ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第5回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ 太閤さんの大坂で、庶民の支持を得る苦労(大坂城西の丸乾櫓)

2022-02-05 09:20:10 | 旅行

2019年11月25日

続百名城を山口県の高嶺城・大内氏館で終了し

新たな展開のスタートに選んだのは

大阪でした。

当時の写真をファイルから取り出してみると

コロナ禍以前の元気な大阪がありました。

道頓堀でたこ焼きを

法善寺横町で夫婦善哉を

食べました。

このとき、

今日の日本の状況を想像できませんでした。

本当に幸せな時でした。

なぜ、大阪を選んだのか?

大坂城西の丸乾櫓を意図的に見てみたかったからです。

城郭検定の勉強を通して知りました。

元和6年(1620年)に建てられた大坂城で現存する最も古い櫓のひとつです。

大手口から京橋口と大阪城の2つの入り口を望むことができ、

南の上町筋方面、西の高麗橋、東北の京街道を望むことができます。

城の外側監視できる最適な移置にあったのです。

外からも非常に目立ち、

江戸時代、大阪市中に向かう人は、

高麗橋を渡って乾櫓を表面に望みつつ東へ進み、

堀端近くで乾櫓を左に曲がり、

京に入ったそうです。

この櫓の特色は、

L字型をしていること。

1階と2階の平面がいずも同じ広さ(186.23平方メートル)になっていること。

これは、いわゆる重箱櫓になっていて非常に珍しいものです。

わたしは、同類の岡山城西の丸西手櫓(上)、臼杵城畳櫓(下)を見たことがあります。

 さて、この乾櫓について調べていたら、次のような話がありました。

 江戸時代初期の事、3代将軍の徳川家光が地子銀(土地にかかる税金)を免除を決定することにしました。

 これに先立ち幕府は、あらかじめ有力町人に「高麗橋筋にある隅櫓前」集まるよう命じ、

櫓から将軍自ら采配(軍配)をかざすので、それが地子銀免除の合図だと伝えました。

「高麗橋筋にある隅櫓」とは乾櫓のことです。

当日、未明から集まった町人は堀端から乾櫓を見つめました。

やがて、家光は櫓から金の采配を出し、

集まった町人たちは「ありがたい」と歓声をあげたといいます。(大坂御三郷御執立伝承記)

 大坂三郷は年間銀178貫934匁を永代免除され、

大坂が天下の台所として発展する一つの要因になったと言われています。

大坂三郷とは、大坂市中を南組・北組・天満組に分け、

各組に惣会所が置かれ惣年寄りが事務を行っていました。

 太閤さんの人気が絶大な大坂を徳川家が治めるためにいろいろ策を練ったこと分かる話です。

 家光自ら「金の采配(軍配)」をふるのを見た大坂町人はどう思ったことでしょうか。

 この地子銀免除を記念して「仁政の鐘」が鋳造され時報として使われていたそうです

。この鐘は大阪市中央区釣鐘町にあるそうです。

 一度行ってみたいものです。

「地子銀免除と仁政の鐘」については、

 大坂城に行った後、資料を調べて知ったことです。

 わたしは、実際に現地に行った後、

 資料を読むことが多いので、

 その結果また行きたくなることが多いのです。

  乾櫓もそうです。

 乾櫓のことは百名城巡りをしてから知りました。

 この前2回も大坂城に行ったことがありましたが、

 天守を見て満足していました。

 西の丸庭園の受付で

「乾櫓を内側から見たいだけなので、ただにはならないか」

 と聞いたけれどだめでした。

 これは乾櫓のL字型を内側(西の丸庭園)から見たものです。

台湾から来た学生さんにシャッターを押してもらいました。

下手な英語でL字型と重箱櫓について説明しましたが、

果たしたわかってもらえたでしょうか?

 重要文化財 乾櫓 平成23年11月 大阪市ゆとりみどり振興局を参考にさせていただきました。