「備後・福山」歴史の街

広島県東部の地域は、古代以降「備後国」と言われていました。その「備後・福山」から郷土の歴史を含めた情報を発信致します。

「第13回府中市歴史フォーラム」へ参加

2016-07-03 12:23:18 | 報告

 今回の歴史フォーラムは、新聞報道で知り得た情報で急遽参加した。


 場所は、新しくなった府中市広谷公民館で


日時は、平成28(2016)年7月2日(土)に開催され、
会場一杯の参加者で埋まった。


 講演内容は、「備後国府跡鳥居地区の発掘調査報告」を府中市教育
委員会の石口和男氏の報告のあと、


「国府って何?ー備後国府の位置と役割ー」を、元広島大学名誉教授の西別府元日氏より、講演があった。


 「備後国府跡鳥居地区の発掘調査報告」については、当Blogに譲り、
「国府って何?ー備後国府の位置と役割ー」についての講演の様子を以下、
お伝えする。


 今回の講演は、「国府」について漠然とした事しかイメージしていなかったが、この度の講演でそのイメージの内容が変わった。


 今までは、「国府」の中心的建物などが「国府」のイメージであったが、

今回の講演で、「国府」機能の範囲が広く広範囲な地域として纏っている事、


例えば、「役所」としての機能や「租庸調」などの取税機能、更に「国中央」へ
その「取税」を送る機能、更に「ものづくり」の機能、それに関連する「人」の
「配置」「指導」する機能などなど、多くの「機能」する全てを統括する、
大規模な機能を有する「地域的な広がり」を持つものが「国府」としての位置付けであることを、聞くことが出来た。


 また、時代によって、その「位置づけ」や「役割」さらに「組織構成」が変わって行くことも、
講演の中で多くの史料に基づき伺うことが出来、
大変有意義な講演会であった。


 「備後国府」の調査も、昭和57(1982)年から続き、
この度「中央施設」の検出までは至らなかったが、
「国史跡」としての答申が、文科省へ挙げられ
「国史跡」指定への道筋が、整ったことも報告され、
この様な国府としての「中央施設」が検出されていないにも関わらず、学術的に大きな意義が有ることが、
評価の対象となり、この度の成果に繋がったものと考えられる。


 この様な背景があり、多くの参加者が参加されたものと映った。

                           (文責:椿庵遍照)


(講演会の会場風景)


(講演中の西別府先生)


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