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生きとし生けるものが幸せでありますように。

雨天番外編 「欲」

2016-01-29 10:55:55 | 日記


必要以上に欲しがる心の働きを「欲」といいます。


人がブランド物が欲しいだとか高級車が欲しいとか思うことなど、これらは傍目に「欲」だと簡単に分かる事ではあるのですけれど…


難しいのは個人の自己判断でどこまでが必要を満たす行いで、どこからが必要以上を欲しがる「欲」になるのかという線引きが、曖昧になることであります。


食欲ということで少々厳密に考えると「空腹」と「欲」をごっちゃに考えることで、線引きの問題が非常にややこしいものになるのだと、私は考えています。


例えば空腹感とは、お腹が空いたと苦しみを訴えるだけの単なる身体の働きなので、素直に考えるなら欲の濃度は割と低く、何か口に入れればそれで収まる程度の欲なのです。


私たちがただ単に空腹感を満たす為ならば、おにぎりなどを一つか二つ食べればそれで手っ取り早く終わる話なのです。


ただしこのように簡単に話を終われるのは、本当に極々一部の立派な人格者様達だけのお話になります。


私たち凡夫は空腹感を満たす必要の上に「自分好みの味」などとという「欲」を挟まずにはいられないのです。


この手の「欲」が心に満ち始めると、本来おにぎりを食べるだけで治まる筈だった小さな「苦しみ」が、もうそれだけでは済まされないほどにただならぬ勢いの苦しみが充満するのです。


それこそ回りが一切見えなくなるほどに。


例えば、とある被災地で好意から振る舞われたおにぎりを前にした~見た目ご立派な紳士が…


「そんなただのおにぎりなんて食えるか!」


「私は一流のシェフが旬の食材を使った一流のものでなければ口に合わんのだ!バカにするな!」


…とかなんとか(笑)。


まあ、ここまで極端な例は日常的にそう見かけることはありませんけれど、実際にここまで「欲」という毒が心の中で暴走してしまうと、通常の空腹感という苦しみの上に何十倍、何百倍という「余計な苦しみ」を自分自身の心に上乗せすることになります。


そしてなんの自覚もないままに自分で自分の心を傷つけるということに‥なり(続け)ます。


しかも「欲」で肥大化した見苦しくも余計な「苦しみ」を回りに発散することで、その人の持つ薄汚い「苦しみ」が本来無関係な他の人々にまで感染してしまいます。


これはとてもハタ迷惑で、よくある話です。


しかし残念ながら…たった一人の「欲」から始まった「怒り」が全てをぶち壊すということは、私たちの日常でもよく散見することでもありますね。


だから本当は私たちはよく知っている筈なのです。


「欲」を暴走させ巨大化させ、爆発させてから…いくら後悔しても手遅れだということを。


それならば、まだ「欲」が小さなうちに、これは「欲」だと自分で気づき、未然に「欲」を自分で自分の心から捨て去ることがとても大切だと私は考えるのです。


さて、実はここまで理解していてもまだまだそう簡単には捨て去れないのが「欲」という毒の厄介なところであります。


何しろこんなことを偉そうに綴っている私自身が「欲」に捕らわれいるとに、自力で気づけなかったりすることが間々有ったりするのですから…これは由々しき問題です(笑)




…ここで少し古い話を思い出しました。


今からおよそ二十年前の1993年に日本全土で起こった「タイ米騒動」の話です。


この年は冷夏と台風の影響から、この日本でも深刻な米不足という事態が起こりました。


そして時の日本政府はアメリカや中国を始め、東南アジア諸国にも米の緊急的な輸出を打診しますが…


「困った時だけお米を輸入したいが、普段は一切認めないよ、国内の農家を守る為にね(キリッ)」…という日本の勝手な言い分を国際社会で通すことは当然できなかったようです。


しかしそれでも日本の呼びかけにいち早く応えてくれた国がありました。


それがタイ国です。


しかし冷夏や台風は、何も日本だけを狙ったわけではありません。


当然タイ国内でも米価格が高騰して、貧困層に餓死者も出るなどの混乱が生じたにも関わらず、タイ政府は備蓄の全てを日本に輸出するという有り難い対応をとってくれました。


しかし私たち脳天気な日本人はタイ国やタイ人に感謝するどころか「タイ米はマズい」と、かなり上から目線の不平不満ばかりを述べていました。


品種が違い調理法も違うタイ米をジャポニカ米と同じように調理しておいしくなかった等の、下らないケアレスミスにも私たちはなかなか気がつくことも無く…


私たち日本人の大多数は、ただただ「マズいマズい!」とタイ米を忌諱し貶めました。


そして翌年、日本では事態の終息以降大量に売れ残ったタイ米を不法投棄したり家畜の飼料にしたりするなどという、いわゆる産業廃棄物扱いをして大量のタイ米を処理しました。


…これにはタイの人々やタイ国内の混乱を知る人々から、日本の所業を深く深く悲しむ声が挙がることになります。


恩を仇で返すというのは正にこういうことです。


一方、私たち日本人は未だに「タイ米はマズかったーww」などと、にやけ顔で平気でのたまうような…御立派で脳みそお花畑な大人達が…それはもうのうのうと幅を利かせてデカい顔をしていたりする世の中であったります。


もちろん私も1993年当時にここまで全体を俯瞰した事情など知りもしませんでした。


そして当時、厚顔無恥だった私自身も「これはマズい…」などと平気で口にしてました。


こうしたことを今頃になってようやく理解した私は…己が無智と傲慢を、深く深く恥入ることになります。


そして自分の心に生まれる幼稚で浅はかな「好き嫌い」という「欲」が、実際にどれほど恐ろしい「毒」足り得るのかということを、今頃になって更に深く思い知ることになりました。


しかし相変わらずの世間様の大多数様は、よりにもよって「欲」を「夢」などと偽り、目を輝かせ、そして偉そうにふんぞり返っています。


しかし「夢(欲)」に振り回される生き方などは、決して私たちに幸せをもたらす生き方ではありえません。


確かに私たちは「欲」が満たされた時に爆発的な感動を感じることがあります。


しかしそのような感動も長い目で見れば一時の感情でしかないことは、ある程度の人生経験を積んだ人ならば理解できることでしょう。


これを例えるなら、調子に乗ってお酒を飲みまくった酔っ払いや、創作物に夢中になっている時や、スポーツなどの勝ち負けに熱狂する人々の集団心理などによく見受けられるような(見苦しくもハタ迷惑な)感動なのです。


そんなハタ迷惑な感動などにはもれなく罠がついてきます。


やるべきことを後回しにして終いには手遅れになったりとか、凄まじいまでの頭が割れるような二日酔いとか、調子に乗って自分がしでかしたツケを支払わされ…或いは容赦なく取り立てられるとか、回りからの信用をことごとく失う等々、二重三重の落とし穴がこれでもかともれなく付いてくるものなのです(笑)。


感動という心が起こすまやかしは、このように割の合わない大きな落とし穴付きのものであり、本物の幸せとは実際のところ何の関係もないシロモノなのです。







だから、私たちが今一番学ばねばならないことは幸せと欲を混同しないことです。







幸せとは「苦しみ」を乗り越えた先の穏やかで安らかな心の状態のことです。


欲とは心の中に余計な苦しみしか生み出しません。


私たちは欲のままにいくらお金を儲けても、どれだけ楽しみの中に耽っていたとしてても結局は「もっと…もっと!」という苦しみが増すばかりなのです。


本来、生きることはあらゆる苦しみの上に成り立っています。


例え不幸に喘ぐ人が神だの天使だの守護霊だのに縋り、それを信じることで「苦しみ」から救ってくれるなどというお花畑なことを信じていても…


神も天使も守護霊も何一つ苦しみを取り除いてなどくれません(笑)。


ここまでお粗末過ぎる戯言などは問題外だとしても…


それでも私たちは根本的な苦しみから目を背け、欲のままに突っ走って更なる苦しみを上乗せしているというところが、私たちの人生の実態です。


しかし私たち自身が欲を断ずるという明確な意図を持ち続けることで、やがて欲による極悪な苦しみの利息の上乗せが無くなると…


心はとても軽くなります。


その為には私たちが自分の心の中に「(何かが欲しい)」と思ったその小さな欲が芽生える、その瞬間を自分でを「見つけ続ける」しかありません。


そして見つける度に、自分の心に正直に問うのです。







「その◯◯◯がないと本当に私は死ぬのか?」と。







この自問自答こそが、私たちを、私たち自身が作り出す苦しみから本当に守ってくれる智恵になります。




230 拝