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馬鹿琴の独り言

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超意訳:南総里見八犬伝【第四回 里見義実、小湊に義を集める/垣の内に金碗孝吉、仇を逐う】

2024年02月11日 | 南総里見八犬伝

 こうして里見義実主従は、あちこちの池、川と淵を尋ねて、釣りに日を費やした。白浜の旅宿へは帰らず、彷徨い歩いて長狭郡の白箸川沿いを釣って早くも三日目になろうとしていた。
 日数も今日も最後であるため、心は頻りと焦燥した。
 獲物はたくさん釣れるが、鯉に限って針に掛かることは決してなかった。

 ちはやふる神代に彦火火出見尊(ひこほほでのみこと、神武天皇の祖父、山幸彦)は失った針を求めて海龍宮で楽しく過ごし、浦島太郎は鰹を釣るが、鯉を釣るまで七日間家にも帰らず釣って過ごしたそうだ。
 今も垂らす糸の乱れ苦しき主従は、顔を思わず合わせて嘆いていた。

 そこへ川下から声高に歌を歌いながら、こちらに向かってくる者がいた。
 里見主従が見ると、汚れた格好の浮浪者である。振り乱した髪は黒く焦げたすすきの様であるし、垂れた裾は秋の海の藻の様でもあった。手にも顔にも怪しい腫物があり、人の皮膚には見えなかった。熟した茘枝(ライチ)、裂けた柘榴、大きな蟇蛙の背中もここまで酷くはない。
 こんなに醜くとも命は惜しいものか、世に疎まれ、人に嫌われても、死ぬことができないのだ。
 忌々しい姿なのに、彼は自分の外見を何とも思わないのか、底が斜めになった乞食用のわっぱを打ち鳴らし、だみ声で何かを歌っている。
「里見えて、里見えて、白帆走らせ風も良し、安房の水門による船は、波に砕けず、潮にも朽ちず、人もまた引け、私も引こう」
 繰り返し歌いながら近づいて来て、川辺に立つと、義実の釣りをつくづくと見始めた。
 流れたままの膿んだ血が臭く、鼻を覆った主従は早く去ってしまえと思うが、乞食は長いことこちらを見ているうちに、やがて三人の笠を覗き込み、
「いやいや、あなた方の釣りのやり方はどうなっているのですか。鮒、海老など釣り上げたものを捨てて、何を捕まえようとしているのですか」
 と何回か聞かれて杉倉氏元は仕方なく、顔を向けて、
「鯉だけを釣りたいのだ。他の魚は要らない。無益の殺生をしてはならないと考えて、他のものを釣っても放している」
 突然浮浪者は腹を抱えて笑い出した。
「ここで鯉をお探しになるのは、意味がありませんよ。ご存じありませんでしたか、安房一国には鯉はおりません。甲斐にも鯉がいないと聞きます。風土によるものかは良く分かりませんが。また一説には一国十郡がないと鯉はいないとも聞きます。鯉は魚の王者、とも言います。いないものをお求めになるのは、実に無益の殺生でしょうよ」
 と馬鹿にして、手を叩きながらからからと笑うのだった。
 義実は思わず竿を捨てて、
「なるほど、巨大な魚は小さな池には生まれない。大鵬(中国に伝わる伝説上の鳥)は、燕や雀の集う林では遊んだり休んだりすることはない」
 里見義実は嘆いた。
「何故私は世を狭くしなければならないのか。天は高いのに屈んで歩き、広い世間を抜き足でこそこそ歩いて、安房一郡の主にすら受け入れられないというのに。例えを龍に取り安房に来て、今また鯉に今後の行く末を賭けるのは、愚かもいいところだ。元より鯉はこの地方にいないのに、釣ってこいと言う人の心の底は、深く澱み、謀略の罠であると今知った。もしこの浮浪者に逢わなければ、安西らの毒計に嵌るところだった。危ないところだ」
 義実は今更ながら嘆いたが、浮浪者は慰めるのだった。
「そんなに悔しく思いなされるな。陸奥は五十四郡でありますが、鯉はいないそうです。鯉の有無はその国、郡の大小に関係ないのかもしれません。一国十郡に満たなければ、鯉がいないという話は、きっとこじつけの憶測でしょう。孔子も申しております通り、小さな村でも忠信の心を持った者がいるのです。里見の御曹司、上毛(上野国の別称)でお育ちになり、この国を知らずに流れてきて、身を寄せる家が今はないようなものですが、きっとございますぞ」
 主従は目配せをして、浮浪者の顔をじっと見つめた。
 義実は、浮浪者の言葉を聞いてため息を吐き、
「人間というのは顔や格好によらないのだな。あなたの言論は浮浪者ではなく、春秋時代の楚の狂人のふりをした接輿の類か、また聖武天皇のお后である光明皇后の元に現れて膿を皇后のお吸わせになった神仏か、何故私を知るのか、お名前を教えて欲しい」
 と尋ねた。
 浮浪者はにっこりと笑い、
「ここは人が多くおりますのでこちらへ」
 と先に立って歩き出す。主従は怪しみながらも竿を持って、後に続いていく。
 浮浪者は小松原の郷に近い山陰に主従を連れて行って、着ていた菰を脱ぎ捨てて塵を払い除け、木の根元にそれを敷いた。義実をそこへ座らせると、二人の従者も夏草を踏んで左右に座った。
 改めて浮浪者は後退りして、うやうやしく額を着き、
「本当はお目に掛かれる者ではございません。さぞかしご不審でございましょう。私は神余長狭介光弘が一族、金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)と呼ばれた者のなれの果てでございます。金碗は神余の一族、れっきとした武士ではございますが、

【白箸川に釣して義実、義士に遇う】

左から杉倉、堀内、里見義実、汚い恰好が金碗孝吉(笑)

でも彼は左上で里人を集めてアジテーションしています(笑)

 

庶子でございましたので家臣となりました。老臣の筆頭でありましたが、私は早く父母を亡くし、まだ子供でございましたのでその職に耐えられずと、禄を減らされて、近習となりました。しかし主君の行状は悪く、女色を好み、酒に荒んでしまいました。側室の玉梓に惑溺して、閨から出なくなりました。心の邪まな侫人、山下定包を重用して、賞罰を任せてしまいましたので、これ以降家中は酷く乱れたのでございます」
 金碗の告白は続いた。
「神は怒り、人は恨みました。お家の危ないことは明らかなことでしたが、老臣は禄のために身を惜しんで、主君の非を知りながらも諫めず、民は恐れて訴えず、でした。主君は自ら法を犯しても気づかないので、私は何回か君を諫めて忠告しましたが、まったく聞き入れてもらえませんでした。殷の紂王を諫めた叔父の比干(ひかん)が刀で肝を貫かれた様に、呉王夫差を諫めた伍子胥(ごししょ)が死を賜った際に己の眼を東南の門に掛けた様に、何度も諫めても用いられずに死のうとも思ったのですが、家臣としては君の非を言うその罪も軽くありません。大きな建物が倒れようとしている時に、たった一本の木で支えることはできません。ここは身を退くより他はない、と思案を決めて、那古七郎、天津兵内という二人の同僚にのみ、考えを知らせ、妻子がいない身の気楽さで夜に紛れて逐電しました。上総に赴き、下総を越え、上野下野はもちろんのこと、陸奥の果てまで旅から旅に年月を送りました。生計は習得した剣術や柔術の師範として、ここに半年、あちらに一年、何も待つものもない月日は早く経過して早五年も経過したので、主人の安否が心配になり、今年密かに上総まで還ってきたのです。しかし甲斐もなく主家は滅亡しておりました。皆、山下定包が謀反を起こして、杣木朴平、洲崎無垢三らの放った矢に命を落としなさったと聞いた時には、腸がちぎれ、骨も砕ける気持ちでした」
 金碗は寂しそうな顔になった。
「その朴平も無垢三も私の父が養育し、年来使っていた若党でした。彼らには我が家の剣術を伝授しました。侠気があり、農家の子に生まれても田畑を耕すことを好まず、ずっと若党のつもりでいたのでしょうが、私と別れて土民に戻ってしまった。しかし悪政の苦しさに、主人の仇である山下定包を弓で射って殺そうという計略を謀られて、酷い結果になってしまいました。彼らの思いを推し測れば、恨んでも憎んでもきりのない逆賊を狙い、討とうと思いましたが、私の顔は知られております。近づくすべもないので、晋の刺客である豫譲(よじょう)に習って、身体に漆を塗り姿を変え、日毎に滝田を徘徊して機会を伺いましたが、まったく姿も見ることがありませんでした。怪しむ人もいるので、しばらく滝田を離れることにしてこちらに来ると、世の噂で里見冠者義実殿が結城の城を脱出して、麻呂や安西を頼ったが、彼らはあなたの能を忌み嫌い、才を妬んで、用いようとせず、あまつさえ
言うにことを欠いて殺そうとなさった旨、不思議と耳に入りましたが、あなたに告げる手だてがございませんでした」
 義実を見つめて、
「一度お名前を聞きました時から、ただ赤ん坊が母の乳を焦がれる様な心持ちでございました。何処においでになる、と他人に聞くべきことではないため、胸は苦しゅうございました。しかし何とか巡り会おうとあちこちを彷徨い、今日はここに白箸の川辺に来れば釣りをなさる武家があり、安房の人ではないと思われました。また人相骨柄、尋常の者ではないと確信しました。親し気に見えても礼儀に適うそのお姿は噂の主従であろう、まさしく里見の殿であろうと思ったのです。しかしあからさまに言い寄ることも出来ず、海人の舟歌に真似て実情を歌ってみました」


「里見えて、里見えて、白帆走らせ風も良し、安房の水門による船は、波に砕けず、潮にも朽ちず、人もまた引け、私も引こう」

 
 里見えて里見えては、里見の君を迎えて喜ぶ民の心。
 白帆走らせ風も良しとは、源氏の旗を示す。ここで義兵を募れば、威風に従わない民はいないという意味を隠す。
 安房の水門による船は、波に砕けず、潮にも朽ちず、人もまた引け、私も引こう、とは、荀子の言うところの君主は船、里見の君は漂泊された挙句、麻呂と安西らに忌み嫌われ、難儀なことになってはいるが、国中の民が応援しているので、遂には滝田、館山、平舘の強敵を下すだろう、と祝いの歌を歌ったのだと金碗は説明した。

「今、義によって旗を揚げ、電光石火で滝田の城に押し寄せて、山下定包の罪を数えて、短兵急に攻めれば一気に城を落とすことができます。賊を罰して平群郡と長狭郡をお取りになれば、麻呂も安西も討たずして倒れることでしょう。先んずれば人を制し、遅れれば制される、と申します。良く良くお考え下さい。滝田城はこの様に、この様に」
 と地理を細かく手に取るように説明すれば、杉倉氏元も堀内貞行も金碗の話を嬉しそうに聞き、耳を傾けた。
 しかし里見義実は議論に従う気配もなく、
「あなたが言われることは私には過ぎた話です。その計画が良いと言っても、寡兵で大勢には敵にもならない。今の私は浪人、どうやって味方を集めたらいいのか。今は主従三、四人、滝田城を攻めるとしても蟷螂の斧。どうしようもない」
 と断ると、金碗孝吉は膝を進めた。
「不甲斐なく見えましたか。大体、二郡の民百姓、逆賊山下定包に虐げられ、恨み骨髄に徹しております。しかし権力に脅され、恐れて、やむなく従っているに過ぎません。人は義に集います、花や草木が太陽に向かう様に、でございます。あなたが今ここに孤独であっても、神余がために逆賊を討ち、民の苦しみを救おうと一度旗を揚げられるのなら、皆喜んで集まることでしょう。仁義の戦に命を投げ打ち、生きながら定包の肉を喰らおうと願い出る者ばかりいるでしょう。この金碗八郎孝吉、物の数にも入りませんが、計略を巡らして民衆を集めることは手を返すより簡単なことです。計略はこの様になさいませ、この様に」
 と近づいて囁くと、ようやく義実は、なるほどと答えて、小さくうなづいた。
 そばでやり取りを聞いていた氏元らは見事な作戦だと感嘆した。また更に金碗孝吉を見つめているうちに、
「残念なことよ、金碗殿。忠義のためとは言いながら、腫物があってお気の毒だ。味方を集めようとしても、あなたを知る人であっても、あなたが名乗りを上げたとしても気づかないだろう。その腫物を治す良薬があれば良いのだが」
 と慰めた。
 金碗孝吉は袖をまくって、
「亡くなった神余の殿のためなら、私はどうなっても良いのです。この身が廃人になろうとも、あの逆賊を滅ぼすのであれば、望みはかないます。私怨による軍勢を集めようという訳ではないので、私の面影がどう変わろうとも気にいたしません。ご心配召されるな」
 と腕を撫でた。
 里見義実はしばらく考えて、
「志はそうであろう。しかし治るものであれば治すに越したことがない。漆は蟹を嫌う。だから漆にかぶれた家では、蟹を煮れば漆は流れていく、と聞くぞ。思うに、あなたの腫物は漆の毒に触れたものだろう。身体の内側から発したものではなさそうだから、蟹で解毒すればたちどころに治るかもしれない。やってみようではないか」
 金碗孝吉は感謝してその治療法を行ってみることにした。
「この入江には蟹が多いのです。試してみましょう」
 と返答する折から、海人の子供たちが頭の上に魚籠を乗せてやってきた。
 杉倉氏元と堀内貞行は子供たちを呼び止めて、魚籠の中身を聞けば、蟹であるとのことだったので、めでたいことであると全部買い取ってやった。数は三十匹あまりの蟹である。
 里見義実は蟹を見て、
「この様にやってみなさい」
 とやり方を金碗孝吉に教えた。
 半分の甲羅を砕いて全身に塗る。その間、堀内貞行が火打石で松の枝に火を起こし、残った蟹を焼いてあぶる。甲羅と足を取って中身を与えられた金碗孝吉は一つも残さず食べていく。
 すると今まで悪臭を放っていた膿の混じった血はたちまち流れて乾き、腫物とそのかさぶたは触るとこぼれ落ちていった。病はほとんど治った様である。
 著しいほどの薬の効果は、神仏も金碗八郎孝吉の孤独と忠義を憐れんだろうか。大いなる奇跡を示したのである。
「不思議なことだ、何と不思議なことだ」
 杉倉氏元は堀内貞行と何回も眺めて驚き、
「見てご覧なさい」
 と馬の蹄跡に出来た水たまりを指さした。金碗孝吉はそれを鏡として、自分自身の面影を繁々と見つめ、やがて感涙にむせぶのだった。
「身体にずっとあった腫物が治りましたこと、文武の道に長けた里見の殿という良将のおかげでございます。名医は国をも治すとも申しますが、私の身は物の数にも入りません、乱れた国を良く治め、民の苦しみをお救いになるのであれば、本当に良い仁術ではないでしょうか。この辺りは麻呂や安西の領地ではございませんので、日々を費やしても手出しはできないでしょう。しかし猶予はございません。先にお打合せした通り、早く滝田へ向かいましょう」
 丁寧に進め、乱れた髪を直し、髻を改めて短く引き結んだ。腰の縄の帯を結んで、隠し持っていた短剣を脇に差した。そして里見主従を小湊に向かって、入り江を遠く遥かに誘って歩くのだった。

 金碗孝吉が里見主従を案内して小湊に向かう途中、夏の日もようやく暮れたが二十日過ぎの月はまだ上っていなかった。ただ誕生寺の鐘の音が響き、数えてみると亥の刻(午後十時)頃である。
 この小湊にある高光山誕生寺は敢川村の中にある。日蓮上人が生まれた地ということから、日家上人が開創して寺を建立し、誕生寺と名づけたのだ。身分が高い者もそうでない者も信仰し、皆この檀家となったので、寺院は大層繁盛した。世間では上総の七里法華(上総国土気城主酒井定隆が領内を法華宗へ改宗させた政策)、安房七浦の経宗と言って大体日蓮宗であるが、特に長狭郡は日蓮誕生地であるから、他宗はほとんどなく強固な日蓮宗信者が多いのだった。

【関連地図】

 金碗孝吉は前もって計画していた通り、まず里人を集めるために、誕生寺のほとりにある竹藪に火を放った。大して燃えた訳ではないが、真っ暗な夜だったので、火柱が天に昇って、梢に止まっていた野鳥が騒ぎ出す。僧侶たちも鐘を突いて慌てていた。
 やがてあちらこちらの里人たちが目を覚ましてきて、それぞれの家の戸を開けて火事をの現場を見た。
「お寺が一大事だ、起きろ、みんな出てくるんだ」
 人々は棒を持ってきて、百姓は農具を携えて、漁師、猫も杓子(神官も僧侶)もそれぞれ先を争って、ぜえぜえ喘ぎながら走ってきた。しかし寺はというと無事で、単に二、三町(220~330メートル)離れた人も通らない竹藪だけが焼けているのである。
 夜は静かで風も吹かず、里も遠くで家もない。人々が走って集まったころ、大体鎮火しており、鐘の音も静かになった。集まってきた人は戸惑いながら、鉢巻きにしていた手ぬぐいを外して汗を拭いていた。
「どこの馬鹿者が酷いことをしたのだ。山火事の野火が飛んできたのか。こうとも知らずに夜中に皆起こされて、近い者でも十町(1キロ)遠い者は三、四里(12~16キロ)を飛んで走ってきた。腹は減るし、腹は立つし、このやり場のない思いをどうしたらよいのだ」
「しかし火事の現場でやることがないのは喜ぶべきことではないか」
 と言われてどっと笑う者もいた。しつこく罵る者も皆集まって、とうとう休みだした。
 その時、金碗孝吉が焼け残った竹藪の陰から、咳払いしながら出ていった。人々はこの姿を見て、人か鬼かと驚き、あれはあれはと言い出した。
 金碗孝吉は手を挙げて、
「皆の者、怪しむな、私は今宵ここであなた達を待っていた」
 と周囲を見渡して諭す様に言った。
「さては火付けして我々を迷わせた馬鹿者はお前か。捕まえて叩いてしまおう」
 ひしめく人々に対して、金碗孝吉は騒がず前へ進み出た。
「ことの次第を言わなければ、とは思います。理由なく火を付けて、あなたたちを集めたりはしない。名乗りをしよう」
 と人々を押し鎮め、
「国乱れると忠臣が現れ、家が苦しむと孝子が出る。志すことがあるので、この世に隠れて笠を被り、蓑で身をやつしているので気づかれないかもしれない。私は元の領主に仕えていた金碗八郎孝吉である。君主を諫めきれず、心ならずも身を隠し、旅を経て年月を費やしてきた。しかし旧恩は決して忘れない。逆臣山下定包を討つため、忍んで故郷に帰ってきたのだ。名を変え、姿をやつし、機会を狙っていたが、人が多勢を頼んで勢いに乗っているときは、道理に背いても、一時的には天の理に勝つこともできる。仇は三里(12キロ)先の城にいて、大勢の配下がいる。刺客の豫譲が橋の下で見破られて捕まり、本邦では平景清の兄である藤原忠光が変装したが見破られて捕まって頼朝公暗殺が不可能になった。しかし平舘、館山の麻呂、安西は心が卑しく、逆に味方することを恥とは思わない。旧主に旧交があったが、彼らには秘密を伝えたくない。道理なき世に怒りを持っても、はかないこの身を恨むだけである」」
 一同を改めて見渡した。
「現世に息があるからこそ苦しむのであれば、死んで後に霊となって恨みを晴らそうかとも腹を切るべきとも思っていた。しかし今、里見冠者義実殿が結城の籠城戦を脱出されて、白浜に降臨された。安西らを頼りになさったが、彼らは嫌がって話を聞き入れなかった。安西らは罠を仕掛けて、里見殿を殺そうと謀ったが、まだそこまで至ってはいない。私は図らずも白箸の川辺にて偶々お会いし、密かにお試しさせていただいたが、里見殿は年はまだ若いが、お言葉もお振舞いにも仁も義もある、実に文武に長けた良将であらせられる。結城城に籠った武士はほとんど戦死され、或いは生け捕られ、無事な武将は数少なく、主従は不思議に虎口を脱出されここに漂泊なさったことは、私だけの幸運ではない。逆賊山下定包に年来酷く虐げられ、人目を忍んで嘆いているあなた達に取っても幸いなのだ。里見殿に従おう。定包を討伐しようとしない者はこれ即ち逆賊なのだ。国を挙げて悪事の報いとして起こる災禍を受けるだろう。国のために逆賊を討ち、義に拠る者は良民だ。長く苦しみを免れて、子孫も必ず善行の報いとして生じる吉事を受けるだろう。今このことをあなた達に告げようとしたが、秘密は漏れやすく、一人一人に言うことはできない。やむを得ず火を付けて、この竹藪に集まってもらったのだ。是非考えて欲しい」
 と丁寧に演説をすると、集まった人々は喜んで手を叩いた。
「えらくやつれなさったなあ。面影を存じ上げる者も金碗殿とは思いがけず、悪口を叩いてしまった。無礼をお許し下さい。元から知識も才能もなく、虫けらに等しい我々だが、誰も領主の旧恩を忘れないし、皆定包を恨めしく思っている。憎いと思っても力及ばず、逆賊の勢力も強力なので、天道は不正に味方せずと言うが、日月の光は我々を照らさないのかと嘆くばかりでした。しかし里見の殿のこと、誰とはなしに噂しておりました。身の上をお聞きすれば源家の嫡流、世にまた希な良将と聞くに及んで、お慕いしておりました。皆、各々の足のつま先を立て、お会いするのを渇望していたのです。夏の日よりも厳しく、偽者の領主である定包に苦しめられる民草を憐れんで、ここに戦を起こしたまえ。誠に里の幸せでございますぞ。誰が命を惜しみましょうか。金碗殿、今の話をお伝え下さい」
 と言葉を等しく答えると、金碗孝吉は後ろを振り返って、
「お聞き下さいましたか、早くもことはなりましたぞ」
 呼び掛けると、里見義実は杉倉氏元、堀内貞行とともに藪の陰からゆっくりと進み出て、集まった者たちに向かって言葉を発した。
「私が里見義実だ。乱れたこの世では特に、弓矢取る家の者習いとして、修羅場、戦場に奔走してきた。弓矢で傷ついたことのある鳥は、楽器の弦を弾く音にさえ脅えて高く飛ぶと言うが、私はそうなっても悪い者のいるところでは休んだりはしない。武士は民の父母であるべきだが、その徳がないとしても、人々がもし私を見捨てないというのであれば、その議論に加わろう。例えば千里の駿馬も足がなければ走れないし、万里に羽を振るわす大鵬も翼がないと飛ぶことができない。私は孤独な落武者だが今皆の助力を得たので、成し遂げることができるだろう。しかし滝田の城は強敵である。馬や武器はまだ整っておらず、兵糧の貯えもなく、軽々しくは進軍できない。どうしたら良いだろうか」
 問われて皆は顔を見合わせ、そうだそうだと言うものの、しばらく誰も何も言わない。
 やがて村長と思われる老人が三人が出てきて、
「お言葉でございますので愚案を申上げます。長狭一郡は山下定包の老臣、萎毛酷六(しえたげこくろく)が預かっており、東條に在城しております。ここから遠くはありません。まず手合わせに酷六を討てば、武具や兵糧はもちろん一郡がたちまち手中にできます。その後滝田を攻めれば、自由に進んだり退いたりすることができます」
 委細を告げると、里見義実は大きく感嘆して、左右の従者を見て言った。
「皆、あれを聞いたか。里にもこの様な知恵者がいるとは、このご老人らを言うのだな。奇略を持って敵を謀るには、神速に増すものはない。今宵すぐさま押し掛けて、備えがないところを討とう。この様にせよ」
 と計略を示したので、金碗孝吉は心得て杉倉氏元、堀内貞行とともに集まった村人を数えた。百五十余人ほどである。これを三隊に分けて、作戦を伝えると、皆喜んで指示を受けた。武器のない者は、竹藪から大きな竹を切り取って、竹やりとした。
 堀内貞行は四十余人を率いて、金碗孝吉を仮に縛って先陣を進んだ。これは里見義実の計略によるものだ。
 後陣は杉倉氏元が将として五十人、中軍は六十人、里見義実自ら将として二隊は細い道から回って進み、東條城の正門近くでまとまろうと急がせた。
 その間に東條には山下定包の目代である萎毛酷六郎元頼(しえたげこくろくろうもとより)は、小湊の火事を鎮火せよと戌の刻(午後八時前後)には配下を送った。しかし火はもはや消えつつあり、人里からも遠い野火であると聞いて、配下たちは寝床へ戻ることにした。明け方近くのことである。
 そこへ大勢の人が正門の城戸を叩き、城門の門番は驚きながら誰かと尋ねた。小湊の敢川の村長らが盗賊を捕まえて引き立ててきたとのことであった。事情を聞くと、
「戌の刻に誕生寺の竹藪の野火を消そうしましたら、曲者を捕まえたのでございます。身のこなしや面魂が凡庸の者ではありません。身分を聞いてもただ罵るだけで何も申しませんでしたが、顔を見知った者がいて、奴は元の領主に仕えていた金碗八郎孝吉という者だと分かりました。主人の仇を取ろうと姿をやつし、名を変えて、数か月もの間滝田を徘徊していたのです。ことここに露見しました。これは重い罪人だと思いましたので、もし逃げて過ちでも犯したら後難が恐ろしいとも思いましたので、夜明けを待たずに皆でで連れて参りました。この旨を上役にお申し伝え下さい」
 と声高に訴えるのである。
 それを聞いて門番は窓を開いて、良く姿を眺めて、
「良くやった、少し待て。上役に申してから入れてやろう」
 そう返答した。門番は一旦窓を閉めて、上役に報告してから、がらがらとかんぬきを動かして潜り門を押し開いた。
「皆入れ」
 と門番が呼び入れるので、縛られた振りをして先頭にいた金碗孝吉は、縄を振りほどき、左側に立っていた門番の刀の柄に手を掛けて引き抜いた。
 奪った刀で相手を斬る。刃が一閃、頭は飛んでいって地に落ちた。
 思いがけないことに、狼藉と騒ぐだけの慌てふためく兵士を追い立てて進む堀内貞行は、金碗孝吉らと力を合わせて、なぎ倒して切り開いていく。無人の郷に入るように早くも二の城戸を攻め立てた。
 その間に百姓たちは大門を押し開き、鬨の声をどっと挙げて、杉倉氏元隊と一つになって堀端近くまで進んでいった。
 里見義実は鬨の声を聞き、
「機会は今だ、逃がすな。進め、進め」
 と命令する。集った民衆は勇ましくなるを得ない。やがて鬨の声を合わせて、勢いのある潮流の様にまっしぐらに進み、苦も無く城戸を打ち破った。
「こそ泥の萎毛、出てこい。里見冠者義実殿、この地に降臨されているところを、皆が主君と推して仰ぐことにした。逆賊山下定包を討ち、国の穢れを払う仁義の軍に誰が立ち向かうのだ。向かうところ行くところ老若男女が大歓迎して迎え入れるのだ、ただいまことの手合わせにまずこの城を献上する。非を悔やむ者は降参して無駄死にをするな。惑うのであれば玉石とともに砕いてしまうぞ、出てこい出てこい」
 と呼び掛けながらも縦横無尽に追い立てた。城兵はますます参って、防戦しようという者ももうおらず、兜を脱ぎ弓矢を捨てて、拝伏して命乞いをするのだった。
 かくて里見義実は最小の流血で東條の城を乗っ取ることができた。
 賊将萎毛酷六の行方を捜すと、彼は落ち延びて誰も行方が知らない、と言う。里見義実ははそれを聞いて眉を寄せ、
「奴も己をは恥じて、後悔し、考えを改めて、今日から我らに従うのであれば、旧悪を咎めまい。無知のままいち早く逃げていったことは惜しくもないが、直ちに滝田へ注進に向かい、山下定包に告げ、安西、麻呂に通じて、すぐに押寄せてくるかもしれん。私は今新たに城を得て、ニ三百の士卒がいるが、半分は降参した者だ。力関係は微妙なものだ。計略が上手くいかずに三方から敵を受けたら、何を持って防いだら良いだろうか。誠に由々しき事態だ。酷六はすでに逃げたと言っても、いまだ遠くに行っていないだろう。氏元、貞行は二手に分かれて、早く捕まえよ」
 と命令して承ったと返事をする折から、どこかへ行っていたと思われる金碗八郎孝吉が軍兵十人余りを率いて、突然戻ってきた。
 大将義実に口上を言った。
「今日の働きは誰にも優劣はございませんが、私はこの城をよく知っておりました。ですので皆に先立って、三の城戸を打ちこわし、賊将萎毛酷六を生捕ろうと探しましたが、行く手が分かりませんでした。考えたのですが城の西北には一筋の抜け道があり、前面は檜の山、右は木立が深く、左は高い崖になっていまして、その下は長い谷川なのです」

【垣の内に孝吉、酷六を撃つ】

金碗孝吉が家族を失って意気消沈する萎毛酷六を槍で仕留めるところ。

 

 金碗孝吉は話を続けた。
「城中一の要害で誰も知らない場所ですので、垣の内と名づけられています。奴はここから逃げたに違いないと想像して、機転の利いた軍兵を集めて、険しい崖を伝い、蔓を伝って、近道から進みました。向うを見れば、女子供を粗末な手輿に乗せた主従が八九人、東南を目指していました。良く見れば酷六です。奴も初めは神余の老党で、私より遥かに優れた人で、主君の覚えは大きかったのです。その大禄で豊かな身の上で一族を養いながら、忠義のためには死なずに、逆賊に媚びへつらい、東條に在城して、あくまで民を虐げていました。天罰は免れません。落城の今日に及んで、逃げようとしても逃がしません。金碗八郎が参ったぞと返せ戻れと呼び掛けて追い掛けたのですが、手輿を運んだ駕籠かきどもは脅えてしまい、転んでしまったのです。女房や子供は叫びながら、千尋の谷底に落ちていきました。全身を砕いておそらく死んでしまったことでしょう」
 里見義実の眼を見つめた。
「萎毛は目の当たりにした妻子の死を救うことができず、杖を衝いて岸辺に立ち尽くしていましたが、私を見て逃げられないと思ったのでしょう、萎毛主従は七人、魚鱗の形で追い掛けてきた我らを待ち、我らは鶴翼で連なってやりました。私たちは旋風の様に襲い掛かり、喚いて突き崩しました。ここは有名な難所です。空は明けても雲が深く、崖や山陰の下は真っ暗な闇でした。一騎打ちとなりましたが、私たちは互いに知った仲間でございますので、鎧の袖を潜って先陣を争う味方の英気を恐れて、敵の雑兵どもは散り散りに逃げようしたので、追いつめて全員を捕まえました。そして遂に賊将萎毛を討取りました」
 武勇伝の最後に生捕りにした萎毛の配下を引き据えさせ、萎毛酷六の首を大将に見せるのだった。
 里見義実はため息を吐いた。
「兵は凶器にもなる。徳が衰えれば武を講じて、恩恵が足らないのであれば威力を持ってこれを制す。これはやむを得ないことだ。城を攻め、所領を争うのも民を救うためであるから、私は楽しんで人を殺すのではない。山下定包に従う者、すべてが悪人ではないだろう。或いは一時の被害を恐れて、或いは時と勢いに志を売る者、十人もいれば八九人もあるだろう、非を悔いて味方になるとすれば、やがて命は助かるのみか、登用することもあるだろうに。そもそもどうして萎毛の従卒は生け捕られ、萎毛は首を取られ、更には妻子が石の堤と水に身体を砕いて死んだのか。時と勢いに志を移されて、悪に従った結果、天が許さないほど凶悪なものになったのだ。悪に従ったとしても、自ら悪となってはいけないのだ。皆、身を慎むように」
 とその場にいる者に説いた。金碗孝吉が率いてきた捕虜を解放し、
「新たに従う者は軍功の多少によって必ず恩賞を与えるだろう」
 丁寧に言えば、皆感涙を浮かべて、
「捨てるべき命であれば、始めから萎毛に従いませんでした」
 と後悔して、今更に身を置く場所を知った。

 さて里見義実は金碗孝吉に宣言をした。
「萎毛酷六が滝田へ逃げ帰ったのであれば、山下定包は急いでここへ押し寄せて来るだろう、と思うと安心できない。金碗孝吉の今日の働きは私の心配通りだった。城兵が逃げ散って、明日から三日間ほどで必ず東條城が落城したことが知れるだろう。そうなると麻呂と安西は妬んで山下定包を助けるに違いない。先んずれば人を制し、遅れれば制されると言う。この夕暮れに急いで出発して、夜通し走って平群に入れば、敵の肝を冷やすだろう。初めての合戦は味方に利があれば、麻呂と安西は怖気づいて、絶対出て来ないだろう。それはともかくまず恩賞を沙汰しよう」
 第一番に金碗八郎孝吉と定め、荘園を多く与えようとしたが、彼は思うことがあると固辞して受けようとはしなかった。
 第二番には小湊において、東條城を取ることを献策した老人たち三人を召出して、名前を尋ねた。三平、四治郎、仁総と言い、それを聞いた里見義実は微笑んだ。
「これはめでたい名前であるな。三平は山下、麻呂、安西の三雄を平らげるという前兆か。四治は四郡を治めよということ。二総は上総下総が後に必ず我が手に入るという意味かもしれん。その名前を一つに合わせて、おのおの三四が十二か所の村に二層倍(12×3)すれば三十六所の長になるべきだ」
 と御教書を与えたので、皆万歳と叫び、喜び勇んで退出して行った。
 第三番は杉倉氏元と堀内貞行、この様な者たちをすべて記録するのが大変である。ある者は禄を、ある者は引き出物を与えられ、皆拝礼していく。
「賞を重く、罰を軽く、亡くなった者を活かし、生きている者は栄る。海へ戻る轍の中の魚、雪の中の常盤木の常緑樹、君主の寿命はさざれ石が巌となるまで尽きるまい」
 と流行歌を歌い、合奏して、祝うのだった。

 やがて里見義実は法令を緩くして、民衆を安堵させた。更に軍令を正しくし、士卒を激励すると、募っていないにも関わらず、傘下に加わりたいという者が数百人に及んだ。これらの過半数を東條に置いて、杉倉氏元に監督させて城の守りとさせた。
 里見義実は、わずかに二百余騎を連れて、金碗孝吉を先頭、堀内貞行を後陣として、平群に出発しようとすると、杉倉氏元が作戦を諫めた。
「これでは軍勢が少ないです。この城には二三百の士卒があれば足ります」
 と何度も囁くと、里見義実は首を振って、
「いいや、この城は我らが巣と呼ぶべきものだ。もしここが落ちたら、行き場所がない。合戦は必ずしも兵の数の多少ではなく、私に利があれば二百騎が千騎にも二千騎にもなるだろう。私の身の上には懸念せず、お前は良く城を守るのだ。まだ申し伝えることがある。麻呂、安西らには和睦せよ、必ず彼らと争ってはならん。滝田の敵兵が攻め込んできたら、力を尽くして防戦するのだ。必ず外に出て追ってはならん。これが安全の良策だ。決して怠らないようにな」
 丁寧に説得し、先陣を急がせて出陣して行った。
 予想通り里見の一軍がその夜、前原浦と浜荻の堺橋を渡ったころに、里見の徳を慕って帰順しようという野武士や郷士が百騎二百騎と連れだって加わり、更に追いついた兵もあり、軍勢は千騎になった。後々までこの橋を千騎橋と呼ぼうと言い出した。
 考えてみればこの場所は、昔源頼朝卿が安房に渡ってから上総に赴いた時、この川のほとりで後陣を待たせたため、待崎と命名
したところだ。近くに白旗の神社があった。
 里見義実は、馬からすぐに降りて矢を二本奉納し、しばらくの間祈念した。すると真夜中であるが、白い鳩が二羽、境内の松の梢から羽ばたきして、平群の方へ飛び去って行った。
 これを見た兵たちは、合戦の勝利は疑いなしと勇む者ばかりになった。

(続く……かも)


超意訳:南総里見八犬伝【第三回 安西景連、麻呂信時、暗に里見義実を断る/杉倉氏元、堀内貞行、災厄と知るも舘山行きに従う】

2024年01月29日 | 南総里見八犬伝

 こうして安西三郎大夫景連は、近習の報告から、結城の落人里見義実がたった主従三人、船で安房を訪れてきたことを知った。
 訪問の理由をおおよそ推察しながらも、後で厄介ごとに巻き込まれるのはかなわないとばかりに、近習への回答を渋っていた。麻呂信時を見て、
「ううむ、こんなことになってしまった。麻呂殿はどう思われるか」
 聞いたそばから、
「里見は名のある源氏の血筋の者だが、ここには縁も所縁もない。無二の足利持氏方であるから、結城氏朝に加担し三年も籠城し、京の将軍や鎌倉の関東管領を敵にしては、命が幾つあっても足らず、普通は無謀なことと思うはずなのに」
 麻呂の口調は辛らつだった。
「落城するに及んで、親も見捨てて、おめおめと逃げ出した挙句、安房へ流れてきたに違いない。取るに足らない愚か者になぜお会いするというのか。さっさと追払いなさるが良いでしょう」
 非難しながら説得してみるが、安西はしばらく考えてから言うのだった。
「私もそう思ったが、使い様がありそうだ。彼らは三年籠城して、戦に慣れている。義実は年が若いと言っても、数万の敵軍を相手に切り抜けて、ここまでたどり着いたのだ。招き入れて会ってみよう。その手腕と勇気を試してみて、使える者であれば山下定包を討つ一手の将にしてやろうよ。使えない者であるなら追出すまでもなく、すぐに刺し殺して後の災いを払うまでだ。これでどうだろうか」
 この囁きに麻呂は何度もうなづき、
「良いお考えだ。私も会おう、ご用意を」
 と急がせた。
 安西景連は急いで老党を呼びつけ、いろいろと指示を申しつけた。腕に覚えのある武士たちを集めて言い含めて、指図をする。
 麻呂信時もまた供についてきた家臣を呼び、安西の謀略を聞かせて、二人は連れだって客間に行った。
 戦支度をした軍装の安西の家臣二十人、麻呂の従者十数人がいかめしく両側に並ぶ。大きな弓、槍や薙刀が幾つも飾り立てられた。
 廊下には幕を垂れており、その陰には鎧を身に着けた武士が十人あまり、いつでも里見主従を生け捕る様に手ぐすねを引いて待っていた。

 里見冠者義実は半刻(約一時間)も城の主を待たせられ、ようやく別室に招き入れられた。
 衝立の襖の陰から、薄い藍色の麻の裃を着けた安西の家臣が四人現れ、
「どうぞこちらへおいで下さいませ、我らがご案内いたします」
 と義実の前後を囲みだした。だが半弓に矢をつがえるのを見て、少し遅れて従っていた杉倉氏元と堀内貞行がとっさに主君を守ろうとする。
 しかし黒い小袖にたすき掛けの安西の家臣が六人出てきて、短い槍の先を揃えて二人に向かう。先の藍の裃を着た四人は、義実を残して去って行った。
 当の里見義実と言えば、騒ぎ慌てる様子もなく、
「物々しいもてなしであることだ。この三年以来、結城城において、敵の矢面に立ってきた。槍の先を何度も潜り抜けてきたが、安房は海より他に何もない。この土地は波風立たず、身分の高い者も低い者も平和を楽しんでいる、と聞いてたが違うらしい」
 独り言を言った。
 後から着いてきた二人の郎党も立ち止まり、
「平和の中にも戦乱を忘れず、小敵と見ても侮らずとは兵書には記してありますが、三人に過ぎない主従に対して、鏑矢の吸い物に弓弦の素麺とは、変わったご馳走ですね。こちらの主の手料理を頂きましょう、さあ早くご案内を」
 と皮肉を言って案内を急がせた。

 主従が席に臨むと、安西と麻呂の配下の武士は、弓を伏せ、槍を引き下げて、左右の幕の中へ入っていった。
 里見義実は、安西景連と麻呂信時を見ても少しも顔色を変えずに、客の席に着き、扇を持ちながら、
「結城の敗将、里見又太郎義実でございます。亡父治部少輔季基の遺言に寄りまして、何とか敵軍を突破して、漂泊しながらこちらに参りました。海女の粗末な家でもはかない今の身を寄せて、都はもちろん鎌倉の管領にも従わず、この安らかな国の民となれればこの上ない幸いでございます」
 一度里見義実は言葉を切った。
「でもそれも昨日までのこと、聞くことと異なる世間の噂、義によって我が微力を尽くせることもあろうかと思いまして、恐れながらもご面談をお願いしましたところ、敗軍の将とてお断りにならずにお会いいただき、胸中は極まりました。供は杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行でございます。お目通りいたします」
 礼儀正しく名乗り、従者二人も頭を下げた。
 しかし、安西景連は思っていたよりも若く見える義実を侮って、礼を返さない。
 麻呂信時は城の主を待たずに目を見張り、大声を出して、
「私は麻呂小五郎である。今朝、別件で平舘から来たのでこの席上に参加している」
 麻呂は里見義実を罵倒した。
「お主は生意気な若武者であるな。我が安房の国は小国であるが、東南の果てで三面ともすべて海。室町の将軍の命令も受けず、関東管領にも従わないが、隣国の敵にも敢えてこちらから国境を攻めることはない。私は言うまでもなく安西殿に所縁もないお主が、京、鎌倉の敵となって身の置き場もないのに、若造の癖にさえずって利害を説くなど愚かなこと。慈愛深い御仏のごとくお主らを受け入れたとしても、罪人を匿い祟りを招くことなど誰がいたそうか。面会するなどまったく意味がない」
 と顎をさすりながらも笑い、嘲り罵った。
 しかし里見義実もにっこりと笑って返した。
「そう言われるは有名な麻呂様でおられるか。麻呂、安西、東條は当国の旧家として、勇猛で知略に長けておられると思っておりましたが、違う様でございますな。悔しいことでございますが、私の父の里見季基は生涯ただ義の一字を守って、長くは守れないと思われる結城城に立て篭もり、京と鎌倉の大軍を三年もの間防ぎ、死に臨んでも後悔しませんでした。父には及びませんが、私は敵を恐れて逃げず、命を惜しんで逃げたりもしません。亡父の遺言によりやむを得ず、ただ運命を天に任せて時を待とうと思うだけなのです」
 改めて義実は二人を見た。
「鎌倉公方の足利持氏卿、勢い盛んな時節には安房、上総はもちろん関八州の武士は、全員心から忠誠を誓い出仕しない者はおりませんでした。永享の乱で持氏卿がご逝去されては、幼君のためにすべてを投げ出して、結城氏朝に協力し、結城に籠城した者は少のうございましたぞ。強い方につこうという人の心、頼りにならないものでございますから、麻呂殿、安西殿、持氏卿の恩義に応えず、関東管領を恐れ、私を受け入れないというのであれば、袂を分かって出て行きましょう」
 義実は更に皮肉交じりに言った。
「現在、二人の関東管領、扇谷定正殿と山内顕定殿の勢力は強うございますからな。関東の国々の武士は追従しております。恐れるのも当然でございますが、たった三人の主従にに過ぎない義実をひどく怖がって、武器を持った家臣らに案内させ、ここは安全であると口にはされるものの、用心に用心を重ねて席上に弓矢を掛け、太刀の鞘を外し、それどころか幕の内に多くの武士を隠されているのは一体どういうご了見なのか!」
 問い詰められた麻呂信時は怒りで顔を赤くし、安西景連に合図を送る。当の安西は思わず大きな息を吐き、
「里見殿の言われることは至極全うなことだ。弓矢も刀も武士に必要な物、身を守るために座る時も寝る時も手放したりはせんが、あなたを脅すためではない。だが案内をさせた者が武器を持っていたこと、幕に武士が隠れていたことは、景連はまったく知らん」
 安西景連は家臣たちを叱った。
「そもそもお前たちは何のためにこんなことをしたのだ。とっとと出て行け」
 と退く様に命令し、飾り立てていた槍や薙刀を屏風で隠させた。
 すべて主の命令した通りの用立てではあったが、全部無駄となり、安西と麻呂の家臣は、汗を拭いながら本来の持ち場に戻って行った。

 それでも麻呂信時は懲りずに膝を進めて、里見義実に向かって、
「今そなたが申されたことは尤もらしく聞こえるが、納得がいかん。敵を恐れず、命を惜しまず、運を天に任せて、時を待とうと言うのならば、坂東には源氏が多い。他に身を寄せるべきところもあるだろうに、元から親交もない、一国の主でもない安西氏を頼んで、船でやってきたというのは理解できん」
 麻呂信時は声を強めた。
「飢えた者は皿を選ばないし、追われる者は道を選ばない。敵を恐れ、命を惜しんで逃げ迷った挙句、恥を掻いてここまで来たのだろう。甲斐性のない身の上を飾らずに、その通りであると明確に告げてこそ、憐みもひとしおだろうに。この席にせっかくおるのだから、仲介してやろう。逃げ出したと言いなさい、はっきりと本当のことを言いなさい」
 麻呂信時が再三繰り返すのを聞いていられなくなった堀内貞行は、杉倉氏元の袂を引いて、主人のところに進んで、
「当て推量で人を計ってみれば、当たらないこともあるのです。麻呂殿の推量は、雑兵、端武者のものでございます。源氏にはこの様な大将はおりませぬ。そもそも主人の義実は命を惜しみ、敵に追われて、道に迷って、思わず当国に来たのでございません」
 あくまで涼やかに言うのだった。
「昔、源頼朝卿は石橋山の戦で敗れて、安房へ行かれた時、あなた様の先祖、麻呂信俊殿、安西様の先祖阿安西景盛殿、東條殿とご一緒に一番で付き従われ、無二の忠誠をお示しになったではありませんか。頼朝卿は三人を先導とし、上総へ入った際も上総広常、千葉常胤が迎えになり、たちまち大軍になって、更に鎌倉を本拠とされ、遂に平家を滅ぼされたのでございます。里見も同じ源氏の嫡流、八幡太郎源義家殿のご子孫です。この様に先例がございますのに、あまりに無下に貶めなさるのが残念でなりませんので、この際申上げました。言い過ぎはお許し下さい」
 と言い返す。
 智も勇もともに兼ね備えた二人の里見の老臣に説き伏せられて、麻呂信時は怒りに任せて何も言えなかった。

【景連、信時、義実を威す】

下段中央が里見義実、左上に堀内貞行、右隣に杉倉氏元、右上に安西、麻呂が仲良く座ってます。

にしても義実に安西家臣の弓矢が近すぎ、手が滑ったら ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

 

 だが義実は麻呂の顔色を見て、
「貞行、氏元、無礼であるぞ。それになぜ私を頼朝卿と比べるのだ。馬鹿げているぞ」
 と大きな声で二人を叱り、下がるように命じた。
 詫びようともしない来客の態度に、麻呂信時は怒った眼差しだったが、手をこまねいているばかりで何も言わない。
 そこで安西景連は、肩を揺るがして嘲った。 
「里見の従者よ、良く聞け。源頼朝の父、義朝は十五か国の将軍だった。もし朝敵とさえならなければ、平清盛もなす術がなかったろうな。従って、頼朝は伊豆へ流人になったが、一度挙兵するに及んで、旧恩を慕う坂東武士は自ら鎌倉に従ったのだ。里見家は頼朝と違うではないか。その始めは太郎義成、頼朝卿に仕えたころから、領地はわずかなものにしか過ぎず、手勢も百騎に足らない。鎌倉以降は南朝に従い、あちらこちら世の中を逃げ惑い、鎌倉公方へ降参してようやく本領を安堵してもらったが、それも少しの間で、今は落人ではないか。主人すら口をつぐんでいるのに、お前たちは何の議論をしていると言うのか。考えを改めて、この安西に仕えるというのならそれ相応のことをしてやらんでもないが、身の程を知らないのだな」
 あくまで里見主従を侮辱するが、氏元も貞行も主人の心を汲んで反論をしなかった。
 当の義実は微笑を浮かべ、
「安西殿の言われる通りだ。しかし人の口には戸は立てられません。私がこの地に来て以来聞きますのは、どこでも同じ噂です。民の誹謗や文句が静まることはございませんが、家臣は主君の耳を塞いで、お伝えもせずお諫めしないということは、甚だしく不忠ではございませんか。先ほど当家への仕官の話をされましたが、氏元、貞行に思いがけなくも、高禄をもって召し抱えようとなさっても、不忠の人と肩を並べるお耳の不自由な主君に仕えることは願わないでしょう」
 こう言われて安西景連は顔色を変えた。
「それは何を誹謗しているのか。噂とはどんなものか」
 と問うが、義実は扇を膝に立てたまま、
「まだお分かりにならんのか。これは安西殿だけではなく、麻呂殿もまた同じなのだ。神余、安西、麻呂の三家は旧交深く、相互いに助け合って、当国を無事に治めてこられた。しかし神余の寵臣、山下定包が悪巧みによって主人を喪わせ、二郡を横領し、安房の国主と僭称するのを、神余のためにこれを討伐もせず、おめおめと奴の下風に立って、ともに穢れるというのであれば、民からも非難されるでしょう」
 静かな口調ではあったが、かすかに憤りが感じられた。
「私はこのことを申上げて、受け入れられることがあれば精いっぱいお働きしましょうと思っていましたが、どうやら無駄でございましたな。出陣のご用意もなく、お話合いもないようであれば、思いを告げることもございません。我が主従をひたすらに非難されるだけで、神余がために定包を討つ勇も義もない武士は頼もしくございませんな、今はこれまで、お邪魔いたします」
 と言うが早いか席を立とうとするが、安西景連は何とか義実を呼び止めた。
「こちらの心中をお見せしていないので、そう思われるのも無理はない。今もう少し座られよ」
 しかし相方の麻呂信時は少しも納得しない。
「分からないのか義実、今日私がここに来たのは本当は軍議のためなのだ。謀は人目を忍ぶが良いという。初めての対面となるお主に軽々しく言うものか。我々が勇気があるのか、それともないのか、知りたければまずこの刃に聞け」
 麻呂信時が息巻いて反り返った刀の柄に手を掛けると、身構えていた杉本氏元と堀内貞行は、改めて主人の周りを固めて用心の眼を配った。
 麻呂の家臣たちも拳を握って振り上げ、近づこうとしていた。
 その時、城の主である安西景連が慌てふためき、麻呂信時を抱き止め、耳に口を近づけて何ごとかを囁き、言い含めた。
 やがて麻呂と安西は配下たちを見て、首を振った。
 配下たちはそれを見て、麻呂を連れてその場を去って行った。里見義実は扇を小さく扇ぐだけで、何も言わずにいた。
 席上はますますしらけ切っていく。
 安西景連は自分の席に戻り、
「義実、どのように思われるか。一言の言葉に死を賭けるのは武家の習いであるが、麻呂殿はおふざけになっただけだ。お気にされるな」
 安西の言葉は少々調子が良い。
「しかし時と勢いを知る者は耐え忍ぶをことを知っていて負けないものだ。こうしていろいろ試させてもらったが、そなたは真に武人だ。例え結城の守将であっても、今この安房を流浪って我が一軍に加わり、山下定包を討とうとするのであれば、我が軍令に背くことはできまい。士卒とともに忠を励んで、戦場で大功があれば、恩賞の沙汰もあるであろう。家柄を誇り、自分の才を頼んで、我が安西の軍勢につくのを嫌、とするならば軍令に背くものだ。そういう風に思うのであれば軍勢には加えまい。お主自身の力を持って、かの賊を打ち滅ぼし滝田の城を取ってみよ。もし平群と長狭の二郡をの主になっても少しも恨みはない。行くも留まるもこの一義で決めなされ。心を定めて回答してみせよ」
 最後の方は言い方も改まっていた。
 里見義実は困難なことと知りつつ、
「行き先も帰る港もない船となってから、その時その時に寄せてもらった場所を岸として、この身を預けてきたのです。ここに恩を頂き、用いていただけるものならば、何を嫌っていられましょうか。包み隠さずにおっしゃって下さい」
 言われた安西景連はうなづき、
「それではことの始めだ。万が一にも背いてはならん。我が家の祝いごととして、出陣の門出に軍神を祀るのだが、供え物としてそれはそれは大きな鯉を用意することになっているのだ。私のために針を垂らして、鯉を釣ってくれれば、良き敵と戦って首を得たようなものだ。分かってくれるな」
 と説得すると、里見義実は断る様子もなく、
「承りました」
 返答するのだった。
 立とうとした義実の後ろに控えていた杉倉氏元と堀内貞行は、左右からその袂を引き、二人は同時に前に出た。
「安西殿へ申し上げまする。祝いごととおっしゃいますが、竿を差して船に乗り、針を降ろして魚を捕る、その手管は漁師より得意な者はございませんし、武士のすることではございません、主人義実には似つかわしいものでございます」
 もう一人が後を引き取った。
「君が辱められる時は、臣も死す、とこそ古人も申しております。ただ私たち二人の首を持って、軍神への供え物となさって下さい」
 最後まで言わせず、安西景連は杉倉氏元らをきっと睨み、
「無礼な奴らめ。義実が掟に従ってすでに承諾したことを、耳の聞こえぬ者が何を言っている。下僕として軍令を犯した罪、軽くはない。外に引き出して斬って捨てよ」
 激しい怒りをものともせず、杉倉氏元と堀内貞行は、更に前に出て反論しようとしたが、義実は家臣らを叱り後ろに下がらせた。
 同時に安西景連に対し家臣の非礼を詫びると、城の主もようやく機嫌を直した。
「であれば鯉を見るまでは二人をお主に預けよう。お主、自ら釣りをされよ。それも三日間に限る。約束を守らず日々を過ごせば、二人の愚か者どもだけではなくお主もどうなるか、心得るが良い」
 と念を押して言うことに、里見義実は恭しく承諾した。
「そろそろ宿に戻ろう」
 何か言い足りなさそうな老臣たちを急き立てて、里見主従は出て行った。
 隣の部屋で立ち聞きをしていた麻呂小五郎信時が夏向きの障子を開けて入って来た。冷笑を浮かべて主従の出て行った方向をしばらく見てから、城の主の元に近づいた。
「安西殿は手ぬるい。どうして里見の従者たちを助けてそのまま行かせてしまうのだ。私はひたすらに義実を討ち果たそうとしたけれど、安西殿が盾となるから、網に掛かった魚を逃がしてしまったわ」
 とやかましく言えば、安西景連は微笑んで、
「私も初めはそう思ってはいたが、義実は名家の子で、若造だが、思慮といい才能といい、普通の者ではない。それに従者たちも一騎当千というべき者たちだ。下手に手を下せば、こちらも多くの者を失うことになる。窮鼠猫を噛むと言うではないか。まして奴らは勇将に猛卒、黙って刀を受ける訳もない。窮鳥懐に入れば猟師これを殺さずの諺通り、今、山下定包を討たずに、恨みもない人々を殺してしまえば民の誹謗は日に増して、大事をなすことができなくなる。しかし義実をここに置いては猛獣を養うようなもので、安心して眠ることもできん。山下を討つか討たないのか、私が日和見している様に見せて、あの主従の態度に我慢をして、祭祀の生贄として使ってやろうと思っていると思っている。これは落し穴を作っているのだ」
 安西景連は得意気な顔になった。
「風土によるものなのか、安房の国には鯉はいない。奴らはきっとそれを知らないから、水辺の淵に立ち、瀬を漁り、日数だけをいたずらに過ごすであろう。空しく帰ってきたところを軍法によって斬ってやる。罰するにも罪が必要、私怨とは呼ばせず、だからな。どうして奴を助けてやるだろうか」
 と自慢げに説明すると、麻呂信時は上機嫌になって笑い出して手を打った。
「名案ではないか。なまじ打ち損じて、山下の滝田城にでも入られて、向こう側についてしまえば、虎に翼を与えるようなものだ。かと言ってこちらで使えば、庇を貸して母屋を取られる、の例えになれば後悔するだろう。こちら側に留めて、後で始末する、こんな謀の他に名案はないな。よしよし」
 ひたすらに称賛するのだった。

 里見義実は白浜の旅宿に向かって足の運びを急がせてはいたが、距離があったために到着するまでには日は暮れた。
 そもそも安房の白浜は、朝夷郡の中であり、「和名鈔」という書物にその名前が乗っており、古い郷なのである。滝口村に隣接しているという。今は七浦と言い、この浜辺の総称である。里見氏の旧跡、縁のある寺社などもここにある。所謂、安房の七浦は、川下、岩目、小戸、塩浦、原、乙浜、白間津である。

 無駄話はさておき、義実は、明け方に白浜に帰りついた。休みもせずに釣りの準備をしていると、氏元や貞行は怒った。
「我が君、そろそろお気づきになりませんか。麻呂信時は思慮分別がなく、安西景連は他人を妬み、そしり、僻んでいます。私を見る眼が仇を見る様な眼差しでした。あんな頼りない人のために、鯉を探して何になるのでしょう。早く上総に向かって害毒どもから逃れましょう」
 二人は諫めたが、義実は首を振って、
「いいや、お前たちの意見は間違っている。麻呂殿も安西殿も利には聡く義には疎い。言動一致せず、山下定包を恐れているだけだ。滝田の城を討つつもりはなく、と分からない訳ではないけれど、ここを避けて上総へ向かっても、そこがまた同様であれば下総は敵地、その時はどこへ向かえば良いのだ」
 杉倉と堀内は義実の言葉を待った。
「君子は時を得て楽しみ、時を失ってもまた楽しむと言うぞ。太公望呂尚がそうではないか。七十になるまで世間では無名だったが、渭水で釣りをしている途中に周の文王に出会い、悪である殷の紂王を打ち滅ぼす大功をお持ちの人だ。斉の国に封じられて、子孫数十世にまで栄えた。太公望ですらそうだ。私は時も勢いも両方とも持っていない。だから釣りを嫌がったりはしない。また鯉はめでたい魚だ。安南(ベトナム)では鯉は、龍門の滝を登る時には龍に変身するというぞ。私は三浦で龍尾を見て、白浜へ来た時には鯉を釣れと人がいう。前兆後兆、頼もしいと思わぬか。もし釣れたら持って行って、安西景連の態度を見てみたい。夜が明けたら出発するとしよう」
 と急がせるので、杉倉氏元も堀内貞行も主人に従って、針と竿を準備して、弁当箱を腰に括った。主従三人は名も知らぬ淵を尋ねて出発する。
 烏も梢を離れて、夜は静かに明けていくのだった。

(続く……かも)

 

2023年2月11日、タイトル修正。


超意訳:南総里見八犬伝【第二回 一本の矢を放って、義侠の者、白馬を誤って射る/両郡を奪って賊臣、富を得る】

2024年01月15日 | 南総里見八犬伝

【第二回 一本の矢を放って、義侠の者、白馬を誤って射る/両郡を奪って賊臣、富を得る】

 安房という国は、元々、総国(ふさのくに)の南の果てにある。
 上代までは、上下の区別はつかずに一つであったが、後に分かれて上総、下総と名づけられるようになった。
 土地は広く、桑の木が多い。養蚕に適し、糸を束ねた総(ふさ)を貢物にしたので、国自体を総と言うようになった。
 総の南の果てに住む住民が少なかったので、南海道の阿波の国の民を移すことにした。やがてこの地域を安房と呼ぶようになった。
 日本書紀や景行天皇の記に記された淡水門(あわのみなと)として定められたのが、これである。
 安房はわずか四郡しかなく、平群郡、長狭郡、安房郡、朝夷郡から成り立っている。

 昔、仁安から治承(1166年から1181年の頃)の間、平家の世が盛んなころ、安房に三人の武士がいた。東鑑に名前が記されているが、御厨麻呂五郎信俊、安西三郎景盛、東條七郎秋則である。
 1179年治承三年秋八月、源頼朝公が石橋山の戦いで敗れて安房へ脱出した時、三人は早くに追従し、安西景盛は道案内を承り、麻呂信俊と東條秋則は食事を提供した。
 無二の忠誠を示すことによって、鎌倉幕府成立後、彼らには安房四郡が与えられた。以来、子孫十数代に渡って、北條の時代、また足利幕府に至っても、領地は代々受け継がれてきた。
 安西景盛の子孫、安西三郎大夫景連は安房郡の館山城、麻呂五郎信俊の子孫、麻呂小五郎兵衛信時は朝夷郡の平舘城、長狭郡の東條の氏族である神余長狭介光弘は東條七郎秋則の跡取りとして、平群郡の滝田城にいた。
 いずれも旧家と言いながら、神余は東條の所領を併せて長狭と平群の二つを支配しているので、安房半国の主として家臣の数はかなり多い。
 従って神余は、安西と麻呂を下に見て、自らを安房の国主と僭称していた。

【関連地図】

 やがて神余光弘は驕り高ぶり、女色を好み、酒に溺れる様になった。
 数多くいる側室の中でも、玉梓という淫婦を寵愛した。領内の裁判ごとすら、玉梓に問う様になってしまった。
 玉梓に賄賂を使った者はたとえ罪があっても賞され、玉梓に媚びなければ功があっても用いられることはなくなった。これにより家中はひどく乱れて、良臣は退けられて去り、心の邪まな悪人が徐々に増えてくる様になった。
 その中に、山下柵左衛門定包という者がいた。
 山下定包の父は、青浜という牧場に勤めていたが、出世できずに亡くなった。
 しかし山下定包は、顔は親に似ず、色白で美形、言葉遣いも柔らかく丁寧だったため、神余光弘はこれを召出して、近習にした。

 なるほど、女人が君主の龍愛を利用する祭りごとや裁判の不公平さは、悪人を助けるものであった。
 山下定包は陰で悪知恵を働かせて、陽に行儀の良い近習としてふるまい、立身出世だけを謀るしたたかな者であったので、最初から玉梓に媚びへつらい、望むものを値段にいとまをつけずに贈っていった。
 次第に出世していくに連れ、主君を甘言で喜ばせ、酒宴を何度も催して淫楽を薦めていく。挙句の果てに、とうとう玉梓とも密通してしまうが、この醜聞には、神余光弘はまったく気づかなかった。
 それどころか、山下定包を老臣の筆頭にしてしまい、家中の賞罰すべてを任せたので、権力はただ一人に集中してしまった。
 もう主君はいないも同然だった。

 志のある者は主人を諫めることなく身を退き、また山下定包に追従するものは太鼓持ちよろしく、徒党を組んでは諫言を防ぎ、利害を説いていく。しきたりを改め、税を重く土木工事の手伝いを増やして、民衆の嘆きを振り返ろうともしなかった。
 正に山下定包は、神余家の唐代における安禄山なのである。
 民衆は、山下定包が白馬に乗って出仕する度に憎しみと恨みの眼差しで見るものの、白い人食い馬と悪口で呼び、道で出会うようなら避けて通る様になっていた。

 ここに滝田の近村、蒼海巷(あおみこ)というところに、杣木朴兵(そまきのぼくへい)と呼ばれる農民がいた。戦国の習いで剣術、柔術の腕前は言うまでもなく、力強く、強情で、死を恐れなかった。
 権威に屈服せず良く人助けをする男だったので、神余の家中が乱れて民衆の被害がひどくなっている原因が、山下定包のせいであると見抜いて、とうとう我慢できなくなった。
 剣術仲間で良き好敵手の洲崎無垢三(すさきのむくぞう)という友達を密かに招いて、
「お前はどう思っている。白い人食い馬が権力を欲しいままにして、民を虐げている。田畑への災いは害虫よりもひどく、罪なき人々を虐殺する様はまるで疫病神ではないか。奴がこんなことを続けているのであれば、どうやって皆は妻子を養えるというのか」
 杣木朴兵の嘆きは続いた。
「厳しい御法度に従うのは皆が命を惜しむからだ。こんな風に毎年税をむしり取られて、飢え死にか凍死するしかないのであれば、法も祟りも恐れてはいられん」
 杣木朴兵は洲崎無垢三の眼を見つめ、決意を述べた。
「この際二人が身を捨てて、あの人食い馬を撃ち殺し、多くの人々を苦しみから解放してやれば、それは痛快事ではないか」
 と語られた洲崎無垢三はすかさずうなづいた。
「よく勇気を出されて打ち明けられた。私も同じようなことを考えていたが、奴の威勢は神余の殿よりも大きく、どこへ行くにも数十人の従者がいる。もし安易に手を出せば、自滅行為に等しい。微笑みに刃を隠す、最近の人の心は信用ならないものだから、今日まで私は黙っていた」
 洲崎無垢三は熱く語った。
「しかしお主が思いがけず、心中の秘を打ち明けてくれて、私と思いが一緒だということが分かった。百万の味方を得たようだ。しかし軽々しくことを謀れば、無駄に命を失うだけだ」
 洲崎無垢三は少し考えて、
「或いは、奴が物見遊山の折であれば従者の数も少ない、忍び歩きの日を待てば本意を遂げるだろう、と思うがどうだろうか」
 と囁いた。
 杣木朴兵もこれには喜び、ああでもない、こうでもないと無垢三と互いに意見を交わし、密談は数回に渡って行われた。

 後漢時代の楊震の四知の戒め通り(天が知る、地が知る、我知る、汝知る、隠し事は必ずばれてしまうという故事)、壁にも耳にもある世の中であり、早くも二人の計略に気づいた者がいて、山下定包に密告する。
 この訴えに山下定包は騒ぐこともなく、手下を急遽集めて、杣木朴平と洲崎無垢三を捕らえようと考えたが、他に思いついたことがあった。
 そしらぬことと気づかない振りをして、従者の数だけは増やして、夜の外出をやめてしまった。
 二人の企てに対処している間に、主人の神余長狭介光弘は長い間の淫楽に没頭していたことによって、病いに罹り、美酒も珍味も楽しめなくなっていた。猥雑な音楽も女たちの嬌声も楽しくなくなり、不死の薬を蓬莱に求めようと不老の術を怪しげな方士に問うようになった。
 これは秦の始皇帝や漢の武帝と同じ考えだった。

 玉梓の膝を枕にして閨から出なくった主君に対して、山下定包はある日申上げた。
「今頃は初夏でございますから、野山の新緑も大そう美しく、落羽畷(おちばなわて)の雉、青麦村のひばり、得意顔で集まっている様子でございます。ご寝所にずっと籠っておられますので、病が重くなってしまうのでしょう。猟犬を走らせ、鷹狩りをするのも、養生の一つでございます」
 山下定包は意図を持って言った。
「私もお供いたします、お決めになってはいかがでしょうか」
 とそそのかすそばから、玉梓も面白がって薦めた。
 神余光弘はいきなり身を起こして、
「最近の私は何をするのも面倒で、しばらく城外に出ていないのう。今のそなたらの諫言は苦くない良薬であるな。明日にでも早朝から狩猟に行こう。まずこの件の告知をして準備せよ」
 と言ったが、山下定包は扇を持ち直して言った。
「ご命令ではございますが、近ごろは公の務めが続き、民はその労役で疲れております。それに畑を耕し種をまく時期ですので、お忍びで出掛けられてはいかがでしょう。私めがお供いたしますので、良きように取り計らいます。百姓どもは耕作に支障なく、やがてお殿様の慈愛に満ちたお振舞いを知れば、皆、殿様を仁君と褒め称えます。これもまた民の心を掴む、言わば一つの術ではございませんか」
 言葉巧みに言えば、神余光弘は大いに感心した。
「お主の言う通りであるな。家老たる者は皆この様にあるべきだ。ではお主に任せよう」
 として勢子や従者の数を減らして、那古七郎(なこのしちろう)、天津兵内(あまつのひょうない)といった近習の八、九人のみに狩りの準備をさせた。
 翌朝、神余光弘は葦毛の馬に乗って、猟犬を引き鷹を籠に入れながら、忍んで出発した。

 山下柵左衛門定包は謀略通り、前日に城から退出した際に、落羽と青麦の村長を急遽呼び寄せていた。
「私は珍しく休みをいただけることになった。明日落羽と青麦に行って、鷹狩りをしようと思う。この旨を村人に伝えよ」
 と厳しく言ったので、村長たちは急いで帰り、百姓を駆り集めることにした。道の掃除を箒目の行き届く様にせよ、と騒いでいる間、杣木朴平と洲崎無垢三は、
「ようやくここに時期を得た。明日は必ず本意を遂げるべき時が来た」
 と密かに喜んで、二人は勢子に扮装するとともに弓矢を用意した。
 その夜は、丑三つ(午前二時ごろ)の頃合いから落羽畷の鬼門である東北の草深い丘に隠れて、古い松を盾に、早く定包よ来いと待つことにした。

 短い夜はあっけなく明けて、鶏の鳴き声が日の出を告げるころ、神余長狭介光弘は、鹿皮の毛皮と狩猟用の笠を深く被って、馬の前に勢子を立たせた。
 那古七郎や天津兵内の近臣たち八、九人は、先陣を切って滝田の城を出て行った。
 山下柵左衛門定包は計画に備えて、配下を数多く備えて、例の白馬に跨って主君から少し遅れて出発した。
 前からの企み通り、出発の朝に馬飼いに言い含めて飼料にある種の毒を与えてあったため、神余光弘の乗った馬は、十町(約1キロ)辺りで急に動かなくなってしまった。叩いてもまったく進まず、遂には前足を追って地面に倒れてしまった。
 乗っていた神余光弘が転ぶのを那古七郎と天津兵内が慌てて助け起こし、
「お乗換えの馬を早く引け!」
 と声高に叫ぶ。従者たちは慌てふためき、後ろの陣へ注進に行った。
 すぐに山下定包は鞭を何度も叩いて、馬を走らせて進んできた。御前に来るとひらりと降り立って、主人に言う。
「お忍びでの狩りでございますから、準備はできておりません。お乗換えをお待ちいただくと、余計に時間だけが掛かってしまいます」
 山下定包は続けた。
「私の馬がここにございます。長い間飼い慣らしましたので、乗りやすいはずでございます。是非ともお乗り下さいませ」
 白馬の轡を引き寄せれば、神余光弘の機嫌はすぐに直って、近習たちに用意させた床几を転がせて言うのだった。
「ではお主の言う通りにしよう。お主はここで待ち、私の乗換えの馬に乗って続くが良い。者ども急げ」
 と言いながら、馬の鞍に手を掛けて、神余光弘は白馬に乗った。
 馬の尻尾に被せた尾筒はそよぎ、夜明けが訪れようとしていた。風見が原の卯の花が日の出とともに白くなっていく。木立の中にはすでに色づいた葉も見られ、落羽畷に近づこうとしていた。

 この日の供にをしていた那古と天津の二人だけが、山下定包の威を借りずに主人に真心で仕えていたので、何か不穏の兆しに気づいたのか、先を行く勢子に、
「青麦村の方へ向かえ」
 急に道を変える指示をだしたので、神余光弘は怪しんだ。
「お前たちはどこへ行く気だ。今日の狩場は落羽の岡だ。寝過ごして寝ぼけたのか?」
 激しく問えば、那古七郎と天津兵内は両側から小さな声で言った。
「殿にはお気づきではございませんか。お乗りになった馬が、俄かに倒れ込んだのはとても吉兆とは思えません。落羽に落馬の読み方も似ておりますから、仏の教えにもございます通り、名詮自性、名は体を示すので、不吉でございます。これに限らず、室町の将軍の権威も衰えて戦乱が絶えない世の中ですが、安房は東南の果てですから今は幸いにも無事ですけれども、野心のある者がいないとは必ずしも言えません。なのにお忍びでお出かけになるとは。このことでも危険ですのに、恐れ憚ることもせずに、不吉なことも憚ることもせず、遠慮なさらずに襲ってくる憂いに対してどうしようというのです。急に道を変えたのはこのためでございます」
 二人が顔色を変えて諫めても、神余光弘は冷笑し、
「女々しいことを言う奴らだ。生き物は必ず死ぬ。馬が倒れたから何だというのだ。また今日の狩場を落馬と喚いて、忌避する理由はならないだろう。落羽は落ちる鳥だ、獲物がたくさんいるという兆しではないか。落羽へ向かえ」
 鐙を鳴らして馬の向きを変えてしまうことによって、那古七郎と天津兵内には阻止するすべもない。
 夏草が繁った田畑の畦道の先を走れば、落葉畷の辺りの落葉が岡に差し掛かった。そこには宵の時分から隠れていた杣木朴平と洲崎無垢三が、木立の隙間からやってきた一行を見ていた。
「白馬に乗っているのが、間違えようもなく山下柵左衛門定包だ」
 と弓を矢をつがえて、きりきりと引き絞る。最大限になって狙いを定めて放てば、一の矢は違わず神余光弘の胸に突き刺さった。
 声も上げずのけ反って落馬する主君に驚いて、思わず近寄る天津兵内。彼にも二の矢が喉笛に突き刺さり、同じように倒れてしまった。
「皆、曲者だ」
 と叫んで、従者たちは慌てて騒ぐことしかできないでいた。敵の数が分からず、捕まえに行こうともしない。
 那古七郎は怒った眼差しで、
「情けない者どもめ。今、目の前で主人を討たれてしまい、何を躊躇することがあるというのだ。葦や木立が深くても、数町(数キロ)にもならないこの岡の全部の木や草を刈り尽くしたとしても、探し出せねばならん」
 罵って抜刀し、主人と離れてしまった馬の泥除けを切取り、防具として頭に被った。
 走り出した那古七郎に励まされ、皆は仇の相手ををまだ確認できていないながらも、討取れと叫びながら進みだした。
 杣木朴平と洲崎無垢三の二人はこれを見て、
「奴らを近づけてはならない」
 と木立の間から矢を放ち続けた。
 勢子の十余人が瞬く間に矢に貫いたが、手持ちの矢が尽きたため、二人は弓を投げ捨てて太刀を抜いて真向に振りかざす。
 そして何度も切り込んでいくと、恐れをなして、勢子たちは逃げ出してしまった。残った近習の七、八人は力を合せて戦うが、慣れない土地の山道に苦戦し、木の株につまづくは、藤かづらに足を取られて転ぶは、結果として二人の侠客に討たれ、傷を負っていくばかりだった。

 しかしその中で、那古七郎は、暗殺犯を疲れさせて、道の平らなところにおびき寄せようと考え、少し戦っては逃げ出した。
 洲崎無垢三は先に、杣木朴平は後から逃がすまいと追い掛けてくる。

【落葉岡に朴平と無垢三、光弘の近習と戦う】

右で刀を振るうのが那古七郎、供養塔左から杣木朴平が斬り掛かっています。

左上の洲崎無垢三、左下の天津兵内、供養塔付近の兵たちはこと切れている感じ。

右下の山下定包は……何してるか不明( ;∀;)

 

 坂を下った途中で、那古七郎はいきなり振り返って、激しく切り掛かった。石礫を投げて、洲崎無垢三の額を打つ。眼が眩んでよろめいたところを逃がさず、右から近づき、肩先から胸まで切った。
 那古七郎が倒れた瀬崎無垢三の背中の上に乗り、首を切り落としたそこへ、血まみれの刀を引っ提げて飛鳥のごとく杣木朴平が走り込んできた。
 刃は那古七郎の右ひじを切断し、怯んだところを突き倒すと、二、三度杣木朴平は突き刺した。刃に流れる血を口に含み、息を吐いた瞬間、正面の木陰から矢の放たれる音。
 誰が放ったのか分からない矢が杣木朴平の腿を射った。
 倒れまいと膝を突き、矢を掴んで抜いたが、つんざく鬨の声が木霊の様に響いた。杣木朴平を捕まえるべく、兵が数十人、早くも取り巻いていたのだ。

 その時、山下定包は弓矢を携えて、岡の檜に馬で走り寄り、
「国の主人、民の父母と等しい殿のお命を奪った逆賊たちめ、山下定包を見知らぬか。今すぐ射殺することは卵を砕くより容易いが、急所を外したのは捕まえようと思えばのことだ。奴を捕まえて縛るのだ」
 命令した途端、威勢に靡いた配下どもは大勢で捕まえようとひしめきあった。

 杣木朴平は山下定包の名乗りを聞いて仰天した。
「さては、私が矢で射ったのは人食い馬ではなかったのか。計画は相手間違いで殿様を殺してしまったことは、反逆罪で逃れることはできない。怨みの積もる山下定包だけを討つべきだ」
 と小高いところに引いて、草や木に隠れては現れて、またあちらこちらに移動する。やがて防戦一方となり、矢傷で進退窮まっていく。
 斬っても突いても敵の数は減らなかった。それどころか捕り手の数は増えるばかりで、どうしても山下定包に近づくことができない。
 もはやこれまで、と腹を切ろうするところを左右から六人ほどで組み伏せた。ようやく縄を掛けたところで、山下定包は時を移さず、配下を手分けして曲者の同類を探させたが、初めからこの二人以外の他に隠れている者などはいなかった。

 やがて城中から老臣や若党が数十人、貴人用の輿を運びながら、主の迎えにやってきた。
 山下定包は今起きたばかりの主人殺害の次第を告げて、まず神余光弘の亡骸を輿に乗せさせて、高手に縛りあげた杣木朴平を引き立てると同時に洲崎無垢三の首も持たせた。
 山下定包は主の死骸を運ぶ輿の後について、滝田の城に帰り着いた。帰還を待っていた人々は皆驚くしかなかった。
 家老らですら、ただ山下定包の権威に恐れて、一言も主の死について責めず、すぐに賊を捕えたことのみ、ひたすら称賛するしかないのだった。
 これにより定包はますます傲慢になり、役人だろうが近習だろうが、奴隷の様に召し使う。次の日、神余光弘の棺を代々の菩提寺に送った。
 罪人杣木朴平は負傷も癒えぬまま、竹の鞭で責め叩かれた挙句に、その日牢獄で死んでしまった。
 山下定包は首を刎ねる様に命じ、洲崎無垢三の首とともに青竹に串刺しにして、栴檀(せんだん)の木に晒した。これのみならず、日頃から己を非難する者を皆朴平の同類、として、一人も残さずに捕まえて殺してしまった。

 杣木朴平、洲崎無垢三は、海辺に住む良民ではあったが、武芸に優れており、神余の家臣ですら不可能であった賊臣山下定包を討とうとした。その志は勇ましかったが、悪党の悪知恵に勝つことができず、却って憎い仇敵を助けてしまい、多くの人を巻添えにしてしまった。
 無残というしかないのだった。

 かくて山下定包は十二分に謀った上で、ある日老臣、近臣たちを城中に呼んだ。全員が参上した。
 その日の山下定包の格好は、長袴に掛緒の長い烏帽子を身に着けていた。太刀を携えて上座に座り、礼服の下に防具を身に着けた護衛十二人を選び、左右に侍らせながら、集まった者たちに対して言った。
「先君は不慮の死を遂げられたが、家を継ぐべきお子が一人もいらっしゃらない。他家から世継ぎを迎えようと思ったが、館山の安西家、また平舘の麻呂家も女子しかおらず男子がいない。これには困った、一体どうしたらよいものか」
 と問いつつ一同を見渡したが、顔を上げる者はなく、皆もろともにこう言った。
「山下様は徳が高く、先君光弘公への功は、鎌倉の執権であった北條氏に比べても高くございます。お世継ぎはおりませんので探すよりも、ご自身で長狭、平群の両郡を支配なされませ。我ら、我が君として崇め忠勤を励みましょう、と思いますのに、どうしたらよいかなどと申されますな」
 あくまで媚びていた。
 山下定包はこれにはにっこりと笑い、
「私には徳はないが、もしも今ご一同の衆議に従わないのは、皆の希望に沿えずこの城を長く保てないであろう。私はまず仮に二郡を預かって、徳のある人に譲ろうと思う。野心のなきように」
 誓書に血判を押し、更に酒宴を開いて配下の者どもに褒美を与えた。皆、万歳と祝うのだった。

 この後、山下定包は滝田の城の名を改めて玉下と名づけ、玉梓を本妻として世話をさせた。その他、神余光弘の愛妾たちに代わる代わる夜伽をさせ、酒池肉林を極めた。
 威勢を近隣に示そうとして、館山城や平舘城へ使者を使わして、
「不肖、定包は思いがけなく、多くの民に推されて、長狭と平群の主となった。ついては、安西氏、麻呂氏の両君と親しくつきあいたいと思っている。こちらから伺うべきか、そちらから参られるか、ご賢察いただきたい」
 と大変に無礼に言わせたので、安西も麻呂も呆れ果てて、憎たらしいとは思ったが、すぐには結論が出さないとした。
 こちらから返答する、と使者を返した。

 館山の城主である安西三郎大夫景連は、力強く勇ましく謀りごとを好んだが、優柔不断なところがあった。
 平舘の城主の麻呂小五郎信時は、利に聡く、しかも人をすぐ侮り、強欲で卑しい武将なので、山下定包を討とうと安西と示し合わせることにした。
 ある日、麻呂は近臣のみを連れて、密かに館山城に赴いた。安西景連に対面すると、山下定包のことを密談して、
「安西殿と私が力を併せて、安房と朝夷の兵士を連れて滝田の城を攻めれば、勝利は間違いない。たやすく定包の首を簡単に挙げ、長狭、平群の両郡を分け合えば、良いことであろう」
 とあからさまにそそのかした。
 しかし安西景連は首を横に振って、
「畿内も坂東も非常に戦乱に苦しんでいるが、ここ最近の安房は無事であった。兵士も軍馬も戦に慣れておらん。例の山下は領土も広く兵も多い。手も濡らさずに主の所領を我が物としたことを思えば、あの才知は測りがたい。民衆も奴を押し立てて、主人として仕えて忠誠を誓っている。その徳と義を知るべきだ。孟子が言った通り、今、山下定包は時を得て、地を得て、人の和を得ているぞ。味方と敵の技量を計らずに、互角の合戦をするには不安だ。しばらくの間は彼に従った振りをして、こちらへおびき寄せ、伏兵で襲ってしまえば捕まえることもできるだろう」
 安西は中国の故事を持ち出した。
「漢楚の戦いの鴻門の会において、軍師范増がいろいろ苦心して劉邦を亡き者にしようとしたが、結局失敗したように、思わぬ意外なことが起きてから後悔しても仕方あるまい。しばらく時を待ちなさい。一度滝田に異変を起こしてやり、民心が離れて背く様になれば、攻めなくても必ず自滅することとなるだろう。急ぐことはない」
 と押さえる様に言うと、麻呂は回りくどいやり方だと反論する。
 二人が論じている間に、安西の近臣が急いで廊下からやってきて、突然に障子を開き、しばらく主人の気配を伺っていた。
 主人は近臣をきっと睨んで、何かと尋ねると、近臣は前に進みこう言った。
「里見又太郎義実と名乗られた武士、十八、九とお見掛けいたしますが、従者をたった二人連れて参られました。事情をお聞きしますと」
 近臣は、里見義実の話す、下総の結城合戦の落人であり、父の里見季基殿は討死にしたこと、杉倉、堀内という二人の郎党ともに相模路へ落ち延びてきたが、三浦から渡海してきたこと、安房の国白浜に到着したことを告げた。
 またそれ以上のことについては、人づてはなく、直接安西に会って話をしたい、とも言っているという。
 近臣は、いかがいたしましょうと早口で報告を締めくくった。
 安西はすぐには返答できず、どうしたものかと首を傾け、眉をひそめながら、深く考えた。

(続く……かも)


超意訳:南総里見八犬伝【第一回 里見季基、遺訓を残して義に死す/白龍、雲の間を飛んで南に向かう】

2024年01月03日 | 南総里見八犬伝

【第一回 里見季基、遺訓を残して義に死す/白龍、雲の間を飛んで南に向かう】

 京の室町将軍と鎌倉の公方の勢力が衰え、独善的となったことにより、世の中が戦国となったころ、東海の果てには困難を避けて、国を興し領地を開発し、子孫を十世に続くまで房総の国主となった里見治部大夫義実朝臣がいた。
 里見義実の出自について調べてみると、義実は清和天皇の末裔、源氏の嫡流である鎮守府将軍八幡太郎源義家朝臣から十一世の里見治部少輔源季基の嫡男、である。

 時に第四代鎌倉公方の足利持氏卿は、関東における独立を目論み、関東管領上杉憲実が諫めても聞き入れず、第六代室町将軍足利義教公に反乱を起こした。
 都からの官軍が俄かに押寄せた。官軍は上杉憲実に力を貸して勝利し、足利持氏父子を鎌倉の報国寺に押込めて、詰め腹を切らすこととなった。

 後花園天皇の1439年永享十一年、二月十日のことである。

 足利持氏の嫡男義成は父とともに自害して鎌倉に果てたが、二男春王、三男安王という若君たちは辛くも敵軍の囲みを逃れて、下総へ落ち延びる途中、結城氏朝が二人を主君として迎えいれた。
 結城氏朝は京都の幕命に従わず、関東管領方の上杉清方、上杉持朝の大軍をものともしない。里見季基を始めとして、死を恐れない足利持氏恩顧の武士たちは、自ら集って、結城城を守り、大軍に囲まれてながらも一度も不覚を取らなかった。
 1439年永享十一年の春から1441年嘉吉元年の四月まで籠城は三年に及んだが、他に援軍も来ず、とうとう食糧も矢種も尽き果てようとしていた。
「もはや逃げることもできない。ただ敵諸共に死ぬうぞ」
 と、結城一族、里見主従は、城門を開いて血戦を挑み大勢の敵を倒したものの、城方は皆討死にし、遂に落城した。
 二人の若君は生け捕られ、美濃の垂井にて処刑された。

 これが俗にいう結城合戦である。

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 この時、里見季基の嫡男、里見治部大夫義実は又太郎御曹司と呼ばれていて、年齢はまだ二十歳にはなっていなかったが、武勇知略は父や先祖にもまして劣らず、文学や歴史にも詳しかった。
 この三年、父とともに籠城の苦しみにも耐えて、この日も先頭に立って、敵の軍勢を十四、五騎を斬って落とし、更に良い敵を求めて進んでいく。
 父の季基は遥か遠くからその姿を見て、急に息子を呼び返した。
「義実、勇士は死ぬことを恐れず、今日を最期と思うことは道理ではあるが、父子ともに討死にしてしまうことは、ご先祖への最大の不考となる。京や鎌倉の敵となっても決して味方を裏切ることはなく、とうとう力尽き、今日落城するだろう。この父は節義のために死ぬ。が、子は親のために逃れて、一命を長らえても何を恥じることがあろう。お前は速やかにここを脱出して、時節を待って家を再興せよ、何とかして落ち延びよ」
 父は脱出する様に子を諭すが、里見義実はまったく聞き入れずに、鞍に頭を垂れながら言った。
「到底承服できません、おめおめ私だけ逃げることなど、幼い子供でもいたしません。弓矢の家に生まれて、私はすでに十九才、文武の道も多少知り、侍の道理を大方分かっています。今はただ冥土黄泉へのお供つかまりたく。死すべきところで死なずして、敵の笑いを招いて、先祖の名を辱めることなどできません」
 返答は勇ましかった。
 里見義実の顔をつくづく見ていた父は何度もため息を吐き、
「義実、よくぞ申した。だが僧となり出家すると言うのであれば、親の教えに背くが、時節を待って家を再興せよというのを拒むのは不孝であるぞ」
 季基は続けた。
「お前も知っている通り、足利持氏公は代々の主君ではない。そもそも我が祖先は一族である新田義貞朝臣に従って、元弘の変や建武の新政に戦功があった。新田党は南朝の忠臣であったが、1392年明徳三年の冬の始めに明徳の和約に基づき、南北朝合一によって、後亀山帝が京に還幸なされた。身を寄せていた南朝自体がなくなってしまったため、心ならずも鎌倉の関東公方である足利家の招きに応じたのだ。亡父(里見大炊介元義)は足利満兼公(足利持氏の父)に仕え、私は持氏公に仕えて、今幼君の春王様、安王様のために死ぬ。志はもう尽くしている」
 里見家の歴史を説明し、父は語った。
「この理屈をわきまえずに、ただ死ぬというのは武士とは言えまい。学問を修めていたとしても無駄というものだ。ここまで申しても父の言いつけを聞かないと言うのであれば、もう私を親と思うな、お前は子でもない」
 激しく叱れば、里見義実は父の申す道理に責められて、思わず落とした涙は馬のたてがみへ、地面へ。
 親と子が直面した生死の別れの時に、大きな鬨の声が聞こえた。
 こちらへ向ってくる敵軍を季基はきっとにらみつけ、
「これ以上遅くなってはかなわん」
 と予てから指示を言い聞かせていた譜代の郎党の杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行の二人に合図を送った。
 二人は同時に身を起こし、
「我らはお供仕ります、いざこちらへ」
 と言い、杉倉氏元は里見義実の馬の轡を取り、堀内貞行は馬の尻を叩いて走らせ、西の方角を目指して急いで落ち延びていく。
 昔、楠木正成が桜井の宿から我が子正行を帰らせた心と同じであろうと想像した里見の兵たちは、悲しい思いに耽った。
 里見季基は落ちていく我が子をしばらく見送ってから、
「思い残すことはない、では最期を急ぐとしよう」
 と言って、手綱を操り馬の向きを変えて、十騎にも足らない残兵を鶴翼の陣に整えて、群がってくる大軍へ名乗りもせずに突っ込んでいく。
 勇将の下に弱卒なく、主人も家来も二騎三騎と敵を倒していく。願うところは、「義実を無事に落ち延びさせる」以外になければ、目に余る大軍を少しも進ませず、味方の死骸を踏み越えて、敵と組み合っては刺し違え、同じ枕に伏せていく。
 大将季基は元より、八騎の従卒は一人残らず皆、乱軍の中に撃たれて、血潮は野原の草葉を染めていく。死骸はあちこちに倒れて、馬蹄の塵に埋もれていくが、名は朽ちることなく、都にまで響く勇敢なる武士の激しい最期であった。

 しばらくしてから里見冠者義実は杉倉氏元、堀内貞行に導かれて、十町(約1キロ)あまり落ち延びた。
「しかし父君はどうしておられるだろうか、心配だ」
 何度も馬の歩みを止めつつ、里見義実の見返す方角には鬨の声、矢の音がやかましい。
 もはや結城は落城したと思われるほどに、猛火の光が天を焦がしている。
 里見義実は呻き声をあげ、手綱を引き絞って、城へ引き返そうとするが、二人の郎党が左右から轡にすがって進ませないとする。
「何ということなされます。今更、何をお考えか。大殿の教訓を何とお聞きになったのでしょう。今から落ちた城に戻って、大切な御身を失うことなど、古の歌のにも詠める、飛んで火に入る夏虫、よりも空しい行為ですぞ。大孝は孝なき如し、と古人の金言を日頃から口にされておられるではないですか。おおよそご身分が高くても低くても、忠孝の道は一つしかないのですから、迷ってはなりません、今は落ちることのみお考え下さい。どうかこちらへお進み下さい」
 と馬を引くが、心も揺れる孝子は嘆き悲しみ、焦燥した声を激しくさせて、
「離せ貞行、止めるな氏元。お前たちの諫言は親の心と同じだが、今これを我慢することが、人の子と言えようか、離せ、離せ」
 鞭を上げて打っても、二人の忠臣の決意は固く、手を少しも緩めず、鞭で打たれても構わずにいた。
 馬壇、鞍懸、柳坂と進むにつれて、煙は遠ざかっていく。ひのき林の辺りで勝ち誇った鎌倉勢が二十騎あまりが追い掛けてこようと現れた。
「ご立派な武者振りだが、逃げ足が速いものよ。緋縅の立派な鎧を着て、五枚兜の鍬形の間に輝く白銀の輝き、中黒の紋を打った貴様を大将と見るのは見間違いか。卑怯者よ、取って返せ」

【中黒紋】

 と挑発し、呼び掛けてきた。
 里見義実は少しも躊躇しない。
「うるさい雑兵ども、お前たち敵を恐れて走っているのではない。取って返すのは難しいことがあるものか」
 と叫ぶや馬をきりりと立て直し、太刀を抜いて進んでいく。
 大将を撃たせまいと、杉倉氏元と堀内貞行は推し並んで、敵の正面に立ち塞がり、槍を捻って突き崩す。
 里見義実もまた郎党を失わせないと馬を操り、前後を争う主従が三騎、大勢の中心へ十文字に駆け巡り、次には渦巻状に取っては返す。
 鶴翼に連なり更には魚鱗に打ち巡っていく。西に当たっては東に靡き、北を撃っては南に走らせて、敵の馬の足を進ませない。
 中国の三略の秘法、八陣の法、三人ともに知っている軍略で、ただいま目前にいるかと思えば、忽然として後ろに下がり、大奮戦。秘術を尽くし、千変万化に太刀を振るうことによって、風が起こり、さしもの大勢も乱れ騒ぎ、退いていく他なかった。
 敵が退いていくので、杉倉氏元らは主人を諫めて落ちていく。更に追ってくる端武者を遠矢で射って落とし、林原を三里(約12キロ)ほど進み、遂には落ちていった夕日の後は、十六日の丸い月が照らすのだった。
 ここからは追ってくる敵もなく、主従は奇跡的に危機から逃れて、その夜は粗末な家に宿を求めることができた。
 朝の出発時には、馬と道具を主に渡し、姿をやつして笠を深く被った。東西すべて敵地ではあるが、目指す方向の相模路へ走りつつ、三日目にしてようやく三浦の矢取の入江に到着した。

 食べ物もなく路銀も乏しい落人となり果てた主従は、酷く飢え疲れて、松の根に座り込み、かなり遅れてしまった堀内蔵人貞行を待つことにした。
 差し迫った危険の中でも、見渡す先は入り江に続く青海原、波静かにして白いカモメが浮いている。
 頃は卯月(四月)の夏霞で鋭く削ったような鋸山が見えていた。
 長い浜辺への旅は心が折れそうで、雨降る漁村の柳、夕方に遠く鳴る寺の鐘、いずれもわびしさを感じさせる。こうしてばかりもいておられず、港を渡ろうと急ぐものの、一艘の船も見当たらなかった。
 その時杉倉木曽介氏元は、粗末な家で干した魚を取り入れている漁師や海女の子供を手招きして、
「のう、子供たちに聞くが、向う側へ渡る船はないかね?後、慣れない港を彷徨って空腹なのだ、私はともかくこちらの方へ食べるものがあれば分けてくれないかね」
 と優しく言うと、子供たちの中から十四、五才に見えるいかにも悪童が、赤熊のような髪を潮風になびかせて、髪が顔に掛かるのもそのままで、
「馬鹿なことをいう人だなあ。打ち続く合戦で、船は全部借り上げられてしまって、漁だってできやしない。向こう側に人を渡すことなんか、誰ができるんだよ。塩よりもしょっぱい世の中は、俺の腹一つ満たさないっていうのに、全然知らない人の飢えを満たす食べ物なんかあるもんか」
 と毒づき、更に
「腹が減って我慢できないなら、これでも食らいやがれ」
 嘲って土くれを掴んで投げてきた。
 杉倉氏元は素早く避けたので、土くれは松の根に座り込んでいた里見義実の胸先へ飛んできた。里見義実は左の方向へ身をそらし、右手でそれを受け止めるのだった。
 悪童の憎々しい行いに、杉倉氏元は我慢できず、眼を見張って大きな声を上げた。
「馬鹿者、漂泊の身の上であるから、一碗の飯を乞うたのだ。飯がないのであれば、ないとただ言葉にすれば良いものを、無礼なる所業は許せん。その首を切り裂いて思い知らせてくれよう」
 と息巻き、刀の柄に手を掛けて走り出そうとすると、里見義実は急に呼び止めた。
「木曽介、大人げない振舞いをするな。麒麟も老いては鈍い馬に劣ると言う。昨日は昨日、今日は今日、寄る辺のない身を忘れたのか。彼らは敵ではないぞ」
 里見義実は続ける。
「つらつら考えるに、土は国の基本だ。私は今安房に渡ろうとしているが、天が安房を私に与えようという兆しではないか。悪童が無礼を働いたことを憎むまい。これを吉兆として喜ぶべきだろう。中国の晋の文公重耳の五鹿での故事に似ている。祝うべきだ祝うべきことなのだ」
 自ら祝って、土くれを三度手に取って頭にかざし、懐に収めるた。
 杉倉氏元もそれに従って刀の柄に掛けた手を離し、怒りを収めた。行く末が頼もしき主君を誇らしげに仰いだ。
 漁師や海女の子たちは手を叩いて、いよいよ嘲るのだった。

 その時、磯山に雲がむくむくと湧き立って、にわかに空が暗くなった。潮水がしきりに上方に遡って巻き上げられていき、風が強く吹いている。雨はしきりに降り、電光が絶え間なく光り、雷鳴さえ凄まじくなり今にも落ちてきそうになった。子供たちは騒ぎ出し、それぞれの家の中へ入ってしまった。
 中から家を閉じてしまったので、叩いても開けそうもない。
 義実主従は雨宿りする手立てがないので、松の下で笠をさして立ちすくむしかないのだった。
 風雨がますます激しくなり、、空の明暗が激しくなり、波は寄せては砕け、砕けてはまた帰っていく。と、駆け巡る雲の中に何かがいた。

 眩しい光の中、忽然として白龍が顕れ、光を放ち、波を巻き立てて、南を目指して飛び去って行った。

【義実、三浦で白龍を見る】

一番右が里見義実、左は杉倉氏元、船上は堀内貞行、真中上部が白龍

 しばらくすると、雨は晴れ雲は穏やかになる。日は沈みながらも、まだ影はなお海辺に残って波を彩っていた。松の枝の雨の雫は、吹き払う風に散らされる玉となり、砂と石の中に散っていく。
 山は遠く、緑は深く、岩は青く、まだ乾かずに濡れたままだ。
 素晴らしい絶景であったがさすらいの身の上であれば、楽しめない。
 杉倉氏元は義実の衣服の濡れた雫を払いながら、到着が遅れている堀内貞行に思いを馳せ、到着を今か今かと待っている。
 と、里見義実は海を指さして、
「雨が激しく降って、荒れた波の間に立ち込めた村雲が駆け回り、あの岩の辺りから、白龍が昇っていったのを木曽介は見たか」
 問われてかしこまりながら、
「龍かどうかは分かりませんでしたが、怪しいものの足かと思われます、輝く鱗のようなものを少し見ました」
 と言えば里見義実はうなづき、
「そうだ、そのことだ。私は尾と足だけを見た。全身を見れなかったことが残念だ。そもそも龍は神の化身だ」
 里見義実は龍の講釈を始めた。
「昔の人が言うには、龍は立夏の節(今の5月5日ごろ)を待って区切りとして雨を降らす。今はちょうどその頃だ。また龍には種類が多い。白龍が吐いたものは地面に落ちると黄金になるそうだ」
 龍の話は際限なく続いた。
「大いなる龍の徳は、占いの道においては君主を示す。神聖なものなのだ。龍の種類は数多く、人で言えば知恵がある者と知恵がない者。天子とそうでない者もそうだ。龍は威徳で百獣を威圧でできるし、また威徳で百官を率ることができる。故に天子には袞龍(こんりゅう)という中国風の礼服がある。天子のお顔を竜顔と称え、お身体を龍体と唱え、お怒りになることを逆鱗と言う。皆これは龍に象徴されるのだ。龍の徳は数え切れぬものなのだ」
 里見義実の話は佳境に入った様である。
「今、白龍は南に去って行った。白は源氏の色だ。南は即ち房総、房総は皇国の果て。私は白龍の尾を見て、頭を見ていない。ただ房総の地を領有したいと思っている。そなたは龍の足を見た、これは私の股肱の臣であるということだ。そうは思わぬか」
 と細かく和漢の書を引き、故実を述べ、自分のことさえ考えてくれている里見義実の英知に、杉倉木曽介氏元は深く感銘した。
「武門の家に生まれて、血気にはやるだけのつまらない勇気を誇る者は多くございます。兵書兵法に通じる者は、今の時代には少ないというのに、うら若きお年で、人も見ない書をいつの間に読み尽くされたのでしょうか」
 杉倉氏元は心の底から言うのだった。
「元から博識なのは天のなせる業か、誠にご主君は良将でございます。今こそ申上げますが、結城にて死ななかった私、氏元は、最初は無念と存じていました。が、今は命があることで、めでたく今日の様なことに遭う、喜びは正に申上げ様もございません。主君の行く末頼もしきことに」
 さらに杉倉氏元は言う。
「ともかく日は暮れ果ててしまいましたが、この入り江で夜を明かしましょう。安房へお供仕る、とは思いましたが、船はございません。天気は良くても宵闇に月を待つ道中は誠に不便で、苛立ちます。船がなければどうしようもございません」
 杉倉氏元は嘆いた。
「遅れてくる堀内貞行が今になっても参らないことは、非常に訝しいことです。富貴には他人も集まり、貧しい時には妻子も去っていくと申します。人の誠に常、はございませんので、実は、彼は逃げたのかもしれないと疑わしく思ってしまいます」
 と言いながら眉をしかめれば、里見義実はにっこりと笑って、
「そんな風に疑うな木曽介。郎党若党が多くいた中で、彼とお前は、特別に父上がお選びになったのではないか。私もまた貞行の人となりは良く知っている。苦難に臨んで主人と朋友を捨て、逃げ隠れる者ではない。今しばらくここで待とう。もうすぐ月も出るころだろうに」
 と広い心を示す様に言った。
 海から出てくる十八日の月も美しかった。押し寄せる波や黄金を集めて宝玉が散りばめられたような海は、竜宮城であるかの様だ。
 主従は額に手を翳し、思わず木陰から離れて、波打ち際に近寄った。
 そこへ一隻の早舟が岬の方から漕いで近づいてきた。
「こちらへ向かっているのか」
 と見ているうちに、早船は矢のように早く接近し、船の中から大きい声が聞こえた。

「契りあれば 卯の葉葺ける 浜屋にも 龍の宮姫 通ひてしかな」
 契りがあるので、空木の葉で葺いた浜屋であっても、龍の宮簀媛(みやずひめ)が通って来るのだなあ

 と口ずさまれた仲正歌集の中の古歌一首を船頭と水夫は何も知らないのか、船はただ浜辺に漕ぎ着けた。歌を口ずさんだ人が船をつなぐ綱を砂の中へ投げ掛ける。
 その身をひらりと陸へ立ち上ったのは、堀内蔵人貞行だった。
「これはどうしたことか」
 と里見義実と杉倉氏元の主従が聞きたそうにする。二人は元の樹の下に座り込むと、堀内貞行は松の枝を敷いて膝を地面に着けて、
「先に相模路に入った時に、安房への渡海が難しいと耳にしていましたので、近道をしてあちらこちらの漁師に渡ってくれる様に頼んだのですが、船をなかなか出してくれません」
 さもありなんと義実はうなづいた。
「どうにか岬に赴き、何とか漁師の船を借りることができましたが、主君が空腹ではないかと思いまして、飯を炊かせておりましたら、雷雨が激しくなってしまいました。思いがけず日が暮れてしまい、この様に遅参してしまったのです。最初にこのことを申上げなくては、ご不審にお思いなられると思いまして」
 と言うのを、里見義実は聞き終わらないうちに、
「思った通り、それ言わんことではないか。私は言うまでもなく木曽介もこの辺りに船があるかどうかなど、一切考えていなかった。もし蔵人貞行がいなければ、今宵どうやって安房へ渡れようか。機転が廻る者よ」
 とただひたすらに感心して褒めれば、杉倉氏元は額を撫でて、
「人の才能の長短はこんなに違うものか。蔵人、こんな時には疑念が起こってしまうものだ。我が心の浅瀬に迷ってしまい、私は深い思慮のあるそなたを軽蔑してしまい、実は今まで悪口を申していたのだ」
 と笑いながら告白すれば、堀内貞行も腹を抱えて笑い出した。
「本当に隔てのない侍の交わりは、この様でなくてはならない」
 と里見義実も共に笑いあった。
 こうして義実は蔵人貞行に対して、
「私は海の向こうに渡れずにここでお前を待っている間に、悪童たちから土くれの賜物があり、また白龍の祥瑞があった。船上にて語ろうよ」
 と言う声を聞いて、船頭は手を挙げて、主従を招き、
「月も良く出ました。風も良いです、さあ、早く船にお乗り下さい」
 と促すままに主従三人が乗れば、小さな丸木舟は揺れるのだった。船頭はともづなを手繰り寄せて、竿を操って、今はうたかたの安房に向かって漕ぎ出していった。

(続く……かも)

 

2023年1月17日、再意訳。


超意訳:南総里見八犬伝 【八犬伝前書き】と【注釈】

2024年01月03日 | 南総里見八犬伝

【八犬伝前書き】

 里見氏が安房の国に旗上げした当初は、徳と義で領民に臨み、知恵を振り絞って敵を倒した。
 子孫十代までに、上総と下総にまで領土を広げて、関東八ヶ国を従わせて、名将の名を得た。
 その幕下に優れた家臣が八人いた。それぞれ「犬」の字がついた姓を持っており、彼らを八犬士と呼ぶ。
 古代中国の賢帝、舜の部下である八元には及ばないが、その忠義を重んじる心は楠木正成の部下である楠公八臣と比べて論じても良いだろう。
 残念ながら、八犬士の記録を残した者はいない。ただ世間に伝わる軍記ものと1717年享保二年に書かれた槙島昭武の著作「和漢音釈書言字考節用集」によって、わずかに八犬士の姓名を知ることができる。
 今となっては、八犬士の物語の結末を知ることができないのが残念だ。何とかして知ることができないかと、昔の事柄を記した様々な文書を何度も読み返したが、まったく手掛かりを見つけることができなかった。


 ある日、上手くいかないのでふて寝をしていると、南房総から客があった。
 八犬士のことについて話題が及ぶと、その客の語ってくれた話は今まで私が読んできたものと大きく異なっていた。違うところを指摘すると、客はこう言った。里の言伝えにあったものなので、どうか改めて書き記して欲しいと言う。私はこの異聞を広めようと承諾した。
 客は喜び、帰る段になって見送ることとした。門のそばに伏せた犬がいたが、うっかりして尻尾を踏んでしまうと、鳴き声が聞こえた。
 愕然として私は気づいた。今見ていたものは、はかない夢にしか過ぎなかったのだ。辺りを見渡しても訪問客はいなかったし、門には吠える犬もいない。

 客の話を思い返すと、他愛のない夢の話であったが、このまま捨ててはいけない気がした。記録することにしようと思う。半分忘れてしまったが、もはやどうすることもできない。

 密かに中国の故事と結びつけることによって、この物語を綴る。
 里見義実が龍を語るの話は、王丹麓の記した「龍経」。
 霊鳩が手紙を滝田城に伝えるのは、唐代の政治家張九齢が伝書鳩を利用していた故事に。
 伏姫が八房に嫁いでいくのは、古代中国の高辛氏が娘を盤瓠(ばんこ)という犬に嫁がせた故事に習っている。その他たくさんの故事を引用している。
 数か月で五巻を書いたがまだ少ししか書けておらず、まだ八犬士の列伝にも至っていない。
 しかし出版社が原稿を奪い、印刷してしまった。
 題名を尋ねられたので、あまり良く考えずに「八犬伝」と命名した。

 1814年文化十一年秋九月十九日。筆を著作堂下の紫鴛(おしどり)池で洗う。

 簑笠陳人こと滝沢馬琴

【注釈】

 世にいう里見の八犬士は、

 犬山道節
 犬塚信乃
 犬坂毛野
 犬飼現八
 犬川荘助
 犬江親兵衛
 犬村大角
 犬田小文吾

の八人である。
 その名前は軍記に見ることはできるが、詳細は良く分からず、残念である。

 よって古代中国の高辛氏の皇女が犬の盤瓠に嫁いだという故事に習って、この小説を創作し、因果応報を説いて読者の眠りを覚ましたいと思う。

 最初の五巻では、里見氏が安房で勃興する話を書く。またこれは中国の「演義の書」風に書いているので、軍記ものとは違う。
 小説の形を取って、ことわざや故事を交えて、面白おかしく綴っていくのは、初めから娯楽小説だからだ。

 第八回の書では堀内蔵人貞行が犬懸の里に子犬を拾う話から、第十回では里見義実の息女伏姫が富山の奥に入山する下りまでは、物語すべての発端なのである。
 二集三集に及んで、八人それぞれの列伝がある。新年の春毎に新刊を出していくので、完成するには二、三年掛かるだろう。

 簑笠陳人 注釈

 

【目録】

南総里見八犬伝 総目録

第一回 里見季基、遺訓を残して義に死す/白龍、雲の間を飛んで南に向かう
第二回 一本の矢を放って、義侠の者、白馬を誤って射る/両郡を奪って賊臣、富を得る
第三回 安西景連、麻呂信時、暗に里見義実を断る/杉倉氏元、堀内貞行、災厄と知るも舘山行きに従う
第四回 里見義実、小湊に義を集める/垣の内に金碗孝吉、仇を逐う
第五回 良将、策を退けて衆兵、仁を知る/鳩が書を伝えて逆賊の首を取る
第六回 里見義実、蔵を開いて二郡を潤す/金碗孝吉、君命を承りて三賊を滅ぼす
第七回 安西景連、奸計により麻呂信時を売る/金碗孝吉、節義により義実の元を辞す
第八回 行者の岩窟で翁が伏姫の人相を観る/瀧田の近くで狸が子犬を育む
第九回 誓いを破って安西景連、両城を囲む/戯言を信じて八房、首を献上する
第十回 禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす