この道は、江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で、「堀之内道」「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋屋横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。『新編武蔵風土記稿』和田村の項には「北ハ堀ノ内妙法寺道ヲ界トシテ」と、この道が和田村と高円寺村の村境であったことがわかります。
江戸の町医者が記した随筆『塵塚談』には「堀の内祖師」について、昔は「地名を知れる人もなかりしに、近頃にいたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百軒簷をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり」と、江戸時代後期、「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集めた妙法寺とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。
堀之内道から少し南に位置しますが、平成十九年に実施された本村原遺跡C地点(現、女子美術大学内)の発掘調査では、「しがらき」とある茶碗が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者で賑わった堀之内道の水茶屋・料理屋の中でも、のっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保12年(1841)には370人の客がいたと記されています(『江戸月見草』)。
明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。
現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより数十メートル先)を中心に地域の方々に親しまれています。
「堀乃内千部詣」(初代広重、天保11年~13年)
杉並区教育委員会蔵
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