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馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第七回 安西景連、奸計により麻呂信時を売る/金碗孝吉、節義により義実の元を辞す】

2024年03月29日 | 南総里見八犬伝

 東條城から駆けつけた杉倉氏元の使者、尼崎輝武が首を持ってきたので、里見義実は首実検を行った。
 そして尼崎輝武を近くに招いて、合戦の詳細を自ら尋ねた。
「滝田攻めの軍の兵糧が乏しいことは、杉倉殿も以前から心配しておりました。百姓に命じて運ばせようと思っておりましたら、安西景連と麻呂信時は、早くも山下定包に騙られて海と陸の道を塞ぎ、荷駄を取ろうと我らを待っておりました。この難儀を杉倉殿は憂いておりましたが、いたずらに日数が立ってしまいました。しかし、景連の使いがある夜やってきまして、杉倉殿に言ったのでございます」

 山下定包は逆賊である。
 中国戦国時代の外交家である蘇秦、張儀が百回も千回も説得に来ても、私を納得させるものではないが、麻呂信時にそそのかされて、奴がために道を塞ぎ、杉倉殿の兵士を苦しめてしまったのは我ながら浅ましい行いだ。
 後悔してほぞを噛んでみたものの、麻呂信時はひたすらに弓矢を磨いており、里見を攻める気である。説得しても思い直すつもりはない様だ。
 これもまた歯がゆいことだが、つらつらと良く考えると、麻呂信時は思慮も分別もなく、自己の利益のために義を忘れて、貪るだけで満足しない男なのだ。
 安西景連は里見殿との旧交を思うために、麻呂と一旦は力を合わせるが、麻呂が過ちを改めないのであれば、これ以上一緒に歩むことはできない。

 力を合わすことはやめて、まず麻呂信時を討ち果たす。そして兵糧運送の道を守って、里見殿に協力し、逆賊山下定包を討滅して大義を示そうと思うのです。
 以前には思いがけず訪れなさった里見氏を大切にしなかった安西景連の非礼は、例の麻呂信時が拒んだからなのです。

 願わくは、城代殿が城を出て、大至急攻め掛かかり下さい。
 麻呂信時は猪武者です。敵を見て思慮もなく一気に進むでしょう。その時こそ安西景連が背後から挟み撃ちにして、信時を捕まえることは手の平を返すより簡単でしょう。逡巡して大事を間違えませんように。
 ご返信をお待ちする。

「しかし杉倉殿は敵の罠かもしれんとお思いになって、軽々しく従いませんでした。使者の往還を何回か重ねて、ようやく安西に嘘偽りが無いように思えましたので、それでは麻呂信時を討とうと、安西と打合せしました。五月雨の雨が降ったりやんだりする真夜中に二百余騎を率いて、出撃しました。馬には音を出させない様、口に棒を咥えさせ、轡でつぐませてあります。そして麻呂信時が屯していた浜荻に建てた柵に向かって、前後から攻めて、鬨の声を上げて、遮二無二に突っ込んだのです」

 

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 尼崎輝武は報告を続けた。
「敵が襲ってくるとは思ってもみなかった麻呂の軍勢は慌てて混乱し、繋いだままの馬に鞭を当てたり、弦のない弓に矢を添えたりしていました。もう防戦するまでもなく、逃げるしかない、そんな戦況になったのですが」
 里見義実たちは、声も出さずに熱心に聞いている
「その時、麻呂信時は大きな声を出し、頼りない者ども、敵は少ない。押し包んで戦え、前原にいる安西景連に笑われるな、と厳しく命令をしたのでございます。そして真っ先に馬に乗って飛び出し、槍を振って、攻め込むお味方を突き倒しました。その勢いは正に群がる羊に襲い掛かる猛虎の勢いでした。麻呂の軍勢はこれに励まされ、後陣の安西が援軍で来ると思ったのでしょう、逃げようとした者も踵を返し、喚きながら向かってきました。心ならずも味方の先陣は押し返され、道の泥濘に足を取られてつまづく者もおりました。その時でございます、杉倉氏元殿が眼を怒らせ、大きな声で申しました」
 ごくりと誰かが咽喉を鳴らした。
「一旦は破った敵の柵を追い返されるとは何ごとか。名を惜しみ、恥を知る者は我に続け、と言いながら、采配を腰に差して、鐙を鳴らして馬を進めました。杉倉殿の長刀は闇の中でも煌めき、水車の様に振り回していました。そのまま麻呂信時に討って掛かりました」
 誰もが口を開かないでいる。
「かがり火の向こうから、麻呂はきっと見て、汝は氏元か、良き敵なり。そこを動くな、と呼び掛けて、槍を突けば、杉倉殿は受けては跳ね返し、麻呂が引けば杉倉殿が斬り掛かって、互いの技を尽くしたのでございます。双方の大将がこの様に激しく戦っておりましたので、味方も敵も死力を振り絞っており、誰も手出しができません。そのうちに麻呂が焦って突き出した槍の穂先を杉倉殿が左手で払い除け、大声で叫びました。杉倉殿は、麻呂が見上げたところを長刀の柄で兜の額の部分を激しく突いたのです。正面から突かれて、さしもの麻呂も急所の痛手に我慢できず、槍を持ったまま馬から落ちてしまいました。その音に、私たちは急いで駆けつけて、麻呂の首を取ったのでございます」
 尼崎輝武は言葉もせわしく報告した。
 報告をじっくりと聞いた里見義実は、口を開いた。
「氏元の勲功、称賛するに値するが思慮が足らん。安西景連がにわかに裏切って麻呂信時を討とうとしたこと、理由があるのだ。安西と麻呂の両雄はそもそも並び立たない。もし二人が私を討ったとしても、早々に勝たなければ、必ず異変が起きただろう。それを思いがけず安西にそそのかされて、氏元が麻呂を討取ったのは味方のためには利がなく、安西のためになってしまった。その安西は今どうしている」
 尼崎輝武はかしこまって返答した。
「はい、安西景連はその夜、味方のためには矢を一本も放ちませんでした。いつのまにか前原に構えていた柵からも退却しておりました」
 その返答を聞いて里見義実は扇で膝を打ち、
「それであれば、すでに安西景連の奸計は明らかだ。我々が滝田を攻めていた時、勝敗は分からなかったのだろうが、山下定包は神々に見放された逆賊だ。一時は籠城戦で有利になることもあるが、最終的には安西も見切りをつけたのだろう。定包が滅亡し、この義実が城を落とすに及んで、安西は麻呂信時が頼りにならない猪武者と思ったのだ。ともに無謀の戦で戦えば脆くも負けてしまうことを恐れて、里見と連携したのだ。そして杉倉氏元に麻呂を討たせ、安西はその虚に乗じて、平舘城を攻め落とし、朝夷郡を横領して互角になろうとしているのだ。この推量は合っていると思うぞ」
 安西景連の遠謀を細かく分析していると、杉倉氏元からの次の使者が再度の注進をしにやってきた。
「麻呂信時が討たれましたので、残兵がしきりに乱れ騒ぎ、逃げていくのをそのままにして、杉倉氏元殿は軍勢をまとめて東條に帰陣しました。何を思ったのか、安西景連はとっくに前原から退却して、平舘の城を乗っ取り、麻呂の領地朝夷郡をすべて己のものとしました。犬がせっかく獲物を仕留めても、鷹に奪われた様なものです、杉倉殿は苦労だけなさって、功がございませんでした。殿が軍勢を差し向けるおつもりであれば、先鋒を承って、朝夷郡はもちろん安西景連の根拠地を攻め落とし、この鬱憤を晴らしましょう、この様に申しておりました」
 と金碗孝吉、堀内貞行に書簡を渡した。二人もここに至って、主君の叡智に感服して、
「早く安西を討ちましょう」
 としきりに勧めたが、里見義実は首を振って否定した。
「いや、安西を討ってはならん。山下定包を倒したのは私一人の利益を考えたのでなく、民の塗炭の苦しみを救うためだ。皆の力によって、長狭、平群を治めることになったが、この上ない幸運ではないか。安西は梟雄ではあるが、山下定包の類ではない。奴の本意はともかく志を我々に寄せながらも、杉倉氏元が麻呂信時を討つ際に、いち早く平舘城を落としたことを妬んで、戦を起こして土地を巡って争うなど。それは蛮触の争いと言って、了見が小さくつまらないことで争うことであり、人々を余計に殺し民を失う、ということはしたくない。安西の奸計によって平舘を取り、なお飽き足らずにこちらへ攻めて来るのであれば、一挙に決着をつけよう。今は領地の境を守って、こちらからは手出しを出してはならん。皆にこの旨を心得よ」
 主人が丁寧に説明すれば、金碗孝吉、堀内貞行はもちろんのこと、左右に侍っていた近習たちや尼崎も一緒に感銘を受けた。
「昔の聖賢は、うちの殿様よりも立派だったのだろうか」
 とひたすらに称賛した。

 こうして里見義実は、自ら杉倉氏元に感状を与えて褒めながらも、諭して安西を討たない様に命じた。
「人の物を取ろうとする時は、自分の手の届く範囲を忘れるな。ことわざに言う、満足することを知らない鷹は、爪が裂けると。籠城以外はしてはならない」
 そう戒めて、尼崎輝武らを東條城に戻したのだった。

 そのうちに初夏の寒いはずの、卯月、五月は晴れ渡り、風を待ちわびる水無月の夏の土用も半ばを過ぎたころ、安西景連は蕪戸訥平(かぶととつへい)という老臣に幾つかの土産を持たせて、滝田の城に遣わした。
 蕪戸訥平は、山下定包を討ち、里見義実が家を再興させたことを祝い、友好を求めると述べた。
 更に、
「先に館山でお顔を合わせた時からずっとお慕いしておりました。ただ麻呂信時に祝うべき席を邪魔されて、思わぬ無礼を働いたことが恥ずかしいのです。それは晋の文公が曹の国を通った時、曹の君主が無礼な仕打ちをしたことと同じことでしょう。しかしそれが里見殿を逆に励ましたことによって、大業をなさったのではありませんか。本当のことを申し上げると、最初から里見殿に心を寄せていた景連はいささかの考えがありまして、わざとつれなくふるまってあなたをもてなしたのでございます。こうして愚見を申し上げましたが、里見殿のために麻呂信時を討ったので、良いことが起きたのですよ。私も不思議とあなたの影響を受けて、平舘の城を取る功をなしとげました。一国四郡を二つに分けて、互いに境を侵略することなく、助け合い、子孫代々までおつきあいができれば、素晴らしいことでございましょう。些少のつまらないもので親睦のためにはならないかもしれませんが、馬三頭、白布百反をお贈りいたします。ただいついつまでも交わりの変わらないことを祈るのみでございます。どうかお収め下されば幸いでございます」
 丁寧に言うので、堀内貞行も取り次いで、使者の口上を里見義実に伝えた。すると主君は疑う気色もなく、堀内貞行と金碗孝吉に蕪戸訥平を饗応させることにした。
 更に、
「私自身も使者に会おう。良くもてなしをするのだぞ」
 と言うので、堀内貞行と金碗孝吉は喜べない。
「賢い我が主君ですら、あの安西の様な古狸に欺かれてしまいますな。奴が本当に善であり、我が殿の徳を慕う者であれば、安房当国にはいない鯉を探させて、謀殺しようとはしないはずだ。今更になって空々しい祝辞を述べ、友好を通じ、少しの物品を贈ってきたのは、後ろめたいところがあるからだ。今もなおその奸計を知ることができない。使者をもてなしなさるとか、ご対面はもったいないことでございます」
 と密かに諫めたが、里見義実は微笑んで、
「安西景連が本心からではなく、うわべだけで友好を結ぼうとしていても、今聞く限り、見た限りでは憎むべき者ではない様だ。しかし私が執拗にその旧悪を咎めて、親交を断つということは、彼に背くことになってしまう。そうして争うことになれば、人々は私を不義とみなすだろう。不義になって、戦いに勝つことになっても、この義実の願いではない、皆、安西を疑ってはならない」
 と返す返すも不満顔の家臣を説諭して、里見義実は自ら使者の蕪戸訥平に対面し、帰る際には返答の例として金碗孝吉を安房郡へ遣わした。安西の贈り物に答える形で返礼の贈り物を届けさせて、いよいよますますの親交の誓いを立てて、互いに破るまいと誓わせた。
 安西景連は非常に喜び、金碗孝吉を重くもてなし、自ら誓紙を書いて里見義実に送るのだった。

 これより以後、安西景連は安房と朝夷の二郡を、里見義実は神余光弘の旧領である長狭と平群の二郡を領地とした。互いに犯すことなく、争うことなく、世の中は平穏となり、杉倉木曽介氏元は東條城から滝田城に呼び戻されて、ようやく安堵することができた。
 里見家は君臣上下の隔てなく笑い合い、すべての者が平和を楽しんだ。

 文月、七月の七夕の星祭りの夜、里見義実は、夕刻から杉倉、堀内、金碗の功臣のみを集めて茶を立てた。(昔里見の家例には点茶の例というものがあった。このことは房総志料という書物に載っている)
 茶をふるまいながら、昔を語りつつ、功臣たちにも思い出を語らせていくうちに、
「私が幸いにも二郡を得てから、波風はあまり立っていないと思うが、とにかくにも忙しくて、出陣の折に祈った神社にも詣出ていない。またお前たちにも論功行賞を行えていない。これでは晋の文公に仕えた介之推が、褒美をもらう時に山へ隠居してしまった故事の通りになってしまう」
 里見義実は功臣たちを見つめた。
「さて、杉倉氏元、堀内貞行、お前たちは今は亡き父君の遺命を受けて、わが艱難辛苦に良く従ってくれた。その忠義と信実は今更言うまでもない。しかし白箸川のほとりで、金碗孝吉に逢わなければ、どうして家の再興ができたであろうか。また鳩が檄文を伝えてくれなかったら、山下定包の首を取ることができただろうか。この二つが第一の勲功である。そうでなければ安西らの奸計によって、鯉を釣れずに斬られていたかもしれない。また滝田の城攻めの時も兵糧が尽きて、飢えと疲れで逆に敵軍に捕らわれていたかもしれない。どちらにしろ酷い目にあっていただろうなあ」
 立てた茶を勧めて、里見義実は続けた。
「ようやく涼しくなってきて、七夕の物語で二人は結ばれる。詩歌を作るとすると、今宵は彦星と牽牛の二星が出会うそうだ。星にもいろいろ決まりがあるそうで、人々の吉凶はこれに関わってくるという。私はもう天に誓ったのだが、当城の八隅には八幡宮を建立し、秋ごとに祭りを奉納しようと思う。また領内には、鳩を捕まえることを禁じるよう告知をしようと思う」
 里見義実は、金碗孝吉を見つめ、そして杉倉、堀内に視線を移していく。
「金碗八郎孝吉には長狭の半郡を与え、東條の城主としよう。氏元、貞行にはそれぞれ五千貫を知行しよう。この旨どうか承知して欲しい」
 と心から伝えて、したためた一通の感状をまず金碗孝吉に与えた。
 金碗孝吉はゆっくり感状を読み、そして三度額に当ててから、そのまま主君に返した。そして席を変えて、
「お家譜代の補佐の老臣の方々より先にいただく恩賞をご辞退させていただくのは気が引けてしまいますが、私は初めから名誉と利益の二つを望んでおりませんでした。今は亡き故主神余光弘のために、逆臣を倒すことだけを考えていたのでございます。真に、里見の君のご威光によって宿願を果たしましたので、これ以上の望みはございません」
 と言えば、里見義実は笑いながら、
「世間での評判や名声に関わらず、功を成して身を退くというのは、義士の志としてこの様にあるべきことだが、古代中国前漢の張良は故主韓王成のために秦と楚を滅ぼし、その後、漢から留侯として封じられた。私には前漢の劉邦ほどの徳はないが、そなたの忠義は張良の孤独な忠義に似ている。だから功のある者を賞しなければ、誰がその志を、忠孝節義を励ますことができるだろう。どうか曲げて私の意を組んで賞を受けて欲しい」
 と諭した。
 杉倉氏元も堀内貞行も賞を受ける様に勧め、例の感状を渡すと、金碗孝吉はやむを得ないことと受け取って、再度読み始めた。
「これを辞退してしまえば、私はわがままを押し通して、恩義を知らない者になってしまう。しかし受けてしまえば、今更ながら故主に対して不忠になってしまう」
 金碗孝吉の顔色は蒼白だった。
「賞を受けて、しかし受け取れないこの孝吉が、この世とあの世の君のためにできることは、こうするしかありません」
 と言った瞬間、刀をぎらりと引き抜いて、感状を刀身に巻きつけつつ、腹へぐさりと突き立てた。
 これは、と主従三人は思わず近づき、里見義実は傷口を見つめ、
「切っ先深く入っていて、とても助かるまい。しかしこのままこときれてしまえば、誰もが狂い死というだろう。痛いだろうが、どうかこらえて、思うところを全部言うが良い」
 その声を聞いて、金碗孝吉はきっと里見義実を見上げて、息を吐いた。
「故主の横死を聞いて、この腹を早く切らねばならなかったのですが、ただ山下定包を討つことばかり考えて、生きながらえていました。ただこの身一つでは何もできず」
 金碗孝吉は苦しげに言った。
「時と縁を得て、里見の君にお逢いすることができました。我が功に過分な恩賞を今更に受けては、亡くなった故主の横死が私の幸福になってしまいそうで、これ以上生きていることができない理由の一つです。そ、それだけではありません、あの日、落羽岡で山下定包と勘違いして領主を傷つけて喪ってしまった杣木朴平、洲崎無垢三は、元々私の家の家僕。彼らの武芸は私が太刀筋を伝えましたので、知らないことと言いながら生兵法が大傷の元とは良く言ったもので、この孝吉の誤りです。これ以上生きて行くことができない理由の二つ目です」
 金碗孝吉は古代中国の故事を引いた。
「かの漢朝の軍師張良の気持ちは分かりかねますが、項羽と劉邦の間で立ち回った田横が自死した後、彼の食客たちも五百人すべてが自決したその潔さ、志を慕うのです。せっかくの点茶の楽しき遊興の席を汚す非礼の罪は、どうかお許し下さい」
 と膝を突いて、刀を腹の奥に更に押し込もうとする。
「孝吉を止めよ」
 さすがの里見義実も焦って言い、杉倉氏元や堀内貞行が金碗孝吉にすがって、
「殿のご命令だ、とにもかくにも冥土への旅路を急いではならんぞ」
 と言葉を掛けた。
 里見義実は何回も嘆き、
「孝吉の志を知らない訳ではなかったが、こうなるとは思わなかった。なまじ恩賞の沙汰をしたことで、孝吉の死を促してしまった様なものだ。我が生涯の誤りである。孝吉、黄泉路へ帰るお主の門出に、この義実が餞別を贈ろう。氏元、例のご老人を呼べ」
 と命じた。
 杉倉氏元はすぐに返答をして、縁側に立ち上がって、
「上総の一作、早く来るのだ」
 と声高に呼んだ。
「承知しました」
 と言う声はすでに鼻声であり、目には涙を溜めた六十余りの旅姿の百姓が右手に菅笠、左手には五才ばかりの男児の手を引き、腰を屈めて立っている。百姓は木立の奥の庭の折戸の陰から現れたのだった。
「さあ、こちらへこちらへ」
 杉倉氏元が招くと、百姓は急いで近づき、縁側に手を掛けて伸び上がり、
「やあ、八郎孝吉殿、上総から参りました、一作です。これはあなたが娘の濃萩に産ませた子です。ようやく訪ねて会った日に切腹されるとは何ごとですか。もう、それ以上ものを言うこともできませぬか」
 一作と名乗った老人は、恨み言を言うのも、泣くのも憚れて、まして貴人の茶会の席で後ろめたい様子だった。
 金碗孝吉は、一作と名乗った声を聞いて、目を見開いたものの、老人と子供を見るだけで口を利くことができないでいた。
 その時、杉倉氏元は金碗孝吉に向かって、
「金碗殿、あれを見なさい。私が殿の館に参ろうとした時、あちらのご老人が路地に立たれていた。金碗殿の屋敷はどこか、と私の従者に聞かれたのだ。さすがにこれは聞き捨てならず、事情を伺えば、この様にこの様にと男児のことまで言われるので、金碗殿が屋敷にいないことを話し、会いたいのであれば付いてくる様に言い、殿のおいでになるここまでお連れしたのだ」
 堀内貞行にも、里見義実にも、老人の訪れた旨を話してあり、特に里見義実が興味を示し、金碗孝吉の子供であれば末頼もしい者になるだろうと言われて、義実が自ら引き合わせようとした。それまでは孝吉には内緒にしておこうという旨を話した。
 それによって一作老人を幼児と一緒に庭の折戸の陰に忍んで、里見義実の指示を待っていたのだと、杉倉氏元は説明した。
「なのに、金碗殿。まだ言う前にそなたが自決しようとは。外で見ていたご老人の心のうちはどうだろうか。せめて今は親と子の名乗りをさせようと、殿がお思いになったのだ、のう、金碗殿」
 と杉倉氏元が呼べば、金碗孝吉はやや頭をもたげて、
「この期に及んで親子の名乗り、それは仕方のないことだ。私は主君を諫めることができず、滝田を立ち去った時、上総の国、天羽郡関村の百姓に一作、即ち例の老人です。彼は私の父の若党でしたので、私はしばらくこの老人のところを宿所として足を休めることにしたのです。何日かいる間にご老人の娘、濃萩(こはぎ)と結ばれ、契ってしまいました。枕の数が重なるうちに、ただならぬ身に、つまり懐妊したと濃萩が言ってきたので驚きました。正に色欲は思わぬ悪事と世間で言うのは、私の身の上のことなのです。行方を決めていない旅の空、ここはずっといるべきところではないので、契ってしまった娘との浮名を立ててしまい、誠実な一作老人の娘を傷つけてはと思い、今更親の一作が許しても顔を合わすことができません。私は浅ましき所業をしてしまったと百回も千回も悔い、後悔が立ちませんので、人目を避けて濃萩には堕胎しろとは勧めました。別に考えがあり、詫び状一通を一作老人に残して、関村を去り、あちこちをさすらって、五年目の夏、この日に故主神余光弘の横死を聞き、山下定包を討とうと密かに帰る故郷への途中の道でしたが、一作の元を訪れませんでした。濃萩のことも手紙で問合せもしませんでした。しかしその子は無事の様子で、良く育ててくれて、一作老人の誠が分かり、まったく面目がございません」
 金碗孝吉の声は今にも途切れそうであった。

 

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「なるほど、分かりました」
 と一作は言ったものの、慰めかねて鼻を啜った。
「さすがに勇ましい武士も恋には脆い人情、ましてあなた様は妻も子もない旅の身の上、慰めようとした我が娘の濃萩は、淫乱奔放に似て、決してそうではありません。あなた様の氏素性は自分の故主、その子を宿し、娘は天晴れ果報者、良き婿を迎えたと、心の中では婆と一緒に喜んでおりました。しかし事情を知らない私はいろいろ考えている間に、あなた様は出て行ってしまい、帰らなかった。行方を探すこともできずに娘は、程なく臨月に産み落としたのは男の子でした。めでたいめでたいと祝う間もなく、濃萩は募るもの思いからか産後の肥立ちも悪く、とうとう十万億土のあの世に逝ってしまいました」
 濃萩は亡くなっていたのだ。一作の声が震えた。
「その初七日、二七夜、本当に忙しく過ごし、乳をもらいながら生死をさまよい続けての三界流転、苦しみをすべて言い尽くすことはできませぬが、赤子は健やかに育ちました。あなた様と娘の形見と思えば、見るたびに可愛く、少しでも目を離したくなくて、昼はずっと懐に入れて、夜は一晩中爺と婆が逝ってしまった濃萩の代わりに添い寝していました」
 一作老人は涙を流し続けた。
「この子が年を重ねて四つになった去年の秋から、婆が寝込むようになり、子守片手の看病は高い棚に置いた薬鍋がなかなか取れず、泣く赤子の世話にかまけて鍋を焦がしてしまうこともありました。その年の大みそかに婆は往生しました。片腕をもがれた人形と幼児と私の三人で、棺を守って新年を迎えた門松は冥土の旅の一里塚、禅僧の坊主顔で悟った振りをしてみても、なかなか悟りきれないのが私の様な凡夫の心。六十八の今年こそ、一生涯の憂苦艱難、再び、三度の大厄難なのです。孫にも恥じずに泣く老いた我が身は、春の気配も近づき、無心で真似て唱える念仏にも欠伸の混じる宵惑い。短い夜の春は過ぎ、卯月(四月)の末から上総まで、隣国安房のこと、あなた様のこと、合戦のことが聞こえてきました。私も一度は驚きましたが、心が勇んで、訪れてみよう、と思い立ちました。しかし歩くのが不便な老人が幼児を背負って、戦場に行くのは危険です。時を待てばと思い直し、ようやく敵を討った話を聞きましたので、今日ここへ参りました。しかし、来る甲斐のない今際の対面です。宿世の報いを想像するこの一作の悲しみは、言うに及ばず、この赤子が大人になった後、両親の顔を知らないのが残念でなりません。なあ、加多三(かたみ)、あれがお前の父親だ、顔を覚えておくのだよ」
 一作が指を差すと傍らの幼児は伸び上がって、
「もし、父様」
 声を掛けて呼んでも、親の金碗孝吉は見上げるばかりであった。何かものを言いたげに動かした唇の色も変わりつつ、臨終が近いと思われた。
 里見義実は幼児を近くに呼び寄せて、顔をよく見て、
「この子の面影は父の八郎孝吉に良く似ている。名前は何というのだ」
 と聞けば、一作老人は膝を折ったまま、里見義実を見上げて、
「決めた名前はございません。金碗殿と我が娘濃萩の形見ですので、加多三、加多三と呼んでおります」
「そうか、そうであったか。この子を私に預けよ。父孝吉は私を助けて、多大なる勲功があった。これをこの子の名前にして、金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)と名乗って、父の忠義を受け継ぐが良い。成人してからは長狭半郡を与えて東條の城主としよう。一作は祖父であるから、大輔孝徳と共にいて彼を後見せよ。当座の褒賞として五百貫をこの幼児に取らすぞ。これを冥土の土産に成仏するのだ、孝吉」
 力づけられた金碗孝吉は鮮血に塗れた左手を上げ、主君である里見義実を拝んだ。瞬間、刀で腹を引き回し、
「介錯を頼みます」
 と言うのを末期に、うなじを伸ばすが堪えきれない。
 これ以上の苦痛をさせまいと、里見義実は帯びていた刀を引き抜き、金碗孝吉の後ろに立って一振りした。

 哀れ、儚くも金碗八郎孝吉の首が落ちたのである。

 覚悟をしていても我慢できずに、一作は声を出して泣き、老いの繰り言を繰り返した。杉倉氏元と堀内貞行はそれを慰め続けてはいるが、幼児は事情もまた良く呑み込めずにおろおろと狼狽し、涙ぐみ、こと切れた親の顔を恐々と覗き込むのだった。

【一子を遺して金碗孝吉、大義に死す】

右から杉倉氏元、切腹する金碗孝吉、里見義実と怨霊玉梓、左下には一作老人と大輔ちゃん。

本当だ、堀内さんが描かれていません!

 

 その時、金碗八郎孝吉が果てた時、星は落ちて、七月七日の月は西に入り、めらめらと鬼火が閃いた。次第に女子が影の様に現れて、幼児の金碗大輔孝徳の身に重なって、消えていった。

 里見義実だけがそれを見た。他の者には見えなかったのだ。
 杉倉氏元と堀内貞行に、金碗八郎孝吉の葬儀と大輔孝徳の養育を細かく命じた。
 里見義実はすべてを終えると、寝所へ引き上げた。水時計は高く音を鳴らして、時は亥の刻(午後10時ごろ)になっていた。

 作者が言うには、この段は七月の初旬であるが、挿絵は冬の衣装に見える。現に薄衣は描いても色彩がないと、分かりにくい。
 これらは画家の好みに任せて、敢えて時節に拘ってはいない。こういうことは実は多い。
 読者よ、激しく咎めないで欲しい。

 また同じ様に断るが、この挿絵には杉倉氏元のみ描かれていて、堀内貞行が省かれてしまっている。大事な登場人物ではあるが、ここではさせることがないので、版画の彫刻を行う人を助けた。

 また物語の最初の第一回、結城合戦の下りからここに至るまでわずかに四か月、1441年嘉吉元年四月に起こって、同年七月までである。指を折って数えればその間、八十余日のことになる。
 第八回に至っては、年月がかなり経過して十六七年のことになる。
 その間には里見義実の娘である伏姫の成長を主に述べていく。余計な話はすべて省略して、しつこくは書かない。
 これはいつものことであるが、細かいところもそうでないところも互いに趣旨が違うのであるけれども、丁寧に読まない人のために作者自ら注意を促すことにした。

(続く……かも)


八犬伝、まさかの映画化!

2024年03月15日 | 南総里見八犬伝

まさかのニュースでした。

山田風太郎さんが朝日新聞に連載されていた八犬伝を映画化、だそうです。

虚の世界で里見八犬伝を描き、実の世界で滝沢馬琴翁の生活を描く物語でした。

とても2時間やそこらでは映画化は厳しいと思うのですが、期待せざるをえません。

 

役所広司が滝沢馬琴、内野聖陽が葛飾北斎! 山田風太郎「八犬伝」曽利文彦監督が映画化 : 映画ニュース - 映画.com

山田風太郎氏の小説「八犬伝上・下」(角川文庫刊)を、役所広司主演で映画化する「八犬伝」が10月に公開されることがわかった。共演は、内野聖陽、土屋太鳳、磯村勇斗、黒...

映画.com

 

馬琴翁役:役所広司さん

葛飾北斎:内田聖陽さん

伏姫:土屋太鳳さん

宗伯:磯村勇斗さん(馬琴の息子の医者)

お路:黒木華さん(宗伯の妻)

お百:寺島しのぶさん

 

上の配役を見ると、八犬士はまだ明かされていませんね。

物語は長く複雑なので、ひょっとしてアニメとか要約のみになっちゃうかもしれません。

とにかく10月公開ですので楽しみにいたします、でわ。

 


超意訳:南総里見八犬伝【第六回 里見義実、蔵を開いて二郡を潤す/金碗孝吉、君命を承りて三賊を滅ぼす】

2024年03月07日 | 南総里見八犬伝

 滝田城の兵士と民はまず岩熊鈍平を討とうとして、二の城戸狭しと集まった。そして鬨の声を上げた瞬間、思い掛けなくも城戸が開いた。
 皆がまず見たのは、槍の穂先に貫かれた生首だった。そして大きな声が響いた。
「皆、私たちに何かしようというのか。私は最早非を悔いて、逆賊に従うのを止めたぞ。気持ちを寄せ手の里見勢に通わせて、人食い馬の定包を誅伐した。さあ、皆よ、ともに城を開いて里見の殿を迎え入れよう。これ以上、同士討ちはするな」
 城戸を颯爽と押し開き現れたのは、華やかな武装で着飾った数多くの兵を従えて、岩熊鈍平と妻立戸五郎が床几に座っていた。
 軍配を持って攻め込もうとした者たちを招こうとするので、人々は半分呆れ、戸惑ってしまった。

 しかし槍の先の首を見上げると、間違いなく山下定包である。
 さては岩熊鈍平と妻立戸五郎は逃げ逃れる手段がないことを悟って、山下定包を討取ったのであろう、憎い奴らめ、と皆は思ったが、今更同士討ちはできずに、やむを得ず里見の軍を迎え入れようとする命令に従わざるを得ない。
 滝田城の櫓に降参の旗を立てて、大手門を開くと、岩熊鈍平と妻立戸五郎は先頭に立って寄せ手を迎えた。
 里見の先鋒は金碗八郎だったが、子細を良く聞き取って山下定包の首を受け取った。
 軍法により降伏した者らの刀を取り上げて、ことの次第を後方へ連絡すると、大将の里見義実が軍を進めてやってきた。岩熊鈍平と妻立戸五郎は地面に頭を埋めて、迎えるしかない。
 降伏した城兵も皆、万歳と叫んだ。

 しばらくしてから後陣の堀内貞行もやってきたので、全軍の隊伍を整えると大将里見義実は静かに入城し、城内をくまなく巡検した。
 城内は神余時代より豪華になっており、派手で驕奢である。金銀もふんだんに使って飾り立てている様であった。それだけではなく、山下定包が民を絞りに絞って貪り蓄えた金銀財宝や兵糧が、倉庫や蔵に満ち溢れている。

 漢の沛公劉邦が長安の阿房宮に入った時、鎌倉の頼朝公が奥州の藤原泰衡を討った日もこの様であったろう。しかし里見義実は、山下定包の貯めた物に少しも触れることはなく、米蔵を開いて平群郡と長狭郡の百姓に均等に分かち与えることにした。
 堀内貞行たちは諫めて、
「山下定包は誅伏いたしましたが、平舘と舘山には麻呂と安西の強敵がおります。軍用の物資が不足がちでございましたが、幸いにしてこの城を得ました。しかし何も蓄えずに百姓たちにお与えになるなど、殿のお考えが理解できません」
 と眉をひそめて言う。
 里見義実はそれを聞いてうなづき、
「そう思うのは目の前だけを見ている者の理屈である。民は国の基本だ。長狭と平群の百姓は、年来の悪政に苦しんでおり、今逆賊を追いやり道理に立ち戻ったのは、飢えや寒さから逃れるためである。それをまた私が貪ってしまい、彼ら窮している者を救わねば、山下定包と同じになってしまう。米蔵にたくさんの粟があっても、民が皆背けば、誰が一緒に城を守り、誰が一緒に敵を防いでくれるというのか」
 熱く語るのである。
「民は国の基本と申したぞ。民が富むということは、私も富む、ということだ。徳政に効果があればことある毎に軍用の物資は、求めなくても集まるはずだ。惜しむものではない」
 と言えば、堀内貞行らはもう何も言えずに、涙を流して御前を退出していった。
 
 翌日、里見義実は政庁に出て首実検を行った。その後、降伏した岩熊鈍平、妻立戸五郎を呼び、元の主人である山下定包を討った経緯について金碗八郎から質問をさせた。
 二人は同じ様なことを申し出た。
「山下定包は主人を倒し、その土地を奪った逆賊でございましたが、私たちは討つことはなかなかできませんでした。一時的にもその配下となったのは、密かに機会を待っていたのでございます。ですから昨日、賢君、里見の殿様のご命令書をいただきましたので、悪の元を離れ正義に味方すべく、その土産物として奴の首を取ったのでございます」
 と誇って申し開きをするのである。
 しかし金碗八郎は冷笑を浮かべて、
「言葉巧みに申してもそれは虚言でしかない。そもそもお主らは二人とも、山下定包の悪を助けて、民衆を虐げていたことは明らかである。その証拠に、滝田の者どもはまずお主らを討つべきだと集まっていたそうではないか。それを聞いて虎口から逃れるために、定包を討ったのだろう。私、金碗孝吉は里見の殿の仰せを受けて、城中の民から話を聞いたのだ。まだ申し開きをするか」
 言われた二人は驚愕した。
 中でも岩熊鈍平は眼を見張り、抗弁した。
「それは妻立戸五郎のことでございます。彼は若党のころから、山下定包に仕えて、一番に出世した者でございます。しかし、戸五郎は密かに美女玉梓に思いを寄せており、不義密通を果たすつもりで、私に加担し、定包に初太刀を振るいました。私は奴の心底を信用しておりませんでしたので、身の潔白を明かすつもりで、例の玉梓を生け捕らせております。お呼びになって尋問なさってみて下さい。何が正しいのか、邪なのか、良くお調べ下さい」
 妻立戸五郎は岩熊鈍平を睨み返して、大きな声で叫んだ。
「金碗八郎殿、岩熊の言葉は嘘でございます。どうして私が玉梓に邪まな気持ちを抱き、主人を討って里見にお味方をいたしましょうか。岩熊は、最初神余光弘の馬の口取りです。落葉が岡の狩場では山下定包と示し合わせて、神余の乗馬に毒を与え、主人を殺したのでございます。定包の領土を奪うに及んで、第一の側近になりました。民の恨みも大層買い、その罪から逃げるために、二代に渡って主人を殺害したのです。欺かれてはなりませんぞ」
 お互いに聞き苦しい嘘で非難し、貶め合うのである。嘘が嘘を呼び、その罪を段々と増し、争いが果てしなくなっていくと、突然、金碗八郎孝吉が乾いた声で笑い出した。
「問うに落ちず語るに落ちる、とはこのことか。他人に聞かれている時は、警戒して秘密を守っている者でも、自分から話をする時には、うっかり本当のことを口にしてしまうものなのだな。お主たちの邪悪さは、生まれ変わったとしても、またこの世が変わったとしても、首を刎ねるに値する。幾ら山下定包が逆賊だといっても、妻立戸五郎はその家臣なのに主人を討ってはならない。岩熊鈍平は定包のために主人を殺す片棒を担い、定包の陰に隠れて、今度自分が危うくなると、また次の主人である定包を討つ。悪逆はここに極まった」
 声が一層厳しくなった。
「我が君、里見義実公は民の父母として、仁と慈を旨となされているが、もしお主らをお赦しになれば、賞罰はとうとう行われず、また忠孝は廃れてしまうことになる。お主らの証言を待たず、民からの証言で隠匿しようとしていた悪が露見したが、自白させようとして、申し開きの場所に引き出させたのだ。罪状はすでに決まった。法において赦しがたし」
 金碗孝吉は控えていた侍に向かって、
「捕縛せよ」
 と命じた。
 二人は侍たちによって地面に倒され、縄で縛られていく。
 屠殺される羊の様に泣き叫び、恨み言や詫びたりを何度も繰り返すので、金碗孝吉も怒った声で、
「お主たちの起こしたことに対して、お主たちの身に返る天罰は八つ裂きの刑がふさわしい。早く実施しろ」
 侍たちは命じられた通り、立とうとしない罪人を何とか政庁の外に連れて行き、すかさず刑を執行した。そしてその首二つを青竹の串に貫き、首実験に備えるのだった。
 金碗孝吉は次の命令を発した。
「例の玉梓を連れてこい」

 玉梓は花の様な姿ではあったが、その花は無残にも夜半の嵐に吹き萎れていた。
 天の戒めから逃げることはできず、縛られたその縄に引かれて入ってきた。何かの音に脅えて泣く子供の様でもある。
 まだ夕方ではないが、見た目は暗い政庁の外に座らされている。前から見知った顔の金碗孝吉のことが恥ずかしい様で、頭を上げることはなかった。
「面を上げよ」
 金碗孝吉は命じて、小膝を進めた。
「玉梓、お前は前国主の側室であると皆が知っている。寵愛を誇って主君を誑かし、ご政道にまで手を加えて、多くの忠臣を失わせたその罪が第一」
 金碗孝吉は罪を数え始めた。
「その身を美しい綾絹にまとい、無駄に高い買い物を行い、富貴歓楽を極めたが、それだけでは飽きずに山下定包と密通した。第二の罪だ」
 いよいよ舌鋒が厳しくなっていく。
「人々が私に報告してきたのではなく、この孝吉が自分で知ったことである。山下定包の反逆後、両郡を奪い取った日から、お前はその妻となって、恥じることなく、憚ることもなく、城が陥落するまで生きていたのは、今までの悪事に対する報いでもある。生きて縛めの縄に繋がれ、死んでは祀らわれることもない鬼となるのだ。天罰、国の罰を思い知るがいい」
 と声高に叱咤した。
 玉梓はようやく顔を上げて、
「おっしゃることに身の覚えがございません。女は万事において儚いものでございますから、三界に、この世に家はないのです。夫の家を家とするなら、百年の苦楽も他人様によるものです。まして私は先君神余光弘様の本妻ではございません。光弘様が亡くなってからは、寄る辺なきこの身を山下様に思われて、深窓でお世話をいただいたのでございます。ずっと夢を見ているだけの囚われの身となったこと、過去の因果かもしれません。またお城勤めの初めから私事で政治を行い、忠臣を失わせた山下様に原因がある、というのは傍にいる方々の嫉妬であり、本当のことではございません」
 玉梓は声を精一杯張り上げて弁明する。
「例えば神余の殿の老臣、若党、禄高が高い方々もほとんどのお侍の方々が、神余にも山下にも二君にお仕えして、まったく恥とは思っておられません。金碗殿、あなた様におかれては、なまじご主君を凌ぐ器量をお持ちになったためか、ご主君の元を逐電、更に里見に従って、滝田のお城を落とされた。しかしうさぎの毛ほども、先君のおためにはなっておりません。皆様、おのおのご自身の利益のために山下様にお仕えし、従ったのです。男子ですらその有様ですのに、女子の身の上にはいろいろな見方がございます」
 きりと金碗孝吉を見据えた。
「どうして玉梓独りに無実の罪を着せて、憎い者となさろうとするのです。納得できない讒言です」
 この恨み言を聞いて金碗孝吉は席を叩いた。
「それは度を過ぎた無礼な物言いだろう。お前の邪悪さは私の当て推量ではない。十人皆同じことを言っていたぞ。それでも承服せず、自らの弁明に過度な例えを引く、正に外面は菩薩のごとく内心は夜叉。顔と心は裏返しで、お前は錦の袋に包まれた毒の石に違いない。いや夜叉の様に逞しい女子でなければ、城を傾けさせることはできんか」
 金碗孝吉は声を張り上げた。
「萎毛酷六、岩熊鈍平らは神余譜代の老臣だったが、自己の利のために義を忘れ、逆賊に従い悪の道に進んでいった。しかしとうとう冥罰を免れず、皆八つ裂きにされたのを知らないのか」
 玉梓を見つめ返して、
「この金碗孝吉は奴らとは違う。灰を飲み、漆を被り、姿かたちを変えて故神余の殿の仇を狙おうと願っただけである。単身では成し遂げられず、個々の力は一致団結の力に及ばないことは分かっていた。里見の殿に随従し尊敬のできる味方を集めて、今、山下定包を滅ぼして志を遂げたのだ。これでも私のなすところ、うさぎの毛よりも、先君のためにならなかったと言うか。自分の欠点にはなかなか気づかないものよ、婦女子の愚痴というものは、自分には甘く、他人だけを非難するとはどういうことだ。いい加減覚悟せよ」
 と一括した。
 道理に責められて、玉梓は何も言い返すことができず、ただため息を吐いた。
 しかし言葉を何とか紡ぐのだった。
「おっしゃる通り、私には罪があるのでしょう。しかし里見の殿様は仁君と聞いております。東條のお城でもここにおいても、賞を重く罰は軽く、敵城の士卒であっても降参した者はお許しになり、登用されると伺っております。例え罪があったとしても、婦女子は物の数になりません。どうか私をお赦しになって、故郷へ帰ることをお許し下されば、こんなに幸せなことはございません、どうかお願いいたします」
 傾城の美女は金碗孝吉を見つめた。
「男と女、身分が違いますが、昔はともに神余のお家に仕えた金碗八郎殿。古いつきあいに免じて、どうかおとりなしをお願いします」
 とにっこりと金碗孝吉を見上げる顔は、まるで満開の海棠の花。瞳と唇は濡れて、妖艶な黒髪が肩に掛かる姿は、春の柳が人を招く姿を彷彿とさせた。

 上座で尋問と裁判の模様を近臣とともに聞いていた里見義実は、美しき罪人玉梓が、己の非を悔いて助命を乞う姿を憐れと思い、許してはどうかと、
「孝吉、孝吉」
 と呼んで近くに招いた。
「玉梓の罪、決して軽くはないが、女子であれば助けてやっても、道理は立つだろう。どうか考えてやって欲しい」
 丁寧に話したが、金碗孝吉は表情を変え怒った様に言った。
「殿の仰せではございますが、山下定包に次ぐ逆賊は、この淫婦、玉梓です。この女は多くの忠臣を失わせただけではなく、神余光弘の落命も玉梓が定包のそばにいて協力して密かに練った謀略です。普通の女子と一緒にしてはなりません。今までのことを考えずに、賊婦をお赦しになってしまえば、里見の殿もまた色香に溺れて、依怙ひいきの沙汰があったに違いないと、人々の非難がうるさくなるばかりでございます」
 金碗孝吉の決意は揺るがない。
「その昔、妲己は朝歌で殺されて、楊貴妃は馬塊で自死しています。これら傾国の美女は有名でございます。玉梓はそこまでの有名ではございません。が、同様に国が乱れ、城が陥落する時においては、重い刑罰からは逃れられないのでございます。お赦しになってはなりません」
 と言葉正しく諫めると、里見義実は何度もうなづいて、
「私の間違いであった。外へ連れて行き首を刎ねよ」 
 と声を振り絞って命じた。
 これを聞いた玉梓は、花の顔を真っ赤に染めて、歯を食いしばりながら、主従をきっと睨んだ。
「恨めしいぞ、金碗八郎孝吉。赦すという主命を拒否して、私を斬るならば」
 間が空いた。

「 貴 様 も ま た 近 い う ち に 刃 の 錆 と な り 、 お 前 の 家 を 長 く 断 絶 さ せ て や る 」

 今度は矛先が里見義実に向く。
「里見義実も頼りがいがない男だ。赦せと言ったその舌の根も乾かぬうちから、孝吉に言いくるめられて、人間の命を弄ぶなど、聞いていた話と違う愚かな大将だ。殺すのであれば殺せ」
 玉梓は里見を呪詛した。

「 お 前 の 子 孫 ま で 畜 生 道 に 落 と し て 、 こ の 世 の 煩 悩 の 犬 と し て や ろ う 」

 叫び、罵り、花は夜叉となり、ただ呪う。

「これ以上、何も言わせるな。さっさと引き立てよ」
 金碗孝吉の指示に従い、侍が四五人掛かりで罵り狂う玉梓を外へ連れ出し、ようやく首を刎ねることができた。

【賞罰を明らかにして里見義実、玉梓らを刑罰す】

玉梓が処刑されるところ。処刑人の顔、何とかなりませんか……

下には山下定包、妻立戸五郎、岩熊鈍平の首が転がっております。

 

 その後、里見義実は金碗孝吉に命令して、賊主山下定包、玉梓の首を、岩熊鈍平、妻立戸五郎のそれとともに、滝田城下に晒した。積年の悪の報いは死罪、しかも首を晒されるということを人々は改めて知った。
 しかし今更ながらに憎むべき相手の首ということもあって、日ごとに見物する者が多くなっていった。

 数日後の明け方、東條城の杉倉木曽介氏元の使者である尼崎十郎輝武(あまさきじゅうろうてるたけ)が、馬に鞭を当てながら急いでやってきた。
 使者の尼崎輝武は、杉倉氏元が討ち取った麻呂小五郎信時の首を里見義実に献上した。

 

【杉倉氏元、勇を奮って麻呂信時を討つ】

杉倉さん、麻呂信時を一蹴してます、カッコいい!!

 

 同時に合戦の詳細について、説明し始めた。
 そこの光景はここに表し、話が長引くので回を変えて第七回の始めに説明しよう。

 また玉梓の悪霊は、里見の家にはなかなか祟ることはできず、その子孫にまとわりつくこととなる。不思議で奇妙、また悲しいことがいろいろと起き、その禍は後に。
 結末までは遥か遠い話である。読者は例の妖婦の恨み言に関心を持っていただきたい。

 

(続く……かも)


なぜなに八犬伝

2024年03月01日 | 南総里見八犬伝

第一回から第五回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。

前書きで馬琴翁が書いていた通り、「最初の五巻では、里見氏が安房で勃興する話を書く」話に終始しています。
八犬士登場もまだまだ先のお話なのです。

尚も馬琴翁はこう書いています。「第八回の書では堀内蔵人貞行が犬懸の里に子犬を拾う件から、第十回では里見義実の息女伏姫が富山の奥に入山する下りまでは物語のすべての発端なのである」

ボチボチ焦らずお付き合い下さい。

ちょっと小ネタです。
超意訳を書いていて、私自身が謎に思ったことを書いてみます。

①里見義実はなぜ安房を目指したのか?

第一回、結城合戦でお父さんの里見季基はこう言っております。

「お前は速やかにここを脱出して、時節を待って家を再興せよ、何とかして落ち延びよ」

家の再興を命じていますが、方角や地方は示しておりません。
これを受けて里見義実主従は結城の西南方面に落ち延びます。
これも不思議な話で、敵の本拠鎌倉管領方の本拠地近くを通るのです。
警戒とか厳重で落武者狩りとか厳しいと思うのですが……

何とか三浦半島の矢取に着いた里見主従ですが、ここで突然、杉倉氏元が矢取の入江の漁師の子供にこう言うのです。


「のう、子供たちに聞くが、向う側へ渡る船はないかね」

房総側に渡る気満々なのですよ。

矢取前不動尊というお寺が三浦半島の久里浜の手前にあるので、矢取はこの辺りだとは思うのですが、後、反対側の鋸山が見えるかどうかも気になるところです。
GoogleMAPで見てみましたが、ギリギリ房総の山々が見えます。鋸山を特定することは厳しいのですが。

本題にも戻りますが、子供に土を投げられた里見義実は手で受けて、

「土は国の基本だ。私は今安房に渡ろうとしているが、天が安房を私に与えようという兆しではないか」

里見義実までその気になっています。

ここで雨とともに龍を見た里見義実と杉倉氏元ですが、杉倉は龍が去った後、こう言います。

「ともかく日は暮れ果ててしまいましたが、この入り江で夜を明かしましょう。安房へお供仕る、とは思いましたが、船はございません」

更に遅れてきた堀内貞行は船を用意していましたが、こう言うのです。

「先に相模路に入った時に、渡海が難しいと耳にしていましたので、近道をしてあちらこちらの漁師に渡ってくれる様に」

決定的ですね(笑)
落ち延びて数日で三浦半島矢取まで来た訳ですが、この間に、三浦の浜から安房に行こう、という段取りができていたのです。
でもなぜ安房に行くのか、を馬琴翁は触れてくれていません。
史上の安房里見氏をなぞったのか、源頼朝の安房上陸をなぞったのか、今となっては分かりません。

ちなみに南を目指すつもりですが、これは東ではないのかしら。
伊能忠敬の地図完成が1821年文政4年ですが、国家機密で出版はしてないと思います。
1814年文化11年に南総里見八犬伝の第一回が出版されていますけど。

左の赤丸が矢取、右の赤丸が鋸山。意外と近そうですが、当時の船で渡るのは怖いです。

 

②安房に鯉はいない?

第三回で安西景連は意地悪でこんなことを言っています。

「出陣の門出に軍神を祀るのだが、供え物としてそれはそれは大きな鯉を用意することになっているのだ。私のために針を垂らして、鯉を釣ってくれれば」

その後麻呂のぼやきに対しても、

「安房の国には鯉はいない」

第四回ではストーカー状態の金碗八郎が、

「安房一国には鯉はおりません。甲斐にも鯉がいないと聞きます」
「陸奥は五十四郡でありますが、鯉はいないそうです」

本当かしら?
でも調べる手立てがありません(´・ω・`)

ここはAIのPerplexityに頼ってみました。

Q:八犬伝で安房に鯉がない理由は何ですか?
A:安房に鯉がいない理由は、安西景連が義実に対して難題を与え、その中で「安房に鯉はいない」という教えを金碗八郎から受けたことが挙げられます。
この設定は、景連が義実を罠にかけるために無理難題を課した結果であり、物語の展開に重要な役割を果たしています

なるほど。でも八犬伝世界ではなく現実にはどうなんでしょう?

Q:安房には鯉はいないのか?
A:南総里見八犬伝には、「安房の国に鯉はいない」という記述がありますが、これは架空の物語の一部であり、実際の歴史や現実とは異なるものです。
歴史的に日本には鯉(マゴイ)が存在し、琵琶湖や利根川水系などで見られます。
安房の国に鯉がいなかったという記述は物語の設定であるため、実際の事実とは異なります。

では甲斐は?

Q:甲斐にも鯉はいないの?
A:甲斐には鯉がいないようです。錦鯉(ニシキゴイ)は日本の新潟県で品種改良や養殖が進んでおり、観賞魚として人為的に改良された品種です
錦鯉は自然界には存在せず、人間が美しい鯉の遺伝子を固定した観賞用の魚です。
甲斐地方において、錦鯉が自然繁殖しているという情報は見当たりませんでした。

うん?
かなり具体的ですね。でも錦鯉ではないのですよねえ。
陸奥も聞いてみましょうか。

Q:陸奥は五十四郡あるけど、鯉はいないの?
A:陸奥には五十四郡ありますが、鯉はいないようです。
提供された情報からは、陸奥地方において鯉が存在するという具体的な記述は見当たりませんでした。

ってことは、馬琴翁の情報はかなり正しいのかもしれません。

ちなみに超意訳では煩雑なので削除しましたが、金碗八郎は安房で鯉を求めることを無駄と言い、その例えとしてこんなことを言っております。
「安房において鯉を求めなさるのは、佐渡で狐を尋ね、伊豆大島に馬を訊くより、意味のないことですよ」
早速聞いてみます。

Q:佐渡島に狐はいないのか?
A:佐渡島にはキツネがいないとされる根拠について、伝説や話が存在します。佐渡にキツネがいないという定説は、団三郎狸(団三郎貉)がキツネを追い出したという話に由来しています。
伝承によれば、団三郎狸がキツネを連れて佐渡島に向かう途中、キツネを草履に化けさせた後、海に放り投げてしまい、結果的にキツネは佐渡島に辿り着けなかったとされています。
 この伝説の他に、金山で使用される鞴(ふいご)の材料として持ち込まれた狸が野生化し、佐渡島に狸が棲みつく一因とも言われています。
この話は狂言や能の演目でも取り上げられており、「佐渡狐」という作品では、佐渡と越後の百姓が佐渡に狐がいるかどうかで賭けをするエピソードが描かれています。
この作品では、奏者(役人)を巻き込んだ賭けややりとりが楽しい展開として描かれており、狂言の中心的な要素となっています。

ちょっとしたトリビアですね。
団三郎狸は日本三大狸じゃなかったかな?

Q:江戸時代、伊豆大島に馬はいたの?
A:江戸時代には、伊豆大島に馬が存在していました。具体的には、伊豆大島では日本の在来馬である「与那国馬」が飼われており、観光乗馬などの活動に使用されていました。
これらの馬は、伊豆大島の伝統文化の一部として、重要な役割を果たしていました。

あらま!
でも与那国島から馬を江戸時代に持ってくることはできたのでしょうかね。
何かこれは違う気がしましたよ。

③漆のかぶれに蟹は効くのか?

第四回で金碗八郎は見るも無残な姿で登場しますが、里見義実の知恵で蟹を食べて、また甲羅を塗って漆のかぶれを治します。
これもAIのPerplexityにお答えをいただきます。

Q:漆のかぶれに蟹は効くのか?
A:漆のかぶれに蟹が効果的であるという話があります。一般的には、漆かぶれに効くとされる方法として、漆にかぶれた部分にサワガニの汁を布につけて患部に貼るという民間療法が伝えられています。
蟹の汁に含まれるたんぱく質成分が一定の効果を持つとされており、現代ではこの方法は使用されないことも述べられています。

なるほど、それなりに根拠がありそうですね。

でも漆にかぶれたら、迷わず皮膚科に行った方が良さそうですよ。

でわ、また。
なぜなに八犬伝でした。


超意訳:南総里見八犬伝【第五回 良将、策を退けて衆兵、仁を知る/鳩が書を伝えて逆賊の首を取る】

2024年03月01日 | 南総里見八犬伝

 麻呂と安西へ遣わした使者が滝田へ戻ってきた。主の山下柵左衛門尉定包に、
「彼らは帰順するとは明確には申しませんでしたが、ひどく恐れていました。必ず近いうちに、自らこちらに参上して罪を詫び、殿の配下になることは疑いございません。様子はこの様に、この様に」
 使者は、あること無いこと言葉を飾り尽くして媚びて告げたので、山下定包はますます調子に乗り、士卒の恨みを顧みず、毎日毎晩遊興に耽っていった。
 玉梓と輿に入り後宮の花々と戯れ、ある日は数多くの美女を集めて高楼で月見を気取り、ある日はたくさんの酒を飲み、ある日は美食を贅沢に食していく。
 殿様である山下定包がこの有様だったので、家老もまた遊興や酒に耽っていく。贅沢をいくら貪っても飽きることはなく、費用に限りがあることを知らない。
 まるで漢を滅ぼした王莽が支那全土を掌握した日、安禄山が唐の祭祀を傾けた時、天は瞬時の間、逆臣どもを照らす様に見えたが必ず長く命を与えないことを分かっている様に、心ある家中の者は、山下定包が近々必ず滅びることを信じ、与しない者も多くいた。

 そこへ城外と城中が急に物騒がしくなり、敵軍が間もなく攻めてくる、と叫ぶ者がいた。
 山下定包は奥座敷で酒盛りをしていたが、騒ぎを聞いても少しも慌てずに、
「敵軍がどれだけのことがあるのか。なまじ虎の髭を抜こうとする火遊び好きの安西や麻呂ではないのであれば、民を脅かす山賊らに間違いあるまい。正体を見てこい」
 と言って物見を派遣した。すぐに物見は戻ってきて、
「敵は安西、麻呂ではございません。山賊でもございません。どこの手の者か分かりませんが、千騎あまり、整然として幾重にも並び、隊列は軍略に適っています。中軍には一ながれの白旗を押し立てており、尋常な敵ではございません。ここを去ること二十余町(2.2キロ)、少しの間人馬の足を休めて今にも押し掛けて来そうです。決して侮ることはできません」
 と息継ぎも苦しく報告すると、山下定包はそれを聞いて眉をひそめた。
「白は源氏の色だ。安房や上総に白旗を用いる者はいないはずだ。これもまた人々を惑わす敵の計略に違いあるまい。それはともかく、敵は必ず長躯してきて疲れていて、この夜明けに攻めてこようするはずだ。休養十分の状態で、疲れた敵兵を迎え撃てば必ず勝つはずだ。追払ってこい」
 と指示して、岩熊鈍平(いわくまどんへい)、錆塚畿内(さびづかいくない)という腹心に五百の軍兵を授けると、二人は欣然と命令に従い、急いで兵を率いて大手門から出撃し勇んで出て行った。
 岩熊と錆塚は結構な勇士で武芸も達者だったが、心持ちが奸侫で、なすことやることすべてが山下定包の意向に沿っていた。一二の家老と重用されて、すべてが傍若無人な振舞いだったが、周囲の者は皆圧倒されて、仕方なく憎しみを隠して下風に立っていた。
 従って山下定包は日頃から両人を頼みにして、今回も討ち手の大将として選んで派遣し、
「今頃は、きっと寄せ手の者どもを蹴散らしているに違いないだろう。騒ぐこともなかろう」
 として、士卒にただ門を守らせ、自分自身は奥に入って女たちを呼び集め、歌や踊りに興を催すのだった。
 酒宴がたけなわになったころ、周囲が急に騒がしくなった。山下定包は、やめろやめろと叫んで宴会の管弦を止めさせた。
 耳を澄ますと、
「変わった声が聞こえるな、小姓どもは見てこい」
 左右に侍っていた二人の小姓が立ち上がった途端、庭の方から先に討手として向けられていた軍兵が五六十人、座敷の縁側近くまで押し掛けてきた。彼らは、数か所深手を負った大将の岩熊鈍平を盾の上に乗せて運んできた。
 異口同音に、ご注進、ご注進と喚き、手負いの大将を乗せた盾を地面に置いて、二手に分かれて畏まって座った。皆、端武者であるが、二か所三か所の手負いである。
 それを見た玉梓は錯乱した。侍女らに支えられて、屏風の後ろに引っ込んでしまった。
 まるで敗軍の体たらくに山下定包は、途方に暮れて、
「これは何ごとか」
 問われて、岩熊の配下は恥ずかしそうに頭を掻きながら、
「申し上げるも面目ないことですが、大将の軍配に味方の動きが従いませんでした。敵は聞きしに勝る勇将と士卒です。しかも大軍でございましたので、撃っても射ても物ともしません。一陣を指揮して進む猛将は、鎖の上に大きく粗目で編んだ鎧を重ね着して、長さ一丈(約3メートル)あまりの槍をりゅうりゅうと振り、眼を大きく見張って大きな声で申しました」
 どのように申したのかと聞くと、
「群賊、天罰を免れんぞ。白刃が首に迫っているのを知らずに、我らに歯向かうのは愚かである。里見義実朝臣がここに降臨なされた。民が押して主君と仰ぎ、逆賊を討ち年来の恨みに報う、ことの手始めに東條の城を降し萎毛酷六を討伐し、更には滝田の城を降伏させ、逆賊の山下定包をも討とうと、この金碗八郎孝吉が先陣を承り、ご案内してきたのだ」
 耳の痛い話はまだまだ続いた。
「そこへやってきたのは賊将、錆塚と岩熊と見るのは見間違いか。昨日までの旧主に仕えて、お前たちと供に神余の禄をいただいた金碗八郎を忘れはしないだろう。私はかの旧主のために、漢の劉邦を助けて秦と楚を打ち倒した張良子房の孤独な忠義に習って、里見の君に従うことにした。義兵を挙げることをお勧めし、刃を血塗らずして最小の犠牲で一城を抜き、二郡を攻略し、すでに敵の巣窟に最も近づいた。非を悔いて兜を脱ぎ、味方になる者は生き延びるだろう。なまじ戦う者は天に向かって唾を吐く様に、苦労だけして、徳がないどころか必ず咎がその身に掛かるだろう、さあ、試してみるがよい」
 報告は佳境に入った様である。
「そう叫んで、馬で乗り込んできた金碗は、槍を閃かして縦横無尽に振るいました。早くもお味方の一陣を突き崩して、大将の錆塚と槍を合わせたのですが、一騎打ちの最中に金碗孝吉が大喝したのです。錆塚畿内は槍を落としてしまい、胸元を突かれて落馬しました。そこへ敵の雑兵が集まってきて、押さえ込んで首を取られてしまいました」
 まさかの悲報であった。
「錆塚が討たれてしまったので、陣に控えていた岩熊鈍平が激怒して四尺六寸(138㎝)の太刀を抜いて、金碗に向かいました。真正面から近づくと、敵の二陣を進む里見の老臣、堀内蔵人貞行と名乗った武者が、紺の糸の鎧と鍬形を打った兜を着て、連銭芦毛の太く逞しい馬に跨って出てきました。切っ先が菖蒲形の備前薙刀を脇に挟み、金碗に会釈して、奴は私に討たさせて下さいと言い、馬を躍らせ、突撃して岩熊の行く手を遮り、丁々発止に戦いました。切っ先から火花を散らし、腕前は互角と見えましたが、岩熊の馬の首が切り裂かれてしまい、人馬もろとも転んでしまったのです。堀内貞行が薙刀を伸ばして、兜の額のところを突き、岩熊鈍平は討たれるに違いないと思いました、そこで私たちが肩に乗せて辛うじて逃げました。敵の大将里見義実は若い馬を派手な馬具で飾り、華やかな鎧を着て、威風堂々と四方を睨み、優雅に指揮の旗を振っていました。掛かれ掛かれと命令していました。敵軍は潮が湧く様に勢いよく叫んで攻め立ててきましたので、味方はますます辟易して、とうとう兜を脱ぎ、弓を伏せ、ほとんど降参してしまいました。逆にこちらを弓で射ってきましたので、わずかに残る六十余騎が深手浅手を負い、ようやく必死に逃げ帰りました」
 配下の報告の後、岩熊鈍平は面目なげに何かを言おうとしたが、髪も酷く乱れ、背中も馬に踏まれていたので、頭を持ち上げることもできない。冬の蜂が陽を待つかの様に弱々しく、怪我の痛手に喘ぎ、虫の息ばかりで物の役に立ちそうもない。
 山下定包は聞いた途端に眉をひそめ、大きなため息を吐いた。
「里見は結城の味方だった者だ。結城城が落ちた時に討たれたと聞いていたが、安房に漂泊して大軍を動員できたというのは、理解できん。東條が落城して萎毛酷六が討たれたというのであれば、残兵がここに戻ってきて、報告しないということがあってはならん。また金碗孝吉は神余譜代の近臣だが、逐電した曲者だ。身の置くところがなく、密かに帰って来てあちこちの愚民を惑わし、野武士を集めて、様々な流言を流して、こちらの英気を挫く偽りの計略に違いあるまい。従って寄せ手の総大将は、本当の里見ではないぞ。そうは思うが」
 自信が無さげになっていく。
「私の腹心、股肱の勇臣の錆塚畿内は儚く討たれ、岩熊鈍平は深手を負い、たまたまの時運によるとは言いながらも決して侮れない敵である。いよいよ四門の守りを固くして、東條城へ人を走らせてあちらの消息を調べれば、事実かどうかは分かるだろう」
 言葉も終わらぬうちに小姓らが走ってきて、東條城の落武者が逃げ返ってきた旨を報告した。
 山下定包はそれを聞いて、
「これもまた嘘ではなかったのか。報告を直接聞くから、東條城からの落武者を庭に連れてこい、急げ」
 小姓は命令に従って走り出した。

 しばらくしてから東條で萎毛酷六に従っていて、辛くも脱出した雑兵らが三四人庭へよろめきながら入って来た。籠手や脛当て、腹巻といった軍装は厳めしいが、餓鬼の様に疲れ果てており、足取りは重いのである。
 山下定包は彼らを近くに呼び寄せて、
「者ども、東條を攻められたのなら、落城するよりも早く注進せよ。敵軍がこちらに寄せた後に、おめおめと参るとは。六日の菖蒲、十日の菊と言うが、時機に遅れて役に立たないのう。返す返すも落ち度であるぞ」
 と睨むが、畏れ多いことではありますが、と全員が返答をした。
「お怒りになるのはごもっともでございますが、わずかの間に攻められて、落城してしまいました。ご報告する暇もございませんでした。この様にこの様に」

 小湊の村長が金碗八郎孝吉を縛って、深夜に城の門を開かせたこと。
 隙も見せずに大軍が城内に入りこんで落城させたこと。
 萎毛酷六が妻子を連れて垣の内から逃げる途中、妻子は金碗八郎に追われて、谷の底へ転落して死んだこと。
 萎毛本人は金碗に討たれたこと。

 以上の内容を細かく述べ、
「私たちはこのことを片時も早く告げようと思いましたが、城兵の大半が降参してしまい、敵はますます勢いづきました。大きな街道を走れば追撃されること間違いなしと思いまして、小径に入って山越えをすれば、滝田の城に到着するのが敵の後になってしまいました。お咎めを被ること、是非に及びません」
 と詫びたのである。
 山下定包は歯をぎりぎりと食いしばって、
「さては、金碗八郎が結城の落人を引き入れて、すべて奴が計画を練ったのだ。私自ら馬に乗って、まず金碗めを生け捕らなくてはこの熱くなった身体のたぎりは抑えられん。さあ、出陣の準備をせよ」
 と躍り上がって大見得を切った。
 しかし古強者の士卒たちは口々にやめた方が良いと呟き、東條からの落武者に眼で合図を送った。皆で手負いの岩熊鈍平を抱えて、退出したのである。
 それを知らずに、山下定包は敵を口汚く罵っていたが、ふと気づくと辺りに人がいなくなっていることに気づき、黙り込んだ。
 冷静に考えてみると、なまじ打って出てはとても危ない、と独りうなづき、老臣や近習を再度呼んで、今度は籠城の準備をあれこれと指示した。
「義実は、大軍といっても元々烏合の集まりだ。今日から十日も待たずに、兵糧がつきて撤退するに違いない。その時追撃すれば金碗はもちろん、大将の里見義実を虜にすることは袋の物を取るより簡単だ。しかし麻呂や安西らが義実に味方して一緒に攻めて来たら大変なことになる。思うに麻呂小五郎は、知恵のない匹夫で取るに足らん。恐ろしいのは安西だけだ。前から奴には思慮があると聞いている。だが、今、利を持って安西らを誘い、この様にあの様にして東條を取り返すと、義実は一旦逃げたとしてもどこにも帰るところがなくなるだろう。進退極まって、雑兵の手に掛かって死ぬのだ。敵がここに来るまでに使者を出そう。誰か私のために館山、平館に使いするする者はいるか」
 山下定包が問うと、妻立戸五郎(つまたてとごろう)と呼ばれる者が声に応じて進み出た。
「使命は私が承ります」
 と言うと、山下定包は大変に喜んで、
「お前は、錆塚畿内、岩熊鈍平と同じく私の考えを分かってくれる者だ。行ってくれるか」
 得意気に山下定包は考えを述べた。
「館山、平舘へ急いで行って、安西景連たちにこう言うのだ。定包は、古主神余光弘の後継ぎとして遺領を収めて、新たに二郡を領しました。結城の落人里見義実が当国に漂泊して、愚民を惑わし、野武士を集め、不意に東條の城を乗っ取りました。勢いに任せて、すでに滝田城へ押し寄せています。兎煮られて狐が憂うと申しますが、明日は我が身、この災いは必ず皆様に及びます。定包は不肖ではございますが、正しく神余のすべてを受け継ぐ者であれば、旧交がございます。安西殿、麻呂殿は、隣国の危機を救わずに共に落人の被害を受けようというのでしょうか。速やかにご出陣いただき、東條を攻め落とし、敵の背後を襲い下さい。里見義実が三面六臂の強者といえども、三方向に敵を受けて防戦できる訳もなく、全滅すること疑いはございません。義実を容易く誅殺すれば、これは安西殿と麻呂殿の功績でございます。定包は平群一郡、滝田一城にて十分です。誰であっても、東條を攻め落とした人に長狭郡を献上しましょう、と丁寧に言うのだぞ」
 妻立戸五郎は顔を上げて、
「ご命令ではございますが、里見が滅んでも、長狭郡を他人に取らせて自ら所領を削るというのであれば、よそに援軍を頼むのは良くないことでございます。良くお考えにならないと後悔なさいますぞ」
 老臣とともに諫めると、山下定包は途中で微笑み、
「お前たちもそう思うか。これは私の計略なのだ。漁夫の利で長狭一郡を餌にして、安西と麻呂に東條を取り返させ、更に里見を滅ぼさせれば、両者は利に迷って確執に及ぶだろう。必ず東條を巡って争い、合戦になれば片方は傷つき、片方は負ける。私はその隙に乗じて、安房、朝夷の二郡を取るのだ。当国はここに統一され、いながらにして四郡を握ることができるのだ。楽しいではないか」
 得意顔に説明をすると、妻立戸五郎はひたすらに感嘆して、山下定包の書簡をもらい受けた。軽い軍装を身に着けて、駿馬に鞭打ち、館山を目指して向かって行った。

 里見の軍は、未明から滝田の城を取り巻いて、息もつかせず攻めていたが、攻略は難渋していた。滝田城は、神余数代の名城であり、要害であり、堅固であった。
 一朝では落ちず昼夜を分かず攻めること、すでに三日目に及んでも、城兵は出て来ない。寄せ手もさすがに疲労して、今はただ遠くから囲んで攻めるだけにしていた。
 そこへ武者が一騎、暮れていく夕日とともに西の城戸から入ろうとして、堀の端を目指して馬を寄せるのが見えた。
 堀内貞行はきっとにらんで、
「奴は城から出て、麻呂や安西に助けを乞い、今戻ってきた者に違いあるまい。生け捕るのだ」
 と叫ぶと、血気に逸った若武者たちが承ると答えて、追い掛けた。
 城中からもこれを見て、妻立を討たせるなと、西の城戸を開いた。妻立戸五郎は素早く馬を入れて、堀に掛かっていた橋を降ろしたので、寄せ手は狩場で驚いて逃げ出した獲物の鳥を得られなかった様である。付け入ることもできずに焦燥して、この上は力攻めしようと騒いだので、総大将の里見義実は堀内貞行らを集めることにした。
「怒りに任せると必ず後悔するぞ。あの武者を生け捕って、使いの内容を詰問して首を刎ねても、安西、麻呂と示し合わせて我が軍の背後を突けば、城は落ちるどころの話ではない。孫子の教え通り、常山長蛇の隙がない陣法を取り続けるために、すべての攻め口が共同して前を攻め、背後に備えるのだ」
 と言い聞かせた。
 麻呂や安西の来襲を防ぐために、五百の軍兵を割いて、堀内貞行を後陣の将として備えさせ、更に東條城へ伝令を送って、留守居の杉倉氏元へ油断せぬようにと指示を出した。
 そして金碗孝吉とともに里見義実は、城を包囲して火の様に攻めた。

 一方、山下定包は妻立戸五郎が無事に帰還したのを聞いたので、急いで彼を呼び寄せた。
 交渉の是非を尋ねると、妻立小五郎は流れる汗を拭いながら、
「はい、安西景連も麻呂信時は論議もせずにすぐに承諾していただきました。あの里見主従は、

【滝田の城攻めに堀内貞行ら妻立戸五郎を追う】

一生懸命に逃げる妻立戸五郎

 

始め安西殿の館山に身を寄せたらしいのですが、かなり脅されて、憎まれ口を叩いて逃げ出した愚か者だそうです。どうしてわずか数日で大軍を起こすことができたのか分からないと、安西殿も麻呂殿も悔しそうに思っている様子でしたので、東條を攻めることは疑いございません」
 と報告した。
 山下定包はますます喜び、妻立戸五郎を労ってたくさん褒美を与えた。
「尚一層、寄せ手を防げ」
 として、館山と平館からの援軍を待つとした。

 こうして日数が経過して寄せ手の里見軍はすでに兵糧の貯えが無くなり、残すは三日間分しかなくなってしまった。
 堀内貞行はと金碗孝吉はこれを憂いて、里見義実に具申した。
「出陣してすでに七八日経ちましたが、東條から未だ兵糧が参りません。考えるに杉倉氏元は老巧の兵ではございますが、あそこは新しく切り取った城でございます。民が催促に従わず、物資が不足しているのかもしれません。時は今、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏でございます。あちらをご覧下さい、遠くの山々の畑の麦が熟しておりますぞ。刈り取ってはいかがでしょうか」
 里見義実は首を振って、
「いや、私が滝田を攻めるのは、民の塗炭の苦しみを救うためだ。しかし今その作物を奪い、生麦を掠め取って我が軍の兵糧とすることは、人間を食らってその身を肥やす虎狼と同じではないか。これのみならず、長狭の農民が催促に従わず、ここかしこに兵糧が届かないのは、私の徳が至らないからだ。速やかに退陣して、徳を治めて民を慈しみ、時機を待って改めて滝田を攻めよう。そうではないか」
 と言った。
 堀内貞行はしばらく頭を傾けていたが、
「殿の仁心は深うございます。ご自身をお責めになって、ここまで民を憐れみなさることは、本当にありがたいことでございます。しかし今このままここを退却いたしますと、必ず城から打って出て参ります。難儀なことになりますので、今宵は、かがり火の数を増やして攻め掛かると思わせ、真夜中過ぎに後陣から軍兵を退かせましょう。森に伏兵を残し、殿は中軍、私が最後尾を仕ります。たとえ城から追撃して撤退を食い止めようとしても、これなら心配はございません」
 と言ったが金碗孝吉はすぐに、
「杉倉氏の計略、悪くはありませんが、ただ身を守り、敵を防ぐだけのものです。愚案を申し上げます」
 金碗は過激な策を提案するつもりである。
「三四百の武士らに計略を申しつけ、麻呂と安西の旗を持たし、更に指物や笠印まで敵の模様の変装をするのです。黄昏過ぎる頃合いに、城のそばを通らせて味方も出撃するのです。城中からこれを見れば、館山や平館の援軍の兵を討たすな、と城戸を開くでしょう。変装した軍に力を合わせ、城へ迎え入れようとするはずですので、その際、全軍で城に入って一挙に城を落としましょう。この作戦はいかがでしょうか」
 と大変に細かい作戦を献策すると、里見義実はつくづくと言った。
「貞行の策は危険は少ないが、私に利が少ない。孝吉の策は、巧妙だが危険が多い。考えるに、古の聖王、賢将は仁義の戦を起こすので、嘘偽りによって勝つことを図ったりはしない。昔の中国の晋の文公は、計略を用いずに春秋五覇の一人と称せられ、良く周の王室を助けた。孫呉の兵法は偽ることを基本とする。これは戦国の習いだ。計略を良しとしても、嘘偽りで敵を滅ぼしたとしたら、以後その領土を治める時はどうやって民を導けば良いのだ。お前たちの計略に素直に従えないのはこの点だ」
 里見義実は二人を見てから続けた。
「山下定包は、豊かに富んだ地を保ち、要害の城に籠っている。また三年ほどの兵糧の貯えがあるということだが、防御の手立てはごく普通であるから、決して落とせないことはないだろう。しかし一時でも城を落とせば、罪なき民が多く死ぬのではないか。前に何回も言った通り、定包に従う者すべてが悪なのではない。権力にいやいや恐れ従い、一旦城に籠ったとしても本意ではないはずだ。城と運命を共にして、命を落とせば、非常に痛ましいことになる。降伏した秦の将兵八万人を落とし穴に葬った、項羽の凶暴さは言うまでもない。秦の将軍蒙恬、前漢の将軍霍光の様に智勇を備えた名将軍の後を継ぐ者はなかなかいない。人を多く殺しては名将とは言えないのだ。目標はただ定包のみ。ただ奴一人を倒せば良いのだ。この一点以外、議論するには及ばん」
 と心を込めて言い聞かしたので、堀内貞行も金碗孝吉もため息を吐き、感服して何も言うことはなかった。
 しばらくしてから二人は、
「殿の賢慮は、昔の聖王、賢将よりも高うございます。しかし時はすでに末法の世、乱れた時代になり、利にだけに釣られる者が非常に多く、徳に寄る者はほとんど少のうございます。殿の兼愛は深く、敵城に籠る民衆までお助けなさろうとのお考えでございますが、二つは両立いたしません。我らの兵糧はすでに尽きようとしながらも、謀略で城を落とすことをせず、計略で撤退する振りをなさろうともしない。無駄に時間を費やしますと、お味方の千余人の大部分は飢餓に耐えられず、離反いたします。そうなりましたら、また誰と大事を起こすことができるでしょうか。宋襄の仁は無益な憐れみ、微生が信(まこと)は融通の利かないこと、は日頃お笑いになるお話でございましょう。しかしここでまた賢慮を巡らせることをするのであれば、宋襄の仁であり、微生が信と同じですぞ」
 と忠告するが、里見義実はにっこりと笑って、
「兵糧が乏しくなるのは、私もまた心配していた。いろいろ考えながら空を眺めていて気づいたのだが、東南の巽の方角にある豆の畑で、鳩がたくさん餌を探しているな」
 里見義実は何かを思いついた様である。
「鳩はどこから集まったのかと見ていると、滝田の城から朝来て、夕方になったら帰るようだ。鳩は源家の氏の神、八幡宮の使者だと言うぞ。これによって不意に思いついたことがあったので、神に祈りつつ、若者どもに命じて例の鳩を五六十羽を捕まえた。そして檄文を書きしたため、鳩の足に結んで放せば、必ず城に帰るだろう。城内の者が怪しんで鳩を捕まえて檄文を見つけるだろう。捕まえられなくても、結び目が解けて落ちるものもあるかもしれん。檄文を見て逆賊の元から去り、道理に従う者が出てくるかもしれない。その気になれば、変が起きて、攻めずとも城は必ず落ちるかもしれんぞ。ことがもし起きれば、前の領主の仇、逆賊山下定包だけを討って、民の希望を果たすこともできるだろう。城兵はやむなく定包に従うことになったが、本意ではなく、こちらへ降参したいが死罪になる恐れを危惧して、仕方なく仇のために仇のいる城を守る者もいるはずだ。それもまた気の毒なことよ。子供の知恵に等しく、儚い計略であるが、先に滝田に向かう途中、待崎のほとりで白旗の神社に祈った時に、鳩の祥瑞があった。今また鳩の助けがあればと祈るのみだ。願いが成る成らないは神に任せて、今は見ていよう」
 堀内貞行と金碗孝吉はとうとう受け入れて、
「良く計略を謀られたものだ。今、山下定包の罪を数えて城中に示すとは、これより素晴らしい策はございません。軍民が一度その檄文を見れば、激怒して反乱を起こして、逆賊の首を献上することでしょう。速やかに行いましょうぞ」
 と、言葉等しく返答した。
 金碗孝吉は文章を作る役目を引き受けて、下書きを綴る合間に、字の書ける士卒を集めた。数十通を立ちどころに写し書きさせた。
 日はまだ沈んでいない。その間に里見義実主従は香を焚き、神酒を注いで、白旗の祠の方角を遥かに拝んだ。
 数十羽の鳩の足に例の檄文を結びつけた後、そのまま空に放した。狙い通り鳩は飛び上がり、群れとなってすべてが城中へ帰っていく。
 自分で結び目をほどく訳もなく、また書状は固く結ばれてもいなかったが、鳩が城中に入ると、不思議なことに、今回滝田の軍の徴用に駆り立てられた平群の百姓たちの小屋のほとりへよく落としていった。
 集まった百姓らは、この書状は何かと戸惑って手に取って広げてみた。

 水の流れは高いところへ流れない。同じ様に良民は逆賊に従わない。
 もし桀王(古代中国の夏の暴君)を助けて、尭(古代中国の聖王)を討つということは、水が高いところへ逆流するようなものなのだ。
 これを天に背いて、道理に背くと言う。長く平安でいて欲しいと思っていても。

 そもそも賊主定包は、奸計を以って旧主を倒し、害虫が作物を食い荒らす様に民を虐げる。
 王莽(前漢を滅ぼした悪人)、安禄山(唐を滅ぼそうとした悪人)と言えども、なぜ民に加虐を行うのか。

 翻ってみれば、我が主、源朝臣、南に渡ってやって来た。
 まだ数日というのに、民衆に推されて、悪を討ち、民を塗炭の苦しみから解放する。
 徳は成湯(夏の桀王を討った殷の初代王)のごとく高く、周の武王(殷の紂王を滅ぼす)に匹敵する。

 ここにおいて東條城を取り、二郡を治めて、逆賊の巣を破ろうとする。
 汝ら民衆を憐れんでいる、その命を逆賊の巣に落とすことを。

 従ってここに諭して申し上げる。
 なぜ速やかに帰順しないのか。なぜ功名を以って罪を償おうしないのか。
 汝らが戸惑っていても、後で後悔しても、取返しがつかない。
 天はご覧になっている。王のなされることは脆くはない。

 恭しく申し上げる。将軍のご命令を以って諭し示す。

 嘉吉元年 辛酉夏五月

 金碗八郎孝吉ら奉ずる

 と書いてあった。

 滝田城に籠っていた軍民はこれを見て、喜んで言った。
「あの御曹司は仁君である。ほとんど殺生せずに東條の城を落とし、今また我々をこの様に憐れんで心配してくれている。お名前を聞けばお慕いしたく思ってはいるけれども、情けないことではあるが、この様にお城に駆り出されて、十重二十重に囲まれていてはお側に近づくこともできない。塀を越え、堀を越え、あちらへ参ったとしても、今更お許しいただける訳もないと考えた故に黙って何もしないでいた」
 だんだん熱を帯びていく。
「所詮、寄せ手の里見軍へ内通しようと、隙を伺っているうちに数日立ってしまい、ことが発覚すれば内通どころか皆殺されてしまう。思い起して、今すぐに城に火を放ち、煙を上げて、寄せ手を誘い込み混乱に紛れて、逆賊の人食い馬(山下定包の蔑称)を打倒し、その首を持って里見軍への見参の引き出物にしよう。そうすれば、一つには年来の恨みを果たし、もう一つ、里見の君もお褒め下さるに違いあるまい、皆、どうであろう」
 密かに集まって談義はほぼ固まったが、危ぶむ者もいた。
「第一の部下である錆塚畿内は討ち死にしたが、まだ岩熊鈍平は手傷が大分癒えて、二の城戸を守っているぞ。先君、神余光弘がまだお元気なころ、彼は馬飼いであるが勇ましく、力が強かった。山下定包が二郡を横領した後、次第に重用されていき、民を圧政で絞り取り、ずる賢いことは定包と一緒ではないか。また妻立戸五郎は、子供時代から山下定包に使われて、今は随一の近習になった。武術やたしなみは優れており、今なお主人に寵愛されている。まずこの二人を討取らなければ、城へ乱入しても、彼らは徒党を組んでいて数が多い。邪魔をされては本意を遂げることができん。この点はどうするのだ」
 と相談する。
 聞いていた者たちはもっともだとうなずき、
「では両人を討って、定包の両翼を取り除いてしまおう、思う存分働こう」
 と討取る段取りをするのだった。

 その次の日、妻立戸五郎は、例の檄文を拾い読みし、読んでいくうちに驚き、慌てふためくのであった。急いで二の城戸にいる岩熊鈍平のところへ行き、
「この様な文がありました。急いで百姓たちを捕まえて、災いを未然に防がなくては大事になるでしょう。これをご覧なさい」
 と懐から檄文を取り出して見せようとするが、岩熊鈍平は見ようともしなかった。
「同じ檄文を拾って、驚いていたところだ。ここにもある」
 果たして突き合わせて見れば、文章も言葉も間違いなく同じものであった。妻立戸五郎は思わずため息を吐き、
「寄せ手の間諜の計略が当たって味方が反旗を翻せば、城を守ることができん。これはおろそかにできませんぞ。さあ、一緒に殿にご報告いたしましょう」
 と言う妻立のたもとを引き留めて、岩熊鈍平はこう言った。
「妻立氏よ、しばらく待て。お主に分かって欲しいことがある」
 部屋の隅に妻立戸五郎を連れていき、辺りを伺うが誰もいない。花をついばむ小鳥の様に何度も左右を振り返るのである。
 扇に口を押し当てて、妻立の耳に口を近づけて、
「私はこの密書を読んでからいろいろ考えたのだが、寄せ手に心を移して城を献上しようと皆が思っている様だ。そう思わないのはかくいう私とお主だけだ。だから私とお主を討取ろうと意見が決まったらしい、と誰かが囁いていた。大きな楼閣が倒れようとしている時に、一本の木では支えることはできん。なまじ義を立てて、雑兵どもの手に掛かって死ぬのはご免被る。速やかに決断して、山下定包を討って、城中の民と一緒に里見殿に降参しよう。そうすれば、皆の恨みを買わずに殺されることもなく、行賞も思いのまま。栄光を子孫たちに伝えよう。お主の考えはどうだ」
 問われた妻立戸五郎は呆れて、
「どうかしたのか。狂われたのか、岩熊殿。お主が神余にお仕えしていた時はただの馬の口取りであったのに、今の我が君が重く用いなさって、神余光弘殿の家老であった錆塚氏、萎毛氏と一緒に大事を任せておられたではないか。私は山下定包の若党だ。神余の配下でいた時から可愛がっていただいた恩を忘れて、恩に報いるに仇を持って報いるなど、それは人間のすることではない。命を惜しむのは勇もなく、主人に背くのは大逆だ。何か一言でも言ってみよ、逃がさんぞ」
 と怒って膝を突き立てて、刀の柄に手を当てた。
 だが岩熊鈍平は少しも騒がず、逆に嘲笑うのだった。
「忠義も主人によるものだ。馬鹿なことを言うな。今、山下定包を討つということは、主人の仇を取ることなのだ。それを弑逆と呼ぶな。定包が以前から自分を恨むという杣木朴平と洲崎無垢三らに謀略を仕掛けて、主君神余光弘を討たせたこと、口外するのが今が初めてだが、分からなかったか」
 岩熊鈍平はなぜか得意気である。
「しかもあの日は朝曇り、夏なのに寒い落葉が岡で鷹に追われた鳥の様に、神余光弘が乗った雲雀毛の馬が倒れた時、山下定包は自分の白馬を主人に乗換えさせて、新たな乗換えの馬を用意させなかった。定包自身はそこで引き下がったから、朴平と無垢三は、近づいてきた白馬を見て定包がやって来たと思い、矢を放ったのだ。光弘は放たれた矢に胸を射抜かれて落馬した。だがその前日に、定包は私を密かに呼んで、計略を明かされた。しかも狩りに出発する直前に、光弘の馬に毒の入った餌を与える様に命じたのだ。ことが成った時は重く用いるから、今は当座の褒美としてたくさんの物を頂いたわ。私も世にあるまじきことと思ったが、彼は家老の筆頭、私は下僕、断れる訳もない。拒否すれば殺されただろう。命には代えられないと迷わず、引き受けて毒の餌を与えたのだ」
 岩熊鈍平の告白は続く。
「こうして二郡と滝田城、東條城は、私が山下定包に取らせたのだ。私に報いようと、今は家老の末座におり、大事を任されることもあるが、全然恩を受けたとは言えん。これらを知る者は、萎毛殿、錆塚殿の両人だったが、彼らは泉下の人となってしまった。今ではお主のみだ」
 矛先は妻立戸五郎に向けられた。
「そればかりではなく、妻立殿、お主は前から、玉梓の奥方に想いを寄せており、及ばぬ恋に焦がれていると私は踏んでいる。であれば早く考え直して、人食い馬の山下定包を討って、褒美と引換えにしても、玉梓を妻にするのは恐らく簡単だろう。どうだ、力を貸さないか」
 と熱心に口説かれた妻立戸五郎は、心を動かされて腕組みを解いた。そして膝を打ち、
「岩熊殿の言われたことは正しい。逆賊に従ってきたこの身の穢れを洗い流すために、目先の考えを捨てて大義を語る、あなた様のお考えに従います、さあ、急いでことを行いましょう」
 承諾したので、岩熊鈍平は大層喜んで、
「ではこの様に致そう」
 と耳打ちをして忙しく語り合うのだった。

 この時、山下定包は二日酔いがまだ醒めないとして閨を出なかったが、女童のみ数人を周りに侍らせていた。
 御簾は半ば巻き上げてあり、柱に身を寄せながら、慰みのつれづれに尺八を吹いた。だが、頭の中にあるのは戦のことばかりである。
 そこへ妻立戸五郎を先頭に、岩熊鈍平が入って来た。
「大変です、大変です」
 と叫んで部屋ごとの障子をすべて開け放ち、定包のそばに近づいてきた。
 言い含めてある子飼いの者たち数十人が簡易な武装を身に着けて、武器を持っている。彼らは二人からは少し遅れて、花鳥風月が描かれた障子に隠れて、ことの成行きを固唾を飲んで見守っていた。
 山下定包は、岩熊鈍平が急いで入ってくるのを見ると、尺八の音を止めて、
「これは何ごとか」
 と尋ねた。すると同時に二人は等しく声を上げて、
「積み上げてきた悪事には報いがあるものです。城中の者は皆背き、寄せ手の軍勢を引入れようとしています。落城はもう間もなく、さあ、腹をお切りなさいませ。我々が介錯致します」
 言い終わらぬうちから先頭を進む妻立戸五郎は、刀をぎらりと抜き、躍り掛かって切りつけた。
「差し出がましい振舞いをするな」
 尺八の笛で受け止めたが、笛は斜めに切られて先端は飛び散った。
 最初の太刀で打ち損じた妻立戸五郎は、主人である山下定包に臆してしまい、武者振るいしてそれ以上進めないでいる始末だ。
 山下定包は怒れる眼尻を引き立てて、
「さては汝ら謀反を企てて、余を討ちに来たのか、この馬鹿者どもめ」
 と怒って立ち上がろうしたが、妻立戸五郎と岩熊鈍平が隙間なく放つ刃を潜り抜けて受け流した。切り口が尖った尺八を手槍の穂先の代わりにしようとするが、身に寸鉄がない。
 仕方なく後ろに飛び下がって、尺八を手裏剣代わりに投げた。妻立戸五郎は右の腕を打たれて、苦悶の声を上げると同時に刃を落として尻餅を着いた。
 機会とばかりに山下定包は走って落ちた刃を取ろうした瞬間、岩熊鈍平の太刀が降り掛かった。切っ先は肩先から斬りつけられて、定包は刃を拾うことができない。
 また岩熊鈍平が斬りつけた。何とか刀の鍔元を持って取っ組合いとなった。
 上となり下となりしばらく刀の奪い合いとなるうちに、山下定包は深手を負っていった。だんだん力が弱くなると、岩熊鈍平に

【岩熊鈍平、妻立戸五郎、閨に山下定包を撃つ】

山下定包が裏切られる様。妻立戸五郎の右手に尺八が刺さっています。

尚、上には檄文を足に着けた鳩がいますよ!ポーッポ

 

遂に組み敷かれると、助けを求める他はなかった。
 首を掻かんと岩熊鈍平は腰を探ったが、脇差しは争った時に落としていた。どうするかと慌てたものの、周囲を見ると右手に倒れていた妻立戸五郎に刺さっていた笛竹を好都合とばかりに抜き、抵抗する山下定包の咽喉にぐさと貫いた。
 妻立戸五郎は笛竹を抜かれて正気づき、跳ね起きると同時に落ちていた刀を拾って、岩熊鈍平に渡した。そしてとうとう岩熊は山下定包の首を切り落として立ち上がったのである。
 多くの兵士は、岩熊鈍平らに加担していたため次の間まで来てはいたが、山下定包に対する反逆の結果を分かりかねて、どちらにも手出しをしなかった。しかし定包が討たれるのを知ると、障子や襖を叩いて、勝どきの声を上げたのだった。
 今は亡き主人の左右に仕えていた女童たちは、この惨状に泣き喚き、庭から外に走って去って行った。これを見たり、女童から話を聞いた近臣や侍が集まってきたが、岩熊鈍平の配下に止められたり抑留されたりして、この時多くの侍が討たれてしまった。
 また女たちもただ泣き叫ぶだけだったが、岩熊鈍平は配下に命じて、玉梓を含め一人も残さずに捕まえてしまった。更に金銀財宝を思うがままに掠め取って、大広間へ向かっていく。
 なるほど、天が人を罰するには、時間が掛かってもことの重さを間違えることはない。
 山下定包は、奸智を逞しくして、主人神余光弘を謀殺し、その所領を奪い、かりそめの富を得たといっても、百日も経たずに自分自身も家臣に討たれてしまった。しかも首を取られる時には、刀を用いずに、切り口の尖った笛竹による竹やりの刑に処せられた。
 また例の妻立戸五郎は山下定包の恩顧の者であった。笛竹の手裏剣に刺されて一旦息絶えた。恐ろしいことではあるが、悪人ではあっても、主人を討とうする行為に対しての天の冥罰なのだ。
 特に岩熊鈍平のその罪は重く大きい。
 神余の馬飼いであった時に、悪逆と知りつつも山下定包の命に従って主の乗馬を毒殺し、また定包に仕えてからもますますその悪を助けていった。その酷薄さで人々を苦しめ、ここに及んで悪行から逃れようとして、今度はまた主人を討つ。
 例え今後は善人に味方をするといっても、この様なことでは後に栄えることができるだろうか。

 その昔、後漢の光武帝は自分の主人を殺してしまった子密(しみつ)を不義侯と呼んだ。
 不義によって出世するより、普通に生きた方が良いというものだ。作者である滝沢馬琴は、歴史軍記を読む際にこの様な下りに触れても大きなため息を吐いたりはしない。自分で注を付記して、読者である子供たちに不義は悪いことであると伝えるのみである。
 山下定包のことは軍書や古い記録に伝わってはいるが、詳細は明らかではない。けれども、主人であった神余光弘を殺害し、悪人であったことは間違いがない。
 今なおあちらこちらに古跡が残っている。長くなるのでこれ以上は触れないが、また後々の話で出てくるだろう。

 

(続く……かも)