ヴィンちゃんといっしょに出かけよう

近所に散歩、ローカル線の旅、温泉旅行。出かける時にはサクサクで大人気のヴィンちゃんといっしょ。そんな僕の独り言の記録。

メヒコと紫陽花と蛍 その1

2009-06-14 13:33:53 | いすみ鉄道

久々のブログ更新。全くやる気があるのかないのやら、、、

 

 

今、横浜では開港150年祭ということで、さまざまなイベントが組まれて盛り上がりを見せている。テレビで巨大なくものロボット(?)を操作をするパフォーマンスをご覧になった方も多いと思う。

そのイベントの一環としてだと思うが、5月27日にメヒコ海軍練習帆船クアウテモック号が横浜に寄港した。このクアウテモック号はこの後、東京の晴海に寄港した後、6月12日に千葉県の御宿町岩和田漁港沖に1日停泊し、乗組員は上陸し、御宿町と大多喜町で歓迎式典等が行われた。

 注:メキシコはスペイン語(メキシコの公用語)でメヒコと発音される。なじみがないかも知れないが、私のブログではメヒコの表記で統一するのであしからず。

 

今年は横浜開港150周年であるが、それと同時に日墨(メヒコ)友好400周年の年でもある。400年前と言えば1609年、関ヶ原の合戦のわずか9年後のことである。その日墨友好400周年の記念行事の一環として、クアテモック号が御宿沖に来ることになったのである。

なぜ、房総のこの小さな漁村に?と思われ方もいらっしゃると思うが、400年前に感動的な事件があったからである。

慶長14年(1609年)、スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴは任務を終えメヒコに帰る途中、嵐に合い岩和田に漂着した。岩和田の村民たちは村の人口とほぼ同じの約300人の遭難者を献身的に救護したという事件である。当時、岩和田は大多喜の本多家の領土であり、大多喜城ではこの遭難した南蛮人を救援するか処刑するかでもめにもめたが、時の城主本多忠朝は救助することを決意し、ドン・ロドリゴを賓客扱いで大多喜城に招待した。

その後、ドン・ロドリゴは江戸で将軍徳川秀忠に、駿府で大御所徳川家康と面会した。家康・秀忠親子もドン・ロドリゴを歓待し、翌年には船を仕立ててメヒコに帰国させたという。

翌年にはメヒコから答礼使がやってきて、すったもんだがあり、伊達正宗の支倉常長のメヒコ・スペイン・ローマへの派遣と発展していく。

メヒコの人たちこの事件を今でも感謝しているとのことらしい。

明治に日本が列強と不平等条約を結ばざるを得ない状況でメヒコは初めて平等条約を締結した。近年ではシンガポールに続いて日本・メキシコ経済連携協定も結ばれた。

思えば、メヒコ・オリンピックのサッカー3位決定戦は日本対メヒコ。日本は完全な超アゥエーの状況にもかかわらず前半2-0でリード。当然観衆はメヒコを応援しているわけだが、あまりのメヒコチームのふがいなさに後半は「ハポン、ハポン!」のコール。自分の応援するチームが負けてブーイングをくらわすシーンは日常だが、敵のチームにエールを送るというのはあまり聞いたことはない。こんなところもメヒコ人の親日感情の表れだというのは、思い込みだろうか?

前置きが長くなったが、そんなわけで、6月12日は会社を休んで、岩和田にクアウテモック号を歓迎に行った。

 

 

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
江戸幕府 (あきら)
2009-06-30 16:31:13
こんにちは。

お元気でしたか?
大多喜で見た、メキシコ通りの塔を思い出しました。
説明にも、「外国人は即、処刑というおきてにもかかわらず」
手厚く、おもてなしをした...。と拝見しました。

本来、あるべき人命尊重の世紀とも感じる歴史の光景ですね。
ラストサムライから平成の今までも、現実の歴史は複雑な気がぁ~

この船は...。見応えがありそうですねぇ~
見てみたかったです
メヒコ~耳に残りました
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あきらさんへ (久我原)
2009-07-04 21:35:50
こんばんわ。

ご覧いただきありがとうございます。
更新さぼっていますが、のんびりとつづきをアップしますので、引き続きお付き合いください。

日墨友好400年の行事はまだまだあります。
9月には大多喜城まつりがありますが、今年もエントリーして、殿さまを目指します。
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