旧中山道と県道66号線行田・東松山線が交わる榛名陸橋下に「間の宿吹上」の石碑と案内板があります。旧中山道は陸橋下の階段を上りJR高崎線を超えて反対側になります。階段を上らずにそのまま進んでその先の踏切を渡って反対側へいくこともできます。
しばらく進むと右手に消防倉庫とこの脇に「榎戸村」と彫られた案内標があるT字交差点なります。旧中山道はそのまま直進します。
交差点を左に行くとすぐに「榎戸堰公園」があります。
榎戸堰は熊谷市久下より流れてきた元荒川の最初の堰で肥沃な水田を昔から支えてきました。堰の歴史は古く、元荒川が荒川だったころに設けられ初期の頃は木造の堰で大雨で増水すると破壊され、しかも10年位すると腐ちくしてしまうのでその都度修築、その費用は地元農民が負担していたようです。
現存する赤煉瓦堰は明治36年に木造から煉瓦造りへと改築されたもので、工事は難航し建設費は当初予算を超え、その不足分は当時の吹上村長が資材を投じたと伝えられています。
昨今の政治家にはこのような太っ腹な人は居ないでしょうね。
ちなみにこの公園脇に公衆トイレがあり大変助かります。
先ほどの交差点に戻り熊谷方面に向かいます。旧中山道はこの先の荒川土手上を進みます。
荒川土手に上る直前に「権八地蔵」というお堂があります。鳥取藩士だった平井権八(歌舞伎や映画では白井権八)が江戸に向かう途中で金に困りここで辻斬り強盗をしました。その現場をお地蔵さんに見られ「誰にも言うな」と言ったところ「わしは言わぬがお前も言うな」とお地蔵さんに言われたが、結局権八は其のことを自ら言ってしまい、鈴ヶ森で磔の刑にされました。
お地蔵さんはそれがわかっていたのでお前も言うなと言ったとか。それ以来この地蔵を「権八物言い地蔵」と呼ぶようになりました。
権八地蔵は旧中山道沿いでは鴻巣宿の勝願寺境内とこの先熊谷市久下の3か所にあります。
権八地蔵から荒川土手(長土手)上を進みます。土手上は遮るものはなく見晴らしがよくて遠く広大な関東平野を取り囲む山々が見渡せます。この堤防は天正年間に鉢形城主北条氏邦が荒川氾濫に備えて造り、その後忍藩が改修しました。
その後、近代的な堤防になりましたが昭和22年9月のキャスリーン台風によって堤防が決壊しこの付近だけでなく東京まで被害をもたらす大惨事となりました。この決壊地点に記念碑が立てられています。
決壊碑を過ぎると間もなく土手下のマンション脇に松の木が植えられた小さな祠(稲荷社)があります。江戸から15里目の「久下新田一里塚」跡で、石碑のようなものは見当たらず、案内板がありました。
堤防上からわざわざ降りていく人もない様で踏み跡もなく忘れられた感があります。
近くの草むらの中に馬頭観音の石柱もがあります。堤防の上からはかなり下の位置にありますが、もともとは堤防(街道)も随分下にあったことが分かります。天保12年に建てられたもののようです。
この先土手をしばらく進んで熊谷宿まで行く予定でしたが今回はここ迄で中断しました。機会があったらこの続きを深谷宿くらいまで行ってみたいと思います。
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