
「あきらめる」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
断念するという意味での「諦める」なのか? 道理に明るくなるという意味での「明らめる」なのか?
同じ「あきらめる」でも、意味は全然違ってきますね。
生を諦めれば「自死」に繋がる恐れがありますが、生を明らめれば「生きる糧」になるかもしれません。
どうせなら、後者の「明らめる」を目指してみては如何でしょうか。
生を明らめ死を明むるは仏家一大事の因縁なり
『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻
もしかしたら人間、人生にて背負うべき荷物の量は初めから決まっているのかもしれません。
だとしたら、背負うべき荷物の量を悲観して人生を「諦める」のではなく、背負うべき荷物の量を受け容れて人生を「明らめる」のも手かもしれません。
逆に、「明らめる」ことによって背負うべき荷物の重さを感じなくなるかもしれません。
どうせ背負うべき荷物の量ならば、「諦め」ではなく「明らめ」の姿勢でお付き合いしてまいりましょう

※この記事を、先の記事で紹介したご婦人に送りたいと思います(さきほどの電話での補足です)。
改めて、先立たれたご主人のご冥福を心より祈念申し上げます。



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同じ読みでも意味は全然違いますね。
意味の違いをつけるのは、あくまでも我々次第ということですかねえ。
同じ「あきらめる」でも、受け取り様によっては全然違う意味になるのでしょう。
どうせなら「諦める」より「明らめる」で解釈していきたいですよね。
仏教では「一切皆苦」という世界観と同じ地平なのかな、と思ったことでした。いろんな明らめ方があるのでしょうね。合掌
お返事遅れて大変失礼いたしました
本日の記事にもアップさせたように、実は今日まで長期間の法要隨喜に出向いており、PCに向かうことが適わぬ日々でございました。
「神の思し召しのままに」という行、大変興味深く読み入りました。
そういう意味では、明らめと諦めはある意味同じ地平線上にあるのでしょうか。
ますますの参究が必要ですね。