
昨日、當寮の日誌に「自由」に関する雑感を書き綴ったところ、當山単頭和尚さまと助化師さまからありがたい口宣(コメント)を頂戴いたしました。
長らくネット上から遠ざかっていたゆえ、現在リハビリを兼ねた旦過寮生活(延寿堂生活


そこで本日は、そのコメントに対するお返事をもってリハビリ活動とさせて頂きたいと思います

元来の筆無精に合わせて、所用が立て込んでいるゆえご海容のほどを



【 単頭和尚さまからのコメント 】
こちらでのコメントは久しぶりです。私も、生活の安定より時間の自由を選んでいます。家族には迷惑をかけている部分が多いのですが(汗)
自由は、不自由があるからこそ感じることができるというのが持論です。わが子には、できるだけ不自由な思いをさせています。というか、自然に不自由な思いをしているみたいです(汗)
さて、どうなることか??
【 助化師さまからのコメント 】
管理人様もご存じの、拙僧も10年ばかりお世話になった寮監先生が、やはり完全なる自由には自由はなく、本当の自由とは、同じように行っていく規則の中でいかに遊びを見付けるかにかかっているというようなお話しをされていたのを思い出します。
まさに、人は大きな可能性の中に生きている時、それを自由だと勘違いしますが、実際には行為する時に伴う「選択」によって、現実に自由となることを、識るべきかもしれません。
皆さま、コメントありがとうございます

旦過寮に坐する身として、あの様な不如法な記事をアップして内心懺謝ものと冷や冷やしておりました

実は、この記事をアップさせようと思ったきっかけは、決して「エンタの神様」に魅了させられたからではありません

今の世の中、「自由」という名の「不自由さ」に縛られている人達が結構いる様な気がしたからです。
果たして「自由」が幸せなのか「不自由さ」が幸せなのか......。まさに混沌とした世の中を象徴する様な「問い」かと思われます。
また飛躍が甚だしいとお叱りを受けそうですが、坐禅や展鉢に代表される事細かい作法の一つ一つも、徹底的に「自由」からの束縛を謳ったところに「法喜禅悦」に遊戯する真の「自由」があるのだと感じています。
ガチガチの規則(作法)に縛られながらも、それらを道心を以て務めていくうちに、自然に作法が身に付き、作法の中に三昧に遊戯する自分に気付かされる時があります。
それを、法中に遊戯する「自由」という意味に置き換えても良い様な気がするのです。
また社会に目を移せば、義務と責任に裏打ちされた「自由」だからこそ、我々は義務と責任に縛られる事をも苦にしない「自由」があるのだと考えます。
義務と責任の伴わない「自由」であれば、欲に際限のない我々は「自由」の仮面を被った「不自由さ」に苛まれる事となるでしょう。
仏教で説く「渇愛」とは、まさにその「不自由さ」を象徴する教えであると個人的に感じています。
お金持ちになりたくて夢を追い、努力に努力を積み重ねた人が、実際にお金持ちになった途端に「苦しみ」に悩まされる話をよく耳にします。
大金を手にして、逆にそれらに固執するあまり、また際限のない欲に駆られ金の亡者から脱せなくなるあまり、金の魔力に縛られた「不自由さ」を体感する人は少なくありません。これでは、お金はなくとも夢を追い続けていた頃の方がよっぽど幸せであった事でしょう。
この様に、大金を手にした事により逆に「不自由」になってしまうケースを鑑みるに、やはり今の私は「このままで良いのだ


何か最後は愚癡っぽい内容になってしまいましたが

また、仏法に縛られる事で悦び(法喜禅悦)を感じられる自由人になりたいとも思っております。合掌



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