神々の雑談

三重県内及び近県の神社を写真を添えて紹介します。

謹賀新年 2014

2014-01-05 21:01:09 | 神社
                                                                                                                                                                  明けましておめでとうございます、今年は紀州熊野へ・・・・・・・・
熊野市波田須町  波田須神社 





熊野市波田須町  徐福を祀る神社  徐福の宮





  紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)、徐福(じょふく)。
 いまから2200年くらい前(日本でいえば弥生時代初期)に、始皇帝の 命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年少女とさまざまな分野の技術者を引き連れて船出し、熊野に上陸したと伝えられています。
 その徐福を祀る神社が熊野市波田須町にあり、 波田須では次のような徐福渡来伝承が伝わります。
 徐福一行は何十艘もの船で船出したが、台風に遭い徐福の船だけが波田須町の矢賀(やいか)の磯に流れ着いた。そのころ、波田須には家が3軒しかなく、その3軒の人たちで徐福らの世話をした。
 徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」姓を使わず、「秦」から波田・波多・羽田・畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗った。そして3軒の人たちに焼き物の製法や農耕や土木、捕鯨、医薬などの技術を伝えたとされる。
 「波田須」という地名は「秦住」から来ており、「矢賀」という地名も徐福が付けたとされ、徐福が焼き物をした場所は「釜所(かまどころ)」と呼ばれるようになった。「釜所」は徐福が製鉄を始めた所とも伝わる。
 徐福の宮は、波田須町矢賀の「矢賀の蓬莱山」とも呼ばれる丸山という小山の頂上に祀られていて、そこには徐福の墓も祀られています。明治の神社合祀により徐福の宮も波田須神社として統合され、廃社となりましたが、氏子たちの徐福への信仰心は消えず、合祀されていた期間においても密かに、中国人を神として祀っていることを隠して、徐福の宮を祀りつづけたようです。戦後に復社を果たしました。
 徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、また丸山からは焼物の破片や古代中国の通貨「半両銭」などが出土されています。半両銭は秦代から前漢にかけて使用された通貨で、国内では9か所の遺跡から25枚見つかっており、現存するのは19枚のみ。丸山から出土した半両銭は、2002年に中国の学者の鑑定により秦代のものとわかりました。
 徐福渡来伝承地は熊野では、三重県熊野市波田須の他に和歌山県新宮市にもあり、どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。

                                                               み熊野ねっとより     

斎田の山の神 三重県度会郡南伊勢町斎田

2012-02-07 18:07:12 | 神社
超久しぶりに更新します、去年は震災などいやな出来事がたくさんありました、ある宗教では『世は無常』と云う言葉で被災者をねぎらっていましたが・・・実際、被災されて亡くなった方、幸いにも命を取りとめたが将来の生活の道筋がたたず途方に暮れている方にはなんの慰めの言葉になっていません、この世に財と時間を費やして信じて報われる神様、仏様がいるのでしょうか?一昨年、私の叔父叔母が交通事故で同時に亡くなりました、2人共々ひとのいい信心深い方でした、私の母が亡くなった時も故人の前で叔母が般若心経を唱え極楽浄土へとおくっていただきました、今でもその状景が思い出としてはっきり覚えています、その叔父叔母が亡くなったと聞いたとき私は神も仏もあるものか!もし神も仏もあるものなら信じる心を弄んだあなたらの存在は何なのか心の奥で何度も叫んでいました、そして地震による大惨事です・・・・・神も仏も・・・・・

私はこのブログでお気に入りの神社を紹介させていただいていますが決して唯神論者じゃありません、日本古来から脈々と伝承する、独自の建築様式、神様の存在を演出するトリッキーな設定、その雰囲気に包まれている自分が好きなだけです、ですから派手な商業神社は好みません。ちなみに寺院は嫌いです、線香の匂いと、一般人が理解できぬ訳のわからない言葉と独特の節回しのお経が・・・それだけの理由です(笑)



ネットにて検索をしていると興味あるサイトがありました、性神博物館(陰陽石研究会)で、全国各地で行われている性信仰・男根女陰崇拝の神事、行事 風習を紹介されています。私の住んでいる、三重県にもありました、そのひとつを訪ねてみました、所は三重県度会郡南伊勢町斎田地区  斎田の山の神と云う神社です、私の持論ですが本来、信仰といううものはすべての生命体の種の保存への願い、生命誕生を祝い、成長していく過程を慈しみ、老いていくもの者をいたわり、祖先の存在があるがこその個の存在、そうした生命の輪廻を願うこと、性信仰が原点だと思うのですが・・・



お釈迦様は人間の欲望(煩悩)は108つあるとされました。それをなくすことが人間がお互いに平和に暮らす要件であるともいわれました。
確かにそうであると思います。しかし欲望は人間活動の原点であり、食欲も、性欲も、所有欲もなければ人間の存在そのものが成立しなくなり、従って文明も成り立たないことになります。文明の成立、文化の発展に欲望は重要なファクターです。
我々も欲があるから仕事でも頑張れる、勉強もする、恋いもし、子供も生まれる訳です。
性欲は人間の根源的欲望というより自然な本能であり、どのような動物でもこれがなければ種の保存が出来ません。
民俗学者の研究によると、青年期の男子が自分の性器を山に向かって露出して、山の神に捧げるという狩猟、漁労社会の風習が現代にも残っているといいます。
なぜ性器を山に捧げるのか。それは山が豊饒と自然崇拝のシンボルであり、食料すべての源でもあり、神々の住む崇高な場所であると考えられるからです。
結婚した女性はかつて「山の神」といわれましたが、その「山の神」に男性が性器を捧げる儀式はまさに生殖の儀式であり、豊饒の儀式でもあったのです。
原始の時代から男性器・女性器の結合の儀式があったことは明白です。
生物の性の不思議、人間は生まれ、育ち、成人し、子を残しやがて老いて死をを迎える。 そうした生命の不思議な輪廻。豊饒と性行為と性の喜び,歓喜、そうしたエネルギーこそが性、多産、豊饒と結びつき、土俗信仰としての性器信仰につながるのだと思います。    細矢 隆男署

                                        山の神への入り口です


                                            





                                        山の神祭りに作成された木製男根形


                                        歴代の木製男根形


                                        歓喜の山の神さん(笑)












場所

神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ) 和歌山県新宮市神倉1-13-8

2010-12-06 16:43:49 | 神社
今日は私の好きなところ、熊野地方の神社である、和歌山県新宮市に鎮座する神倉神社を紹介します。紀の国の風景はは私の住んでいる伊勢地方とは異なり荒々しさと神々しさが
交錯し伊勢の国とは対照する男性的な様相を見せてくれる、地方でもあります。掲載する、写真は神倉神社への感動を伝えて切れていません、難しいです・・・・・・再度、訪問し
トライしようと思っています。


神倉神社は熊野権現熊野速玉大社の摂社。熊野三山の主神降臨の霊地といわれ、熊野信仰の根本的霊所。“新宮”という名称は、神倉神社の“元宮”より新たに遷宮されたところからだそうである。
 熊野速玉大社の飛地境内として世界遺産に登録されている。

 日本書紀(神武天皇紀)に、戊牛年(ぼごのとし・紀元前3年)6月に狭野(佐野)を越えて「熊野神邑(くまのみわのむら)に到り、旦天磐盾(すなわちあめのいわたて)に登りて」と記されている。熊野神邑は新宮の古称、天磐盾は神倉山(かんのくらやま)「ごとびき岩」であると伝えられている。神武天皇が東征の際に、天照大神の子孫の高倉下命が神武天皇に神剣を奉げ、天照大神の遣わした三本足の八咫烏(やたがらす)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すともいわれている。熊野三山の神(早玉、結、家津美御子)が降臨した霊所でもあり、熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも呼ばれた。熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの地である。ごとびき岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土している。
 
 主祭神の高倉下命(タカクラジノミコト)は、天火明神の子、天照大神の曾孫、別称に天香久山神(アメノカグヤマノカミ)、天香児山神(アメノカゴヤマノカミ)、天香山神(アメノカヤマノカミ)。後の熊野三党(「宇井」「鈴木」「榎本」の同地方で勢力を誇っていた一族三党)の祖として知られ、三山祀官の祖となったといわれる神である。

 昔の建造物は、1870年(明治3)の台風で倒壊した。1918(大正7)年、ごとびき岩の下に祠を再建、昭和にはいって神橋、大鳥居(山麓)、社殿、玉垣、鳥居(山上)、鈴門、社務所などが再建された。山上への道は急勾配の自然石の積み上げによる鎌倉積みと呼ばれる石段が538段、源平合戦の熊野水軍の功労に対し1193年に源頼朝公が寄進したと伝えられる。その先の神倉山山上には「ごとびき岩」と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。ゴトビキとはガマガエルをあらわす方言。もともとは、ガマガエルに似た巨岩の崇拝から発した原始的な自然信仰だと考えられ、やがて修験道の聖地となり熊野信仰へと繋がっていく


お燈祭
二月六日夜(旧暦正月六日)に行われる火祭り。
松明に火をつけ千数百人もの祈願者が急な石段を一斉に駆け下りる。


                                            神倉神社 参道の入り口です、わくわくします。





                                            鮮やかな朱色の鳥居が見えてきました。





                                            鳥居です、ここからが神域です。





                                            石の階段はかなりの急こう配です、階段ではありませんまるで梯子!





                                            途中でなまめかしい木が紙コップにはお賽銭がいろいろ想像します(笑)











                                            奥門の鳥居が・・緑の中に朱色が驚きます・・











                                            神倉神社の本殿です。






   熊野名物めはり寿司が食べたくてある小奇麗な食堂に入りました、御店主は話好きで気さくなおばさんで神倉神社の事、いろいろ教えてくれました。
  おばさん「あそこには、毎年、4回 細木数子が来てなぁパワーもうてくぅらしんやわぁ あんたも参ったさかい3年寿命延びたなぁ(笑)」
  私   「そしたら、おばちゃん 近くやから毎日参ったら?200年でも300年でも生きられるよ(笑)」
  おばさん「あんなきつい階段、毎日登ったら死んでしまうがな(笑)」
  そんなこんなのやり取りでおばさんと神倉神社にパワーをいただきました。






場所







伊勢神宮125社 皇大神宮別宮 瀧原宮(たきはらのみや)   皇大神宮摂社 多岐原神社

2010-10-25 09:37:58 | 神社
             皇大神宮別宮 瀧原宮(たきはらのみや) 三重県度会郡大紀町滝原  場所

祭神は天照大御神御魂で、古くから皇大神宮の遙宮(とおのみや)と称され尊ばれている。倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の永遠のご鎮座を求めて大和からご遷幸されたとき、この地に宮殿を建てられた。その後、さらによい宮所を求めてご巡幸になり、ついに五十鈴川の川上の現在の大宮所にご鎮座になったといわれる。
手水舎はなく清らかな谷川(頓登川・とんどがわ)の水で、手を洗い口をすすいで参拝する。向かって左に瀧原竝宮が並び、向かって右には瀧原宮所管社(若宮神社・長由介神社)がご鎮座されている。先づ瀧原宮に参拝する。 サイトお伊勢さん125まいりより


過去、7、8度参拝に訪れたことがあります、伊勢の地の華やかで賑やかな内宮、外宮のそれとは違いまるで隔離されたように辺境の地、度会にたたずむ、瀧原宮。伊勢神宮125社のなかで私がベストワンに選ぶ社です、そして数々の煩悩を癒してくれる、私的隠れスポットでもあります。毎回、訪れようと最初の感動が薄れることなく、まして神々の存在が現実にあるかの如く錯覚をしてしまう、唯一の場所でもあります。



 


          鳥居をくぐり、神域に身を委ねた時から神々の囁きが聞こえてきます、意味は分かりません、心地よい呪文のようなメロディーの様にもきこえます。









          歩きつづけます、参道には私以外の参拝者はいません、少しずつ不思議な恐怖が私に襲いかかります、神々とこの世に生かされている、
          ちっぽけな人間との対峙です。天から地から四方八方から神々の視線が突き刺さります・・・・・・・・






                                        御手洗場です、禊ぎ所です。









          歩きながら、考えました、なぜ私は好んでこの瀧原宮に来るようになったんだろうと・・・・・たぶん、私はエゴイスト、貪欲な生き物なんです、
          神様と会話ができるいうこのトリック的シチュエーションを一人占め出来る快感を得にこの場所に・・・・・・・・・






          本殿が見えてきました、現実的な私を包む非日常空間・・非金属な異次元風景・・・・・・・・・




























この場所には 神社の名称、由来、祭神などの小賢しい言葉はいりません、日本人の感性による木と石と空気で作り上げた、素晴らしいトリックアート空間に神の存在を感じるわけにはいけませんでした。




                           皇大神宮摂社 多岐原神社(たきはらじんじゃ) 場所
三重県度会郡大紀町三瀬川祭神は倭姫命が宮川を渡るのをお助けした土地の神、真奈胡神。地元では祭神から「真奈胡さん(まなこさん)」といい、信仰のあついことで知られる。ここから三瀬坂峠(みせざかとうげ)を越えて瀧原宮の方へ出るのが熊野古道(約1時間)である。社頭には常夜燈2基があり、紀州藩が享保甲辰(1724)に建てた禁殺生石がある。宮川本流の右岸にあって、社域は山水の美を兼ねそなえた地である。サイトお伊勢さん125まいりより



 














仲山神社 三重県津市美杉町下之川

2010-10-02 17:22:31 | 神社
今日の紹介する仲山神社はあるサイトで面白い狛犬とある奇祭行われることがが私の好奇心を刺激し、
早速、訪れて観ました。神社そのものはそれほどの特色はありませんが、かといって山間の小さなの神社としては神域の手入れも行き届き、立派すぎるほどの社屋が鎮座しておりました。








祭神 金山彦神


ある奇祭とは、毎年、2月11日に行われる「ごんぼ(牛蒡)祭り」っていうちょっとおもしろいお祭りがあるそうですす、別名「へのこ祭」。氏子地域の各家では、多量の牛蒡を蒸して、味噌・胡麻・唐辛子・山椒などを練り合わせた調味料をたっぷりこすりつけホウ葉で包んだものを用意します。この料理は男性が担当するんだそうです。そして、祭りの当日は、盛大な宴会が行われ、皆で牛蒡を食します。宴が終ると、当番に当たっている人々が、男女両性を形造った、注連縄の造り物を担いで次の当番家を訪れ、当渡しを行います。そして、残った牛蒡は神社に奉納するんだそうです、男女の性器を信仰する風習は、子孫繁栄(豊作)「穀物豊作」の願いと結びついていることが多いようです。
祭神が金山彦命の神社にはSEXをテーマにしたお祭りが全国あるのは確かです、この神様は金山毘古神(古事記)、金山彦神(日本書紀)とも表記し鉱山の神として信仰されている、神話ではイザナミが火の神を産んで火傷をし、苦しんでいる時の嘔吐物から生まれた神。嘔吐物の外観と溶けた鉄類の類似性からの連想か鍛冶に使う鞴のピストン運動が男女の性交を連想させることなどから、性神としても信仰されている。鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされています。
三重県人でありながらこんな奇祭が行われているのは知らなかったです、以前 天下の奇祭愛知の田縣神社・大縣神社の豊年祭は見学させていただいたのですが・・・・・・

















私はこの2匹の狛犬に会いにわざわざ鈴鹿から山深い美杉村の神社に足を運びました。いいお顔をしています。






帰りの車中では2匹の狛犬の表情を思い出し、ニヤニヤ顔のわたしでした、よかった会えて。

場所