路線バスの乗客は僕ひとりだけだった。
最後部の座席に座る。
午前9時、伊豆急下田駅発の東海バスは定刻通りに出発。
休暇村を過ぎ青野川を渡ると、海岸線に出た。
数年前までは見慣れた風景、 今では新鮮な風景。
昨日は風と波の注意報が出ていた伊豆地方だったが、
今朝は凪いだ海とすみきった空。
手石、小稲、打越、下流、赤穂浦、大瀬、吉子の浜、本瀬、石廊崎港口 ・・・
停留所ごと、ひとつひとつの風景に、ひとつひとつの思い出を浮かべる人は少なくはないと思った。
大根島が見えた。
渡し船に乗り海水浴を楽しんだ懐かしいヒリゾ海岸の美しさは今でも忘れない。
泳げないけど、水中メガネとシュノーケルだけで海の中の素晴らしい世界がひろがった。
夢中になり過ぎて、気がつけば岸から遠く離れた場所まで流されたこともあった。
クラゲに激痛をくらったことも一度や二度ではない。
入り江の奥に、目指す場所がある。
民家が見えた。 バスは左折し、懐かしい漁師町へと僕をとどけてくれる。
下賀茂郡中木 ・・・ 忘れられない、故郷のような、それは小さな漁師町だ。
車窓から見えた途中の風景も好きだけど、僕にはやっぱりここが一番似合っている。
民宿そばやのおじちゃんが眠る墓に手を合わせる。
・・・ おじちゃんごめん、花屋さんはまだやってなかったんだ。 カップ酒だけで勘弁してくれ ・・・
海の道を歩く。 色とりどりに群れる小魚、溜まりでは悠々と泳ぐクサフグ ・・・ あの頃と同じだ。
数年前に訪れた時、生簀の中にはイルカがいたが、生簀ごとなくなっていた。
この防波堤で釣りをするのが好きだった。
大きな魚を釣ったことはないけど、ぶっこみ釣りではネンブツダイが必ず釣れた。
ネンブツダイは外道の魚だけど、それでも僕は密かに嬉しかった。
遊び半分でネンブツダイの味噌汁を作ったことがあるけど、意外に美味くてびっくりした。
夕方に回遊してくるアジをサビキ仕掛けで釣ると、民宿のおばちゃんが刺身やから揚げにしてくれた。
奥の戸外浜は海が少々荒れた時でも波の静かな穴場だ。
岸から50メートルほど泳ぐと狭い平磯がある。
磯の香り、磯の音、磯の色、磯の風、磯の陽射 ・・・ 甲羅干しするにはもってこいの場所だった。
この平磯に友人の子供達は怖がってなかなか来れなかったけど、
「今年こそは上陸してみせる!」 と初めて目標を達成した時の嬉しそうな笑顔も覚えている。
誰もいないこの浜で一時間ほど昼寝をした。
体も心も軽くなったような気がした。
山の上に風力発電の羽根が見えた。
対岸の防波堤まで歩く。
金目鯛押し寿しの駅弁をアテに酒を飲む、
のんびり、のんびり、ひとり飲む、
まさに、贅沢極まりないひととき、
ほろ酔い気分を、こんなにもゆったりと楽しんだ時間は、最近なかったと思う。
寝ころんで仰いだ空、
こんなにも青く、こんなにも高く、こんなにも広い青空を、最近見ていなかったと思う。
梅雨前、この季節の中木に来るのは初めてだ。
体のどこかで、ジリジリと焼けつくような夏の陽射を探している自分がいた。
目を閉じる、
知らぬ間に眠りの世界に僕はおちていた。
目覚めると、ザックにしのばせてきたパックロッドを取り出す。
玉浮き仕掛けに人工餌を付け、流れ藻の隙間に落とし入れる。
無反応なままの玉浮きを見続ける時間も、もう慣れっこだ。
しばらくして、玉浮きをググッと沈み込ませたのは、黒い小さな魚の仕業だった。
本当はネンブツダイの顔が見たかったけど、 この日は会うことが出来なかった。
・・・ わざわざネンブツダイを釣りに、この遠い漁師町を訪れるのはおそらく僕だけであろう ・・・
そう思ったら、おかしくなって笑ってしまった。
のどかな漁師町も、夏にはたくさんの海水浴客で賑わう。
季節限定でビアガーデンも営業された。
生ビールはもちろん、ラーメン、カレーライス、焼鳥、おでん、かき氷などのメニューが楽しめた。
裏路地に入り、民宿そばやをのぞいてみた。
建物はあの頃のまま残っていたが、門も部屋の窓も閉鎖され、風の通らぬ風景が淋しかった。
よく通った商店の看板は下ろされ、シャッターも閉ざされていた。
漁協のそばで日向ぼっこをするおじいちゃん、
井戸端会議に夢中のおばあちゃん、
漁で獲れた魚を漁協へ運ぶ真っ黒な笑顔の漁師さん、
網を整える若いおかみさん、
そして、中木川のガースケや野良猫にゃん太郎、
今日は誰にも会うことが出来なかった。
それでも、漁場やダイビングポイントへ向かうちいさな漁船にはたくさん会えた。
海面に映した空の色を揺らしながら、すべるエンジン音が心地良い。
中木を想うと、あの頃の楽しい事ばかりが浮かぶ。
でも、最後に突き当たるのは、おじちゃんの死。
そこから、僕の中での中木は止まったままだったが、
今日、少しだけ風が通ったような、そんな気がした。
中木でのんびり出来た今日のことも、いつかは懐かしい思い出になるだろう。
来て、よかった。
しかし、腹が減った。
酒も足りない。
今日の僕はいささか真面目すぎる。
そうだ! 帰りは伊東で途中下車し、下品なアイツと酒を飲もう!
やはり最後にふざけてしまった。
おしまい