米空母「フランクリン」を大破させた緩降下爆撃1945.3.19(Two bombs that were allowed to

2015年10月02日 15時37分45秒 | Weblog

米空母「フランクリン」を大破させた緩降下爆撃1945.3.19(Two bombs that were allowed to   https://youtu.be/s6y-nBF3dKU

  1945年3月19日6時57分、神戸港攻撃の第二次攻撃隊の出撃準備を開始した直後­の7時8分頃、突如「銀河」もしくは「彗星」と思われる日本海軍機一機が雲を抜け低空­で接近し、緩降下爆撃で二発の徹甲弾を投下した。

 

1945年3月19日[編集]

 

九州沖航空戦2日目の1945年3月19日の夜明け前、フランクリンは僚艦と共に高知県の海岸から50マイル沖の太平洋上海域を、多数の艦上機を載せて、神戸港攻撃に向けて巡航中であった。 朝の6時57分、フランクリンは第二次攻撃隊の出撃準備を開始させた。その直後の7時8分頃、突如、陸上爆撃機「銀河」艦上爆撃機・彗星三三型とする資料もある)と思われる日本海軍機一機が雲を抜け低空で接近し、緩降下爆撃で二発の徹甲爆弾を投下した。被害分析では投下された爆弾は250kg(または、500kgとする資料もある)だったとされる。この日本海軍機は、爆弾を投下した直後にフランクリンの対空砲火(または、上空哨戒のF6Fヘルキャット戦闘機)によって撃墜され、空中で爆発・四散して破片をフランクリンの甲板上に撒き散らしたが、命中した二発の爆弾のうち、一発は飛行甲板中央部を貫通し格納庫で炸裂、二層及び三層で火災を引き起こし、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えた。もう一発は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂。第二層を突き破り、弾薬・火薬の引火を誘発した。また、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、次々と誘爆を引き起こした。

 

なお、フランクリンに爆弾二発を命中させた日本海軍機は、「銀河」であるとすれば、第五航空艦隊指揮下の第762海軍航空隊所属機、また、「彗星」(彗星三三型)であるとすれば、同じく第五航空艦隊指揮下の第701海軍航空隊所属機であったと推定されている。

 

 フランクリンは浸水し、右舷に13°傾斜した。また消火活動の放水により艦尾が沈下した。無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物は全損に近い損害を受けた。乗組員の多くが攻撃及びその後の火災で死傷したが、数百名の士官と兵員は艦を救おうと必死の作業を行った。724名が死亡し265名が負傷したが、生存者達の献身的な作業がなければこの数はもっと増加していたと考えられる。従軍神父ジョセフ・T・オハラハン大佐は消防及び救助作業を指揮し、誘爆の危険があった弾薬を処理した。この功績で後に名誉勲章を受章している。またドナルド・A・ゲーリー大尉は300名が閉じこめられたコンパートメントを発見し、出口から彼らを救うための作業を繰り返した。続いてゲーリーは格納庫デッキで消火作業を行い、艦の出力を上げるために第3ボイラー室に入って危険な作業に勇敢に立ち向かった。軽巡洋艦サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60) はフランクリンの乗員を救助するため支援を行った。4つの機関室には浸水や火災はなかった。

 重巡洋艦ピッツバーグ (USS Pittsburgh, CA-72) に牽引され、ウルシー泊地に到着した。その後、フランクリンは14ノット(26km/h)の速度で真珠湾に到着。応急処置を行った後、自力でニューヨークブルックリン海軍工廠へ4月28日到着した。

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