば早く巳(お)わる。

 この章は、人が天から与えられている偉大な徳を充分に役に立てるためには、常に和の心を主とし剛強であったり、身神を使い過ぎたりしてはならないことを説く。

 赤子は、骨は弱く筋肉は柔かいが、握ることは、しっかりと固く握るものである。また、男女の交わりということをしらないが、精力が充実していることを示すのは、精力を減退させることが少しもないからである。
 終日泣いていても、声が嗄れることがないのは、気のいらだつということが全然生じることがなく、心がいつも和やかであるからである。

 物が壮んであるということは、その内側には盛んに精力を消耗しているのである。そうして、精力を大いに消耗すれば、その精力の補充が伴わないこととなり、身体の組織が急速に老化されていって、老が、近づくことになるのである。殊に、気を使って、頭脳を疲労させたときは、その回復には、身体が疲労したときより多くの時間を要するものであって、心気を使うことの多いものは、老衰を早く来すものである。
 これは、不道といわねばならないことである。
 不道とわかれば、かかることは、早くやめなければならないのである。


老子道徳経 54

2023-12-28 06:14:45 | 老子道徳経


  第五十四章 修観(修道の観)

善く建つる者は抜きえず。善く抱く者は脱きえず。
子孫以て祭祀して轍(や)まず。
之を身に修むれば、其の徳 乃 ち真なり。
之を家に修むれば、其の徳 乃 ち余り有り。
之を郷に修むれば、其の徳 乃 ち 長 ず。
之を国に修むれば、其の徳 乃 ち豊かなり。
之を天下に修むれば、其の徳 乃 ち 普(あまね) し。
故に、身を以て身を観、家を以て家を観、
郷を以て郷を観、国を以て国を観、天下を以て天下を観る。
吾何を以て天下の然ることを知るや。
此を以てなり。

 善く建てたる徳は、道によって行われる徳であり、それは、長い間に自然の如くに行われてきたことである。従って、深く根を下ろした大木のように、容易に抜けないものとなっているのである。

 道によるところの徳は、
 天地自然は万物を平等に愛するものである
 という原理に基づいて、総てのものを平等に敬愛するところの精神により、長い間に、第二の天性となった徳であるから、いかんる場合にも変ることのない、真の徳である。
 この徳を家に修めると、家中の者は、争いの心や、私欲を起こすような事がなく、互いに家の為に、或は、人の為に働くことになるので、自然に善いことをなそうとする力が、家の中には余ることになり、この徳は子孫にまで及ぶことになるのである。

 また、この徳が天下に修まるならば、この徳は、いかなる人にもゆきわたり、すべてのものが徳の感化を受け、徳の恩沢を蒙ることとなり、天下は真に泰平となるのである。

祭祀して轍(や)まずの、祭祀は、まつることを指し、轍(や)まずは、やめないこと、子孫が長く栄えて、祖先のまつりを断たないことをいう。



老子道徳経 53

2023-12-26 06:06:25 | 老子道徳経


  第五十三章 益証 (道に益となる非道の 証 )

我をして介然として知ること有らしめば、大道を行かん。
唯り 施 すこと、是を畏れん。
大道は 甚 だ夷(たい)らかなれども、而るを民は 径 を好む。
朝は 甚 だ除まり、田は 甚 だ蕪(あ)れ、倉は 甚 だ虚し。
文繍(ぶんしゅう)を服(き)、利剣を帯び、 飲食 に厭きて財貨余り有り。
是を 盗 の夸りと謂う。道に非ざるかな。

 大道は、平らかなものであって、有るか、無いか、判らないものである。
 例えば、道が行なわれているときは、政治が行なわれているか、行われていないか判らないものである。

 朝廷が租税を重くし、また、農繁期も構わず民を利用して立派な建物を建てさせたり、種々の仕事に使役することがあると、農民は農耕に専念できないために田畑は荒れ、収穫は少ないために貯蔵する程の穀物は収穫できないので、倉へ入れる穀物は極めて少ないということになるのである。

 民百姓を非境に陥れて、朝に立つ者だけが栄華にふけるような政治のとり方をして、政治的手腕があるように誇るのは、税の名において民の財を奪い、それを誇りとするのと同じことであって、盗人が盗品を山のように積んで栄華にふけり、その手腕を誇るのと変りはないのである。
 政治の最も善い状態は、第十七章に、
 太上は下之有るを知る
 とあるように、民が税をとられたりすることが少なく、貧富の差が少ないのをいうのである。



老子道徳経 52

2023-12-24 05:47:45 | 老子道徳経


  第五十二章 帰元(根元に復帰する)

天下始(みち)有れば以て天下の母為り。
既に其の母を知れば又以て其の子を知るべし。
既に其の子を知り復た其の母を守れば、身を没して殆(あや)うか
らず。
其の兌(め)を塞ぎ其の門(くち)を閉ざせば、身を終うるまで勤(くる)しまず。
其の兌を開き其の事を済(ま)せば、身を終うるまで救われず。
小を見るを明と曰う。柔を守れば日に強し。
目、其の 光 を用いれば其の明に復帰して、身に 殃(わざわ) いを遺す
こと無し。
是を 習常 と謂う。

 天下の始めに道があり、道から万物が生じたのであるから、道は、万物の母であり、万物は、道の子であるわけである。

 ところで、道を守る方法であるが、それは、耳、目、鼻、口等の、神経を使う所の五官は、使い過ぎないようにすることが肝要なのである。
 この事を固く守って行けば、神経が疲れるということがなく、従って、神経組織も、身体も、常に健康を保つことができるのである。

 いつも身神を、柔らかくしているときは、無理をするようなこと、人と対立
する心、争いの心を起こすようなことがないから、敗れたり、失敗したりすることなく、すがすがしい心でいることができるから、病にかかることなく、いつも健康でいることができるから、真に強い、ということができるわけである。

 明は、心が明るいのをいう。第十六章に、常を知るを明という、とあり、第三十三章に、自ら知る者は明なり とある、明と、同意である。