
ちょっと目に留まった文章があったので紹介したいと思います。
以下の引用文は、我が宗門の季刊誌『禅の友』9月号に掲載された青木千恵さん(フリーライター・書評家)の文章です。
>電子ツールはとても便利だが、最近も携帯電話を使った中学生の悪質ないじめが発覚したり、負の側面もはらんでいる。08年6月に秋葉原で無差別に7人を殺害し、10人を負傷させた被告は、携帯サイトの掲示板を心のよりどころとし、犯行の予告や直前までの“実況中継”を書き込んでいた。今年6月、広島県の自動車メーカーの工場で、侵入した乗用車1人が死亡、10人が重軽傷を負った事件も、無差別に凶行がなされた事件である。「誰でもいい」と憂いさを爆発させる行為は、うまくいかない自分の状況は他者(親、職場、社会など)のせいと考える他罰的な感情から発生しているようだ。
ここで言う「他罰的な感情」というのは、大袈裟かもしれませんが、人として生まれた以上避けられない感情だと思います(かく言う私も未だ悩まされる時がありますが

>「うざい」と言葉として成立していない言葉で相手を攻撃するのも「他罰」感情だと思うが、人間は元来、軋轢を避けては生きられない。歴史を眺めても、人生が必ずしも思い通りにならないのは、現代社会に限ったことではない。ただ昔は、人生の浮き沈みや儚く移ろう思いを、自分の文脈をたどるようにしてじっくり反芻していた。
ここでいう「うざい」が一昔前の「キモい」なのでしょうか。
しかし、言葉は違えども取り巻く構図は一緒だと思います。
ここでも触れているように、感情を有する人間は元来軋轢を避けては生きられない生き物です。かなり間を端折れば、だからこそ人類は宗教を必要としてきたのでしょう。
仏教の立場で言うなら「元来軋轢を避けては生きられない」という現実が我々の「苦」の根源とも規定できます。
しかし、一昔前までは「人生の浮き沈みや儚く移ろう思いを、自分の文脈をたどるようにしてじっくり反芻」できていたのでしょうが、今はどうなってしまったのでしょう。
総じて忍耐力が不足しているのですかね、私も含めてですが

>今は大勢がネットを通して逐次情報を発信できるようになり、不特定多数と接触できるが、切れやすい。人一人の思いは、140字以内(でつぐやくツイッター)でまとまるような合理的なものではないから、短い言葉は一時的な情報に過ぎないのだが、軋轢があって当たり前の現実の人間関係を避けてネットのコミュニケーションに依存してしまうと、その人間本来の存在感が薄くなる。
ここでの指摘は看過できませんね。核心に近い指摘だと思います。
もちろん他の複合的な要素があることを前提に物申しますが、人一人の思いを140字以内のツイッターでまとめきれるほど世は単純にできていません。
私はこの「まとめきれてしまう」と錯覚してしまうことが苦の原因であり、致命的な誤解を誘発するものと考えています。まさに仏教で言うところの「無明」でありましょう。
>ただ一人でいいから、誰でもよくない誰かとの信頼関係を築く方が大切だと思う。
今の世はこの視点が決定的に欠けているようにも感じます。
檀務の現場でも「誰でもよくない誰か」と「見えない世界の何か」は同義語で語られるべきだと思います。
それら自分に直接関係ないものに対する想像力や慈悲心の欠如が、今の世の「歪み」を生んでいるのだと感じます。
>数か月前、近所のスーパーマーケットの「お客様から寄せられたご意見」の貼り紙を見て、重い気持ちになってしまった。「駐車場の警備員が不要」と書いてあった。クレームを書いた「お客様」は、警備員がその張り紙を見たらどんな気持ちになるか?想像できなかったのだろうか。私は最近リニューアルと同時にいなくなってしまった警備員が、以前目の不自由な人がバスに乗れるよう助けていた姿を見たことがある。相手は一人の人間なのだ。想像力を働かせて欲しい
自分に直接関係のなかった警備員はモノといった感覚なのでしょうか。
人間関係そのものが無機質なものになってきているような気がします。
私は著者の言う「警備員がその張り紙を見たらどんな気持ちになるか?想像できなかったのだろうか」という想いにいたく共感いたします。
直接実害を被った経緯があるならともかく、恐らく今流行の事業仕分け的な感覚でその警備員を計ったのでありましょう。少なくとも、そういう視点でしか一人の人間を見れない社会の象徴的事例なのかもしれません。
たとえそこに企業側の已むに已まれぬ事情があったとしても、最終的には人と人との関係で結論を出すべき問題だと思います。
そのプロセスの有る無しで「切られる側」の心境(痛手)も少しは変わってくるのではないでしょうか。
要は、人間関係とはそのプロセスが育むものなのでしょう。プロセスには時間と労力が伴います。ツイッター140文字の世界観に慣れてしまうと、その人間関係にとって実は必要不可欠なプロセスが無駄なものに映るのでありましょう。
極端な資本原理主義の世界では、きっとこのような感覚は一笑に付されてしまうのだと思います。しかし、それならそれで私たちは自覚と誇りをもって一笑に付されるべきだと思いました。
にんげんだもの――。



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表現は自己の骨身を削ってなされるものだと思っていましたが、電子ツールの出現で自己を表現することの様子が変わってしまったのでしょうか。
自己は他人が表現してくれるものだと云うおかしなことになっているのかもしれませんね。
自己を真に言い得ないものに他者を思いやる眼差しが育つのだろうか?
そんな気がしました。
合掌
日々の生活において、自分自身を見失いそうになることも多々ある日々です。
常に戒めの姿勢が必要です。合掌