盛岡駅0番ホーム始発の花輪線は空いていた。BOX席に座りさっそく駅弁を食らう。岩手県大船渡市三陸町小石浜のブランド『恋し浜ホタテ』が復活した話を聞き、この『三陸復興恋し浜帆立照り焼き弁当』を食することもこの旅の楽しみのひとであった。蓋をあけると三つの大きな貝柱が目に飛び込んできた。磯の香りで炊きこまれたご飯にはそぼろ卵がまぶされ、蟹のほぐし身、いくら、海藻、中華風に味付けられた貝ひも、蟹型の人参など見た目も味も飽きさせない。貝柱にかぶりつく。ぴゃあ~、うまい!プリッとやわらかい弾力、サクッとした歯切れのあとにひろがる帆立の甘みと風味、味付けは決して濃くはなく甘く香ばしい醤油だれも食の欲をかきたてる。この弁当は間違いなく本気で作られている。ガタンゴトン揺れる車両、車窓に流れる雪化粧が久しぶりのローカル線旅情をより盛り上げた。こうなれば、呑むしかない。安比高原、八幡平、花輪朝市、松川温泉に後生掛温泉、湯瀬温泉と途中駅下車するにはもってこいの路線ではあるが、窓に顔をくっつけへらへらと酔いを楽しめれば幸せな僕は、ただの乗り鉄+呑み鉄男なのだ。

途中駅で車両不具合によりしばし停車。雪には強い路線だと聞いてはいたが、さすがに今日の冷え込みは凄まじいのだろう、ドアに氷が付着し閉まらなくなってしまったようだ。駅員がドカンドカンと蹴っぱくるも開いたままのドアは反応なし。アテンダントが溶解スプレーを噴射し続けるとやっとそのドアは閉まった。
十分ほどの遅延で終点の大館駅に到着するや、弘前方面で豪雪のためダイヤに大幅の乱れありの放送。むむう、これは困った。時間にかなりの余裕を持って家を出たつもりが足止めを食ってしまった。実はこの先の大鰐温泉駅でシブい中華食堂を見つけておいたのだ。特産の大鰐もやし炒め、餃子、中華そばで熱燗一杯の予定が台無しになってしまった。しかし厳冬の北国ではこのぐらいのアクシデントはしょうがないことなのだ。とりあえずはふらりと駅前を散策。この大館は比内地鶏と秋田犬が有名で忠犬ハチ公の出生地でもある。乗り換えだけの駅にも発見があるのだ。売店でハチ公ストラップと地酒を買い待合所で待機していると弘前行き奥羽本線普通列車が到着。特急つがる号の指定席を取っていたので乗ろうか乗るまいか迷うも、本日の特急つがる号は全車両運休の連絡がありそそくさと改札をくぐる。JRのかわいいポスターを目にしたのでパチリ!やはり本田翼ちゃんはええなぁ~♪ 知らぬ男は・・・もうオヤジだと思うぞ。

津軽湯の沢駅はまさに秘境の駅だった。駅前には雪に埋もれた沢が流れいよいよ雪国に来た実感が沸いてくる。やがて宿の迎えが到着。運転手さんのお顔を見るなり僕は思わずニッコニコ。本田翼ちゃんなんかどうでもいいぐらいの可愛らしいお方だ。宿までの車内で色々とお話をさせてもらった。修学旅行は江の島で、東京の人よりずっと江の島の人は親切であったかかったと聞かされた時は僕自身が誉められたような気持になってデレデレの笑顔をしばらく引き締めることが出来なかった。彼女とずっとドライブしていたかった。いつまでも宿に到着しないことを本気で願ってしまった。
国道沿いから山道に入ると、なお雪深くなった。雪国の方は本当に運転が上手だ。除雪の入った最終地点が本日お邪魔になる古遠部温泉だ。

近くに民家など無い、まさに山奥の鄙びた一軒宿。どこか心細さを感じさせるこの風情こそひとり旅にはもってこいだ。車から降りるのは淋しかったが、今日僕はこの宿ですべての疲れをたれ流すのだ。
清潔感のある部屋に案内される。布団はすでにひいてあり浴衣に着替えゴロンと横になる。窓からの雪化粧をながめなる。ああ、ああ、いい、いい・・・ リュックから酒を取り出しさっそく雪見酒をひっかけてしまう。

玄関に飾ってあった写真は、おそらく先代の犬達なのだろう。犬を可愛がる宿が大好きだ。思わず奈川の岩花荘を思い出す。おやじさんやおばちゃんは元気かな?なぜか迎えに来ていただいた可愛らしいお方に頭をイイ子イイ子撫でられる自分を想像し、この邪念がなければ僕もそれなりには大人なのにとホトホト呆れてしまうが、そんな自分に反省などしたことはない。

風呂場の扉を引くと充満した湯気がどっと脱衣所に流れる。茶褐色に少し緑がかった湯船からあふれ続ける湯の量、これが噂に聞くドバドバ系というやつなのか!うん、まさにドバドバだ!すごいぞドバドバ系!この湯船に浸かることを僕はずっと夢見ていた。金気臭に包まれながら冷えた体をゆっくりと沈める。初めは熱めに思えたがすぐに適応すると丁度良い温度に感じた。ああ、ああ、いい、実にいい。ヌルヌル感はなく逆にキシキシと細胞に元気を与えるような湯だ。あふれる湯の行方は洗い場を一気に走り排水溝へと滑り落ちるとそのまま宿の下の沢に捨てられた。雪一色の中に湯の成分で茶褐色に彩られた一部分だけが異様に感じる景色こそ、源泉掛け流しの証なのだ。初老の方が、「ここは空いてる時にはみんなトドになるだよ」と顔をぬぐいながら教えてくれた。10分ほど浸かると額ににじむ汗。湯船から抜け出て窓をあけると冷気が一気に火照りをしずめた。長湯は禁物、夕食後またのんびりと湯を楽しもう。

夕食は旅先での楽しみのひとつだ。まずは風呂上がりのビールで喉を癒す。グビグビグビ、ぴゃあ~たまらん♪ このウマさを味わうために旅をすると言っても過言ではないと思う。食卓に並んだ料理に箸をつける。まずは岩魚の塩焼きにかぶりつく、塩加減も焼き具合も丁度良い。鯛の昆布〆はねっとり甘く燗酒がすすむ。揚げたての天ぷら盛りはサクサクでエビはプリプリだ。鶏出汁の沁みたハフハフのキリタンポ鍋。魚の酢の物や山菜のヌタ・・・素材こそ素朴ではあるが、この宿のもてなしはもの凄いと正直に感動してしまった。
古遠部温泉は部屋食ではなく広間に配膳される。どんな方が宿泊されているのかを見ることも楽しいので僕はこっちのほうが好きだ。ひとり旅は僕と向かいの男性だけ。その方は消防士で時々温泉旅にふらり出かけるのが趣味だと話してくれた。初老グループの方々はこの宿の馴染み客のようだ。「わしゃ脳梗塞の薬を医者に変えてもらえたおかげで20年ぶりに納豆が食えるようになった」と話しているのはさっき風呂で会った方だ。う、羨ましい、実に羨ましい。明日の朝食に納豆が出たとしたら、きっとこの方は嬉しそうに納豆を掻き混ぜ必要以上にネバらせてからズルズズズとでかい音で啜るとそのウマさにほくそ笑みを浮かべながら箸に纏う糸などクルクルたぐるに違いない。そして“たまらん!”と発するが同時に漂うあのかぐわしい納豆臭・・・ああ、僕は不憫だ、出来ることなら見たくない聞きたくない嗅ぎたくない想像すらしたくない。朝食に納豆がでないことを願わずにはおらなんだその日の夕食であった。でも、食べられるようになってよかったね、おじちゃん。

部屋ごとから漏れる会話や笑い声を横目に風呂場に向かうと、貸し切りだった。5分ほどで湯船から出ると木張りの床に仰向きに寝そべる。ドバドバあふれた湯が背中の面を温め続けてくれる。腰、肩甲骨周囲がすっと軽くなった。深呼吸すると充満した湯気が肺の深い部分まで癒してくれる気がした。天井から落ちた少し冷たいしずくが臍に落ちた。それも穴のど真ん中を直撃だ。ペッチョッと良い音が鳴った。もしかしたらヘソの語源の由来はこれなのではと本気で考えながら、そのまま僕は1時間半ほどトドの人になった。
ほかほかの体で部屋に戻る。携帯は圏外、本も持参していない。テレビを付ける気にもならず、ただ、部屋の灯りにてらされたわずかな雪景色だけをみていた。はらり、はらり、なかなか落ちぬ粉雪だった。浴衣と丹前から、乾いた雪の空気と、晴れ渡った昼間の青空の匂いがした。 音の無い、それは静かな夜だった。
湯の成分で良い染め具合になったタオルは妻への土産に持ち帰った。

午前四時、風呂に入った。霜の花が描かれた窓は凍てつき開かなかった。
朝食、やはり納豆が出やがった。しかし僕の邪気はすっかり浄化されていた。皆がズルズズズと啜る音にも心を乱すことはなかったのだが・・・さすがに目の前で現場を目撃してしまうと頭の中身はすぐに納豆に支配されてしまった・・・ああ、あああ、あんなに掻き回しやがって、ああ、あああ、タレもカラシも入れやがった、ああ、あああ、ウマそうに啜りやがった、ああ、あああ、今度はご飯の上にかけ一気食いだ、ああ、あああ、ご飯をおかわりしに席を立ち、ああ、あああ、またかけやがった、な、なんだと、今度は味噌汁もぶっかけやがった、これでは納豆の糸が引かなくなっちゃうではないか、しかしこの喰い方には覚えがあるぞ!そうだ、その昔漫画『夕焼け番町』の主人公である赤城忠治の必殺技だ!おお、おおお、こんな場所でこの大技を見るとは思わなんだ。ああ、ああ、喰いたい、喰いたい、喰いたい、喰いたい、でも、喰ったら三日間は死と隣り合わせの覚悟をしやがれと医者にも言われているし、そうだ、せめてビニールぐらい外してネバネバだけしてみるか、いやダメだ、箸に着いた納豆をしゃぶるだけでも僕には命に関わる危険な行為なのだ、ああ、不憫だ、あああ、ああああ、ああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
しかし他のおかずは豪勢だ。焼きじゃけ、たまご焼、にしん漬け、しめじお浸し、味海苔、漬物、りんごヨーグルト和えにサラダ、暖かいお味噌汁に納豆、納豆、納豆納豆納豆納豆納豆納豆、ああ、不憫だ、あああ、ああああ、ああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

食後、最後の入浴。この宿は日に2回も風呂の掃除をする。湯船の湯を完全に落としブラシで磨くそうだ。湯が落ちるのに5分、満たされるのに15分しか掛からないそうだ。そこまで清潔に気を使っている従業員はどの方も心地良い接客をしてくださる。
湯に沁み、雪化粧に沁み、佇まいに沁み、食事に沁み、人に沁み、すっかりとすべての疲れをたれ流させていただきました。次は絶対に2泊させていただくつもりです。ちなみに一番沁みたのは・・・やはりこの方の笑顔でありました。
続く