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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

『氷の家』(ミネット・ウォルターズ:創元推理文庫)

2014年04月05日 | 海外ミステリー
<女三人の屋敷暮らしには人に言えない理由がある!?>

 亭主が失踪して10年後に氷室に食い荒らされた腐乱死体が見つかった。

 氷室というのは18世紀に屋敷の庭に小丘を模して作られた冷凍庫で冷蔵庫が普及して以来使われなくなっていたものだった。

 失踪のときにも警察やマスコミ、それに加えて近隣の住人からも嫌がらせがあった。
 
 登場する主要人物は、この屋敷に住む三人の女と使用人の夫婦、女主人の娘と息子、同居人の娘、主席警部、部長刑事二人、巡査、病理学者、近所のパブの主人に老婦人。

 要するに、コミュニティ小説である。

 まあ、地味なお話だが、それぞれの登場人物にまつわる伏せられた過去の事実が徐々に解き明かされていく中で真相がその姿を現していく。

 二点ばかりどうしても納得がいかない箇所があったが、それはかまわない。

 話の中に、詩や文学作品や評論からの引用が出てきたり、男女についての「定義」が丁々発止とやり取りされるあたりはなかなか読み応えがあった。



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『第三の眼』(ケイ・ノルティ・スミス:ハヤカワ・ミステリ文庫)

2014年04月05日 | 海外ミステリー
 <傍観者ではいられない>

 作者スミスは、93年に肺がんで死去している。
 翻訳紹介されたものも長編で三冊くらいか。
 原題は、THE WATCHER(じっと見守る者)で、傍観者というようなマイナスイメージを持つ言い方であるようだ。

 主人公の一人ポール・デイモンは、正義を希求しつつも正義を体現すると信じた人やかけがえのない存在たちを次々と失ってきた。
 それも己のせいで。
 映画の『ブリキの太鼓』ではないが、「生きる」ことをやめて機械のような存在になりきろうとしてしまったのだったが・・・。


 正義にしても平等にしても理想というものの現実世界への適用はしばしば軋轢をもたらす。
 人間は頭が考えるほどには整然と生きられないものだから、当たり前といえば当たり前なのだが、反面で理想の実現を強く求めてやまない生き物でもあるから真に難儀である。

 平等というのであれば、イチローのような選手は標準から外れているからやめさせてしまえというようなもので、平等ではあっても対等ではない。

 のみならず、多くの場合、稀有の才能が理想の隠れ蓑に隠れた何者かの利益や悪意の犠牲に供されてしまうのである。
 理想それ自体に価値があり、説得力もあるために、これを押さえて、才能を主張すれば利己心の表れとそしられる恐れもあるし、場合によっては、たしかに理想という視点以外の視点に立てば、才能よりも優先される場合もありうるから、なおさらに話はややこしい。

 ともかくも理想主義的平等論を主張する社会学者にして大統領候補のブレーンでも会った人物が死ぬ。

 これにデイモンの元恋人アーストリッド・ケインが関与していたとされ、デCモンは虚無的警察官の立場で追及するものの
徐々にその真相に迫っていく。
 最後のどんでん返しまでなかなかうまくひきつけられ、妙な話だが、安心して読み進められる。

 傍観者というのも、私は悪くはないと考えている。
 それどころか、場合によっては、不可欠の存在ともいえる。 

 みんなが踊ったり浮かれたりしている最中に、覚めた眼でそれをあるいは周囲の情況を観察し、必要になれば警鐘を打ち鳴らすべき存在としての傍観者というのはなくてはならない存在ではなかろうか。

 冷たい観察眼の奥底にはどこか温かいハートがなくてはならないことはいうまでもないが。



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『長い雨』(ピーター・ガドル:ハヤカワ・ミステリアス・プレス)

2014年03月31日 | 海外ミステリー
 <先祖伝来の葡萄畑の手入れをして美味しいワインを造るようになるまでの話>

 正直に話さないよりは正直であったほうがよい。
 ま、たしかにそうなんだが、正直に告白すると、友達をなくし、親類縁者からも絶縁されることもある。
 それも割とあっさりと。
 そして、それは何となく足が遠のくというような形で往々にして正直者には訳のわからないままにそうなってしまう。
 たとえば、エイズに感染しているというような話題は、やっぱし、言えない。
 人知れず女遍歴があったというような告白も、そのまま文字通りに受け取られ、その結果は同じようなことになる危険が大きいので、黙っているのが賢明な処世である。
 まして、たとえ間違いにしても人を殺したなんてのは、間違っても口にしないほうがよい。
 そこですべてを失ってしまう。

 もちろん被害者、捜査機関、訴追側にしてみれば、正直になってもらいたい。

 しかし、加害者側は、めったなことでは口を割るまい。
 やけになってしゃべるか、少しバカなのでうっかり口にするか、罪の意識に耐えかねて話してしまうか。

 隠ぺい工作を重ねウソを重ねるうちに、ますます、取り返しのつかない事態へと転落していってしまうこともあるが、幸か不幸か切り抜けられる場合もないとは言えない。

 食品会社や自動車会社や銀行や野球のオーナーや警察や病院や教師や政治家や、ま、誰によらず隠し事をし、周りに迷惑をかけ、それでもなかなか素直に真相を語らないのは、それを暴露する側も立場を変えれば同じ悩みを抱えていたりして、真に厄介である。

 「そいつを言っちゃあおしめえだよ」

 フーテンの寅さんじゃあないが、まあそうなのである。

 嘘や秘密と暴露公開との関係はなかなかに微妙なのであり、何かの線引きや基準を作っても、スッキリと解決のつかない難問である。

 つまり、隠し立てをすることで被害が拡大することもあれば、暴露がキズを深めることもあるのである。

 妻と別れて実家に帰った男が、処分しようとした葡萄畑の手入れを始めるうちに人生の建て直しができてしまったが、ひとところに落ち着けない、男の習性で車を走らせるうちに、思わぬところで前途有望な高校生をひき殺してしまい、自首する前に別の男が殺害容疑で捕まる。
 濡れ衣を晴らすべく真犯人である男が弁護を始めることになるが、話はもう少しややこしい事情を背後に抱えていたとわかる。

 『雨を呼ぶ男』から『長い雨』まで、天候にあっさり左右される右往左往する人間たちの姿は、まあ、ばっさりいって、どうしようもないもので、晴れれば暑いといって愚痴をこぼし、雨になったら雨になったで腹を立てる。

 真に身勝手なくせしてそのこと自体は認めたがらない。
 不都合があれば、すぐに決まりを作り、今度は規則がうるさいといって、そこからなんとか逃れようとする。
 結局、自分をもてあましてばかりいるという次第である。

 なんだか救いのない話のように聞こえてしまうな。はは。



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『内なる犯罪』(ジェリー・オスター:扶桑社ミステリー)

2014年03月31日 | 海外ミステリー
 <ベトナム帰還兵は多くホームレスとなりホープレスと呼ばれるにいたった>

 内なる犯罪とは、原題:INTERNAL AFFAIRSの訳である。

 二通りに解釈できる。
 ひとつは、
 「内務監査役」警察内部の不正を摘発する。
もうひとつは、
 「内輪の情事」表沙汰にできない性質の男女関係。


 季節は7月、しかも酷暑の7月。
 ホームレスのたむろするビルに対して放火が行われ多数の死者が出る。
 一方民間人から警察署長に起用されたニューヨーク市警本部長のチャ-ルズ・ストーリィが殺害される。
 どうやらホームレス(擁護者)のトム・ヴァレンタインの報復らしかった。
 これを捜査するカレンは、少年時代から二人とは友人同士だった。
 チャールズの妹ヴェラはハリウッドで成功を収めた有名女優で、カレンは彼女に対する思慕の情を未だに持ち続けていた。

 カレンは、しかし、同時にデボラ・ディーン(黒人女性警察官)が撃たれた事件を捜査していた。

 事件の交錯、思わぬ犯人、誤解・誤殺、隠蔽、断絶、絶望、虐待、差別、中毒、過労、不眠、饒舌などがニューヨークを舞台にして展開されていく。
 ま、一口に言って何でもかんでも突っ込んだ雑魚煮を饒舌の炎で煮込んだようなお話である。

 関心や造詣のある人なら登場するアイテムや芸術に関するコメントなどディテールを楽しむこともできるだろうし、男女の言葉のやり取りも面白い。
 また、人種、地位、権力関係、男女関係などについての書き込みもしっかりしていて、誰かの視点から周りを見ていけば、饒舌の嵐の中にわりとしっかりした定点観測が出来るように描かれている。
 そこがしっかりしているので読みにくさはあってもわかりにくさはほとんどない。

 不思議な構成のストーリーだったが、こういうのもニューヨークへのアプローチの仕方のひとつなのだろう。

 いろいろ読んでいると舞台が共通していれば作品によらず、なんとなく似たような雰囲気が漂うのがわかる。

 だからどうというわけじゃないが、そういうのも醍醐味のひとつなのである。 

 というようなわけで(?)、『地名の世界地図』(文春新書147)というのを買って来てぱらぱらめくって楽しませてもらっているのだ。



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『キラー・オン・ザ・ロード』(ジェイムズ・エルロイ:扶桑社ミステリー)

2014年03月31日 | 海外ミステリー
 <そして私は生きのびるために人を殺さなくてはならなくなった>

 ジェイムズ・エルロイ自身、両親の離婚、愛されない子供時代、母親の虐殺、事件の迷宮入り、そして自身も覗きや押し込みで逮捕され刑務所暮らしも経験している。
 もしも、本を書いていなかったら自分が<シリアル・キラー(連続殺人犯)>になっていたに違いないと思っているらしい。

 このあたりはレノア・テアの『記憶を消す子供たち』(草思社)に詳しい。

 この意味で、シリアル・キラーの部分は架空の物語だとしてもそのほかは実体験を記述したきらいがある。
 とにかくぐいぐい読ませる尋常ならざる迫力は、どこか実感に裏打ちされたフィクションの力なのであろう。

 私立探偵もの『レクイエム』と連続殺人犯ものであるこの作品以外は、ホプキンスシリーズも他の作品もすべて警察を主体とした作品である。

 どうも単発的色合いの強いものばかり先に読んでしまったようだ。

 しかし、いわば著者の妄想を重ねた自伝的色合いの強いこの作品は、特異な雰囲気を漂わせていることは間違いない。

 アメリカに良い時代はなかった。

 エルロイはこう言い切る。

 アメリカのA面ばかり見て、敗戦後これに追随してきたわが国は、そろそろB面を見せられるばかりか、いつのまにかこの暗黒面をもともに導入してしまったことを気づかされつつある。

 ともあれ、

 妄想癖、性に対する歪んだ感覚、希薄な存在感、高い知能、・・・
 しかし、
 程度の差こそあれ、たいていの普通人と違わないような印象すらある。

 では、連続殺人犯とそうでない人間との間の線引きはどこにあるのか?
 そこは読者がそれぞれに考えてみてくれと突き放す。

 ばっさりいってしまえば、頭の中で人殺しをやらなかった人はいないのではないかということである。
 そこから実行にいたるまでは案外遠くないのかもしれないという恐れが沸きあがってくるような話なんである。
 自分が殺(や)るかもしれない、誰かに殺さ(やら)れるかもしれない。
 「正しい」ことを口にするのはいかにも容易である。
 「正しい」ことのために殺し続けた国、アメリカをこういう形で炙り出すことも出来るのか・・・。

 但し、これは対岸の火事ではない。

 まあ、いっぺん読んでみてくれ。
 他の読後感を問うてみたい一作である。



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