
最近の日々の「儀式」(日課、ノルマ

実は、これはある有志の勉強会に参加した際に、昨今希薄になっている家族間の絆というものを、先祖供養(仏壇信仰)を媒介にして何とか復権できないものかと議論した事を想い出して形にしたものです。
また、その時期に合わせて拝読した『正法眼蔵』「陀羅尼」巻の内容が、自分の中に強く印象として残っていたというのも理由の一つです。
朝課中だと、何か一連の流れの中に「礼拝」という行為が埋没されてしまう気がして、敢えて「けじめ(区切り)」をつけて設けるという事が自分の中で重要な事でした。
人はよく「そこに仏があるから手を合わせる(礼拝をする)」と言いますが、その意味で言えば、私の場合は真の信仰からなる礼拝ではなく、自分への動機付けがまずあっての礼拝行なのかなと感じます。
つまり、そこにはまず「自分」という存在があって、拝む対象である「仏」の存在は二の次になっている様な気がしたのです

私の日々の「儀式」としての礼拝は、純粋な信仰からなるものではなく自分本位のものでしかない......始めた当初はその様な想いをも頭を過ぎったものです。
しかし、数日経ってみてある面白い事に気付かされました。
確かに始めるきっかけは自分本位な動機だったものの、「儀式」として日々礼拝を行じていくうちに、確かに自分の中に信仰めいた気持ちが芽生える様になってきたのです。
「信仰」という一言で片付けてしまうとあまりにも抽象的過ぎますが、ある種の「ありがたさ」や「感謝」にも似た気持ち......そう、日々心が洗われる様な感覚が自分の中に芽生えてきたのです。
いつも、朝課が終わってから仏間に移動をして、心を込めてご先祖様に礼拝を捧げます。初めは入祖堂諷経の回向中に仏祖礼を取り入れるつもりだったのですが、敢えて時間を区切って礼拝の時間を設ける事にしました。
「陀羅尼」巻に忠実に従えば、それは伝法の本師(仏祖)に対する礼拝という意味なのでしょうが、そこはご勘弁頂いて、寺の歴代住職の真牌(小牌)をも奉る當家の仏壇ゆえ、私にとっては本師(仏祖)への礼拝と何ら変わりはありません。
正直朝課を一度区切るゆえ、始めた初日は二度手間の様な感じは否めませんでした(失敬

人は「そこに仏があるから手を合わせる(拝む)」と言いますが、私の場合は「手を合わせる(拝む)事によって見えてくる仏もある」といった感じなのでしょうか。
私は安居修行中、そのお寺の開山堂にお仕えをする大変ありがたい役を仰せつかった事がございます。
振鈴二時間前には起床をして、先人達が積み重ねてきた伝統の儀式に則り、御開山様を初めとした歴住諸師方、入祖堂を果たされた有縁の諸師方のお世話をさせて頂くのです。
転役当初は「そこまでやるか


まさに、そこに御開山様がいるからお世話をさせて頂くという気持ちと、その日々のご奉公があるから、この場所が開山堂として意味を持つのだと深く実感させられました。
私の日々の礼拝行も、なぜかその時と似た様な感触を得ているのです。
『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が学人たちに示したとされる次の様な一句がございます。
学道の人も、はじめより道心なくとも、ただ強いて道を好み学せば、終には真の道心もおこるべきなり (『正法眼蔵随聞記』一ノ五)
入叢林当初、修行の意味を見出せずに煩悶としていた私は、何度この言葉に心励まされたことか ―。
当時、自分に本当の道心があるのか否か不安に思っていた私は、強いて修行を行ずるうちに終には真の道心が湧き起こっていると説くこの一節に、だいぶ救われてきた様な気がします。
人は道心があるから道を学すのではなく(もちろんそういう人たちもおりますが

それと一緒で、只々「礼拝」を行じていくうちに見えてくる仏(心に生じ得る信仰)もあるのだと感じ取れる様になりました。
「まずは、一緒に拝もうよ ―。」

僧の身なれば、まずはそこから始めても良いのかもしれません。
ましてや、寺の住職となる身であれば、単に言葉を駆使して供養の意味を説明するよりも、只々檀信徒と一緒になって拝む(手を合わせる、礼拝をする)姿から始めても良いのでありましょう。
もちろん、その拝むだけの行為が「思考の停止」を促していたのでは本末転倒なのでしょうが、行じていく過程の中で見えてくるものを大切にしていきたいと考えています。
今日は気が向くままに勝手に書き綴ってきましたが、一人の和尚の戯言として聞き流して頂ければと思っております

耳を前川の清きに洒ぎ給わんことを、嗚呼慚惶々々―。



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