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戒名は、自分で決められない(1)

2010年05月25日 10時50分13秒 | 葬儀&戒名&寺院運営
先日、Amazon.co.jp を徘徊していたら、驚きのタイトルの著書が目に飛び込んできた

この著書のタイトルに見られる「戒名は、自分で決める」という発想自体、少しでも仏教を勉強した者であれば論理矛盾の極みであることに気付くだろう。

言わずもがな「戒名」とは、師(師僧)から資(弟子)への「戒法の授受」(授戒)があって初めて成り立つものであり、それなくして「戒名」が付与されることは決してない。ましてや、お金を出して購入する類のものでないことも過去の記事で述べた通りである。

それを前提に物申せば、「戒名」とは自分で自分に命名できるものでないことは一目瞭然である。なぜなら「戒名」とは、既述もしたように師(師僧)から資(弟子)への「戒法の授受」(授戒)の証として結果的に付与されるものだからだ(ここで言う「授戒」に関する詳細はこちらをクリック♪)。

要は、本のタイトルにあるように本来「戒名」とは、一人で決められるものでは決してないのである。

島田氏の意図は別なところにあるとしても、氏が「戒名は、自分で決める」というタイトルを容認した以上(恐らく、出版社が付けたタイトル?)、まずその矛盾について明確な説明をする必要が出てくるであろう。なぜなら、氏が批判の矛先に据える日本仏教でさえ、葬儀の際には「没後作僧」という「授戒」の儀式(戒法の授受)を以て亡き人に「戒名」を授ける理性を保っているからだ。

前著の内容からして、氏が本当に批判したい点は別にあることは容易に想像できるが、百歩譲ってその意を汲んでも、せめて「死後の名前は、自分で決める」ぐらいの表現に留めて欲しかったものだ。なぜなら、言うまでもなく「戒名」と「死後の名前」は明らかに性質を異にするものだからだ。

ましてや、氏が本当に問題にしたい点が高額な戒名料に起因する問題ならば、単に高額な死後の「戒名」が必要か否かを問題にすべきであり、「戒名」本来の意味を曲げてまで死後の「戒名」に拘る必要はどこにもない。

氏が展開する論理の致命的欠陥は、「戒名」を議論の俎上に上げているにも関わらず、既述もした「戒法の授受」といった「戒名」に必要不可欠な要素(視点)を全く欠いている点にある。要は、氏こそ「戒名」を単に「死後の名前」程度にしか解釈していないのである。

確かに、一部の僧侶がそれと同じ感覚で「戒名」を捉えている点については、我々はその批判を真摯に受け止めるべきであろう。しかし、宗教学者としての氏が「戒名は、自分で決める」というコピーを以て批判を展開する以上は、氏も同様に「戒名」を商業ベースでしか捉えていない点を指摘せざるを得ない。なぜなら、本来の「戒名」の意味を曲げてまで批判をする背景には、「戒名」が高価か安価かといった悪しき時流に乗った論調しかそこには見られないからである。

まさに氏の著書に見られる提案も、大金を払って死後に「戒名」を買うのであれば、生前に自分で付けた方が負担が少なくて済みますよ、といった主張にしか私には見えない。その背景にあるのは、「戒名」本来の意味を問う議論以前に、既述もした「戒名」が高いか安いかといった商業ベースの価値基準でしかないようにも思える。そこに「戒名」の議論に不可欠な師から資への「戒法の授受」といった視点はどこにも見当たらない。

氏の著書を見ても分かるが、氏は同じく一部の僧侶が「戒名」を商業ベースでしか捉えていない点を批判したかったに違いない。しかし、同じく「戒名」を商業ベースでしか捉えていない氏に、そういった一部の僧侶を批判する資格はあるのだろうか。

氏に限らず、まず今の日本仏教のカタチについて批判する際には、双方の主義主張や立場についても一度冷静に耳を傾けてもらいたい。また、是非の議論は別にして、一度落ち着いて日本仏教の教義解釈の歴史や変遷について勉強をしてもらいたい。

その歴史的側面の一部分だけを切り取って、面白おかしく論うことは誰にでもできる。しかし、その歴史と変遷が如何に起こって、今の時代それのどこが問題で、何を伝統として残すべきかについては、今一度冷静に吟味すべき必要があると思う。

あたかも日本の仏教教団が、悪意のみを以て今のシステムを構築してきたかのごとくの批判や論評は厳に謹んでもらいたい。それこそ不勉強の極みであり、健全な議論を阻害する要因でしかない。

確かに時代の変遷により、従来のシステムが「批判」に値する制度疲労を起こしている現実があるかもしれない。また、その制度疲労に乗じた一部の僧侶の目に余る行為があるのかもしれない。その健全な「批判」に対しては、我々も真摯に耳を傾けるべきであろう。

しかし、大概は「僧侶」と「住職」の狭間において日々葛藤し、その両者の責任を果たすべく日夜奔走している僧侶がいることも心の片隅に置いといてもらいたい。その両者の存在を知ったうえで語られる批判であれば、我々はそれを善処の糧にしていくことは言うまでもない。

氏の著書が、その健全な議論を喚起する問題提起となるものであれば我々は歓迎するが、単に社会のガス抜きや誤解の助長を生むだけのものであれば、それらは良心的な僧侶の努力を踏み台にして成り立つものであることを重く受け止めるべきだ。特定の出版社と著者の利益の代償になるほど、今の日本仏教は懐が広くないのである。

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9 コメント

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「戒名は、自分で決める」について (某僧)
2010-05-26 12:28:29
私も島田氏の本を読みましたが、やはりおっしゃるように戒名を死後の名前としかとらえてないような気がします。
まあ、それはこれまでの我々にも責任はあるかもしれませんが、管理人さんの記事中リンクの「戒名に料金は発生しない」を見れば、ある程度の説明責任は果たしているような気がします。
島田氏の御説は御説として傍観したとしても、免疫のない一般の方には受けがいいのでしょうね。そういう意味では風評被害?もいいとこです。どうも私も我々の犠牲のうえに出版社や著者の印税に貢献している構図を布施行とはとらえられません(爆)
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2010-05-26 14:11:23
> 某僧さま

高額な「戒名料」というものが社会で問題視されているのであれば、純粋にその点に絞って議論を喚起すべきでしょう。

その健全な問題提起に限っては、我々も真摯にその指摘を受け止め説明責任を果たすべきだと思います。

今回問題にしたのは、「戒名」本来の意味をも曲げかねない主張を、仮にも宗教学者の肩書を持つ島田氏が無批判に展開している点です。

その歪曲された主張は、ご指摘のように「免疫のない一般の方」に対して誤った仏教理解を根付かせる要因となり兼ねません。

宗教(仏教)を自己の研究テーマに掲げる氏のご主張としては、聊か軽率だったのではないでしょうか。

そんなに葬儀の際に付与される「戒名」(没後作僧が前提)に納得がいかなければ、単に俗名で旅立てば(見送れば)良いだけの話です。

なぜ、戒法の授受という視点を抜きにした「戒名」論議が成り立つのか私には分かりません。

仏教の専門家以外の方ならともかく、仮にも島田氏は既述もした肩書で活動している訳ですから、発言にはある種の責任が伴って然りだと感じます。
Unknown (通りすがり)
2010-05-27 13:40:08
とても興味深く読ませてもらいました。
戒名は自分で決めるということ自体は矛盾であったとしても、彼が言いたいことは死後の戒名が必要なのか、高額な戒名料まで払って戒名をもらう必要があるのかということだったのではないでしょうか。
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2010-05-27 23:42:58
> 通りすがりさん

貴重なご指摘ありがとうございます。

ご回答を別枠記事で設けました。

以下をご参照いただければ幸いです。

http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/d0c0d78283f58e5df5d59fc1c2e7ffa2
僧でなければ戒名は要らないのでは? (別の通りすがり)
2011-08-03 01:05:07
ご高説、興味深く読ませていただきました。そして、戒名は自分で決めるものではないこともよく理解しました。似て非なるものかもしれませんが、明治以前の天皇の名前が死後に決められてきたのに似ていますね。

ところで、ご高説を読んでいて強く感じたのですが、戒名が師から資への授戒の証として結果的に付与されるものならば、僧でない私たちは、戒名を持つこと自体がおかしな話で、死後もそのまま生前の名前でいてなんら差し支えないことになると思います。その辺りのことがスルーされてしまってはいないでしょうか。あるいは別のところで述べられているのかもしれませんね。もしそうならば、こんな質問をしたご無礼をお許し下さい。

いずれにせよ、大方の日本人は、慣習的に戒名を大枚はたいて買ってるのだと思うのですが、これも悪しき慣習で、白洲次郎氏が言うように、戒名そのものを必要としないのではないかと、ふと思ってしまいました。
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2011-08-03 23:12:21
>別の通りすがりさん

最後まで目を通して頂き、ありがとうございます。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

まず、コメントのタイトルにもあります「僧でなければ戒名は要らないのでは?」という疑問に関してですが、我々の僧伽(サンガ)では僧俗を含めた四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)というカテゴリーを設けておりますので、僧でなくとも仏教徒であれば戒名が付されること自体珍しいことではありません。ちなみに比丘・比丘尼とは出家の僧を指しまして、優婆塞・優婆夷とは在家の仏教徒を指して言います。

もちろん死後もそのまま生前の名前で通すことは差支えないと思います。しかし、きちんと師から戒法を受けた証として授与されるのが戒名本来の意味ですから、特段に拒否する理由もなかろうかと個人的には感じています。

この記事で問題としたかったのは、戒名は欲しいけど戒法の授受は必要ないという本末転倒な主張に関してです。問題は全てそこに集約される訳でして、戒法自体必要ないという方にとってはもちろん戒名自体も必要ないということになるでしょう。

仏教徒にはなりたいが戒名は必要ないという方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、それは個人の価値感によるもので、師の立場にない私がコメントする立場にはないと思います。

逆にそうなると、そこまで戒名を拒否する意味について興味が湧くところですが、要は師があって資(弟子)がある戒法受授の儀式に、最初から「自分で決める」といった独りよがりな気持ちを導入すること自体ある種の違和感を感じます。

もともと仏教に対する信仰がなければ、白洲氏のごとくに戒名に特段執着する必要もないでしょうし、戒名そのものを必要としない姿勢も自明の理かと思われます。要は本来の意味を踏まえたうえで、立場をどちらかはっきりさせるべきだという主張に繋がるかもしれません。
上のコメントの補足 (布教師@Net)
2011-08-03 23:18:55
恐らく多くの方々は、戒名と戒名料の問題を絡めて考えてしまうがゆえに多くの疑問が生じるのではないでしょうか?

一応、そちらの受け皿となるような記事も當寮に設けてありますので、参考までにご高覧願います。

それでもご不明な点等あれば、再度コメント頂ければありがたく思います。

http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/4a2241016cc3c486e5c0ddff428a25ea

http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/38d9afc603d008ed85054e53eb9e7147
Unknown (Unknown)
2012-02-23 03:24:37
前提が不足している。
全くの無宗教であれば、自分で決めても
いいのでは?
少なからず、お寺さんと繋がりがあれば、
コメントに書かれている事は納得できます。
無宗教の自分としては、死んだからといって、
たいそうな名前を付けられても困る。
生前の名前の方が馴染みがある。
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2012-02-23 11:01:55
unkonwnさん

コメントありがとうございます。

>全くの無宗教であれば、自分で決めてもいいのでは?

仰る通りです。異論はありません。
ただ、そういうご主旨であれば、少なくともそれは「戒名」とは言い難いですね。
敢えて「戒名」と称さず、単に「死後のお名前」でも良いのではないでしょうか。
私がここでいう「前提」とは、文章を見てもらってもお分かりのように「師(師僧)から資(弟子)への戒法の授受(授戒)の証として結果的に付与されるもの」を指して言います。少なくとも自分勝手に決められるものではないということです。戒名本来の意味からすれば、歴史的に見てもそれが戒名の定義となります。
因みに、本来戒名が師から授けられるには、基本的に以下の儀式が必要となります。

http://blog.goo.ne.jp/jikidan-net/e/af355ecb3a97b79d5107b65dd049010c

上を見て頂ければ、単に名前を変えるだけの行為を指して言うのではないことがご理解頂けるかと思います。
ゆえに、「戒名」と「死後のお名前」を区別して議論するというのが本稿の主旨でもあります。
「死後のお名前」を選ぶ方については、私は何も言う立場にないですし、逆にそれだったら別に俗名のままでも良いのでは?とさえ思います。

>少なからず、お寺さんと繋がりがあれば、コメントに書かれている事は納得できます。

少なくとも、それを意図して投稿したつもりでし、そういう誤解を与えないように配慮をしたつもりです。ただ、それでも結果的に誤解を招いたようであれば、それは言葉足らずだったかもしれません。

>無宗教の自分としては、死んだからといって、たいそうな名前を付けられても困る。

貴氏が無宗教であることに対して私は何も言う立場にはありません。ゆえに、その立場は尊重します。そうなのであれば、尚更のこと「戒名」という名前に拘らなくても良いのではないでしょうか。
既述もしたように、俗名のまま旅立ては良いだけの話です。なぜ「死後のお名前」に拘るかが分かりません。
ただ、「無宗教」なるがゆえに本来ある「戒名」の意味を曲げて良いという理屈にはならないということです。その点だけはご理解下さい。
あくまでも本稿では、戒名本来の意味とその意義についてご理解頂くのが主旨であります。

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