ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第36回 ふうちゃんのお城ブログ 白老陣屋

2021-12-11 09:35:58 | 城郭検定

城郭検定の問題は城を見るための視点を提供してくれます。

1855年(安政元年)開国を選択した幕府は、翌年奥州四藩に蝦夷地分担警備を命じた。

各藩は蝦夷地に陣屋を建設したが、この時仙台藩が築いたのはどの陣屋か。

第17回の1級での出題です。

答えは白老陣屋です。

室蘭には南部藩、増毛には秋田藩、浜益には庄内藩の陣屋がありました。

白老は函館から特急で2時間40分かかります。

アイヌ施設ウポポイのあるところとして最近では知られています。

第18回では問題が少し進化しました。

今まではどこの藩が何陣屋を築いたかを問うていたのですが、

その守備範囲が問われました。

安政2年(1855)年、幕府から白老~襟裳岬を経て国後・択捉等を含め蝦夷地の

太平洋沿岸一帯の広大な地域の警備を命じられたのは、どの藩か。

白老から襟裳岬を経て国後・択捉等を含め蝦夷地の太平洋側の広大な地域

選択肢は津軽藩、仙台藩、庄内藩、南部藩ですから、白老が仙台藩ですから

類推し仙台藩と解答、正解でした。

このことがきっかけになり、白老に行きたくなりました。

おとなの休日きっぷを利用して函館に行く機会を利用して白老まで足を伸ばしました。

函館発7:37(北斗3号)

白老着10:23

白老駅で降りたのはわたしたちだけ。

早速、タクシーで白老陣屋に。

資料館に入らず、広い陣屋内を歩いてみることに。

地図の真ん中の内陣屋(グレーの部分)の周辺を歩いてか塩竈神社の階段を上る。

堀の水が凍り、中の落ち葉が透き通って見えます。

外の寒さが実感できます。

このような寒さの中で暮らしていたのです。

塩竈神社が丘の上に勧進してあります。

故郷を偲んでここのお祭りに興じたと言います。

任期は1年でした。

1年の間、藩士たちは

どんな暮らしをしていたのでしょう。

 

 資料館の掲示を紹介します。

 まず、仙台から白老までの道中について触れておきます。

 仙台藩士一行の仙台から白老までの日数は順調に行けば19泊程度だが、

青森で待ち待ち、渡海、それに風水害による滞留などが加わって、

1ヶ月から1ヶ月半かかるのが普通だった。

 蝦夷地に赴く藩士は、仙台の北にあたる堤町で藩主に見送られ、

一ノ関、盛岡、七戸などを通って青森へ。

さらに青森で百石から三百石積み程度の船を雇い、

風を待って、潮の流れの激しい津軽海峡を渡っていった。

箱館からは、8泊程度で白老に着く。

しかし、出張陣屋勤務の藩士たちは、

さらに、陸路を厚岸や根室へ、

また択捉(えとろふ)国後詰(くなしりづめ)の藩士は、

そこから船に乗り任地に向かった。

 

 では、いよいよ、

 白老が任地の藩士たちは、どのような生活をしていたのか紹介します。

 安政3年(1856)年白老に到着した御備頭の氏家秀之進以下の仙台藩士たちは、

会所を仮住まいにして、元陣屋の建設を開始した。

陣屋の建設には仙台から同行の大工や人夫の他、

白老場所請負人野口屋又蔵手配の土方が加わって急ピッチに進められた。

 白老の仙台藩元陣屋には、百名を超す武士たちが駐留して、

北方警備にあたっていたが、

二百数十年に続いた徳川の太平に慣れた武士たちの綱紀のゆるみを

引き締めて士風を鼓舞することは

蝦夷地警備責任者、御備頭にとって最大の任務であった。

毎月1回の兵学講義始め武芸の稽古、火縄銃や大筒の撃方訓練、

さらに実戦さながら訓練を行う修羅前などを積極的に行った。

武士たちの任期は警備開始当初は1年間が殆どで、

春まだ浅い4月頃着任し、翌年、次の勤務者と交替した。

夏の間はともかく、

慣れない蝦夷地の冬は、

武士たちにとっても大変つらかったのではなかろうか。

 とても厳しい生活をしていたようですね。

 陣屋の中に入ってみます。内陣屋です。

地図の下にある詰御問(冠木門)土塁、堀に掛かる木橋

本陣跡

兵具蔵跡

虎口、土橋、真正面奥に詰御門が見えます。

本当に広い内陣屋ですが、詰御門をくぐると外陣屋が広がっています。

北の広大な土地に築かれた陣屋を堪能しました。

城郭検定がなければ知らない城でした。

(2021.11.27訪問)



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