神々の雑談

三重県内及び近県の神社を写真を添えて紹介します。

奥山愛宕神社  三重県伊賀市勝地大坪

2010-05-28 20:14:23 | 神社

ウージーさんのホームページ神社参拝記を拝見し行ってみたくなりました、奥山愛宕神社です。 




 
  伊賀市勝地のから細い林道を青山高原に向かって6キロほど軽自動車で走りました、大きな車では少しきついかもしれません参道の入り口は広くなっており楽々駐車することができます。まず参道の入り口に今年増設されたとみられる、8・9数基のまるで稲荷神社のような真っ赤な鳥居に度肝を抜かれました、深い緑に赤色はなにか おどおどしい神の存在があるがごときに想像させられます。ウージーさんも書いていましたが この神社の参道は言葉に表せないほどの感動があります、ぜひ いらっしゃって観てください。


祭神 火之迦具土神
由緒(境内の石版掲示より)
古くから、奥山権現の尊称で崇敬され、火伏せ、病気平癒、戦勝祈願、厄除けの神として
信仰されてきた。江戸時代に眼病が大流行したとき霊験があり、一躍有名になり、明治以降は、戦地に赴く際の戦勝祈願に多くの人が訪れた。
その創建の由来は明らかではないが藤堂高虎が伊勢・伊賀に転封された際、その家臣山内某が信仰していた愛宕神を現在の地にお祀りしたのが始まりといわれている。























































言葉は要りません、久しぶりの感動でした。 

場所


三重県 松阪公園の桜祭り 津市美杉三多気の桜

2010-05-19 21:32:15 | 日曜散策
普段は車で通過する松阪城跡付近 たまには観光者気分で・・・・・

                             松阪公園桜祭り



           



           
     

                
                             

                           日本桜百選  三多気の桜


           
                             

伊勢神宮125社  皇大神宮末社  加努弥神社(かぬみじんじゃ)

2010-05-13 22:15:53 | 神社
伊勢神宮125社参拝のなかで印象に残った1社に加努弥神社(かぬみじんじゃ)があります、前に紹介した鏡宮神社の近く、田園地帯の真ん中に鎮座する神社です。
およそ伊勢神宮らしからぬ、素朴で質素で悪く言えば簡易すぎる・・・・・・・神域が。おそらく皇大神宮末社でなければ私は参拝する機会がなかったでしょう、しかし
それゆえに好きになった神社のひとつです。

                           祭神 稲依比女命(いなよりひめのみこと)出雲神スサノオの子の大歳神の子
鹿海橋より東鹿海の集落を抜け、右に曲がると耕地整理の碑があり、その右手の田の中の小さな木立に鳥居が見えるのでわかりやすい。加務彌という社名は、地名の鹿海のことで、ここは昔、五十鈴川の河口を遡って海の潮のよせていたことを示す地である。大神宮本記に倭姫命がこの地に至ったとき、苗草を戴いた老女に「何故にかくするや」と問われた。それに対して老女は「此の国はかのみやもする」と答えたことにより、其地を鹿乃見と名付けたという。中世以後、社地明らかならず、神宮より西鹿海村の産土神を本社として祭祀をしようとしたが、明治14年、村民等産土神をもって神宮末社とするを、おだやかでないと地方庁へ申し出たので、明治19年、さらにその東方の新地へ鎮祭するこっとなった、これが現在の加務彌神社である。石壇のみを築き、石神一体をお祭りする形式をそのまま伝えている。

                    伊勢神宮歩いて歩いてさん125社巡り takeo1944.exblog.jpさんより転載させていただきました。

              


              


              

              
              





    場所

伊勢神宮125社 皇大神宮末社 鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)

2010-05-10 15:17:44 | 神社
五十鈴川と朝熊川の合流点の三角州に鎮座する、伊勢神宮125社 皇大神宮末社 鏡宮神社です。参拝させていただいた、伊勢神宮125社のなかでも一番 湿度を感じさせない 明るく解放感に充ちた神域をもつ神社でした、祭神は近くの場所に鎮座する朝熊神社の御前神、岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭するそうです。



                             





                             




                             
                             





                             




                             
                             





                             





                             





                             






   場所

阿射加神社(三重県松阪市小阿坂町)

2010-05-07 09:43:50 | 神社
小阿坂町の阿射加神社です、祭神は猿田彦大神  同じ社名、同じ祭神の神社が隣 大阿坂町に鎮座します。実は以前気まぐれに大阿坂町の阿射加神社に参拝したことが
あったのですが・・・・私の期待する神々の雑談さえなく神様そのものが留守をしているような場所でした、今回はその心配が大きく払拭され神域での異空間にて神々の雑談を
聞いた思いがしました。





                                                   参道の入り口です
                    



                                                  いい雰囲気の参道です
                    
 


                                              とても田園の中に鎮座する神社とは思えません
                    

 


                     




                     


                                                
                                                    社殿が見えてきました
                     




                    




                                                      境内社 大若子神社です
                    




                                                          手水盤です
                    





                    




                                                            本殿
                    




                                                      神々の雑談が聞こえてきます
                    





                    




由緒

阿射加神社と猿田彦大神
神代の昔我が伊勢の国をお治めになってゐたのは猿田彦の大神でありました。此の猿田彦の大神が御かくれになったのが阿邪訶(アザカ)の海であります。阿邪訶は阿射加又は浅香とも書き、後世は専ら阿坂の字を用いてゐます。
ところでここに一つの疑問は阿邪訶の海と云ふことであります。人も知る如く今日の松阪市小阿坂町は、伊勢湾の海岸からそ凡二里を距る山寄りになりますが、太古に阿邪訶と申したのはずっと広い地域を籠めて申した者で、大たい一志郡東部の平坦地の総称であったと思われ、具の阿邪訶の親村が今日の阿坂であったと考へられるのであります。阿坂と云ふところは伊勢の国の内で最も古い歴史を有ったところで、既に神代の昔から知られていました。恐らく日本の内でも最も早く開けたところでありませう。
而して我が伊勢の国の内何処が一番肥沃であるかと申し燃すと、それは一国の胴部にあたる一志郡の平野、即ち古への阿邪訶の地であります。猿田彦の大神は恐らく此の阿邪訶を中心として伊勢の国を統治なさってゐたものと思います。
松阪市小阿坂町には阿射加神社と申す古い神社今も昔ながらに御鎮座になって居ますが、此の阿射加神社こそは猿田彦の大神を斎き祀るところの神社であるのであります。古代伊勢の中心である小阿坂町に伊勢の国つ神出あられた猿田彦の大神を奉祀するところの阿射加神社が鎮まり坐ますことは、極めて古い御歴史と、最も深い御由緒とによらなければなりません。
古へは毎年二月の祈念祭と、六月十二月の月次祭と、十一月の新嘗祭とに朝廷の神祇官に於いて、由緒ある神社への班弊が行われ、おほ祈念祭には、諸国の国史庁に於いても班弊が行われました。其の班弊に預かり給ふ神社、即ち官弊社、国弊社の社名を朝廷の方で登録した帳簿がありました。それが即ち醍醐天皇の御代に勅命を以て編纂せしめられた延喜式に載するところの神名帳上下二冊であり、其の神名帳に出て居る神社のことを式内社と申して居りました。また諸国の神社の内で特に朝廷の御崇敬の事実が日本書記以下の勅撰の歴史、所謂六国史に載せられてゐる神社のことを、国史、現在社と云ひ習わして参りました。伊勢松阪市の阿射加神社は式内社であると同時に、また国史現在社でもあったのであります。
式内社は日本全国に亘って沢山有りました。其の総数は三千一百三十二座にも及んで居りまたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。我が伊勢の国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社でありました。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社であったのであります。即ち我が伊勢に於いて、神宮に亜いで尊い神社とは申せば、それは阿射加神社であったのであります。
而して其の御祭神の三座とありますのは、猿田彦の大神がおかくれになる時に現れ給うた三つの御魂、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂をお祀りしたものでせう。なほ阿射加神社は式内大社であったばかりでなく朝廷に於いて最も重しとせられた名神の祭にまでも預かって居られるものであります。式内大社にして名神祭に預られることは、とうじの神社としては最高至上の御資格でありました。阿射加神社は実にかくの如き尊い社格を有せらるるところの名社であったのであります。
以上述べましたところの事実は、阿射加神社に対し朝廷に於いて如何に尊崇を尽くされたかを物語るものでありますが、なほ此のことを立証するものとして、仁明天皇の承和二年本社に従五位下の神位を授けられ、尋いで文徳天皇の嘉詳三年には従五位上を司斎二年には従四位下を、清和天皇の貞観元年には従四位上を授けられ、更に同八年従三位に進められた事実を挙げ得るものであります。そもそも本社に対し朝廷がかくの如く崇敬を尽くされた所以のものは何でありませうか。それは申すまでもなく、御祭神として仰ぎまつる猿田彦の大神嚇々たる御神内と洪大無辺なる御神威、御神徳によるものであります。
天孫瓊々杵尊が初めて此の豊葦原の瑞穂の国へ天降り坐した時、其の御途上、天の八衢と云ふところまで御いでになりました。天の八衢とは道が幾条にも分かれてゐる分岐点を意味するものでありまして、天孫は御前途を果たして何れの道に取らせるべきか大いに御迷ひになりました。然るに猿田彦の大神果たして天孫降隣の御事を聞かれて、取り敢闘へず天の八衢までお迎えに上られました。さうして天孫の御進みになるべき御道筋について具さに奉上され、天孫はその猿田彦の大神の御指示のままに、日向の高千穂の峰にお降りになったのであります。若し其の猿田彦の大神がお迎えに上られなかったならば天孫は如何にお困りになったことでせう。或は取るべき道を踏み違え給ふて、とんでもないところへ迷い入られ、終には此の瑞穂の国へ御到着荷なることが出来なかったかも知れません。天孫が御恙なく日向の国に御降隣になることを得させられたのは、全く猿田彦の大神導きの功であったと申し上げなければなりません。
猿田彦の大神は我が伊勢の国の国津神であられます。同時に皇大神宮の御宮地に対しては、地主の神として申し上ぐべき神であります。古来二十年毎に行われる神宮の式年遷宮諸祭中の地鎮祭には、宮処を敷き坐す神を祭りますが、其の神内で最も重要なる位置を占められるところの神猿田彦の大神でありませう。神宮の地主神として御宮地を長へに護り給ふところの猿田彦の大神は、また地祭りの神として日本国民の上に洪大なる神恵を垂れ給府のであります。
このように阿射加神社は猿田彦の大神を、お祀りする神社の中で最も由緒ある神社であります。この猿田彦の大神御事蹟にも明らかなように、道案内の神、つまり地鎮の神であると共に交通安全の神として敬い奉られるわけであります。
                                            松阪市小阿坂町百二十番地 鎮座阿射加神社

                                                                    全国神社祭祀祭礼総合調査