この島へ一番来たがっていたのは父だ。酔うと奥尻のウニと海への憧れを話してくれた。やがて僕自身が奥尻島に興味を持つようになり島旅の計画をたてたが、前日に都合が悪くなり急遽諦めざるを得なくなったのは1993年7月11日のことだ。翌12日22時17分、奥尻島を烈震が襲った。北海道南西沖地震だ。
タラップを降り島の地面を踏みしめると感激が爆発した。21年もの間、想いを抱き続けてきた奥尻島に僕は今、いる。
ほとんどの乗客は迎えの自家用車に乗り込み、21時の港はあっという間に淋しくなった。港近くの宿に向かう。荷物を置き夜の街へひとりくりだす。なんだろ、どこかローカル線の中規模な駅前を散策しているような、そんな錯覚をおぼえるのは街の明るさが離島の不安を消してくれているのだろう。数件の中から寿司屋を選び暖簾をくぐると70代の大将がカウンターへ招いてくれた。すぐにうち解けることが出来たのは大将の朗らかで温かい人柄に相違ない。寿司を握る姿はまさにいぶし銀、手際良く握られた寿司が皿に並べられた。まずはウニだ!ガリでちょちょいと醤油をぬりひと口で喰らう・・・思わず顔をあげると目を細めた大将がいた。このひと握りだけで奥尻に来て本当に良かったと思える、それほどまでの美味さだった。この店は地震の前年に新築したそうだ。幸い店は被災からまのがれたそうだが、苦労をされたことは間違いの無いことだろう。大将、女将さん、ごちそうさまでした。
11時半店を出る。テトラの隙間から洩れるのはいか釣り漁船の漁火。空をも照らす幻想的な光景にしばし酔いしれ、島唯一のコンビニでカツゲンを買い宿に戻る。長旅の疲れと、緊張と、酒の酔いに、口の中でとろける奥尻ウニのようにふわっと眠りの世界へおちた。
翌朝、6時50分発江差便を見送りに行く。女子学生とその親友達であろうお別れのシーンがあった。なんだかほっこりして僕も陰から手を振ったら、女子学生の隣の男性が手を繰り返してくれた。あなたじゃ、ないんだよ~。
路線バスで島内を散策。どんより雲だが幸い雨は堕ちてこず、奥尻ではこれを“晴れ”と呼ぶそうだ。親切な運転手の方が風景の説明をしてくれた。どかない工事車両の説明もしてくれた。途中小中学生が数人乗車したが、どの子も気持ちの良い朝の挨拶をしてくれた。この運転手の方は高校生の時に地震を経験したそうだ。以来島内から出なかったのは、きっと島を守る強い意志があったのだと思う。あったかい人だったなあ。バスに揺られる間中、海の景色に釘付けだった。
1時間後、終点の神威脇に到着。ここには旅の目的でもある温泉が沸いている。朝8時、早速入浴。薄茶濁りの湯は少し熱めで朝風呂にはもってこいだ。窓の向こうには神威脇の海と漁港の風景がひろがっている。二艘停泊しているヨットはどこから来たのだろう。それにしても気持ちがいいなあ。東京の会社が発行する全国離島の温泉本でこの神威脇温泉は第7位に選ばれたそうだ。夕陽を見ながら湯に浸かる至福はなんともいえないだろ。地元の方と話をしたかったけど、残念ながら誰も風呂には現れなかった。
レンタカーで島周りするのが一番なのだろうが、風呂上がりや昼飯時にビールも飲めない旅など、僕にとっては屁みたいなものだ。休憩所で寝転がっているとおばば様7人衆が到着。青苗地区で一人暮らしをされている未亡人同士のお仲間だそうだ。送迎付き500円で週に何度かこの温泉を楽しまれていると話してくださった。米粉団子と自家菜園のイチゴをたっくさ~んくださった。この量には困ってしまったが、嬉しかった。このイチゴの赤色は一生忘れないと思う。いつまでも、誰ひとり欠けることなくずっと元気でいてくださいね。おばば様との最初の挨拶はやはり、「こんつわ」だった。
帰りのバスの時刻まで港をふらふら歩く。岸壁の上に立つ石像は震災後奥尻島の復興を願い彫刻家流政之氏によってたてられたそうだ。著者は忘れたが『わが奥尻島』を読みこの石像を見ることを目標にしていたが、遠いのであっさりやめた。
風呂から見えたヨットの方と話をさせていただいた。仕事人生を終え、夢だった日本一周をされている途中にこの神威脇へ寄港されたそうだ。 ラメール号、かっこいいなあ。横浜にお住まいで、なんと奥様の実家は僕の家から歩いても10分足らずのご近所さまとのこと。この北の離島でものすごい確率の出会いだなあ。
まだ続くのよ